カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「初心者であるためにも強さが必要」~私のキャッシュレス元年①

 キャッシュレス文化は、私のような現金主義者のもとにも訪れる。
 いよいよ膝を屈するときが来たのかもしれない。
 しかしそれにしても、便利を手に入れるための不便が耐えられない。
 素直に聞けばいいのに、私は何をやっているのだろう?

という話。

(写真:フォトAC)

【ついに膝を折る】 

 コロナ禍になって以来、東京の娘や息子のところに行くことが極端に少なくなりました。それは普通のことです。
 それにも関わらず行かねばならないときは、感染を怖れて基本的には自家用車、車内に空席が四つもあるのはもったいないので、たいていは妻と一緒ということになります。ところが今回は週日の東京行。勤めのある妻を休ませるほどのこともないので、ほぼ2年ぶりの列車の旅ということになりました。

 私の家は地方の中核都市からローカル私鉄で10駅ほどの場所にあり、JR線を利用するときはまず私鉄に乗り、JR駅で切符を買い求めて特急に乗り、さらにその先で乗り換えるという手順になります。
 厄介なのは私鉄からJRへの乗り換えで、日中の私鉄は1時間に1本、JR特急も1時間に1本、その上で非常に乗り継ぎがいいのです。10分も待てばJRが出発します。
 乗り継ぎの良いことの何が問題なのかというと、その10分間にモタモタしていて乗り遅れると、次は1時間も待たなくてはならないということです。そして私は2年のブランクの間に、乗り換えスキルをすっかり失ってしまい、モタモタせずに済む自信がまったくなくなってしまったのです。

 私鉄の改札からJRへ向かい、券売機の前に立って、さて、最初の画面は何だったっけ? 最初に選ぶのは乗車駅と降車駅だったのか、乗車券と指定席券の選択だったのか、いつお金を入れたらいいのか――。そこでネットで調べると、驚くべき変更のあることに気づいたのです。


【初心者の気持ちの揺れ】

 まったく利用しないまま2年間を過ごすうちに、我が田舎駅の改札も交通系ICカードが使えるようになっていたのです。それならすでにスマホに登録してありますから、乗車券については新たに買う必要がない! 指定席券はネット購入できることは以前から知っていましたから、これで完璧です。手ぶらで都内まで行けます。また、“モタモタするかもしれない10分間の不安”からも、これで自由になることができます。
 私は小躍りするような気持ちですぐに手続きをしました。

 ところがここがキャッシュレス初心者の悲しいところで、つまらないところで不安になります。車掌の車内改札に対して紙の乗車券を持っていないことはスマホを見せれば了承してもらえそうですが、指定席券を持っていないことはどう説明したらいいのか、そもそも同じ席に座ろうとする人がいた場合、どうやって自分の権利を主張したらいいのか――。指定席券を購入したときの画面は、すでにスマホから消えています。

 結論から言えば、指定席券購入サイトから購入履歴を呼び出し、その画面を見せればいいだけのことでした。そんな簡単なことを確認するだけでも、けっこうたいへんです。
 さらに言えばその探索作業の途中で、私は指定席車両での車内改札が、すでに行われていないことを知ります。要するにやるべきことをきちんとやれば、何の心配もなく東京へ行けるわけです。

 これだけ便利だと私の心の奥底にある現金崇拝は出て来ようがありません。しかしだからといってキャッシュレスへの移行が簡単に進む話でもありません。


【あれもこれもチグハグ】

 2年前は交通系ICカードの使えなかった駅でしたから、自動販売機の利用も何となく現金でやっていたのが、今回は缶コーヒー1本買うにもスマホです。というか、とりあえず財布の中に1万円札しかないのでそうせざるを得ません。ところがもともと年に1~2回しか使わない自動販売機ですから、現金で買う方法でさえおぼつかない。

“現金で買うときはお金を先に入れたけど・・・あれ? ホントにお金が先だったかな? 千円札を使うときも先に機械に流し込んだっけ? え? じゃあスマホ決済はどうなるの? スマホを先に端末にあてて――いや、いや、いや、先にスマホを使ったんじゃあ、そのあとで買う商品の値段がわからず決済できない――”
とか考えて、ようやく最初に商品を選んでボタンを押し、あとで決済をすることを思いつくのですが、余計なところに頭を使っていたぶん手の方がお留守になって、決済端末ではなくその隣の説明表示にスマホを当てたりしてしまいます。

 車内販売はさらに大変で、ワゴンを止めてチョコレートをひと箱買い求めると、
「お支払いはどうされます? 現金、クレジットカード、交通系ICカード・・・」
 すかさず「交通系カード」といってスマホを取り出したのですが、それをどうしたらいいのかわからない。とりあえずケースの蓋を開いて端末を当ててもらったのですが、ケースの蓋は開ける必要があったのか?


