カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「欠席確認の怠り、私にも経験がある」~なぜあの子は車内で死ななければならなかったのか①

 父親の些細な勘違いから2歳の女の子が死んだ。
 しかし保育園が一本の確認電話を入れるだけで起こらなかった事故だ。
 なぜその程度のことができなかったのか。
 ところが私自身にも同じ経験が、しかも二度もあるのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【欠席確認の怠り。私にも経験がある】

 大阪の岸和田で2歳の娘を保育園に預けたと思い込んだ父親が、9時間に渡って車内に放置、熱中症で死なせてしまうという事件がありました。一義的に責められるべきは父親で、ご自身も繰り返し自責の念に苦しめられていると思いますが、ここに来て、子どもの登園していないことを確認しなかった保育園の責任についても、問う報道が目立つようになっています。
 いうまでもなく欠席確認ができていたら事故は起きなかったわけで、刑事的な責任はないにしても、道義的責任は問われるべきでしょう。考えてみれば昨年から今年にかけて、いく度となく繰り返された園バスやスクールバスの置き去り事故も、最後の砦の担任が確認したかどうかで子どもの生死が分かれたともいえます(例えば牧之原市認定こども園広島市の特別支援学校の違い)。
 園や保育士、学校や教師は何をしているのだといった類の話ですが、実は私も教員時代の初期、2度も連絡を怠ってたいへんな目に遭いかけたので悪く言えません。

【ケース1】

 1度目は中学2年生の担任だった2学期初日のことでした。生徒も中学校2年目なら私も教員歴2年目、しかも夏休み明けで気が緩み切っていたのかもしれません。
 担任するクラスに入って朝の挨拶をし、教室を見回すと一名足りない。
「◯◯はどうした?」
と聞いても答える生徒がいないので後で確認することにして、ひとこと担任としての話をし、提出物を出させて、そうこうしているうちに始業式の時間になってしまったので生徒を廊下に出して整列させ、その足で職員室に行って確認の電話をすればよかったのが、当時担任していたのがなかなか目の離せないクラスだったのでそのまま一緒に体育館に入場して、そしておそらくそのあたりから、生徒の不在を忘れてしまった――。
 
 中学校の担任というのは1日の大半を他のクラスの授業をして過ごすものです。いったん自分の教室を離れるとなかなか戻って来られない。いまとなっては思い出せないのですが、給食の時間はおそらく食べるのと日記を読んでひとこと添えるのとの同時進行で、生徒の方はまったく見ていなかったのかもしれません。帰りの会になってようやく落ち着いて教室を見回したら、当たり前ですがやはりあの生徒がいない。それでそそくさと生徒たちを部活に送り出し、職員室に走って電話をしたのです。
 電話口には直接本人が出て、
「おい、今日はどうした?」
と訊くと、
「エーッ! 夏休みって今日までじゃなかったんですかぁ?」
 現在なら大問題となるところかもしれませんが、子も親も恥ずかしかったのか、その後なにも言ってきませんでした。

【ケース2】

 2回目の失敗はそれから4年後くらいのこと。病弱で、いまから考えると不登校の傾向もある男子生徒の例です。体もちいさく、ちょっと見で小学校4年生くらいにしか思えない子でした。
 たびたびというか、それ以上に欠席が多く、本人はもちろん親も私も欠席慣れしてしまって、確認を怠る傾向はかなり前から続いていたのかもしれません。
 親が連絡を怠ると私も確認の電話を入れなくてはならないのですが、両親共稼ぎで電話に出るのはいつも祖父母。それも農業従事者ですので午前中は家を空けることも多く、なかなか出てくれない。午後改めて電話をするとおばあさんあたりが本当に済まなそうに詫びの言葉を並べる。電話口で100回くらい頭を下げる様子が目に見えるようでした。
 それが嫌で私も電話をかけるのを面倒がるようになる。やがて「午前中に何回かかけてもダメだったのだから言い訳にはなるな」が「午前中かけたことにすればそれでいい」に代わり、いつしかかけたりかけなかったりということになっていたのです。
 
