カイト・カフェ

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「特殊教育用語について」①〜寄り添う

 学校や教育について使われる言葉の中に、かなり空疎だったり誤解され易かったり、時には有害だったりものがあります。例えば「子どもの目の高さで」とか「受け入れる」とか、「同じ人間として」とか、「寄り添う」とか、あるいは「そのままのキミでいい」とかいった言葉です。
 しばらくそうした言葉について考えてみたいと思います。

【寄り添う】

 この言葉を私たちがどんな使い方をするかというと、
「もっとお子さんに、しっかりと寄り添うことが大切なのではないでしょうか」とか、
「子どもと寄り添い、子どもとともに生きるようにしなくてはなりません」とかいったことになります。しかしそれで明日からどうしたらよいのかを、理解できる親は多くはありません。

 イメージとしては「目を離さないようにしましょう」「直接面と向かってやいのやいのと言ってはいけません」とか、「目標を同じ方角に持って、二人でそちらに目を向けていきましょう」とかいった感じになるのでしょうか。
 しかし私はある時から、それとはちょっと違った意味でこの言葉を使うようになっています。それは静かに肩を押すというイメージです。

 親ですから子どもをこんな人にしたいとかあんな人生を歩ませたいという願いがあります。また、社会人としては自分の子をそんな方向に向けてはいけないという責務もあります。しかし子どもは必ずしも親の願ったようには育ちません(親の願うような育ちしかしないようではかえって心配ですし、いちいち親の言う通りになるなら迂闊に語ることもできなくなります。子どもは親の思う通りに育たないから安全でもあり危険でもあるのです)。
 しかし子が親の願いとは正反対の方向へ動き始めたら、親としてどう対処したら良いのか。あるいは反社会的な方向へ歩み始めた時、保護者の責任としてどうしたら良いのか・・・。

 もちろん怒鳴って怒りまくれば何とかなる子の年頃というものもあります。情に訴えれば聴き入れてくれる親子関係もあります。その年々、最も有効な手段を使えばいいのですが、中学生以上になるとそろそろ恫喝も情も通用しなくなります。
「寄り添う」はそういう時期に有効な、ほとんど唯一の方法なのだと私は思っています。

 イメージとしてはこうです。
「子は日常を一歩一歩歩きながら悪の道(左方向)に進路を変えようとしている。しかし親として子に行きついてほしい地点はずっと右にある。ここで思い切り怒鳴りつければ(あるいは情に訴えて泣いて話せば)、子は一気に進路を右に変えてくれるかもしれない―そういった誘惑に耐え、子の左側に立ち、どうでもいい話をしたり少々説教を垂れたり、笑いあったり小突いたりしながら、静かに、慎重に、本人には決して気取られない形で、ゆっくりと体重を預け、右の方向に歩みを逸らせて行く」
 それが私の考える「寄り添う」です。もちろん着地点は最初願ったほどには右にはありません。しかし最悪のコースをたどらせなかったというだけでも親の勝利でしょう。

 ただしそのためには親子が仲良くなくてはなりません。最低でも“会話のできる関係”を保持しなくてはなりません。それが前提です。

 ゆっくりと静かに、子が一人立ちできるまで子の横でそれとなく肩を押し続ける―それが私の考える「寄り添う」なのです。