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「俺じゃないよ、みんななんだ」~未来のレジェンドもいた金メダルの背後の人々

 何となくボケッとしていましたが、ソチ・オリンピックの開会式、今夜だそうです(8日午前1時〜4時)。現地時間の2月7日(金)〜23日(日)までの17日間、7競技98種目に渡り、87の国と地域が参加して行われます。

 ソチはロシア南部の黒海に面した人口40万人弱の都市で、ロシア随一の保養地だと言われています。2月の気温は5℃から10℃ほど、記録に残る最低気温が−12・6°だといいますから私たちの感覚からすれば冬のスポーツにはふさわしくない、暖かなところと言えます(ただしスキー会場の山岳地帯は2月の気温が−1°〜−6°くらい)。
 日本との時差は−5時間。程よい時差のような気もしますが主要な競技はいちいち現地時間の午後5時〜8時ごろスタートなので、日本時間では、フィギュアスケートの男子シングルフリーは2月15日(土)午前0時、女子シングルフリーは21日(金)午前0時、ジャンプ女子は12日(水)午前2時30分、スピードスケート男子500メートルは10日(月)午後10時となります。
 なかなかリアルタイムで見るわけにはいかないと思いますが、日本選手の活躍を期待したいところです。

 さて今日にいたるまで、テレビやラジオは数多くのオリンピック特集をしてきました。その中には奇しくも16年前の長野オリンピックで、金メダルを取ったスキー・ジャンプ団体に関する“秘話”がいくつか同時に扱われていたので、それについて紹介します。

 日本ジャンプ陣は長野の前のリレハンメル大会で、“金”が目前だったのに原田雅彦の失敗で“銀”に終わっています。その原田が長野の1回目でも失速し、順位を一気に1位から4位に落としてしまいました(その瞬間、赤ん坊を抱えて観戦していた原田の奥さんが、踵を返して会場を後にする姿を、テレビカメラはしっかりと捉えていました)。
 その絶体絶命の危機を救ったのが2回目のトップで137mの大ジャンプをした岡部孝信です。非常にクセの強い人で、その年のワールドカップを途中で離脱して、ひとり大倉山で調整していた人です。これで俄然チャンスが生まれます。続く斎藤浩哉もK点を越え、極めて危険な匂いのした原田の2回目も137mの大ジャンプ、最後に船木和喜が決めた――私たちが知っているのはそこまでです。しかしその間に重大な物語があったのです。

 1回目が終わったところで順位は1位オーストリア、2位ドイツ、3位ノルウェー、4位日本でした。その段階で雪が激しくなって走路の溝が埋まるほどになってしまい、2回目を行うかどうかは競技役員の協議によることになりました。そのときの役員はたまたまオーストリア・ドイツ・ノルウェー・日本の四か国です。
 2回目が中止となれば金メダルが確定するオーストリアはもちろん、メダルの確定するドイツ・ノルウェーも難色を示す中、日本の役員は強硬に続行を主張します。その結果25人いるテストジャンパーが失敗なく飛ぶこと、そして本人には知らされていませんでしたが、中に含まれる前回の銀メダリストが選手並みのジャンプを見せることで妥協が成立します。この“テストジャンパーに含まれる前回の銀メダリスト”は西方仁也という人です。腰痛のために選考から漏れ、それでもテストジャンパーとしてオリンピックを支えようとしていました。
 事情を呑み込んでいたテストジャンパーは競技続行のために必死のジャンプを行って次々と成功させます。そして最後の西方は123mの大ジャンプで走路の安全を証明して見せたのです。

 そのあとのことは私たちの知る通りです。勝ったあと原田の言った「俺じゃないよ、みんななんだ、みんな」という言葉には必死に飛んだ25人のテストジャンパーも含まれていたと番組では解説していました。
 ところでその一方、日本中が固唾を飲み「飛べ、飛べ」と念じている最中、白馬の会場でジャンプ台を見上げながら「落ちろ、落ちろ、失敗しろ」と呟いていた日本人がいます。団体戦に漏れたもう一人の“前回の銀メダリスト” 葛西紀明です。そのときの口惜しさをバネに、葛西はソチ・オリンピックでも代表の座を射止めています。

 偉大な事業の陰には必ず大きなドラマがあります。
 あのとき代表だった岡部や舟木は今も競技生活を続けています。そこにもまた、別のドラマがあるのかもしれません。