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「不登校問題の専門家たちが仕事をしていない」~不登校もいじめも過去最多について⑤

2021年度「問題行動・不登校調査」の結果によると、
不登校はわずか1年の間に、25%、5万人近くも増えてしまったという。
それなのに世の人々は何の感慨もなくやり過ごしてしまい、
こころの専門家たちは空しい助言を与えるばかりなのだ。
という話。(写真:フォトAC)

不登校が1年間で25%も増えても誰も動かない】

 10月27日に公表された2021年度「問題行動・不登校調査」によると、病気や経済的理由などとは異なる要因で30日以上登校せず「不登校」と判断された小中学生は24万4940人と過去最高を記録しました。
 1998年以降12万人から14万人程度で高止まりしていた不登校の児童生徒数は、2012年ごろから急激に数を増やしていき、21年度はコロナ禍の影響もあって24万人台に急増したのです。20年度が19万6127人でしたから、前年度から24・9%、4万8813人も増えたことになります。
 しかし不登校が社会問題になってからすでに50年近く、私たちはすっかり慣れ切ってしまい、NHKですらニュースの中に2~3分の枠をつくって関心を見せただけです。追って特別番組を組むといったふうもありません。

 考えてみれば「近所の何々さんのお嬢さんが不登校だって」「甥の◯◯が学校に行ってないんだって」と、不登校は日常会話の中に頻繁に現れ、しかも何の感慨も起こさず通り過ぎていってしまいます。これが30~40年前なら親はひた隠しに隠し、知った親戚はおっとり刀で駆けつけて用もないアドバイスをするといったふうでした。しかしもはや誰も名案を持たないことは明らかですから、みな「そっと見守る」という形で問題に触れないようにするのが精いっぱいとなっています。わが身にことが及ばない限り、実質的な放置です。

【トンチンカンな対策、そしてみんな忘れてしまった・・・】

 一時期、不登校は学校の厳しい受験体制と管理のせいでした。
 学習過剰な児童生徒など何十年も見たことがなく、管理の行き届かぬ子どもたちが目の前で跳ね回るのを目の当たりにしていた私たち田舎者は、大いに戸惑いましたがそれでも勉強しろと言うのを控え、校則を緩めるなど管理もほどほどにするよう努力しました。それでも不登校は増え続けます。
 
 別のとき、「登校を強いる学校と教師こそ不登校の元凶」「登校刺激は一切与えず、学校や教師を連想させるすべてのものを遠ざけること」などと言われ、教師は問題から手を引くよう強く求められました。私などは激しく抵抗して不登校の子を手放さないよう努力しましたが、「一切登校刺激を与えるな」は一面で教員に楽をさせるものであったため、全体としては手を出さない教師が増加しました。そして保護者は孤立しました。
 児童相談所は3か月待ち、病院に行っても訳の分からない診断と薬が与えられるだけで何の変化もない。親はただ焦りを募らせ、恐怖に打ち震えている――そういう時期もずいぶん長かったように思います。
 
 学校カウンセラーが決め手になると思われた時期もありましたが、配置してみると、あんがい心理学も万能ではありませんでした。

 

 やがて児相は不登校問題から手を引き、学校は打つ手を打ち尽くし、医者は進化のない治療を淡々と続ける、そして世間は自分の家族がならない限り、不登校への関心を全くなくしてしまったのです。

【家族の大変さはむしろ昂じている】

 私も関心を失ってしまったひとりです。
 元教師ということで相談を持ち込まれても、もはや差し出す何の有効な方法も手の内にないからです。それに私のようなまったくの赤の他人のところへ持ち込まれる話は、すでにこじれにこじれ切っていて、普通の意味での助言すら難しくなっているのです。手を打つのは早ければ早いほどいいのに。
 