【初心者であるためにも強さが必要】

 昼食に入った牛丼の松屋では、私の後ろに列ができたのでプチパニックで、注文しなくてもよかったものまで頼んでしまう――。
“いい齢をして自分は何をやっているんだ”とホゾを噛みながら、頼むつもりもなかったサラダを突ついていると、奥から店員がすたすたと券売機の方へ歩いて行って、そこに待つ紳士風の男性に使い方を説明し始めました。私よりは10歳以上も若そうな人です。
“ああ、やっぱり私はちっぽけな男なのだ”と、さらにホゾを噛む思いになりました。
 

「今日は夏至です」~体験すれば学べるというものではない

 今日は夏至
 信じがたいことだが、今日を境に日がだんだん短くなっていく。
 しかしそんなことも意識させないほどに夏至は地味だ。
 忘れやすい節気だが、学校では扱う価値がある。

という話。

(写真:フォトAC)


【2022年の夏至】 

 今日、6月21日は夏至です。
 天文のことなので毎年6月21日が夏至と決まっているわけではありませんが、2020年から2055年まではずっと6月21日だそうですので、大雑把な見通しとして6月21日と覚えておいてもよさそうです。
 ちなみに夏至は20日の年も22日の年も、23日の年もあるようです。

 1年の中で最も昼間の長い日(夜の短い日)として知られ、今日の日の出は東京で午前4時25分、日の入りは19時だそうです。日照時間は14時間35分になります。
 「狭い日本」とは言ってもそこそこ大きな国ですので、札幌の日の出は午前3時55分、福岡の日の入りが19時32分と、東京と比べてもかなり開きがあります。
 昼の時間が最も長いというと、日の出が早く日の入りも遅いように感じますが、日の出が最も早いのは夏至の一週間ほど前、日の入りが一番遅いのは夏至の一週間後あたりと、これも私たちの感覚とは異なっています。
 けれど最も感覚と合わないのは、6月の下旬に差しかかる今日を境に、だんだん日が短くなっていくということです。
 信じられませんよね。


夏至の行事と、日本ではそれが地味なわけ】

 ヨーロッパではイングランド南部のストーンヘンジで行われる夏至祭りが有名だとか。また夏の短いスウェーデンフィンランドでは、キリスト教以前の太古から盛大に祝うのが習わしだったようです。

 日本では伊勢の二見浦にある二見興玉(ふたみおきたま)神社の夏至祭りが有名だそうで、今朝も3時半ごろから祭祀が行われたはずです。
 二見浦では6月初めから7月初めにかけて、太陽は夫婦岩の間から昇ります。中でも6月10日~15日と6月28日~7月2日の期間(多少の誤差は生じる)は、遠く200キロも離れたところにある富士山の背後から陽が昇り、「王冠富士」と呼ばれるその姿を見るために、多くの観光客が集まるそうです。もっとも梅雨の時期にも重なるため、よほどの幸運でもない限りなかなか見ることはできないとも言われています。

 その他、静岡県では冬瓜(とうがん)、大阪付近ではタコを食べる習慣があるといいますが、何しろ「田植えは夏至から半夏生(はんげしょう:夏至から11日目の節気)までに済ませること」といった言い伝えのある農繁期。カボチャや粥を食べて柚子湯に入る冬至や、お墓参りの習慣のある春分秋分に比べ、扱われ方はずっと地味になって全国的な行事もないのです。


【体験すれば学べるというものでもない】

 学校教育ではよく「体験に勝るものはない」とか「子どもは体験から学ぶ」と言ったりしますが、ただ体験すればいいというものではありません。解釈されなければ身につきません。

 例えば教室にあるカーテン。子どもたちの目にはいつだって映っているはずですが、
「あのカーテンが役立つ季節はいつ?」
と訊くとたいていの子が戸惑います。春や秋の曇った日に質問するとさらに効果的で、多くの子が「夏」と答えるのです。日傘と同じ発想なのでしょうね。もちろん不正解です。

 あれは窓から日差しが入って、机の上の教科書やノートが見えにくくなるのを避けるためですから太陽の低い「冬」が正解なのですが、ボーっと生きていると大人でも間違えます。せっかくの夏至ですので給食を食べながら、窓に差し込む陽の浅さを確認するのもいいでしょう。

「二つの美術展を観て、西郷さんを探して・・・」~上野公園に行ってきた

 所用があって久しぶりの東京。
 せっかく来たのだからと上野恩賜公園に遊んだ。
 展覧会を観て、西郷さんを探して――
 これで私の思い残しもひとつ減った。

という話。 

(写真:フォトSuperT)

