カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「学校は、子どもがいないと本当にいい!」~2学期、ご苦労様でした 来年もよろしく 

 長かった二学期もようやく終わる
 そして2021年も、今日を含めてあと4日
 皆さま、お疲れ様
 来年も似たような年かもしれないが、がんばろう

という話。

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(写真:フォトAC)

【学校は、子どもがいないと本当にいい】

 多くの学校では先週の内に終業式が終わり、今日が仕事納め、明日から年末年始休業というところが一般的ではないでしょうか。長い二学期、お疲れ様でした。

 現職のころ、私はこの“児童生徒の来ない勤務日”というのがとても好きでした。日ごろずっと気になっていた仕事ができますし、突発的な事件も起きそうにありません。だからゆったりできます。
「学校というところは、子どもがいないと本当にいい」
と、本末転倒な考えが頭に浮かんだりします。もちろん口にしたりはしません。ところが昔、同じことを子どもたちの前でほんとうにそう言ってしまった先生もいたのです。学年主任でした。

 中学校の林間学習二日目の朝、学年の全生徒を集めた朝礼の場で、式台に上るといきなり天を指さして、こう言ったのです。
「空を見ろ! すばらしい夏空じゃないか! 清々しい朝、耳を澄ませば鳥たちの声と川のせせらぎが聞こえる。これでお前たちがいなければ、どんなにいいことか!」
 教師である私たちは思わず吹き出しましたが、生徒たちはびっくりしすぎて反応が遅れ、少しざわついただけでした。
《私たちが、いない方がいい、だって…》
 思ったほどウケなかったという類の話で、深い意味はありません。もちろん問題になることはありませんでした。日ごろからそうした物言いをする人でしたし、生徒からの人気もあったのです。
 しかし現代では処分対象でしょう。どんな人気教師も万能ではありません。別に好きとも思わない、あるいは蛇蝎のごとく嫌っている生徒だって一人二人はいるのです。親との盛り上がる話題が学校や教師の悪口しかないという子だっています。万人が承服するような安全な冗談でない限り、言ってはなりませんし、ひとりでも悪意のある子がいればたちどころに破滅です。

 想えば昭和の時代も教師は多忙で年じゅう赤い目をしていましたが、それでも気持ちは楽で牧歌的でした。

 

【来年もよろしくお願いします】

 2021年の学校は前年に引き続き大変でした。
 延期を決めた昨年の3月には、一年延ばせばコロナに打ち勝った記念大会になるはずだったオリンピックは、今年、緊急事態宣言の真っただ中で行なわれることになりました。来年に向けて、ワクチンさえ行き届けば自由になれると思っていたのに、オミクロン株の出現はそうでないことを私たちに教えます。変異株は今後もパイだのローだのといくらでも出えてくる可能性があるのです。また来年も同じかもしれませんね。
 先生方、再び出口の見えなくなったコロナ禍、大変な時代ですが、それでも子どもたちのために、ともに生き抜きましょう。

 それでは、良いお年を!

 2021年は1月6日あたりを再開予定としています。
 3学期もよろしくお願いします。
 

「2021年、年末の憂鬱」~年の瀬に気になる三つのこと

 このブログも明日、年末の挨拶をして2021年分を終了。
 いまも心に引っ掛かりのあることがいくつかあるが、
 じっくり考えて文章にするだけの余裕がない。
 そこで備忘録的にメモ、メモ、メモ――
という話。f:id:kite-cafe:20211227073509j:plain(写真:フォトAC)

【教員であっても職務上で犯した失敗は、賠償金をもって償う】

 先週23日の朝日新聞「教諭らに賠償請求へ プール給水止め忘れ」という記事がありました。 
 それによると、
 高知市立初月小学校で7月にプールの給水を約1週間止め忘れた問題で、市は下水道料金などの損失額の50%を校長、教頭、担当教諭の3人に賠償請求することを決めた。総額約132万円を今月中に請求する。
(中略)
3人への請求の割合は市が独自に判断し、校長と教頭は4分の1(約33万円)ずつ、担当教諭は2分の1(約66万円)とした。
 一方、3人の処分について、県教委は「重大な過失とはいえない」として処分はしない方針。