 ただ先々週のNHKニュースの中で、ひとつだけ心を動かされた場面がありました。それは不登校の子どもをもつ家庭が、しばしば経済困難に見舞われているという話です。
 出てきたのは若いシングルマザーですが、子どもが朝、学校に行くかもしれないといった状況になるとどうしても側にいてやりたくなり、そのために勤めを遅刻する、登校したら登校したでいつ学校から連絡があって迎えに行かなくてはならないかもしれないので欠勤して様子をみる、そんなことを繰り返しているうちに給与から引かれる額が月に10万円近くにもなったというのです。もともと高給を取っているわけではありませんから10万円はとんでもない痛手です。このままでは母子共倒れしかねません。
 不登校を解消するための何の手立ても与えられないにしても、誰かがそばにいて母親の一部を肩代わりし、母子を守らなくてはいけないと、そんなふうに思いました。


 私が担任教師をしていた時代なら、教師がその役の一部を担ってともに考える余裕もあったのです。しかし現在の、特にコロナ禍以来の教師の忙しさは半端ではありません。「そばにいて一緒に悩む」といったことですらできなくなり、保護者の多くがさらに孤立無援になってしまったのです。
 では今から何ができるのか――。

【専門家たちが仕事をしていない】

 私は子どもの問題に関して、専門家たちが具体的なアドバイスをしないことに苛立っています。先々週のNHKニュースに出てきた支援の会のアドバイザーも「むやみに登校を迫ることなく、子どもを受け止めてあげてください」といった言い方をします。「受け止めてください」はわずか30秒ほどの放送の中で3回以上使われましたが、具体的な話は一切ありません。どうしたらいいのでしょう? キャッチボールの話をしているのではないのです。

 他にも、「受け入れる姿勢で」「寄り添って」「こころの居場所をつくって」。いずれも分かるようで、いざ実践しようとすると何をどうしたらよいのかさっぱり分からない助言です。こうした「専門家」の曖昧さは、不登校問題が始まってから一貫したもので、もちろんその中には教師も入っていたのです。
(この稿、続く)

 

「いじめはなくなることも減ることもないが、諦めることもない」~不登校もいじめも過去最多について④

形式的にも実体としても、いじめはなくなることも減ることもない。
中身は刻々と難しくなっていく。
しかし諦めることもない。
私たちにはまだまだやれることが残っている。
という話。(写真:フォトAC)

【「いじめ」も「いじめもどき」も、なくなることも減ることもない】

 学校からいじめをなくすことができるのかといえば、まず不可能です。いじめ防止対策推進法におけるいじめの定義が「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」である限り、絶対になくなりません。学校の重要な任務のひとつが人間関係の教育(いわゆる道徳)である以上、さまざまな活動の中で「心理的物理的影響を与える行為」が繰り返され、その中で児童生徒が心身の苦痛を感じる場合はいくらでもあるからです。教科教育、総合的な学習の時間、児童生徒会、学校行事、部活動――濃い人間関係を必要とする場面、つまり児童が心身の苦痛を感じるような状況は、教育によって意図的につくられています。その子が耐えて工夫をし、成長につなげるか、状況を狂わせて苦しいと叫んで訴えるかは紙一重です。
 
 そのうえ文科省や教委がいじめの報告事例が多い学校を「極めて肯定的に評価」し、「いじめを認知していない学校にあっては、・・・解消に向けた対策が何らとられることなく放置されたいじめが多数潜在する場合もあると懸念している」という以上、学校ができるだけ多く報告しようとする動きを改めることはありません。
 少子化で学校数も減っていますから現在の61万5千件が500万件とか1千万件ということないでしょうが、100万件くらいには増え続けても不思議はありません。そのうちの大部分は、成長の過程ではありがちなちいさなトラブル――、私の言う「いじめもどき」です。
 もちろん「もどき」でも教師は対応しますし、そうした観点から児童・生徒を監視することもやめはしません。その結果、力が分散して重要な棚上げになったままだったとしてもです。

【いじめの重大事態も、定期的に繰り返されることになる】

 だったらせめて子どもが自殺するような重大事態だけはなくすようにしたい――それはすべての人の願いでしょう。しかしこれもかなり難しい。

 理由は三つあります。
 ひとつは、「現代のいじめが陰でしか行われなくなっている」からです。よく言われる「陰湿化」です。
 前にも申し上げた通り、殴ったりけったり悪態をついたりといった「目に見えるいじめ」は学校によってほぼ完全に制圧されています。その結果、本格的ないじめは大人の目の届かないところで行われ、表では加害者も被害者も何食わぬ顔で生活するといったことが平然と行われるようになっています。大人の目には仲良しとしか見えない場合も少なくありません。感のいい大人が怪しんで声を掛けても、被害者が率先して否定するようでは指導の手はなかなか入って行きません。
 
