カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「調査書(内申書)の話をするぞ」〜イライラしながら

 雨のせいもあってちょっとイライラしているので、以下、丁寧な口調を改めて、投げやりな気持ちで書き殴ります。
 言葉が悪いからと言って、気分を悪くしないよう、お願い申し上げます。

『ハイ、ハイ、ハイ、いつものアレね。
 あなたたちは話題がなくなるといつもそれを持ち出して、しかも解決策を示さない。
「子どもたちは調査書(内申書)に縛られて自由にものも言えない。調査者が教師の管理に使われる、これは何とかしなくてはいけない――」
 そう言うからにはそれなりの解決の方向性でも示せばいいのに、いつも言いっぱなしだ。

 そもそも調査書重視はそれまでの入学試験一発選考という、分かりやすいが容赦のない方式の改善策として始まったものだ。当日、風邪をひいただの緊張感に押しつぶされたのといった気の毒な子どもを出さないために日ごろの学習の様子を見てもらおう、その上で成績に加味してもらおうというものだから当然“日ごろの学習の様子”が問題とされる。別な言い方をすると「三年間、真面目に一生懸命やった生徒」を救おうという仕組みなのだ。
 それがダメだというのは、おそらくそこに誤解があるからだろう。

  • 内申点が欲しければ俺のお気に入りの生徒になれ」とばかりに自分の好き嫌いで点数をつける教師がいる。そのためうまくゴマをする生徒が高得点を取り、反抗的な生徒は不当に低い点数をつけらる。
  • 内申点を上げるために無理して部活動や委員会活動に精を出す生徒が出てくる。それが合う子はいいが、合わない生徒は塗炭の苦しみとなる。
  •  いじめられて死ぬほどの思いを味わっても学校や部活を休めない。そのため不登校や自殺に追い込まれる生徒も出てくる。
  • 中学校生活全体のいたるところで「良い子」が求められ、息苦しい生活が強いられる。

  学校教育の素人が言うのならまだしも、いやしくも「教育評論家」を名乗る人がその程度の認識じゃ話にならんだろう。

 私はかつてサイトにこんなふうに書いた。

 調査書(内申書
 入試の際、高校に送る学業に関する書類一式。正しくは「調査書」だが、一般には「内申書」と呼ばれることも多い。

 生徒は恐れて戦々恐々としているというが(ホントかね?)、これも絶対に悪いことは書かないという原則にのっとった偽文書。

 下手に中学浪人でもされて1年余計に付き合わなければならないことを考えると、ぜひとも合格してもらいたく、教師はさらに熱心に書く。したがって先生に嫌われている生徒ほど、よく書いてもらっている公算が高い。

 だからといって嘘を書くわけにもいかないから
「わがままで好き勝手を言う」は「自己の願い・考えをよく理解しており、自己主張ができる」、
「乱暴で破壊的」は「元気よく活動的」
などと書いた。

 しかし(後に知ったのだが)高校は高校で、こうした偽文書の解読班がいて、いちいちそれを置き戻していたというからタマげた。

 現在は「内申点(各教科の評定点)」以外はほとんど記入しない。 
            (「教育用語症辞典」→「調査書(内申書)」

 書いた当時に比べれば調査書の記載内容はかなり増えたが(一種の揺り戻しで、一時は数値と名詞《◯◯部員、△△委員など》しかなかった時代から多少ふくらみを持つようになった)、基本となるのは中学校3年生になってからの学業成績(つまり何回か行われるテストの点数)、ノートの提出状況、発言の様子など客観的に説明できる範囲のものだ。
 文章として書く部分もあるが決して悪くは書かない。開示請求される可能性があるというのも理由の一つだが、同時に数十人が数校を受験する忙しさの中で、その子に受験失敗でもされたら本当に面倒だからだ。次の学校を探し本人や保護者と面談し、連絡を密にし、ミスのない調査書を作り直して書類を整え、送る。それだけでも神経を擦り減らす。
 教師にとって一番楽なのは、生徒全員が、志望する高校に一発で受かってくれることだ。そのためにも、生徒には一生懸命勉強してもらいたい。

 ところで、基本的に調査書の内容を本人に知らせることはないが、面接のある私立高校の場合、話に齟齬があってはいけないので文章部分について読んで説明することがある。そうしたとき、緊張の面持ちで面談にきた生徒が破顔一笑、スキップでもしかねないニコニコ顔で出ていくのを私は何度も見ている。
 調査書とはそういうものだ。

 しかし、調査書が子どもの自由を奪っていると考える方々が想定している「自由」というのはどんなものなのでしょう?
 まさか安倍政権を批判したり安保法制に反対するような子たちが押さえつけられているなどと考えているわけではない(そんな立派な子はたくさんはいない)と思うのですが。