【二つの美術展をハシゴしてきた】

 所用があって娘の家に行ったついでに、ふたつの美術展を見てきました。
 東京都美術館スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち」
と、
 国立西洋美術館国立西洋美術館リニューアルオープン記念 自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで」
です。

nature2022.jp 両方とも有名美術館の収蔵品展で、私はこういうのが苦手です。特に東京都美術館の方は日本では無名に近い画家の絵がたくさんあって、少し楽しめない感じがありました。ルネッサンス期のスコットランド絵画と言われてもピンときません。
 よほど絵画史に詳しい人か、絵画を絵画として純粋に理解したり楽しんだりできる人でないと無理なのかもしれません。やはり私には鑑賞者としての能力に欠ける部分があるようです。

 国立西洋美術館の方はドイツと日本、それぞれの偉大な収集家の所蔵品を揃えたもので、展示されているのは有名な画家の絵画ばかり。さすがに見応えがありました。
 こう言っては失礼ですが、スコットランドの有名画家と世界的画家との間には、絵の分からない私にもはっきりと感じられる力量、才能の違いがあるようです。
 ただし、個人展ではないので題材や画風が作品ごと異なり、作品ごとにいちいち気持ちを切り替えて鑑賞しなくてはなりません。それがけっこう難しいことでした。

 一年に1~2回しか行かないのでどうしてもメジャーな美術展になります。しかしもっといい展覧会もきっとあるはずです。

【西郷さんを探して――】

 さて、やや消化不良気味で上野公園をあとにしようとした私は、突然思いついて懸案のことをしようと決心します。西郷隆盛像を探すという仕事です。

 この20年間だけでも20数回は上野公園に来て、そのうち最低5回は西郷さんの銅像を探したのですが、ついぞ見つけられずにいるのです。そんなバカなと思われるかもしれませんが、上野公園の南端にあるはずの、犬を連れた西郷隆盛の巨大像が、どうしてもみつからない。
 私は極端な見栄っ張りですが、見栄っ張りでなくても数十メートル以内にあるはずの銅像を「どこにありますか?」と訊ける人も少ないと思います。私が何度も行ったり来たりしても見つからない像ですから、もしかしたら案外多くの人たちが知らないのかもしれません。うっかり聞いて恥をかかせてもいけません、などと様々に言い訳して今日まで来ましたが、そろそろ私も今生の別れかもしれないのです。そこで今回は地図を頼りに、そこまで行くことにました。
 そして、見つけました。

 上野公園最南端の上野警察署公園前交番から公園に入り、幅の広い長い石段を登り切って、右手後ろに商業施設「上野の森さくらテラス」屋上出入口を見て、左前にレストランとカフェの複合施設「グリーンパーク」を確認し、その間を真っ直ぐに上野動物園方向に歩いて50mほど。そこで止まって右向け右! するとちょうど正面に西郷隆盛像はあるのです。
 分解写真風に並べると、こうなります。
*分解写真なんて言葉、平成以降生まれは聞いたことないだろうな。

 写真は意図して右側だけを写していますが、まっすぐ前を向いて歩けば進行方向に対してほぼ直角の位置で、時間にして4~5秒間だけ見える風景です。これでは気がつかないわけです。

 年来の謎が解けました。これで上野公園に思い残すことはありません。そしてこんなふうに懸案をひとつひとつ潰して、なんだかほんとうに死出の準備をしているような気がしてきました。

 

「“置き勉はできないので、重いランドセルで帰ってください”と先生は言った」~ランドセルの何が悪い!②

 小学生の使うバッグとして、ランドセルほど完璧なものはない。
 悪いのはランドセルではなく、置き勉を許さない学校なのだ。
 しかし学校にも言い分がある。
 置き勉って、どうやったらできるのですか?

という話。

(写真:フォトAC)

 

【ランドセルは完璧な通学バッグ】 

 1887年(明治20年)に伊藤博文が当時の皇太子(のちの大正天皇)に贈って以来135年、ランドセルは改良しつくされた完成品です。素材以外ほとんど改善の余地がありません。それだけ優れたもので、これを上回る完成品はコルト45くらいのものでしょう。何が優れているのか――。

 まず丈夫だということ。
 多くが数万円もする高価なものだけあって、6年間、修理しなければならないことはめったにありません。普通の小学生がランドセルをどんなふうに扱っているか、下校途中の公園で観察すればその丈夫さが驚異的であることは一目瞭然です。

 バッグとしての機能も完璧です。
 とりあえず自立するということ。ビジネス用もそうですが、自立しないバッグは置いておくのに不便、ものを探すのに不便です。エコバッグから何かを取り出そうとしたら、一方の手で持ち手を必ず引き上げていなくてはなりません。しかし自立するバッグだと両手を突っ込んでものが探せます。
 ランドセルの場合は硬さがありますから、寝せたかたちでも出し入れができます。そんなことのできるバッグは簡単には見つかりません。

