カイト・カフェ

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「1971年田舎の地区運動会長距離走でドベを走った私」~ゼッケン67番の伝説②

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 1964年の東京オリンピック陸上男子1万メートルで、「ゼッケン67」を背負ったスリランカ(当時はセイロン)の選手が3周遅れで完走し、観衆の大きな拍手を受けたお話をしました。ラナトゥンゲ・カルナナンダという選手です。

 それから数年後の、良く晴れた秋の日曜日のことです。もう陽があがってだいぶ経つというのに私はまったりと惰眠に耽り、気持ちの良い時間を過ごしていました。そこに突然母が来て、「ちょっと大変だからすぐに来て」と私を階下に促します。
 何事かと思って玄関に行くと地区の常会長が仁王立ちに立っていて、今すぐ用意をして地区の運動会に出ろというのです。それは先日断ったはずだと言うと、代わりに予定していた人が出られなくなった、人が出るだけで得点になるから眠りながらでいいから走ってほしいと無茶なことを言います。まだ常会ごと、本気で競う気風のあった時代です。

 私は短距離の方は自慢をしたくなるほどの鈍足ですが、長距離はそこそこに速くて地区の駅伝大会などにちょこちょこ出ていたのです。そこを買われての依頼なのですが、その時はもう地区のオジサンに言われれば素直に従うような、そんな子どもっぽい年齢でもなくなっていました。面倒なことは嫌だったのです。しかし常会長はそのまま玄関で動きません。きっと得点がぎりぎりなのでしょう。しかたがないので急いで着替え、・・・なんと10分後には長距離走のスタートラインに立っていたのです。

 眠りながら走ってもいいと言われても号砲が鳴ればそういう訳には行きません。小さなグランドの最初のコーナーに全速力で向かい、他の選手に挟まれながら駆け込んで、そしてそこで・・・転びました。5〜6人まとまって、団子状態でみごとにひっくり返ったのです。
 急いで立ち上がって再び走り出したのですがその段階ですでにビリから3番目くらい、それから後ろの選手も抜かれ、何周かしてゴールに向かうころには前の選手から半周遅れくらいのダントツのビリになってしまったのです。長距離走でビリなんて考えてもみないことでした。
 しかも前の選手がゴールしたときの拍手がそのまま私への応援になってしまい、会場全体が一つになって半周遅れの私に万雷の拍手を送ってくるのです。なにかほんとうに惨めな思いでした。
 そしてその時、あの「ゼッケン67」を思い出したのです。3周遅れでゴールインしたスリランカの選手は、どんな気持ちで周回を重ねたのだろうということです。

 私はほんとうに後悔していたのです。あのとき常会長が何と言おうと絶対に出ないと言って布団に戻ればよかったのです。競技に出ても転倒した時点でさっさと棄権してしまえばそれもよかった。あるいは、どうせヒョコヒョコと足を引きずりながらの走りですから、どの時点でグランドを離れても、誰も文句を言うはずもなかった、それを何の思い違いか、最後まで走らなくてはいけないと思い込んでこんな惨めな目にあっている、ほんとうにバカなことをした、これでは自分で自分を罰しているようなものじゃないかと、そんな感じでした。

 伝説ではスリランカの選手は「祖国の名誉のため、最後まで走り続けた」ということになっているがほんとうにそうだったのだろうか、3周も走る中で別の思いはなかったのか。祖国で一番速かったからといってこんな遠い国まで来てこんな惨めなことになっている、バカじゃないか、そんなふうに思い、いい気になっていた自分を罰するような気持ちで残り3周に耐えた、それが真実ではなかったのか、惨めで惨めでしかたがなく、その思いを自分の体にぶつけるように、いじめる気持ちで走っていたのではないか・・・。

 それから何十年もたち、私も年を取って素直にあの「残りの3周」を考えられるようになっています。
 実際カルナナンダは「祖国の名誉のため」に走り続けたのかもしれませんし、「どんな場合も棄権しない」という強い信念のために戦ったのかも知れません。あるいは若い日の私が想像したように惨めだったのかもしれませんし、3周の間にはさまざまな気持ち揺れがあったのかもしれません。

 ほんとうのところはどうだったのか、カルナナンダがそれについてどう語ったのか私は知りません。年をとって思い出を語れるようになり「実はあのとき・・・」といった話があればいいのですが、ラナトゥンゲ・カルナナンダは東京オリンピックからわずか10年後、不慮の事故でこの世をあとにしています。