とのことです。

 このニュースを見て衝撃を受けた教員は少なくないと思います。日常の業務でミスを犯して損害賠償を求められる可能性について、普通は考えたりしないからです。不注意からガラスを割って弁償をしたというような話は聞いたことがありますが、それとて1~2万円のこと、66万円となると2~3カ月の手取りということになりますから半端ではありません。
 一方、市民の側から見れば「払って当然」という見方もあるでしょう。一教員の不注意を、血税をもって補うことに違和感を持つ人がいても不思議はありません。割ったガラスの弁償と何が違うのか、ということです。市の対応はそうした市民感情も考慮したうえでのことでしょう。

 しかし「教師の不注意を税で補うのは納得できない」という市民感情を優先すると、例えば重大事故で市が数千万円の賠償を求められた場合、その一部を教員個人が負わなければならないのかという疑問も出てきます。
 これについては改めて考えてみる必要がありそうです。

【“喪に服する”ということ】

 松田聖子さんがNHK紅白歌合戦への出場を辞退したそうです。
 出場する方向だという報道があったときも絶句しましたが、辞退の理由が「やっぱり歌えない」と聞いてまた絶句してしまいました。

 そもそもこの問題は、歌えるとか歌えないとか、不幸を克服するとかしないとか、忙しさに取り紛れていた方がいいとかそうではいとか、あるいはファンを大切にするかしないかとかいった、そういうことではなく、喪の問題だと老人は思うからです。

 「喪」は死別に対する自発的な悲しみの表現であり、一定期間、慶事(結婚式やクリスマスパーティー、授賞式、忘年会、新年会など)への出席を控え、正月飾りなども慎む習わしのことです。大切な人の死には一定期間(少なくとも四十九日の法要まで)、社会関係を断って悲嘆にくれる、そういう時間があってしかるべきだという考え方が基礎になっています。紅白歌合戦の出場はおろか、視聴ですら控えたくなる、それが当たり前だと老人は考えます。
 これは歌手・松田聖子の批判ではありません。一昨日まで、ネット上には出場を後押しする発言が溢れていました。
 社会の進歩のために、“喪に服する”という考え方・感じ方まで悪習として遠ざけられるとしたら、これはたいへんなことだと老人は思います。

【新型コロナはやはり憂鬱】

 政府の新型コロナ対策分科会の尾身茂会長、まさか「尾身クロン」などとからかわれるのが嫌で姿を隠していたわけではないと思いますが、23日の記者会見に久しぶりに姿を現しました。
 年末年始が心配だと――。
 私も心配です。せっかくワクチン接種完了者が8割近くなり、ほぼ集団免疫ができた(らしい)というのに、オミクロン株のおかげでチャラというのではかないません。
 先進国だけではなく、全世界で一緒に集団免疫を形成しなければいつまでも変異株に怯えなくてはならない(だからコロナ事態は終わらない)――そう考えるのも気の重いことです。

 かつて防疫の優等生と言われた韓国もシンガポールベトナムもダメ、オーストラリアも危ういとなると2022年もそれほど期待できないのかもしれません。中国製ワクチンを中心に接種を進めた国々の多くで感染爆発が抑えられなかったのに、本家本元の中国は驚くべき平穏さを守っているというのもかえって不気味です。

「愛する人のため、賢者は何を犠牲にしたか」~愛は数値化できる

 「愛は惜しみなく奪う」というがそうではない
 愛は惜しみなく与えるものだ――しかし何を?
 それはその人の持っているものの中で最も貴重なもの
 現代においては「時間」だ

という話。

f:id:kite-cafe:20211224071336j:plain(写真:フォトAC)