 学用品に特化したものですのでA4の教科書やノートがピッタリと収まります。大型のビジネス用バッグの中には書類が内部でずれて扱いにくくなるものがありますが、ランドセルでは考えられないことです。またポケットが学用品に合わせていくつもついているので、整理もしやすいし、出し入れが簡単。

 ベルトが幅広で十分な緩衝材が入っているので肩が痛くなりにくい。かなりしっかりしたつくりなので、カバン本体を背中の高い位置で保持しやすのも特徴です。
 「さんぽセル」の開発途中で、ランドセルの重さを実感する実験の様子が写真で紹介されていました。水を一杯に入れた2リットルボトル19本をつなげて、大人が背負う写真です。しかしその姿からすぐに違和感をもつのは、ボトルのほとんどが背中の下半分からお尻を覆うように繋がっていることです。かつて都会の女の子たちがファッションで背負っていたバッグと同じ扱いです。

 しかし登山の専門家やバッグパッカーはあんな背負い方は絶対にしません。重い荷物はできるだけ背中の高い位置に背負うのです。だから転ぶときは前に倒れ、両手をつくことになります。背負うというよりは“尻負う”といった方がいいほどの低いところに置けば、重くてしかたがない上、よろけて転ぶときはうしろです。危険極まりない。


【安全装置としてのランドセル】

 ランドセルは高い位置に置くのが前提ですから、後ろに転んだときに後頭部を打つ心配がありません。人間は前頭部や側頭部を地面に当てて転ぶことは稀なのです。手は自然に出ます。しかし後ろに転んで手で防げる人はいません。
 ランドセルを背中の高い位置に置くと少し前かがみになりますから、もともとうしろには転びにくいのですが、何かの事故で後ろに倒れたときは、ランドセルが緩衝体になるとともに頭を打つ危険からも守ってくれるのです。

 さらに意外かと思いますが、ランドセルは中にものが入っていても水に浮きます。背中のものですから水の中でうつぶせになりがちになります、高学年の子ならうまく利用できるでしょう。
 また流れの速い川などに落ちた場合は、ランドセルが目印になって大人が追いやすい。これも優れた能力と言えます。

 ランドセルは完璧です。もしその重さが問題だとしたら、中に入れるものがいけないのです。


【置き勉ができない二つの理由】

 脱ゆとりで学習内容が増えたという説明もありますが、これはもう小学生の教科書がB5版からA4版に変わったことが一番でしょう。その際に文字のポイントは大きくなり、図版も増え、ドラえもんが走ったりするようになりましたからページ数は減っていない。もともと重かったランドセルの中身がさらに重くなったのです。
 それなら必要のない教科書やノートは学校に置いておけばいいじゃないか、というのが当然の理の帰結です。これを「置き勉」と言います。しかし学校はやらない――。

 これについては教師が頑固だとか、体を鍛えるためにそうさせているのだとか、たくさんの悪意に満ちた推論が出回っていますが、実はひとつには「必要なものだけ持って帰させる」ということが至難だということがあります。

 小学校で子どもたちが理科室や家庭科室に移動するときの様子を見たことがありますか? 普通の先生は点呼と持ち物チェックをして、それから列をつくって特別教室に移動するのです。そうしないと誰かが必ず忘れ物をする、場合によっては子ども本人が行方不明なる。それが小学校なのです。

 ですから置き勉も帰りの会
「さあ、今日持ち帰るものを集めますよ。まず算数の教科書とノート、それを机の上に置いてえ~。次は国語、行きますよ。まず教科書、漢字ドリル、出したかなあ~」
とかやって全部机の上に揃ったらもう一度確認して、全部をランドセルに入れさせます。そういうことを毎日しなくてはなりません。
 大した手間ではありません。ものの5分でもできることとも言えます。けれど帰りの会では持ち帰りチェックの前にやらなくてはならないことが山ほどあるのです。その5分はとても負担になります。

 置き勉のできないもうひとつの理由は、具体的でしかも決定的。とにかく置き勉を置く場所がないのです。

 机の中に入れると重くて掃除ができない。
 教室うしろのロッカーはランドセルや給食着、体操着でいっぱい。冬場はコートが入りにくいほどです。おまけに時期によっては絵具セットや裁縫セットも入っていますから、そう簡単に空間を生み出すことはできません。置いたとしても、普通の子どもの整理能力では中はたいへんなことになってしまいます。

 解決策としては、とにかくロッカーを増やすこと。できれば高さがA4サイズで整理しやすいものを設置するしかありません。このさいですから絵具セットや裁縫セットも置けるようにしましょう。 
 私は児童館の仕事をしているときに20人分のロッカー(といっても間口60cm四方の棚)を発注したことがありますが、価格は30万円でした。40人分だと50万円程度でしょうか?
 全国には小学校だけでおよそ2万の学級があるそうですから100億円程度で済む話です。ただし窓辺の設置だと落下防止の安全柵も置かなくてはなりません。ロッカーの上に乗って窓から落ちそうになる子は、いつか必ず出ます。また、そもそも教室に設置する場所のない学校だってあります。そうした学校ではロッカールームの設置から考えなくてはなりません。