 その日は1時間目の授業が私の教科だったので、だらしなく朝の会を延長してそのまま授業に入り、1時間目が終わったら電話しようと思っていたのが授業の終わり近く、突然ドアをノックする音がして教頭先生が顔を出しました。ちょっとちょっとと言って廊下に呼び出し、
「いま鉄道警察から電話があって、◯◯くんを保護してるって・・・」
 いまで言うプチ家出でした。
 あとから聞けば最寄りの無人駅から乗った生徒が、車内で乗車券を買うのに1万円札を出したので、それを怪しんだ車掌が鉄道警察の連絡してくださったそうです。本人はただ当てもなく遠くに行きたかったようです。これも保護者が学校に謝りに来て事なきを得ました。いまならこちらが記者会見で謝らなくてはならない話かもしれません。

 ちなみにその時生徒が持っていたお金は、前日、家から持ち出した昭和天皇在位60周年記念金貨を、銀行で換金したものでした。10万円金貨を換金しに来た、小学生にしか見えない子にすんなり現金を渡した銀行も考えものだとも思いました。

【1年間、のべ8000人に責任を持つ】

 いずれも30年以上前の話ですでに時効になっていると思います。しかしいまなら許されないでしょう。特に二番目の例で、生徒が行った先で自殺でもしようものなら、親は絶対に許してくれません。それまでのいきさつを無視して責められても、仕方ないことです。

 私のように手ひどい失敗をすれば二度とそのようなことが起こらないよう努力することもできますが、40人の生徒の200日に責任を持つ、1年間でも延べ8000人の子どもに気を配るわけですから容易なことではないのです。

(この稿、続く)

「高齢者のあることのやっかい」~伯母が100歳の誕生日を迎えて

先日、伯母が100歳の誕生日を迎えた。私の母も95歳。
人はなかなか死なないものだ。
しかし一般的な人の死から逆算すると、私の余命はあんがいと短い。
高齢者の余命問題、どう考えたらいいのだろう。
という話。(写真:フォトAC)

【キンは100シャイ、ギンも100シャイ、伯母も100歳】

 先週の金曜日(11月11日)は伯母の誕生日でした。
 だから何だというような話かもしれませんが、書いた私自身が高齢者であることを加味してもらうと、この文に多少の重みあるいは変化が出てくるかも知れません。
 100歳だそうです。
 今年初めて知ったのですが大正11年11月11日のゾロ目誕生日で、中国では独身者の日ですが、伯母は早くに結婚をして男ばかり3人の子を産み、女ばかり6人の孫に恵まれました(ひ孫は知らない)。何にしもおめでたい話です。
 
 妹である私の母も95歳。いつ逝ってもおかしくない歳なので、伯母の家にはなかなか電話ができません。口さがない従兄が電話に出るなり、
 「叔母ちゃん、死んだ?」
とか訊きそうで、いや“まだ生きています”と言うのも変ですし、相手にバツの悪い思いをさせるのも申し訳ないので連絡できないのです。
 “生きている”母が直接電話をすればよいようなものですが、一度やったら先方でもすっかり過去の人になり切っているらしく、おそらく電話口に出たのが孫かひ孫で、サッパリ要領をえないまま切らざるをえなかったようです。以来10年近く、話をすることもありませんでした。
 今回は特別な誕生日ですのであれこれ考えた結果、まずスマホのショート・メッセージで予告をして、時間指定で電話口に待ってもらってそれからかけるという面倒な手続きをとりました。
 メールで連絡してそれから電話をかける、いまも有効なやり方です。