 第二に、前項と重なることですが、いじめの重大事態が極めて閉鎖的な仲間内で行われることが多いという点です。
 いじめを考える上で人間関係の経年変化は見落とされがちな問題です。最初からいじめの加害者=被害者の関係であるのではなく、まず対等な仲間関係があり、やがてジリジリと変化して、気がつくといじめの関係になっている、そんな例が少なくないのです。
 いじめの加害者が被害者を羽交い絞めにしている場面に出会っても悪ふざけにしか見えないという誤解は、関係が変化していることに気づかないことから起こるものです。表面上は昔とまったく変わらないのに、当事者の間で意味するものはまったく違ってきているのです。
 
 第三に、のちにいじめに至るような仲間関係は最初から歪んだ性格を持っており、大人、特に教師との間に緊張関係を持っている場合が少なくないという点です。万引きグループだったり深夜徘徊を繰り返す仲間だったり。したがって大人との間で、互いに素直になれません。
 そうなると子どもは困っても声を上げられませんし、大人は心配しても声を掛けるタイミングを失いがちです。さらに時間がたって状況が悪化しても、いまさら相談にも行けないし、大人もいまさら声もかけられないという悪循環にはまり込みます。そして数少ない機会を逃してしまう。SOSを出したのに先生は対処しなかったというのは、たいていがこの場合です。

【解決の方法がないわけではない】

 重大事態に陥るいじめ問題では、大人が単独で事態の重大性を認識することは極めて困難です。重大になればなるほど子どもは隠し事態を粉飾します。したがって私たちはさまざまな網を張って待ち構えることになります。

 成績の変化を、生活の変化と同期させて考えようとする視点もそのひとつです。顔色が悪い、表情が変だといった理由で子どもを呼び出すのは難しくても、成績が下がったから話を聞きたいというのは糸口として使いやすいものです。呼び出して話を聞いてあげましょう。

 どうでもいいような校則が山ほどあるというのも網のひとつです。服装のきまりなど典型で、気持ちに揺れは服装違反として、あるいは汚れとして表に出ることがとても多いのです。いわゆる「服装の乱れは心の乱れ(を表現する)」です。
 子どもの服装や持ち物に注意を怠らず、変化があれば校則違反を盾に呼び出して、じっくり話を聞く、それもよくある有効なやり方です。

 教室の中に何人もの密告者を育てている教師もいます。密告者と言えば人聞きは悪いのですが、要するに正義の告発者です。普通の教員は意図してやったりはしませんが、自然にそういう子どもの情報網が張り巡らさせる教師がいます。どうやるのか――。
 子どもは簡単に友だちを裏切ったりしませんから、「嫌な思いをしたらいいに来なさい」とか「悪いことをしている友だちがいたら知らせて」とか「いじめられている人がいたら教えて」とか言ってもほぼ言いに来たりしません。
 それでも彼らが仲間を大人社会に密告するとしたら、それは友だちを悪事そのものから救いたい、これ以上悪くなりそうな友だちを何とかしたい――そう強く感じたときだけです。
 もちろんそうした考え方・感じ方は教育によってしか醸成することができません。教師が道徳の時間や担任講話の時間を使って育てるべき力は、そういうものです。
 (この稿、終了)
 

「いじめの指導が難しいのは、心を問題にするからだ」~不登校もいじめも過去最多について③

いじめかどうかは被害にあった子が「心身に苦痛を感じている」かどうかで決まる。
いじめの指導が難しいのはそのためだ。みんなで苦痛の見積もりが異なる。
しかし具体的行為については、乖離はそれほど広がらないだろう。
心の指導なんて、落ち着いた時間に、日常的にやればいいのだ。
という話。(写真:フォトAC)