 そんなことより宿題をなくせば教科書などの持ち帰りはしなくて済む、という考え方もできます。給食を廃止すれば給食着を持ち帰って洗濯をする手間もなくなり、子どもの負担も減るでしょう。いっそのこと勉強自体をなくしてしまえば、教師も子どもも気楽だなと、二日連続でイライラしている私は思います。

(この稿、終了)
 

「結局、何をやっても教師がアホ、教師が悪い」~ランドセルの何が悪い!①

 「さんぽセル」という不思議な道具がメディアを闊歩している。
 ランドセルがキャリーバッグになるのだという。
 ネット上は議論百出・百花斉放。
 そして結局、学校が悪いのだという結論に至った。

という話。

(写真:フォトAC)


【「さんぽセル」の話】 

 私はそれほど気の短い方でも苛立つ性格でもないと思うのですが、それでも年に数回、自分の気持ちが抑えられずに、数時間イライラを続けて苦しむことがあります。梅雨入りもあってのことか、今日はそうした珍しい一日で、部屋で一人、何かを投げつけたい気持ちでじっと我慢していました。

 直接のきっかけはランドセルです。
 栃木県の小学生がタイヤの着いた二本のスティックをランドセルに装着し、キャリーバッグのように軽く運べる装置を開発・発売、それがYahooニュースに掲載されたところ、1000件を越える大人に批判が寄せられた、というのが事の発端のようです。
 そうした批判にマスメディア・ネットメディアは激しく反発し、尾木ママだのマツコ・デラックスだの安藤優子だの千原せいじだのを次々と繰り出して、ランドセルに固執する人々を「日本では未だに、根性論でしょうか? 情け無い限りですね」(尾木)などと揶揄する状況が生れました。
 それでもランドセル派は屈せず、賛否両論の応酬を繰り返すうちに、議論はそもそもランドセルが重すぎる、いや重いのはランドセルの中身で、あんなものは学校おいておけば(置き勉)いいのに、教員たちは昭和の堅物ばかりで一向に改革の意思を見せない、いったいどうなってるんだ、という方向へ進んで、現在は学校と教員が矢面に立って「さんぽセル」賛成反対両派からの攻撃を受けている始末です。


【子どもたちに持たせてみればいいのだ】

「やっぱりな」
と私は思います。教育に関する論争は最後は学校と教育委員会文科省を批判して終わりにすれば、万民が矛を納めて納得してくれます。

 私に言わせれば「さんぽセル」なんて、さっさと普及させておしまいにすればいいようなものです。
 あんなもの、日本で一番、坂や階段の多い長崎の市立小学校で使わせればあっという間にケガ人続出です。重いキャリーバッグで階段を上り下りすることがいかに大変かは、一度でもあれで旅行した人ならすぐに分かるはずです。かと言って長崎市内の通学路すべてにエスカレーターやエレベーターをつけるわけにも行かないでしょう。

 そもそも小学生があんなものを好きになるはずはないのです。なにしろ走れませんから。走ろうとすればすぐに振り回されてしまいます。
 直線だけならまだしも、激しく右左に動かなければならない場所でしかたなく重いバッグを抱きかかえて走った経験のある大人だって少なくないでしょう。子どもは走るのが大好きですから、キャリーバッグなんて好きになるはずがないのです。
 背負いカバンにもなるツーウェイ方式だそうですが、歩道橋を昇るたびにスティックを収納してカバンを背負い、下りたらまたキャリーバッグに戻すといった小まめなことを期待する人は、子どもを知らなすぎです。もしかしたら背負う子もいるかもしれませんが、その時はスティックを立てたままで、どこかに引っ掛けて転ぶのがオチでしょう。

 さっさと持たせて、さっさと終わりにしてしまいましょう。どうでもいいことです――と言いながら、どうでもよくないのは「昭和の堅物、いつまでも根性論に縛られるアホ教師」の問題です。


【結局、教師が悪いというところに話を持って行く】

 どんな場合も、結局、教師が悪いというところに持って行って話を納めるのがメディアの常套です。

 元々は教師の働き方改革、過剰労働の軽減といったところから始まった部活の地域移行問題も、今や、
「担当する競技に何の経験もない教員が顧問になることで、過剰な練習やそれによるケガ、体罰・いじめが横行する。そうした危険、過剰労働による教師の疲弊にも関わらず部活動がなくならないのは、結局、部活をやりたくて教師になったBDK(部活大好き教師)が抵抗勢力となって拒んでいるからだ」
という教員分断、同士討ちみたいなところへ進んでいます。BDKが日本の中学校の部活文化を創り固執している、中でもBDK上がりの校長が最も始末が悪い――。