【О・ヘンリー作『賢者の贈り物』】

 クリスマス・イブですから良い話をします。О・ヘンリーの『賢者の贈り物』です。
 それなら知っている、今さらなんだ、という人も多いと思いますので、「О・ヘンリー作『賢者の贈り物』に関わる物語」ということにしましょう。
 しかしその前に『賢者の贈り物』そのものについておさらいしておきます。こんな話でした。

 クリスマス・イブの朝、新婚の妻であるデラは深い哀しみの中にあった。明日はクリスマスだというのに夫へのプレゼントを買う金がないのだ。細かく貯めた1ドル87セントがすべてだった。
 この家には二つの宝物があった。ひとつは夫が祖父の代から受け継いだ金時計、ただしそれに鎖はついていない。もうひとつはデラ自身の、腰まで伸びた美しい褐色の髪。
 その長い髪を姿見に映して、デラは長いこと思案していたがやがて決心すると街へ出かけた。ヘアサロンで長い髪をバッサリ切るとちょうど20ドルで売れた。その金を握って今度は別の店を次々と回り、ついに夫の時計にふさわしいすばらしい鎖と出会い21ドルで買う。デラは残りの87セントを握りしめて家に戻った。
 その夜、帰宅した夫がデラを見たときの表情は、彼女の想像していたどんなものとも違っていた。怒りでもない驚きでもない。拒否でも恐怖でもない不思議な表情――デラは精一杯の愛情をこめて説明し、言い訳をし、哀願した。あなたにプレゼントするために髪を売るしかなかったと――。
 夫はしばらく放心した後、こう言った。
「ねえデラ、髪型だとかシャンプーだとか、そんなことでキミを嫌いになったりするもんか。どうして僕があんなふうだったかは、キミのために用意したこのプレゼントを見ればわかるよ」
 差し出された包みを開くと、何とそれはデラの美しい髪を飾るはずだったべっ甲細工の櫛だったのである。以前、デラは店先で食い入るようにその櫛を眺めたことがあった。デラは小躍りして叫んだ。
「大丈夫よ。私の髪はすぐに伸びるわ。それより私の用意したプレゼントを見て、あなたの時計につけるための素晴らしい鎖よ。これをつけたら一日に百回も時間を調べたくなるわ」
 その鎖を見ると夫は椅子にどさりと腰を下ろし、 両手を首の後ろに組んでにっこりと微笑んだ。
「ねえデラ、ぼくたちのクリスマスプレゼントは、しばらくの間、どこかにしまっておこう。だって櫛を買うために、ぼくは時計を打っちゃったのだもの」
 二人は互いのために最も賢明な選択をしたのだ。


【愛は時間で測れる】

 この話の肝は、二人が互いのために自分のもっとも大切なものを犠牲にしたということです。デラは自分の愛を表現するのに1ドル87セントではあまりにも少ないと感じました。プレゼントは彼女の用意できる最大のかたちで示さなくてはなりません。同じように夫も、自分の準備できる最大の資金で妻に対する愛情を表現しようとします。それが『賢者の贈り物』の要点です。愛は相手のために犠牲にしたものの大きさで計ることができるのです。

 これを現代に当てはめるとどういうことになるのか。
 持っている貯金のすべてをはたいてルイビトンのバッグを買ってあげる――愛には違いありませんが少し違うような気もします。妻の手術費用を賄うために愛車を売り飛ばす――これだともっと愛に近づきますが、めったに起こることではありません。
 では愛を表現するためにどうしたらいいのでしょう?

 答えは簡単。現代人にとって最も大切なものは金ではなく、多くの場合は時間とエネルギー、特に時間です。したがって自分の大切な時間を――例えば趣味の時間を、遊びの時間を、時には仕事のための時間を、愛する誰かのために惜しみなく差し出す、それこそ最も愛の大きな愛の表現だということになります。

