カイト・カフェ

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「新全体主義の話」~必ずしも全体で責任を感じる必要はないのに

 相撲の八百長問題が深刻な話になっています。今回は金銭が絡んだ組織的な問題ですが、前々から噂されていることもあって、今回、問題に取り上げられようとしています。

 それは例えば千秋楽に7勝7敗の力士が8勝6敗の力士に当たった場合、その勝率は79・6%なるといった話です(スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー著「ヤバい経済学」東洋経済新報社)。この取り組み、7勝しかしていない力士は8勝した力士よりその場所での力は低いわけですから、統計学的な勝つ確率(期待率)は48.7%なのです。それが79・6%なのですからそこに何らかの力が働いたのは間違いないでしょう。

 この研究の面白いところは、“何らかの力”が働いたと思われる二人の翌場所の対戦成績を調べたところです。それによると、翌場所の取り組みでは前回勝ったほうの勝率が40%に落ちている。つまり星を返しているというのです。

 その“何らかの力”が、「何としても勝ち越したい」という7勝力士の執念なのか、「星をくれてやろう」という8勝力士の温情なのか、「ここで勝ったら何を言われるか分からないから負けておこう」という8勝力士の感じる無言の圧力なのか、はたまた判官びいきの観衆がつくる「ホーム・アウェー」パワーなのか、あるいは金なのか、それは分かりません。しかし統計学的に異常だというのは事実のようです。

 しかしところで、千秋楽の取り組みで7勝7敗と8勝6敗が戦って8勝力士が勝ったとしたら、果たして私たちはそれで満足するでしょうか。先週職員室でもちょっと話しましたが、「負けてやったっていいじゃネーかよォ」が偽らざる私たちの気持ちではないのでしょうか。これまでもずっとそんな思いで見てきたはずです。

 もちろん相撲がプロレスのようになって勝負全体がショウ(見世物)化するのも困ります。かといってオリンピックのように、時には非情なまでに実力を見せ付け相手をねじ伏せるのがフェア・プレーというのもしっくり来ません。

 思うに今回の問題は、金や情報を動かして八百長を仕組んだ当該力士を厳しく罰し、それで終わりにすればよいのです。今後も似たような問題は出てくるかもしれませんが、そのたびに処分していけばそれでいいのだと私は思います。春場所の中止だとか根本的な改善がなければ公益法人の指定を外すといった大げさな問題ではないと思うのです。

 戦後私たちは全体主義集団主義を徹底的に憎み、社会をすべて個人に還元しようと異常な努力を続けました。それがふと気づくと、いつの間にか江戸時代の五人組をはるかに凌ぐ集団主義に飲み込まれようとしています。

 大阪地検特捜部の犯罪は同じ地検特捜部のメンバーが体を張って糾弾し社会に明らかにしたものです。その意味では素晴らしい自浄作用があったと思うのですが、今やその内部告発者も含め「組織ぐるみの犯罪」ということになってしまいました。

 2006年の福岡市役所職員の起こした重大飲酒事故は、毎週飲酒運転の上にナンパを繰り返すようなチンピラ公務員の罪であって、日本の全公務員が一緒になって背負うべきものではありません。

 私が一番言いたいのは、公教育にうまく行かない部分があったとしても、繰り返し教育改革を行って日本の教育の根本からいじる必要があったのか、ということです。思えば「教育改革は必要か」という論議は一度も行われず「改革」の中身だけが常に問題にされました。

 さて、たぶん大丈夫だと思いますが、もし私が飲酒運転や交通事故やセクハラやパワハラ、その他の破廉恥罪でつかまっても、どうか誰も一緒になって反省などしないようにお願いします。

「アイツは元々とんでもなく悪いやつで、私たちとは何の共通点もない酷いヤツだから一緒にしないでくれ」と突っぱねてくださってけっこうです。いや、ぜったいにそうしてください。
(え!? 頼まれなくてもする?)