 そばにいなかったので分かりませんが、叔母はとても元気で、認知症の様子もなく、何でもハキハキと受けごたえができたようです。100歳と95歳、恐るべしです。

【人間は意外と死なない】

 知っている人がみんな高齢者になってしまったこともあって、毎日の新聞の死亡広告は必ず読むようにしています。特にコロナ禍になってからは人間関係が極端に細っているので、恩ある人の訃報も届かない心配があります。
 まずざっと名前に目を通し、それから喪主の名前を確認し、その間に享年にも注意します。享年を意識するのは自分の対比のためです。すると次第に分かってくるのは、「人間はなかなか死なない」という事実です。
 男性は80代になるまで、女性は85歳を過ぎないと普通は死なない。それ以前に亡くなるのはおそらく病気か事故か、そんな例外でもない限り、簡単にはあの世に行かないみたいなのです。現代人の晩年というのはかなり長いようです。

【自分の余命の、何と計算しにくいことか】

 ただ、そこから自分の実年齢を引くと、私も80歳代まで10年そこそこ。多少ビビります。日ごろは、
「人生で今がいちばん幸せ。このさき長く生きても何が起こるか分からないから、いま死ねればそれが本望」
とか言っておきながら、そして意識の上では完全にそう思い込んでいるにもかかわらず、他方で毎日の体操と一日おきのウォーキングを欠かさず、血圧測定も忘れない――。いちおう「ピンピンコロリのためにはピンピン、つまり健康であることこそ大切」という言い訳はあるにしても、人様にはなかなか分かってもらえない臆病な状況にあるのです。

 伯母のように100歳まで生きるとすると30年以上、これは長い。しかしあと10年しか生きないと考えると、こちらは微妙。
 いずれにしろ若いころは余命を計算することなどありませんでしたから、高齢者であることはなかなかに厄介なことです。
 

「不登校対応の極意:この子の親友だったら何と言ってあげるのだろう」~不登校もいじめも過去最多について⑨

もっともカウンセリングに向かないはずの親にしか、
もっとも有効なカウンセリングはできない。
不登校の回復の過程は、
親が優秀なカウンセラーとなる過程なのかもしれない。
という話。(写真:フォトAC)

不登校の着地点】

 不登校の指導の場で「登校することが目的ではない」という言い方があります。しかし子どもが生き生きと学校に通うようになったら、それが最良の状況であることは間違いないでしょう。何といっても日中、同い年の子どもが一番多くいる場所が学校ですからさまざまな経験ができます。
 しかし何も学校に行くことがすべてでないことには私も同意します。学校外に生き生きと生きることのできる場所があれば、あるいは学齢期を過ぎたあとで生き生きと生きる世界があれば、それはそれでいいのです。

 つまり目指す着地点は「生き生きと生きられるようになること」であり、それもできれば早い方がいい。20年、30年とたって40歳・50歳となると、なかなかその位置から始められる世界はがないからです。
 しかし早い方がいいからと言って、2カ月~3カ月でというのも、可能性がないわけではありませんが目標とするには短すぎるような気もします。こじれてしまった不登校の、回復への道筋はもともと長いのが当たり前だからです。

【モデルケース:回復の過程】

 私は不登校の回復の道筋を、親の立場から次のようなものだと考えています。

  1. とにかく励まして学校に生かせようとする時期。
  2.  学校に行けないのはいじめや体罰、あるいは病気が原因ではないかと考え、学校や病院に激しく迫り、巡る時期。
  3.  すべての可能性を探り終えてこれは精神的な問題だと腹を決め、自らネットなどで調べるとともに心療内科やカウンセラーのもとを繰り返し訪れる時期。
  4.  次第に八方塞がりとなり、絶望とわずかな希望の間を行き来し始める時期。子どもに強く働きかけることもなくなり、会話も少なくなる。
  5.  不登校が半年、一年と続き、学習面や友人関係で原状回復がまったく望めなくなり、諦めと不安が静かに繰り返される時期。
  6.  子どもに対して一般的な人生設計ができなくなり、戸惑いながら毎日を送る時期。
  7.  やがて日常的な会話ができるようになって穏やかに過ごすことの多くなる時期。
  8.  子どもが前向きな話を始めるようになり、新たな設計ができようとする時期。
  9.  子どもが生き生きと社会を過ごすようになる。