カエサルのものはカエサルに】

 あだ名で呼ぶことを含めて、軽微なからかいから恐喝・傷害事案まで、いじめと疑われるものはすべて収集したいという文科省の欲望も分からないわけではありませんが、指導する側からすれば程度によって指導方法がまったく異なりますから、十把一絡げに「いじめ」と言われても困る場合も少なくありません。
 特に恐喝・傷害事案などはむしろ指導しやすい範疇に入りますから、これを「いじめ」として問題を難しくするより、「犯罪」としてさっさと処理した方がみんなの利益になると思うのですがいかがでしょう。
カエサルのものはカエサルに、犯罪行為は犯罪に」ということです。

 なぜ犯罪の指導はしやすいのかというと、事実さえ証明してしまえば誰が悪いのか、問題解決はどうすればよいのか、みんな知っているからです。
 何も片っぱし警察に突き出せというのではありません。友だちを殴ってけがを負わせたら保護者と連れ立って相手方に詫びを入れ、治療費を支払えばいいのです。菓子折りのひとつくらいは持って行く必要があるでしょう。恐喝だったらやはり保護者と頭を下げに行き、脅し取った金品を弁済します。
 言うまでもなくそれで被害者親子が許してくれるとは限りません。場合によっては被害届の提出、告訴といったことに発展することもありますが、それは仕方がないでしょう。悪いことをしたのですから相応の罰は受けざるを得ません。これもみんなが知っていることです。しかしいじめ事件として扱うと、ことは簡単に済まなくなります。

【いじめる側の三分の理】

 「いじめ事件で被害者に非があるということは絶対にない。悪いのは100%加害者だ」といった言い方をする人がいます。しかしそんなことはありません。「定義」に従えば、いじめは「当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う」ものです。奴隷制度ではないのですから人間関係で100対ゼロということはまずありません。
 
 「いっしょの係になったが、愚図でいい加減で、仕事を押し付けてくるから」
 「やたらと付きまとって、遠ざけても絡んでくるから」
 「家が金持ちで高級な生活をしていることを自慢してくるから」
 「生意気だから」
 いじめの加害者に理由を聞けば、何かしらそれらしいことを言ってきます。もちろんだからと言っていじめていい理由にはなりませんし客観的に納得できない場合も多いのですが、そのいじめる側の「三分の理」を潰すのは意外に厄介なのです。なぜなら彼らの訴える被害者の以前の言動は、多くの場合事実であって、加害者にとって「当該行為の対象となった児童生徒(加害者本人)が心身の苦痛を感じているもの」だからです。自分だって先にいやな思いをさせられた、ということです。
 
 こうして「互いに嫌な思いをさせ合った」という形で事実が相殺されると、残るのは「どちらが先に手を出した」ということだけになって、本来の被害者が悪者になってしまいます。「いじめ」の実態がこうだと言うのではありません。加害者の意識の中で起こっていることがそれだというのです。そして心の中にそんな言い訳がデンと座っている限り、深い反省など及びもつかず、また同じことが繰り返されます。

【いじめの指導が難しいのは、心を問題にするからだ】

 なぜいじめの指導がこれほど難しくなるかというと、いじめが「心身の苦痛」を問題にするからです。
 これが恐喝や傷害なら簡単で、恐喝なら奪い取った金品の額によって、傷害なら全治何週間とか治療費で簡単に数値化できますが、「心身の苦痛」は計測不能で天井知らずだからです。ある子にとっては全身全霊で訴えなければならないことでも、他の子だと容易に耐えられるということもあります。一昨日の女の子の、
「私だって昔、同じ目に遭った。でも何も言わなかった。それなのにあの子、『いじめ』『いじめ』ってうるさいのよ」
も、そういう違いかもしれませんし、さきほどお話した、いじめの加害者が自分の行為を被害者の言動と相殺できてしまうのも、心の苦痛の見積もりが等価だと判断したからなのでしょう。

 また、保護者の受け止めも、我が子が「暴力を受けた」と言われるのと「いじめを受けた」と言われるのとではまったく違って来るでしょう。将来発症するかもしれないPTSDのことまで考えると、いじめの被害は無限大です。親が容易に許す気になれなくても不思議ありません。加害者の親も、我が子が「人を殴ってけがをさせた」と知らされるのと「いじめの加害者」だと言われるのとでは違ってくるように思います。
 目に見えない「心の苦痛」をそれぞれの立場から見積もるわけですから、全員の話が噛み合わなくなる――だから厄介なのです。

