カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「特別な脳、特別な心」~津久井やまゆり園事件の裁判が始まる①

 「津久井やまゆり園事件」の被告人質問が始まった。
 被告は、「自分には責任能力がある」といい、しかし、
 「意思疎通の取れない重度障害者は安楽死させるべきだ」
 とも言う。
 私たちはこの事件から何を学べばいいのか。

という話。

f:id:kite-cafe:20200127071543j:plain(「分厚い本と金色の天秤」PhotoACより)

【裁判が始まる】

 先週金曜日(1月24日)、障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19名を殺害したなどの罪に問われた元職員・植松聖被告の被告人質問が行われました。

 その席上、植松被告は自らの弁護人の主張を「間違っている」と批判し、「責任能力はあると考えます」と述べました。そのうえで事件を起こした理由について「(世の中の)役に立つことだと思った」「意思疎通の取れない重度障害者は安楽死させるべきだと思います」などと従来の差別的な主張を繰り返したようです。
 これに対して終了後、コメントを認められた遺族のひとりは、
「怒りというより、それを通り越して呆れてしまった」
と感想を述べておられます。
 理解できる話です。

 私の感じ方としては、“怒り”は相手と同じ地平、あるいは同じ場で対峙し、燃焼し続ける激しい感情です。それに対して“呆れ”は相手を突き放し、距離を置いたり壁をつくったりしてとりあえず別空間に隔離することだと思うのです。
 そしてもし次があるとしたら、私たちはより本質的な問いに向かっていくしかありません。問いの中身はこうです。
「こいつ、何者なんだ?」

 

【私たちは殺せない】

 「津久井やまゆり園事件」はその規模の大きさ残虐性などによって、直後から様々な議論を呼ぶものとなりました。そのひとつは事件を特異なものと考えず、差異を認めない日本人の偏狭さ、効率最優先の現代社会の弊害、あるいは根深い障害者差別の引き起こした極端な表現といったふうに考える見方です。
 多くの誠実な人々が自己の中に植松被告と同じ差別意識を発見し、恐れおののき、反省し、社会全体とともに変わっていかねばならないことを訴えました。けれど私は、そういうことではないように思うのです。
 仮に差別意識があったとしても、その意識をもって30人以上(死者19名、重傷者13名)の胸や腹にナイフを突き立てることのできる人間が何人いるのか、そう考えると100年にひとりだって出てくる気がしません。

 通常の私たちはネコだって殺せやしません。ハエだとかゴキブリだとかは躊躇しませんが、ネコ以上の大きさの四足歩行の哺乳動物を、意味もなく殺せる人間がいたらやはり異常とみなすべきです。少なくとも普通ではありません。ましてや対象が人間で、計画的に、大量に殺すということになれば、そこには特別の力がなくてはならないはずです。

 植松聖という人物は、特別な脳と心をもった特別な人間だと、私は思うのです。

 神戸連続殺傷事件の酒鬼薔薇聖人や、東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勉、座間9遺体発見事件の容疑者被告、先ごろ高裁で無期懲役判決の出た熊谷連続殺人事件のペルー人被告――彼らは皆、私たちが“自らの分身”“自分の将来の姿”と考えていいような存在ではなく、特別な人たちですからその範囲で考えるべきなのです。

 

【特別な脳を持つ人たち】

 “特別な人たち”といえば、すぐに思い浮かべるのはあまたの天才たちです。
 ウォルフガング・アマデウスモーツァルトは13歳の時イタリアに旅行し、システィーナ公会堂で門外不出の秘曲とされていた聖歌を一回聴くと、宿に戻ってすべてを楽譜に落としたと言います。グレゴリオ・アレグリの『ミゼレーレ』という曲で、一部分とはいえ、9声にも広がる難曲だそうです。

 コンピュータの開発者として知られるフォン・ノイマンは生涯に読んだ本は片言隻句漏らさず暗記していて、実際にそれを証明して見せたといいます。また世界初のコンピュータが完成したとき、「これでこの世で二番目に計算の速いヤツが生れた(まだ自分の方が速い)」と豪語したと言います。

 アインシュタインにとって数学は順を追って行うものではなく、答えは丸ごと天から降ってくるものでした。ただし降ってきた数式を解析する(自分はなぜそう考えたかを分析する)には多少時間がかかったようです。

 こうした天才たちが私たちに教えるのは、人間の脳には努力や鍛錬とは無関係に、独自に特殊な動きをする特別な領域があるということです。彼らはそれを動かしていて、私たちは動かせない、もしくはそもそも持っていない、そう考えないと彼らの存在は理解できません。頭が違うのです。

 

【植松被告のユニークさ】

 私たちは今日、特殊な脳、特別な心、常人には理解できない思考や感じ方があるという例をたくさん知っています。その多くは尊重すべき個性、あるいは能力です。
 しかし全部が全部、素晴らしい才能、愛すべき偏向、あるいは役に立つ能力というわけではありません。

 植松聖被告の特異性は言うまでもなく、「意思疎通の取れない重度障害者は安楽死させるべきだ」と考えたところにあります。ただし考えるだけなら似たような人はほかにもいるかもしれません。
 特に運に恵まれず苦しい生活を強いられている人の中には、働かなくても生きて行ける重度障害者が疎しく、羨ましく、感じられる人もいるのかもしれません。
 しかしそんな彼らでも、「『重度障害者は安楽死させるべき』だという考えが社会から受け入れられない」ことぐらいは知っています。思うことと口にすること、行動に移すことは全部別なのです。

 ところが植松聖被告は、やまゆり園の入所者を多数殺しても、いったんは刑務所に入れられるものの結局は認められ、国民から賞賛を受けるだろうと信じ込んでいたのです。総理大臣をはじめ日本国民全体がそれを望んでいると本気で思い込んでいた――そこに彼のユニークさ、私たちには絶対まねのできない何ものかがあります。

(この稿、続く)