 実体験および研修などで学んだ様々な話から、私が考える最上の過程がこれです。これでもほぼ最上です。1~6までが2年~3年、7~9までもおよそ2~3年と、分析にも年数にも何の根拠もないのですが、そんなふうに感じています。もちろんずっと短く終わる例も、終わりが見えなくなる例もあります。

【親子関係と親である自分のすべてを洗い流す】

 この間、親の中で起こっているのは、その子にかけた願いや思いを奪い取られ、人生とはこうあるべきだとか幸せとはこういうものだといった信念や思い込みも洗い流し、自分は子育てに失敗したといった自責も世間に対する見栄も消えて、ただ側にいる、淡々と一緒に暮らしている、そういう親子関係への変化とそこからの再生の物語です。

 私は昨日、「親と同じように長く一緒に過ごせる人間がいない以上、親ほどカウンセリングに向いた立場はないのに、利害関係者であまりにも深くかかわってきたため、親は最もカウンセリングに向かない」といった話をしました。その「利害関係者であまりにも深くかかわってきた」という部分がなくなり忘れ去られると、あとに残るのは「親ほどカウンセリングに向いた立場はない」だけです。
 子どもと穏やかに話し合える日常が戻ると、また昔のように「こうあるべき」「こうすべき」と言った話を始めて台無しにしてしまう人もいますが、昔と違った対応をして子どもを外の世界に連れ出すことのできる人もいるのです。

【極意:この子の親友だったら何と言ってあげるのだろう】

 私は長いこと、すべてを洗い流した親子がどういう会話をしたら新たな一歩を踏み出せるのか、明確なイメージを浮かべることができませんでした。ところが今回、改めて不登校について考え、あれこれ調べていたらとてつもなくすばらしい考えに出会ったのです。それは一昨日ご紹介した「中1から不登校5年の母が気づいた『最大の失敗』 自分自身を見つめ,行動を改め、親子関係は激変した」(2022.11.06 東洋経済)にあった次の一節です。
 そんな私が今でもやっていることで、親子の溝を埋める効果的な取り組みがあります。それは、
「もし、私がこの子の親友だったら何と言ってあげるだろう?」
という視点で子どものことを考えることです。

 プロのカウンセラーならどう言うだろうと考えるよりも、はるかにイメージがわきやすく有効な見方です。なぜなら“親友”は親に匹敵するほどの愛情でその子を支えようとしますが、利害関係者ではない。その子が立ち直ろうとそのままでいようと、“親友”の人生は基本的に大きく変化することもありません。だから安心して話を聞くこともできるし、共感できれば無条件に頷くこともできます。人生経験が豊かなわけではありませんから訳知り顔で説教したり、常識的な答えで失望させたりすることもないでしょう。
「なるほど」
「そうなんだ」
「で?」
「わかる、わかる」
 そうした受けごたえができるのも“親友”だけです。”親”だとなかなかこうはいかない。

 いっぱしの大人で本来は親である存在が“親友”の思考をたどるのは簡単ではありませんが、練習でたどり着ける範囲でしょう。何にしてもその前に、利害関係や見栄や常識にとらわれてている自分から一刻も早く抜け出し、抜け出した自分を子どもに認めてもらわなくてはなりませんから、時間のかかる仕事であることに変わりはありません。

 もちろん行うべきは、
「本人が、心の中にある曖昧模糊とした不安や苦しみ、悩みや哀しみ、怒りなどを、見えるかたちに表現するためのお手伝い」
です。

(この稿、終了)

「子どもを『受け止める』とは、こういうことだ」~不登校もいじめも過去最多について⑧

自分の心の中の曖昧模糊としたものに形を与える、
その手伝いをするのがカウンセリングだ。
不登校からの回復があったとすれば、
そこに優秀なカウンセラーがいたはずで、おそらくそれは親だったのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【カウンセリングとは何か】