【心の問題は、事件を閉じてからじっくり扱う】

 多くのいじめ事件に暴力と金がつきまとっています。特に「いじめ防止対策推進法」で重大事態と定義されるような大きな事件では、繰り返し暴力が振るわれたり金品を搾り取られたりする場合が少なくありません。だとしたら問題が大きくなる前に、それを恐喝事件や傷害事件として解決してしまうことが賢明ではないのかと思うのです。そうすれば簡単に、しかもほぼ確実に片が付く。
 
 心を問題にすると道徳的な処置もしなくてはならなくなりますし、相手も素直になれません。しかし殴ったことを謝りなさい、奪い取ったことを謝りなさいなら、難しい問題を簡単に回避できるのです。
 
 重要なことはいま起こっていることにブレーキをかけることです。
 心の問題は事件が一応解決した後の別の時に、道徳の時間などを使ってじっくりゆっくりやればいいことです。
 (この稿、続く)

「いじめ調査バブル:子どもも教師も訴えたもの勝ち!」~不登校もいじめも過去最多について②

文科省はできるだけ多くのいじめ報告を要求する。
報告の多い学校は立派で、少ない学校は怪しいとさえ言うのだ。
だから学校は限りなくいじめもどきを掘り出し、対処する。
子どもはケンカさえできなくなり、いじめ自体は地下運動化して、残る。
という話。(写真:フォトAC)

 いじめの認知件数が増え続ける背景には、「いじめ」と定義される範囲が、取るに足らない軽微なものから警察が対応すべき暴力まで、広すぎるという事情がある――そんなふうにお話ししました。しかし原因はそれだけではありません。

【いじめは訴えたもの勝ち】 

 昨日見たようにいじめの定義が主観主義の立場を取って「児童生徒が心身の苦痛を感じているかどうか」が基準になると、当然、それは訴えたもの勝ちになります。
 いじめ問題ではよく「いじめる側といじめられる側が一夜にして逆転してしまうことがある」と言われますが、音を上げて早く「いじめられてる」と叫べばよかったものを、自力救済で「一夜にして逆転」させた旧被害者は、新被害者の出方次第では「いじめ加害の張本人」になりかねないのです。教育の現場ではよくあることで、私などは困惑することが少なくありませんでした。しかし新被害者はこう訴えます。
 「私だってやったかもしれないけど、こんなにひどくはなかった!」
 人間は、しばしば自分がやったことよりもやられたことの方に重きを置くものです。
 
 もっとも子どもの「訴えたもの勝ち」は、いじめの認知件数が増える上でさほど大きな要因ではないともいえます。すぐに大人の助けを求めるのは子ども社会でも仁義違反ですから、数は必ずしも増えるとは限りません。昔と違って被害者の声は大きく、保護者も人によっては間髪を入れずに介入してきますから、たいへんではありますが同じ子が何度も訴えることはあっても訴える子ども自体がどんどん増えてくるというものでもないのです。
 むしろ問題なのは教師で、教師もまた「訴えたもの勝ち」なので訴えが増え続けるのです。そこには特殊な事情があります。

【教師もまた訴えたもの勝ち。いじめもどきも報告する】

 それは10月27日に公表された「令和3年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要」、10ページ上の小さな注意書きを読むと分かります。そこにはこう書いてあるのです。
 文部科学省としては、いじめの認知件数が多い学校について、「いじめを初期段階のものも含めて積極的に認知し、その解消に向けた取組のスタートラインに立っている」と極めて肯定的に評価する。【児童生徒課長通知】
 いじめを認知していない学校にあっては、・・・解消に向けた対策が何らとられることなく放置されたいじめが多数潜在する場合もあると懸念している。【児童生徒課長通知】
 