 そこには部活動をやりたくてしょうがない生徒の姿も、部活で子どもを輝かせようと熱心な保護者の姿もありません。部活のおかげでよい人生が送れるようになったという大人の声も、部活を足掛かりに日本の競技スポーツを支えてきたと自負する人々の声も、全く聞こえてこないのです。部活動は今や”悪“そのものです。
 したがって部活動の地域移行は、危険で高圧的な教員から子どもたちを守り、健全な青少年スポーツへ移行させようという問題になっています。
いいでしょう。地域にそれを担えるプロが何人揃えられるか、見ていましょう。


【とりあえず教師はアホだというところから話を始めよう】

 思えば教育問題は常に思い込みとアホ教師論によって弄ばれてきました。
 
 私が教員になった1980年代、国語科の教師は、
「いまだに明治以来の音読に固執するアホ教師たち。今の日本のどこに声を出して文章を読む世界があるのだ。なぜ黙読の時間を削るようなことをするのだ?」
などと批判されたものでした。2001年に齋藤孝著「声に出して読みたい日本語」が出版されてベストセラーになるまでは、です。
 ところがしばらくしたら、
「学校はなぜ日本語の音のすばらしさを教えようとしないのだ。『声に出して読みたい日本語』では~」
となり、きちんと音読させない教師はアホ扱いとなりました。

 最近では「三角食べ」です。
 食器ごとひとつひとつ始末するように食べる片付け食い(ばっかり食い、ばっか食い)が問題になると急に「三角食べは日本古来の食べ方」だとか「すべての食材をまんべんなく食べられるためバランスがよい」とか「口の中でお米と副菜が混じり合うことで味のバリエーションが広がる」とかいって持ち上げられようになりましたが、つい最近まで教師の暴力の代表格でした。今日現在(2022.06.16)でもWikipediaには「三角食べの方法は過度の指導により管理教育につながっていた」とか「具体的には、パン → 牛乳 →おかずなどのような一方向のみに食べることが児童生徒に強制された。従わない子には体罰も行われ、管理教育の手段にもなった」とあります。
 *Wikipedia「三角食べ」

 教師からすれば「バッカ食い」の子どもたちは多くが最後にご飯を残す、味の薄いご飯だけでは食べられない(私だって食べられない)ので、結局給食を残すことになる、栄養士がきちんと計算した栄養価が摂れない、それが嫌だっただけのことです。バッカ食いの子は家では最後にご飯にしょう油や塩、ふりかけなどをかけて食べています。学校は障害や病気でもない限り、そうしたことで特別扱いはしません。

 こうしたことでは教師がいくら正しいことを訴えてもダメです。同じことを大学教授や外国メディアが行って初めて、正しいことが正しくなるのです。

 さて、ランドセルです。
 なぜあれはあんなにも重くなったのか。そしてなぜ学校は「置き勉」許さないのか――。

(この稿、続く)
 

「死後、家族に禍根のタネを残したくないと思えば」~かくも厄介な人生の終末④

 結婚して三十余年。ひたすら働いて、遊ぶ暇も金を使う暇もなかった。
 おかげでそこそこの財産を残し、子に引き継げるのだが、
 金を渡す作業は思いのほか難しそうだ。
 そして、後悔はしていないが、こんな人生でよかったのかと、ふと思った。
という話。(写真:フォトAC)

【教員は社会を知らない、常識を知らない】 

「学校を卒業してそのまま学校に入ってしまった教員は社会を知らない、常識を知らない」
といった言い方があります。いまだに意味が分からない面もあるのですが、確かに、残業手当もなく月に80時間も100時間も時間外労働をする人間が「常識を知っている」というのはおこがましでしょうね。また、教育の話しかしませんから会話が噛み合わないこともあるかもしれません。
 世間の人が良く知っているファッションの話だとかプロ野球の話、ゴルフの話やグルメの話なども、そのうちのひとつくらいならできる人も少なくありませんが、二つ以上となると困難です。
 教員の仲間内でも、財テクや車について水準以上の技能を語る人がいると、
「オマエ、俺が教材研究をしている間にそんなことを勉強していたワケ?」
と口には出さないものの、白い目で見たりします。少なくとも私はそうでした。多分に嫉妬心があったのも事実ですが。
 そういう意味では、確かに社会も常識も知らない。


【実感がないけれどそれも資産】

 ということで何も知らない私がいよいよ自分の資産について考えるとなると、世界はあまりにも混とんとしています。とりあえず私が死んだら相続税はどれくらいかってだれが払うのか、というところから始めなくてはなりません。

