環境と状況

 庭先に積み上げられた生ごみ(というものがあればの話ですが)、これは良い環境と言えるでしょうか。

 そう問うとすぐに分かるのですが、“環境”というのは「○○にとって」という言葉が頭につかないと、良いか悪いか区別がつきません。「庭先に積み上げられた生ごみ」は「人間にとって」は悪い環境ですが、「ハエや害虫・病原菌にとって」は最高の良い環境なのです。

 先週、「グローバル社会を生きる力」というお話をした中で、

 21世紀は、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す、いわゆる「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であると言われている。

という文を紹介しました(「教育課程部会におけるこれまでの審議のまとめ」平成19年)。

 そのときは気づかなかったのですがこの文、「書いたこの人にとって」「21世紀は〜である」と宣言しているにすぎません。「それ以外の人にとって」21世紀は別の側面を見せるのかもしれないからです。

 例えば「21世紀は、家族が真に見直される時代である」と書かれても「21世紀は大量生産が見直され、新の幸福が追求される時代であると言われている」と書いてあっても、我々は案外すんなりと受け入れてしまいます。そもそも21世紀がどういう時代か、誰も証明していないからです。

 ところが、こんなふうに自己の視点で切り取った状況(=環境)を、あたかも客観的な事実や状況であるかのように語る人が少なくありません。そして私たちは、それを簡単に信じてしまいます。

 最近、教員免許を国家試験によって付与する国家資格にしようという話が持ち上がっています(10月21日付毎日新聞)。

「国家資格になれば、教員免許を取る学生の質の向上が見込まれる」

“ああ、また面倒なことが始まりそうだな”とか、“こんなことで、教員やっていけるのかな”と感じることはあっても、「本当に質は上がるの?」とか「必要なの?」とかいった本質的な疑問はなかなか浮かんできません。

 ただし、この国家試験、本当に意味あることなのでしょうか?

 社会にとって必要なのは「教員になった人の質」であって、免許はとったが教員には「ならなかった人」「なれなかった人」の質など、何の意味もありません。そもそも免許取得者のうち、実際に教員になる人は10%もいないのですから、質の補償は十分なはずです(試験をやって合格率を5%に抑えたりすると、新規採用者が全国で5000人も足りなくなってしまいます)。

 けれどそんなふうに考えているうちに、突然思いついたのです。教員免許自体に価値があると助かる人たちがいるのです。

 学習塾や予備校の講師紹介の欄には、しばしば「教員免許所有」という記述が見られます。教育に携わるための勉強を積んできたということでしょう。しかし現状では単位さえ取れば誰でも取得できることをみんなが知っていますから、大した宣伝効果はありません。これが上位30%で足切りされる国家試験だったら教員免許はそれ自体が優秀者の証明になります。

 また、講師採用の際の目安にもなります。この業界では教員にならなかった人の、免許の質がテーマとなるのです。

 かくしてだれが文科省を動かしたかが見えてきます。その人たちにとって、講師の質が保証されない現状は困った環境であり、ぜひとも変えなければならないものでした。

 あたかも社会の課題のように語っていますが、実は自分の環境を語っているにすぎなかったのです。