 つまりいじめ事態の報告件数の多い学校は立派だが、少ない学校(特にゼロと回答した学校)には不信の目を向けている、と文科省が宣言しているわけです。かくて各校はありとあらゆる事例を報告することになります。
「◯◯ちゃんの頭をたたいたら『バカ』と言われた(そして傷ついた)」
「△△ちゃんはもう一カ月もイヤな目つきでこちらを見ている」
「✕✕ちゃんがサッカーの試合中、『こっちに来るな』と言った」
 ひと昔前なら単なる子ども同士のトラブルだったものも、対処したうえでいじめ事件として報告する――。私が「いじめもどき」と呼ぶこうした事案は、どれほど多く報告しても「解決済み」と但し書きすれば問題ありません。むしろ誉めてもらえるからやらざるを得ないのです。

 「いじめ防止対策推進法」の制定された平成25年以降、いじめ事件数がうなぎのぼりで、「コロナ禍で登校していない」「家の近くで友だちと遊ぶこともない」といった特別な状況でもない限り減る様子がないのは、教師もまた訴えたもの勝ちで報告しまくるためだと、私は思っています。それしか道がありませんから。

文科省にも理由がある】

 もっとも文科省にも追いつめられた事情があります。いじめの重大事案が起こったときは必ず学校のいじめ対策が問われますが、そんな大きな事件のあった学校で「過去三年間、いじめ事案の報告ゼロ」では話にならないのです。学校もいじめ対策に不熱心なら、文科省もしっかり指導してこなかったと、連日連夜マスコミや世間から責め立てられる経験は再三ではありません。
「学校・教委・文科省としては精一杯取り組んできたが、それでも発見・対処に至らなかった」
と、形だけでも整えておかなくては世間が許しません。大も小もできるだけ掘り起こして限りなく潰しておく、そうやって初めて学校を守ることができるのです。

【目に見えるトラブルはすべて潰す。容赦はしない】

 昭和の時代に比べると、児童生徒間のトラブルに対する教師の介入は非常に早くなりました。「いまの学校ではケンカもできない」と言われるのはそのためです。子ども同士が痛みを感じながら人間関係を学んでいく時代はとうに過ぎています。
 気に入らないとすぐに人を殴るジャイアン型のいじめっ子は消滅し、どうしても我慢できないいじめっ子は陰でコソコソと事を運ぶようになる。反政府運動を徹底弾圧すると地下組織ができるのと同じです。その意味で「現代のいじめは陰湿になった」というのも、教師たちが些細なトラブル見逃さず、目に見えるいじめを徹底的に摘み取った成果だという見方もできます。しかしだからといっていじめそのものはなくならない。
 私たちはどうしたらいいのでしょう?

(この稿、続く)

「いじめ調査バブル:認知件数にはありとあらゆるものが詰め込まれている」~不登校もいじめも過去最多について①

文科省の調査の結果、いじめも不登校も過去最多になったとか。
いずれもコロナ禍といった非常事態でもない限り減ることはない。
数十年に渡って対策を打って来たのに増え続けるいじめと不登校
しかしそれには理由があるのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【対策を打っても、ひたすら増え続ける不登校といじめ】

 先週金曜日、文科省から「令和3年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要」(2022.10.27)が発表され、メディアが一斉に報道しました。
 代表的な記事としては毎日新聞「不登校、いじめとも過去最多 コロナ影響か 文科省、21年度調査」(2022.10.28)などがありますが、極めて事務的に、文科省の発表を解説するにとどまっています。

 不登校が社会問題となり始めた1975年ごろから数えて半世紀近く、また、いじめ問題では世間を震撼させた「中野富士見中学校いじめ自殺事件(通称『葬式ごっこいじめ自殺事件』)」(1986)から36年余り、さまざまな方面から検討され対策も山ほど打って来たのに、数は減るどころかひたすら増え続け、不登校は小学校で1000人あたり13人、中学校では1000人当たり50人にも上っています。
 いじめ件数に至っては、小学生の100人に8人、中学生の100人に3人が被害者となっていて、これはイジメの定義が現在のものとなった8年前の平成25年と比べても、小学校でおよそ4・5倍、中学校は1・9倍にもなっているのです。

 対策を打っているにも関わらずひたすら増え続ける不登校といじめ――。ここに至ってマスメディアも、個々の事件・事例は扱っても全体としては言うべき言葉を失い、ただ事実を伝えるにとどまっている感があります。専門家にマイクを向けても画期的な発言をしてくれる人がいないからです。