 あれこれ調べて結論を言うと、相続税は3000万円+600万円×法定相続者数が基礎控除額で、私の家の場合は妻・娘・息子の三人が相続人ですから4800万円までは無税ということになります。
 いくら何でもそこまでは持っていませんが、何しろケチで金を使わない家ですから退職金がそのまま残っていて他に蓄えもあります。さらに鬼門は土地と家屋。
 近所には空き家がウジャウジャあって、そんな中で、実際に売れば土地を更地に戻す費用を差し引いて200~300万円にしかなりそうにない土地・家屋が、相続税評価では1100万円にもなってしまうのです。現実には、売れないから壊すしかない家屋にまで評価額がついています。

 さらにその上、母が亡くなれば遺産も入ってくる。手元にないのでまったく意識していませんでしたが、父が亡くなったときの私の取り分も丸々預けてありますから、これも少なくない――ということで恐る恐る計算したら、何と、
 やはりまったく足りませんでした。ホッ。
(何が「ホッ」だ)
 しかし相続税の申告というのはメチャクチャ面倒くさそうなので、残さないことも遺族孝行でしょう。

 相続税の控除額(3000万円+600万円×法定相続者数)というのは案外低いハードルです。何らかの理由で「固定資産税ばかり払わせられてかなわんなあ」と思いながら持っていた土地が、相続の時にとんでもない資産として登場したりするわけですから、気をつけなくてはいけません(財産持ちの方は)。


【死後、家族に禍根のタネを残したくない】

 私が死ぬにあたって(ナンダ?)気になっていることのひとつは、二人の子どもにかけたお金の違いです。娘のシーナは大学を出るとすぐに就職しましたが、弟のアキュラは理系ということもあって大学院に進学しているのです。その差2年間の学費と生活費は、合わせると450万円ほどにもなります。
 今のシーナはそんなことはオクビにも出しませんし、実際に「弟の方がたくさん使ってもらって」などと言う子ではありませんが将来のことは分かりません。貧すれば鈍するということもありますし、何らかの理由で仲たがいすることだってあるのかもしれません。それに何より、私の気分がよくない。
 
 だからといって、私の遺書に「大学院にいったのだからアキュラの分は450万円少なくネッ」とか書いてあったら、納得できる話でしょうが気分は良くなさそうです。
 そうなると二人の子持ちで経済的にも大変なシーナに、生前贈与として450万円ポンと渡してしまえばすっきりします。私の妻は今も現役でバリバリ働く妻がいますから、そのくらいドサッと貯金が減っても苦にならないのです。
 ところが、これが案外難しい。

 贈与税基礎控除額は110万円。それを越えると越えた分の2割が贈与税になります。つまり450万円だと68万円も払う羽目になるのです。ヤレヤレ。
 しかたないので4年間に分けて渡すにことにします。そのたびに書類で証拠を残さなくてはなりません。

【こんな人生でよかったのかな】

 世の中には今日の生活に苦慮している高齢者がいくらでもいるのに、遺産の残し方で頭を痛めるなんて贅沢な話です。しかしそれが夫婦で30年間、泊りの家族旅行は2回しか行かず(ディズニーランドとUSJ)、外食といえば3か月に1度くらいしか行かずに働き続けた教員夫婦へのご褒美です。
 そのご褒美も、結局、使われないまま子どもたちのものになっていきます。後悔はしていませんが、こんな人生でよかったのかという疑問はあります。

 ああ、死ぬまでにもう一度、冷凍ものではない本物ウナギのかば焼きを、専門店で食ってみたいものだ!

(この稿、終了)

「『終活にやること10選』を考察する」~かくも厄介な人生の終末③

 とりあえず「終活」が分からないので調べてみた。
 すぐに見つかったのが「終活にやること10選」。
 ひとつひとつを見て行くと、
 この世界、案外、楽で難しいものだ

という話。

(写真:フォトAC)

【終活にやること10選】 

 さて終活だと机に向かってハタと困ったのは、そもそも終活って何をするのかということです。そこでNDN(ネット大好き人間)としてはとりあえず検索に走るのですが、いきなり箇条書きされたものが出てきます。
「終活にやること10選」

 それによると、
(1) エンディングノートを作る
(2) 資産を見直す
(3) 遺言書を作る
(4) デジタルデータを整理する
(5) 不用品を片付ける
(6) 断捨離をする
(7) 葬儀の準備・予約をする
(8) お墓の準備・希望をまとめる
(9) 人間関係を整理する
(10) 今後の生活について考える
 よくわかりませんが何となく全部を網羅している気がします。そこで1番のエンディングノートから見て行くことにします。


エンディングノート

 エンディングノートについては昔、葬儀社組合みたいなところからもらったものがありました。見ると最初の項目が自分史。学歴だとか職歴だとか、あるいは座右の銘だとか思い出だとか――それらは人生の足跡を残したい人には必要かもしれませんが、私には必要ありません。
 次の項目の「親戚や友人の名簿」はなければ困りますが、年賀状用ソフトがあってその住所録が使えますから、心配ならプリントアウトしておけばいいでしょう。