 カウンセリングとは何か。
 私はそれを、
 「来談者本人が、心の中にある曖昧模糊とした不安や苦しみ、悩みや哀しみ、怒りなどを、見えるかたちに表現するためのお手伝い」
 と考えています。
 心の中のはっきりしないものを見える形にすることを、対象化とか客体化とか、あるいはモノ化と言います。私個人は「モノ化」が一番しっくりします。手に取ってしげしげと観察できるようなものにしたいからです。
 曖昧だから恐ろしいもの、模糊としているから果てしなく続くと思えるものも、手に取るように見たり感じたりできるようになると案外たいしたことはないのです。カウンセラーの仕事は大抵そこまでで、あとは自分で何とかします。

 表現の方法は何であってもかまいません。
 草間彌生はある時期、頭の中を駆け巡る赤い水玉を絵画にし、黄色のオバケカボチャを造形にし、いまはうごめく大量に虫や目で表現しています。ムンクは頭の中で鳴り響く耐えがたい“叫び”に思わず耳をふさぎ、自らも恐怖に叫ぶ姿をそのまま絵画にしました。彼らはそうして精神の平衡を保つのです。
 もしかしたらベートーベンは実際に“運命”がドアを叩く音を聞き、最晩年のモーツァルトは鎮魂歌の依頼に来た死神と話したのかもしれません。
 
 画家は絵画で、作曲は音楽で表現すればいいのですが、私たち普通の人間には使い慣れた「言語の表現」が近道です。だから面談という形式が取られます。
 しかし言語が未発達な子どもたちには箱庭や絵画、あるいはごっこ遊びがふさわしく、震災の避難所で子どもたちが”地震ごっこ“を始めたり、難民キャンプの子どもが”戦争ごっこ“をするのを、大人が止めないのもそのためです。

不登校からの回復=側に優秀なカウンセラーがいたはずだ】

 人によって異なりますが、こころの治療はひじょうに時間がかかるのが常です。だから私などは「心の病がカウンセリングで治るのか?」とか、「治ったといっても5年もかけたのではカウンセリングのおかげかどうか分からないじゃないか」とか今も思ったりします。しかし昨日も申し上げた通り、毎週1回とか2回とか、それも各1時間をかけるような集中的でゆったりとした治療ができれば、かなりの効果が出るのではないかとも思ってもいます。しかし実際そんな対応をしてくれる医師もカウンセラーもおそらくいません。費用もハンパなくかかりそうです。
 では実際に不登校から回復した子どもたちは、だれのどんな支援によってそうなったのか――。

 そこで私が思うのは、家族が、特に親がカウンセラーの役割を果たした可能性です。医師やカウンセラーの助言を借りながら、「本人が、心の中にある曖昧模糊とした不安や苦しみ、悩みや哀しみ、怒りなどを、見えるかたちに表現するためのお手伝い」を、父親や母親がしたのではないかということです。
 親だったら週二日とは言わず毎日カウンセリングができますし、1時間どころか何時間でも心行くまで話を聞くことができます。しかし一方、親ほどカウンセリングに不向きな存在もありません。なぜなら彼らは一番身近な利害関係者であり、もしかしたら子どもをそこまで追い込んだ張本人かも知れないからです。
 何を聞いても何を話しても、その一言ひとことは明日の家族の具体的な生活に繋がります。子どもにしてみればひとつ本当のことを話したばかり百の説教を食らう可能性もありますし、親にしても「明日から学校に行かない。たぶんこのままずうっと行かない」と言われて、「そういう生き方もあるね」と受け入れることは簡単ではありません。
 それでも「受け止めろ」「受け入れろ」「そのままのキミでいい」といったことができたとしたら、彼らに何が起こっていたのか――。

