今日、3月7日は推古天皇の崩御した日だそうです(628年)。
推古天皇というと曽我氏と物部氏の戦いや崇峻天皇暗殺といった一連の事件の中で、聖徳太子が摂政として実権を振るうためにワンポイントで置かれた、いわば傀儡(かいらい)のような天皇という印象がありますが、なかなかどうして只者ではない様子も見られます。
なにしろ日本書紀に「姿色端麗・進止軌制」とあるそうで、そうとうに見目麗しく、動作に乱れのない人だったようです。
17歳で敏達天皇の妃となって二男五女をもうけ、35歳で夫を失い、39歳で日本初の女性天皇となります。
頭のよい人だったらしく聖徳太子と蘇我馬子の間に立って絶妙なバランスをとり、馬子の要求にも容易に屈しなかったとされます。624年に馬子が葛城県の支配権を望んだ時も、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」、そう言って要求を拒絶しました。
その2年前(622年)には聖徳太子が49歳で亡くなり、626年には蘇我馬子も死にます。一種のトロイカ体制が崩壊し、推古天皇も628年、75歳でこの世を去ります。
実はその年の2月、奈良の中心部を皆既日食が通過し、それによって推古天皇は自分の死を予感したといいます。日食は占星では皇帝の死の暗示ですから、そう考えたのも無理はありません。
ついでに、
聖徳太子が推古天皇の摂政になったのは数え年の二十歳。
イチローが初めて200本安打を打ったのも二十歳。
ビル・ゲイツがマイクロソフト社を設立したのも二十歳のときでした。
何かイヤになったりします。