【いじめ定義の変遷と現在】

 いじめ事件の件数については良く知られる下のようなグラフがあります。

 もはや最大値が70万件ですから目立たなくなってしまいましたが昭和60年の最初の調査から件数は徐々に減っていき、平成6年に爆発的に増加してやがてまた減少に転じ、平成18年に再び爆発的に増加して、平成25年からはひたすら増加を続けているというのが現状です。
 なぜ3回も急激な増加があったのかというと、そこで「いじめの定義」が変更され、そのつど報告のハードルが下げられたからです。定義が異なるためグラフもその部分に波線を入れて切ってあります。
 
 そのときどきでどんな変更がなされたかということは、文科省「いじめの問題に対する施策」「いじめの定義(いじめの定義の変遷)」に詳しくありますが、現段階の「いじめの定義」は次のようになっています。
 「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
 「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。

【いじめ認知件数にはありとあらゆるものが詰め込まれている】

 ここで指摘したいことが二つあります。
 ひとつは「いじめが被害者の意識によって決まる」という点です。まったく同じ事象が起こっても、行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じなければ、それはいじめではないのです。逆に「他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」が客観的にどれほど軽くても、対象者となった子どもが苦痛を感じれば、いじめです。
 平成25年までの定義では「個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」と、公平な立場あるいは第三者の立場で判断するのではなく、あくまで被害者の側に立って判断するようにとの注意書きまでありました。それが今も尾を引いています。
 
 私はかつて小学校6年生の女子グループで、ナンバー2だった女の子が弾き出され、無視されるといういじめ事件の指導をしたことがあります。その際の、新たにナンバー2の地位を獲得した女の子の言葉を、忘れることができません。
「私だって昔、同じ目に遭った。でも何も言わなかった。それなのにあの子、『いじめ』『いじめ』ってうるさいのよ」
 その話が本当だったとしても、旧ナンバー2が無視されている現在の状況はいじめであり、新ナンバー2の過去の事件はいじめではありません。なぜなら昔の事件で被害の訴えはなかったからです。苦痛は感じていたのかもしれませんが、表現されない感情はないも同じです。「いじめの定義」の意味するところがそれです。

 指摘したいことのもうひとつは「「いじめ」の中には(中略)直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる」という部分です。しかしここでは指摘するだけで、詳しいことは後に回しましょう。
 言いたいのは、今回発表のいじめ認知事件61万5000件のなかには、極めて悪質な恐喝事件から、呆れるほど軽微なものもまので、ありとあらゆるものが詰め込まれているということです。
(この稿、続く)

 

「知らないこと以外は何でも知っている」~教員の教養の高め方②

「教育の質」を問題にする人たちは、
もしかしたらとんでもなく高いレベルを望んでいるかもしれない。
しかし日本の学校教育は、そこまですごい教師を必要としていない。
ただ普通に、子どもたちの問いに応えられればいいのだ。
という話。(写真:フォトAC)

 Yahooニュースに転載された月刊教員養成セミナーの記事について、昨日に引き続き書いています。

【謝罪:記事の読み取りを誤りました】

 Yahooニュースに転載された月刊教員養成セミナーの記事を話題にしたことは、間違いだったとつくづく後悔しています。やはりロクな内容ではありませんでした。
 何ともピンとこない雰囲気があってもう一度読み直したら、記事のいう「教養」は「幅広い知識・見識」といった一般的なものでなく、教育における高い専門性と深い知識・見識、そういうものだったのです。
 だから特別免許や臨時免許の乱発による質の低下を憂い、教員のほとんどが院卒でないことを問題とし、採用試験の倍率の下がったことを嘆くのです。とにかく教員になるために学生たちが目の色を変えて勉強するような国にしなくてはならない。そのためには院卒の教員の給与を1・2倍くらいに上げて、高給につられた受験者から上澄みだけを採用しろといった話になるのです。しかしその考えはいかにも素人くさい(あ、素人じゃないか)。
 
 この記事には「教師の質」の低下を心配する人たちの考え方が集約されていて、だからまるっきり役に立たないわけでもありません。逆の意味で十分、勉強になりました。
 しかしそれにしても「教師の質」を問題にする人たちは、何が不安なのでしょう?