【子どもを「受け止める」とはこういうことだ】

 昨日紹介した「金属バット殺人事件『うちのお父さんは優しい』」で息子を殺してしまった父親も裁判のあとでこんな話をしています。
「私が1番思うのは、家庭内暴力の対応を巡って、間違ったことは暴力を受け入れたことです。子どもを受け入れることと切り離していかなければいけなかったと思います」
「暴力を受け入れてはだめだが、不安とか苦しみ、悩みだけでなく、怒りも受けとめてあげる、それを言葉に表すように援助してあげるという形で、受けとめる、暴力は厳しく止める、原則としてそうだと思っています」
 つまりその子が今、暴力や暴言、親が受け入れられないような態度といった誤った形で表現してるものを、正しい言葉で表現できるよう援助してあげる、援助し続ける、そのこと自体が「受けとめる」ことなのだ、というのです。
 それはある意味で、父親がカウンセラーから与えられた指示、
「子どもたちの問題行動を前にしてまず大切なのは彼らが言葉に出来ない気持ちを行動の背後に訴えているのを読み取る努力をすることです」
と同じものなのですが、決定的に違うのは「言葉にできない気持ち」を「親が読み取る」のではなく、「子どもが自身の口で表現できるよう、援助する」、そのことが「受け止める」ことなのだとこの父親は言うのです。

 カウンセリングとは「来談者本人が、心の中にある曖昧模糊とした不安や苦しみ、悩みや哀しみ、怒りなどを、見えるかたちに表現するためのお手伝い」だ、ということと考え合わせると、自ずとすべきことが分かってきます。
(この稿、次回最終)

「不登校問題、私は医師もカウンセラーも信じない」~不登校もいじめも過去最多について⑦

不登校に関して、医師やカウンセラーに頼り切ることはできない。
過去50年間、魔法のように不登校を終わらせた専門家も、
呪文のようにすべてを解いた言葉もない。
しかし不登校から戻ってきた子たちも大勢いるのだ。
という話。(写真:フォトAC)

不登校問題では、私は医師もカウンセラーも信じない】

 不登校に関して、私は医師やカウンセラーに私怨があります。
 もう40年近く前のことになりますが、学校に来にくくなっている子どもたちを指導している最中に医師やカウンセラーの指導が入って、片っぱしから持って行かれたという思いがあるからです。
 この子はまだ休ませる状況ではない、いまはまだがんばらせる段階だ――そう思って私もがんばり、その子も努力している最中に保護者が病院へ連れていき、「様子を見ましょう」「ゆっくり休ませてください」「エネルギーが溜まるまで待ちましょう」「無駄な登校刺激を与えるとかえって長引きますよ」などといわれて、親が子どもを庇うようになります。そうなると学校はいっさい手が出せなくなります。その結果、学校に戻ってきた児童生徒は一人もいませんでした。
 
 「不登校には登校刺激を与えてはいけない」という考え方が主流になるまで、担任は夜討ち朝駆け、友だちは集団声掛け手紙攻勢と、医者や心理学者が聞けば震え上がるような方法で、学校はけっこう登校渋りの子を戻していたのです。しかしこの問題に関して保護者は、毎日その子と接している教師よりも一見の医師や学者の方を信じますから、ひとたまりもありません。
 
 それから十数年たってある研修会の席で、地域では有名な専門家が、
「先生たちは勘違いしています。不登校の初期には登校刺激を与えてもいいんですよ。それで学校に来られるようになった子はずいぶんいます。それを無暗に手控えてしまうから、みんな引きこもってしまう」
 そう言ったときは、長机5台とそこに座る教師たちを十数人なぎ倒しても講師に飛び掛かって殴ってやろうとしました(実際にはしていません)。

