「非言語的コミュニケーションの天才たち」~日本的コミュニケーションの話」②

 日本人は本当にコミュニケーションが苦手なのか―私は長いことずっと疑問に思ってきました。

 日本は現在でも世界で有数の文明国です。巷には情報があふれ、クール・ジャパンのブームで、もはや最高度の情報発信源となっています。これだけ先進的で複雑な社会が、脆弱なコミュニケーションの上に成り立っているはずがありません。人々は何らかの方法でこの国を切り盛りしているはずです。

 言語に頼らないコミュニケーション、あるいは言語を補助的に用いるだけのコミュニケーション――塚原卜伝が剣を使わなかったように、「名人伝」の紀昌が弓を忘れてしまったように、日本人は重要なコミュニケーション・ツールである“言語”を捨て、その先の世界で情報のやり取りをしようとしているのかもしれないのです。
 そこで想定されるのが“読み”と”暗黙の了解“です。

 たとえばエスカレーターで左に寄って立つ習慣――これは誰かが言い出して始めたというようなものではないでしょう。いつの間にかそういった方向が見え始め、みんなが状況を“読む”うちに“暗黙の了解”となったものです。
 フォーク並びも上手です。日本発の並び方ではありませんが、日本人の感性によく合います。

 外国人の間では日本人の親切さには定評があります。まったく日本語ができなくても、街の中で声をかければ必ず教えてくれる、場合によってはその場所まで連れて行ってくれる、多くの外国人がそう信じて疑いありません。それは確かでしょう。
 しかしそんな親切な民族であるにもかかわらず、公共の交通機関ではしばしばお年寄りに席を譲らない光景が見られる――それに気づいたのも外国の人たちでした。ただしそこから「だから日本人は同胞に対しては冷淡」ということにはならないのです。
 多くの場合、人々はお年寄りの様子を“読んで”いるのです。席を譲った方がいいお年寄りなのか、それともそんな扱いをしては失礼なほど健康でかくしゃくとした方なのか。
 これがヨボヨボの老人なら間違いなくかなりの人数が席を立とうとします。しかし困ったことに、そんな“明らかな老人”は公共交通機関なんか使いません。だから難しいのです。

 私たちはときに機械とさえ話をします。たとえば自家用車の鼻先がものを語ったりするのです。
 優先のない交差点で、交差する両者の側に「止まれ」の表示のある場合があります。そこに同時に車が入ったらどうなります? 私はその瞬間、相手の車の鼻先に、行くか止まるかの意志を感じることがあります。相手の車の鼻先が、「行くよ、遠慮して」と語ったり「止まるからお先のどうぞ」とサインを送ってきたりするのです。そこでは余計なジェスチャーもクラクションもいりません。何とも説明しようがないのですが、とにかく車の鼻先がものを語っているのです。
 それが日本の文化です。

 話し合いが大切だとか、声に出さないと何も通用しないとか、いろいろ言ってもムリです。教師ですら授業研究会で発言しているのはごく少数なのですから。

 しかし言語外コミュニケーションを強調し推奨し始めると困る部分も出てきます。欧米をモデルとする学校の授業などその典型です。みんなが手を上げて発言してくれないと、話が進んでいかないからです。
 そこで私たちは盛んに「発言しよう」と言ったり、発言させるための様々な工夫をしたりしています。それも当たり前です。しかし一方で“決して発言はしないものの、心の中では激しく読みをし、思いを巡らせている”思い切り日本人らしい児童生徒がたくさんいることお忘れてはならないはずです。