【そこまですごい人が教師になることはない】

 「教養のある教師は子どもに信頼され、尊敬されます。逆に教養のない教師は軽蔑される」
  この場合の「教養」の高い専門性と知識・見識なのですが、先生よりも知能指数の高い生徒が続々入ってくるようなトップ・エリート高校ならまだしも、普通の小中学校・高校だとそこまで高い専門性は必要ありません。
 
 文科省の言うようなオリンピックのメダリストや大学教授は、他に活躍して日本のために役立つ場がいくらでもあります。あえて学校などという場に身を置くことはないですし、例えば羽生弓弦君が体育の教師になったとしても、水泳や柔道の指導は別に学んでもらうしかありません。好きでなるなら仕方ないにしても、学校はそんな立派な人たちの来るところではないと思うのです。
 
 大学院で特別な研究をしてきた人だって、教師として実力が高いとか授業力がついているわけでもありませんから教職に就いたら一から出直しです。しかも大卒より2年遅れの就労ですから最終的な在勤年数も2年短くなります。
 65歳定年で考えると、大卒が勤続年数43年になるのに対して院卒は41年しか働けないわけで、42年目と43年目の高給がもらえないのです。退職金にも影響するでしょう。院を出たら教員にはならず、もっと高給な仕事に就くべきです。
 
 学校の方は心配ありません。教員免許は大卒・短大卒以上でしか手に入らないものですし、教育実習をした上で採用試験も受けた人だけが教職に就ける職です。倍率が1倍台になって「誰もが教師になれる」ように見えても、実際にはそこまでに関門がいくつもあるわけです。
 
 それに、これだけ教職がブラックだと言われ、他にいくらでも就職口のある時代に、敢えて教員になろうという人たち、いい先生になるに決まっているじゃないですか.

【知らないこと以外は何でも知っている教員になる】

 教養があれば子どもに信頼されるとも思いませんが、ないよりはあった方がいいと私も思います。子どもと長時間、しかも深くかかわることのできる大人はそれほど多くなく、教師は数少ないそのひとりです。子どもが豊かな成長を遂げる上で、接する人々が立派で教養(一般的な意味で)のあるに越したことはありません。
 
 「ウクライナでなんで戦争やってるの?」「プーチンって何?」「ゼロコロナってどういうこと?」「ロケット、失敗しちゃったよね、どうして?」「ヤクルトってどうしてあんなに強いの?」
 特に小さな子どもはいろいろなことを質問します。そのひとつひとつは思いつきですからすべてに十分な説明をする必要はありません。しかし「知らない」「分からない」ばかりでは大人としての沽券にかかわりますし、「調べておきましょう」ではすぐに宿題山積みで行き詰まります。「自分で調べてごらん」も無理な場合がほとんどです。
 やはりここは簡単に、しかも的確に答えてあげるべきでしょう。「先生は知らないこと以外は何でも知っているよ」といえばたいていの子どもは喜び、小学校の低学年だと心から感心してくれます。
 
 しかし世の中、たいていのことは短く簡単に説明するのが困難なことばかり。日ごろから知識を増やし、考えをめぐらしていなくてはできないことです。しかし時間はない。
 どうしたらいいのでしょう?

【その上での教養の高め方】

 これは先週お話したばかりのことですが、私は朝の会で必ずひとつ、自分の心に宿った話をすることを心掛けました。心掛けというよりは義務です。
 子どもが穏やかで素直に話に耳を傾けてくれるのは朝の会だけです。午後なんてまったくダメで、小学生は早く帰って遊びたいし中学生は部活のことで頭がいっぱい。話を聞くなんてとてもできません。
 朝の清々しい空気の中で、半分寝ぼけて反発心の起こりにくい頭の中に、そっと言葉を忍ばせていく。催眠状態と同じですから案外すんなりと入って行きそうな気もします。私はそうしました。
 
 その習慣の成れの果てがこのブログです。ですからもう40年間も、「明日は何を話すか(書こうか)」といつも頭の隅で考えている日々が続いています。今やボケ防止でもありますが――。