【専門家たちはいまも答えない】

 専門家たちがどれほど不登校の親たちを苦しめて来たのか、最近拾ったばかりの次の文を読めばよく分かります。
 納得できる答えが得られなかった私は、塾、カウンセリング、心療内科セミナーなど、藁をもすがる思いで不登校脱出の糸口を探し奔走しました。
(略)
 「どうすればウチの娘は学校に行くのか?」
 ありとあらゆる所にその答えを探し求めました。
 しかし、「これだ!」と思える娘の受け皿はありませんでした。
 例えば、学校に配置されているスクールカウンセリングは、そもそも日程が少なく、しかも、不登校児童が多いので予約が取れずカウンセリングが思ったように受けることができません。
 「お母さんもカウンセリングに来てください」と言われましたが、予約が取れたのが約1カ月後で「ふざけんな!」と思いました。
 親向けの不登校の講演会も参加しましたが、インターネットで調べて出てくるような内容で、私たち親が具体的にどうすれば良いのかわかりませんでした。
(略)
民間の不登校専門のフリースクールは、内容は良さそうでしたが、金額が驚くほど高く、私に支払えるような金額ではありませんでした。
 子ども専門の心療内科は、「予約待ちが半年後…」という所はザラです。私は一般の心療内科に行きましたが、そこでも待ち時間が2、3時間かかりました。しかも先生と話せるのは5~10分ほど。処方される薬は娘に合わず行かなくなりました。
 このように、不登校の受け皿は、公的機関、民間企業も含めてありますが、実際に活用できる機関はないに等しいと私は思いました。
 どこに相談に行っても、「しばらく様子を見ましょう」「見守りましょう」と言われます。
 しかし私は「親が何もしないでいることで子どもは本当に良くなるの?」そう思いました。
 一向に変わらない娘。死んだ魚の目のように部屋にこもる娘。少しでも学校や勉強の話をすると荒れる娘。私は不安で気が狂いそうになりました。

toyokeizai.net


【誤った助言】

 何もしてくれないだけならまだしも、専門家の誤った指導が殺人事件にまで結びついたこともあります。

 1996年、東京都文京区に住む一人の中年男性がカウンセラーの元を訪れます。不登校の子どもの家庭内暴力に苦しんでのことです。
 何回か通う中で指導されたことは次のような点です。
「1番大切なのは親の愛」
「受容すること」
「子どもを受けとめてあげなさい」
「本当に苦しんでいるのは、むしろ子どもの方」
「親が信じて待てば必ず子どもは正しい方向に進んで行く」
「子どもたちの問題行動を前にしてまず大切なのは彼らが言葉に出来ない気持ちを行動の背後に訴えているのを読み取る努力をすることです」
 いずれもこの世界ではよく口にされることです。よく理解した上で父親は重ねて、
「言ってみれば、奴隷のようにこき使われるのが耐えがたい」と訴えたら、先生は「そういうことも一つの技術です。お父さん頑張ってください」と言いました。私は、「ああ、これも一つの技術なんだ」とストンと胸の中に落ちてきて、ホッとしました。
鳥越俊太郎・後藤和夫著「検証◎金属バット殺人事件『うちのお父さんは優しい』」(明窓社 2000))
 以後、父親は息子に殴られるままになり、やがて耐えきれなくなって金属バットで殺すことになります。家族を対象とする「金属バット殺人事件」はいくつかありますが、これもその一つです。

【専門家に頼り切ることはできない】

 不登校の問題に関して専門家たちはみんな無能だというつもりはありません。おそらく優秀な専門家が週2~3回、各1時間程度のカウンセリングを数カ月続ければ、かなりの数の不登校を解決できるだろうと想像します。しかしそんな余裕のある人はいません。
 では、不登校を解消または解決した子どもや親は、専門家に頼らずどうやって問題を解決したのでしょう?
(この稿、続く)
 
 

「学校に行けない状況はまず分析されなくてはいけない」~不登校もいじめも過去最多について⑥

不登校にはさまざまなかたちがある――。
そんな当たり前のことが長いこと見過ごされてきた。
保護者や教師は現場で現実的な対応を続けてきたが、
マスコミや政府のレベルでは今も平板だ。
という話。(写真:フォトAC)

 不登校や心理の専門家の言う「受け止めてください」「受け入れる姿勢で」「寄り添って」、あるいは「こころの居場所をつくって」「そのままのキミでいいよと知らせてあげて」等々について、具体的にどういうことなのか考えてみたいと思います。
 しかしその前に、これらの助言がまったく意味をなさない不登校もいるので、まずその点について考えておきます。