 次は、もはやいかにもありそうなことですが、万が一のときの私に対する処しかた。
「病名や余命告知は必要か」「臓器提供の意思はあるのか」「治療はどのあたりまで行うのか」といったことで、これは大切です。しかし私が倒れたとき、まず「エンディングノートを見よう」と思いつく家族がいるとしたらむしろ悲しい。
 やはりこういうことは日ごろから口にして意思疎通しておくべきでしょう。介護をどのように受けるかといった点も同じです。

 エンディングノートの4項目が財産に関するページ。これについては「資産の見直す」「遺言書を作る」に関わる部分で、大切ですから別に考えましょう。「デジタルデータを整理する」もほぼ同じ内容です。私の持っているエンディングノートはこの部分が2ページほどしかなく、だいぶ足りない気がしました。

 最後が葬儀と墓に関する部分です。しかしさすが葬儀社組合のエンディングノート、この部分がやたらと詳しくなっています。
「訃報連絡をしてほしい人」「しないでいい人(これ、ひとによっては大事かもしれない)」「葬儀の形式・宗派」「会場」「遺影の指定」「葬儀に飾ってほしい花」「葬儀に使ってほしい音楽または映像」「読み上げてほしい自分自身の言葉」「式場に飾ってほしい趣味の品々」「棺に一緒に入れてほしいもの」等々。
 そこまで自分の葬儀にこだわる人もいないと思いますが、逆に言えば連絡先や葬儀の形式、会場・遺影などはこちらで指定しておけば残された者は楽、ということもあります。考えておきましょう。
 
 お仕着せのエンディングノートは便利と言えば便利ですが不足も過剰もあり、私としては項目だけ参考にして、Wordか何かで別に自分なりのものをつくっておきましょう。


【断捨離は必要なのか? ゴンベがタネ蒔きゃカラスがほじくる我が家】

 「終活にやること10選」の5番目と6番目の「不用品を片付ける」と「断捨離をする」ですが、私の弟が20年ほど前からものすごく熱心で、勢い余って94歳の母の家にまで手をつけ、おかげであれこれなくなって不自由しています。

 そもそも断捨離はモノを整理して空間を広げ、仕事や生活の効率を上げるためのものです(と私は思っています)。整理は必要ですが、十分な空間のある人は何も捨てることはない。私の家も母の家もそうですが、田舎のそこそこの家で、子どもたちが自立した後は少なくとも子ども部屋が丸々空いていて物置代わりに使えます。すると、
「そんなにたくさんモノを置いて、残された人間に整理させるつもりか」
という話になりますが、自分が断捨離する代わりに業者を雇うだけの金を残せばいいのです。悩んで選んで捨てる労力を金で買うのです。その金が現金でほしければ、残された家族が断捨離すればいいだけです。

 我が家では私が整理好きで比較的自然に断捨離を行っていますが、そうやって作った空間を妻が次々と埋めていきます。妻には年上の友人がたくさんいて「遺品のつもりでもらってちょうだい」とか言われて他人の断捨離に付き合わされ、とりあえず必要のないモノがどんどん増えていきます。
 「ゴンベがタネ蒔きゃカラスがほじくる」方式の我が家ですから、「不用品整理」も「断捨離」も諦めざるを得ません。
 それで困ることもなさそうですからけっこうでしょう。


【残された問題】

 7番目の「葬儀の準備・予約」はちょっとした衝撃でした。というのは社会科教師として、民法を扱うとき、
「婚姻届けは本人が出さなくてはいけません。1人だけでもいいのですが必ず本人が行きます。しかし死亡届は本人が出向く必要はありません。怖いですから」
と言って笑いを取るのがテッパンだったからです。それを、葬儀の予約ができるとは!
「スミマセン、私、来月10日に死ぬので12日あたりに葬式をしたいのですが予約取れます?」
とか言うのでしょうか?

 調べるとこれは日にちを定めない予約で、予め葬儀の形式や希望を伝え、費用の一部を支払っておくといったもののようです。身寄りのない人には特に便利みたいですが、私のところは菩提寺が決まっているから関係ありません。
 また墓は、死んだ父のいるところがありますからこれも問題ないでしょう。

 9番の「人間関係を整理する」――これって自然にできません? 面倒くさくて嫌な関係だって「終活の関係で、あなたとは今後おつき合いしません」では角が立つでしょう。
 10番目の「今後の生活について考える」は、“今の生活が続けばいい、大きな変化があったらその時に考えればいい”派の私には関係ありません。

 そうなると結局、終活というのは「資産を見直して遺言書を作ること」ということになります。少なくとも私にとってはそうです。

(この稿、続く)