【「登校拒否は病気じゃない」の功罪】

 1989年に出版された奥地圭子「登校拒否は病気じゃない」は、不登校の歴史に一線を画した書でした。それまで一般的には不登校の原因は家庭にあると考えられ、保護者(特に母親)の育て方にこそ問題があると思われがちだったのに対し、公然と異を唱え、これは学校で起こる問題である以上、学校のありようにこそ課題があると突っ撥ねたのです。“親に責任があるわけではない”という考え方は、それまで子育ての失敗を外から責められ、自責の念にも苦しんできた保護者を一気に開放し、「不登校=学校問題」はあっという間に世間の常識となっていきます。
 こうした認識を文科省も追認し、「問題は個々の児童生徒にあるのではない」「不登校はどの子にも起こり得る」と強く学校を指導するようになったのです。

 しかしこれには困った問題が付随しました。不登校が「どの子にも起こり得る」となると、個々の性格や成育歴、環境などはまったく問題なくなってしまうのです。ちょうど「新型コロナウイルス感染は誰にでも起こり得るから、感染者の性格や成育歴などは調べる必要はない」と同じです。
 したがって奥地の主張が力を持っていたしばらくの間は、個人を問題とした研究や対策はほとんどできなくなってしまい、学校改革のみで不登校を減らそうという試みが長いこと続くようになりました。しかしそれはあまりにも現実離れした理論だったのです。

 実際に「この子はどうやっても学校に来なくなることはないだろう」と思われる子どもは大勢います。学業成績がよく、部活や生徒会で十分活躍できて友だちも多い、そんな子が学校を忌避するはずがありません。こうした子を不登校に追い込むには、昭和初期のメロドラマ並みの不幸を次々と見舞わせる要がありますが、そんなことは稀です。

 しかし「登校拒否は病気じゃない」の最大の罪はそこではなく、「病気じゃない」と突き放したために「病気で学校に来られない子どもたち」が見落とされがちになってしまったことです。

【病気だから学校に来られない】

 もちろん入院を必要とするような明らかな疾患での欠席は不登校として計算しません。しかし原因がはっきりしない軽微な疾患の場合は、しばしば見過ごされました。
起立性調節障害」は誤解されることの多い病気で、見過ごされることも多い代わりに、医師によってやたらつけられる病名でもありました。
 もちろん子どもが朝起きられず学校に行けないと言い出したらいちおう頭の隅に置いてみるべき病気ですが、逆に医師によって「起立性調節障害」と診断されたからといっても、心の問題である可能性は捨ててはいけません。どちらに転ぶか分からないところがあります。
 
睡眠障害」も学校に来られない場合にありがちな病気です。「小児うつ病」の可能性がないわけでもありません。「不登校」そのものに「子どもの適応障害」という病名をつける医者もいますが、自同律じゃないかと私にはよく分からないところです。

 いずれにしろ病気が原因の不登校は、病気を治すところから始められません。「その子の居場所を探そう」などと言っている場合ではありません。場合によっては、十分に吟味しないととんでもない病気を見逃してしまう可能性もあります。

発達障害について考慮する、いじめ・体罰は最優先】

 発達障害不登校の基礎にある場合もあります。
 ADHDの子の衝動性はしばしば学級内に軋轢を生み出します。自閉スペクトラム症の子の人の気持ちの読めなさは、時に人の心を傷つけたり余計な闘争を引き起こしたりもします。両者は時にとんでもないトラブルメーカーで、友だちにそっぽを向かれる場面も少なくありません。そして友だちを失った子は登校の意志を挫かれます。
 この子たちには特別な支援が必要です。そうと分かったら一刻も早くスイッチを切り替えなくてはなりません。

 いじめや体罰が訴えられたら最優先で解決を図ります。これも寄り添い方を考えている場面ではないでしょう。根本的な解決は先送りにするにしても、苦しんでいる現在の状況はすぐにも止めなくてはなりません。いじめや体罰を完全に潰したあとでも登校できなければ、そのときに新たな方策を考えます。

 いずれにしろ原因がはっきりしている不登校については、まず原因を除去すること。それが済んで初めて、寄り添ったり、受け止めたりすることを考えなくては行けません。
(この稿、続く)