 考えても見てください。恋愛勝負で多くの場合、勝者となるのはマメで言葉巧みな男です。なぜならそれだけの時間とエネルギーを女性に使っているからです。もちろん二六時中彼女のことを考え、悶々と時間を過ごす男性はそれより大きな愛の持ち主であるかもしれません。現代において愛は時間だからです。
 しかしそれでもうまく行かないのは、ひとりで悶々としてもその大きな愛は伝わって行かないからです。伝わらない愛なんてないも同じです。
 また伝わったとしても、その愛を受け入れるかどうかは相手の決めることです。たいていのストーカーは巨大な愛を相手に捧げ尽くしますが、相手が望まないものは受け取ってもらえません。

 恋愛は私の得意分野ではありませんからここまでとしましょう。問題は親子関係あるいは師弟関係です。


【親の愛は、どれだけ貴重な時間を犠牲にしたかで決まる

 人々が貧しかった時代、親が留学のための資金を黙って差し出したりすれば、それは親の愛として伝わります。その金が家族にとってどれほど重要なものか、子どもの方が知っているからです。しかし今も日常的にひもじい思いをしているといった“貧乏が見やすい家”でない限り、金で愛を伝える時代ではありません。ここでも愛を伝える媒介は時間だけです。
 その子に寄り添うためにどれだけの時間を費やしたか、その子の喜びのために自分あるいは仕事のための時間をどれほど犠牲にしたのか、それがものを言うのです。

 例えば日ごろ忙しいお父さんが、運動会の日に何とかやりくりをつけて短時間でも応援に来てくれた、そういう事実があれば、子どもはいつまでも忘れません。共有できるのはその時間だけではなく、のちのち話題にあげられるものです。愛はじわじわと心の中に差し込んでいきます。
 もちろん「日ごろ忙しいお父さんが――」が前提で、年中ヒマなお父さんが運動会に行ってもあまり得点にはなりません。ほかの方法を考えましょう。

 また何が何でもやりくりつけ、運動会の応援に行けという話でもありません。当日どうしても時間が取れないなら予め行けないことを言っておいて、早くから駆けっこの練習などに付き合ってやればいいだけのことです。図式的に言えば、当日5時間の運動会を欠席するなら、予め5回に分けて1時間ずつ付き合えば愛情の総量は変わりありません。
 あとになって失点を回復するという方法もありますが、これだと利子が付きますから5時間では足りないでしょう。丸一日動物園に付き合うとかピクニックに行くとか、何か考えましょう。
 また、この時絶対にやってはいけないことは金で解決することです。何か高価なものを買ってやれば子どもは納得しますが、愛情を伝えることにはならないからです。現代においては愛情を計るのは時間ですから、金など使っても何の足しにもなりません。それどころか何でも金で解決したと、あとで突きつけられるのがオチです。

 もうひとつ。
 時間が愛情として通用するのは相手が受け入れやすい場合だけです。恋愛感情におけるストーキングと同じで、子どもが望まないものに時間を使っても意味ある愛とはなりません。本人にやる気のない中学校受験のために、どれほど時間やエネルギーを費やしても愛情を伝えたことにはならないといったことです。もちろん本人がやりたがる受験なら、意味ある時間の使い方です。

 クリスマス・イブの日に、愛について改めて考えてみました。

「子どもたちにクリスマスの意味を教える」~明日はいよいよクリスマス・イブ

 明日はいよいよクリスマス・イブ
 子どもたちはその意味をどこまで知っているのだろう?
 宗教は民族性の基礎となるもの
 このさい少しでも、子どもたちにクリスマスの意味を教えておこう

という話。

f:id:kite-cafe:20211222201249j:plain(写真:フォトAC)


【日本におけるクリスマス】

 明日はクリスマス・イブです。
 いつも思うのは、正月まであと一週間だというのに、日本の子どもは甘やかされすぎているのじゃないか、ということです。しかしもうすっかり定着した行事ですし、日本の経済に多大な貢献をしているものですから、いまさらとやかく言うこともないでしょう。

 ハロウィーンだのクリスマスだのバレンタインだのと、意味もわからないまま日本人が飲み込まれている行事はたくさんあります。自然災害の多いこの国で、私たちの祖先は常に抑圧的・自制的に生きてきましたから、ハレの日を多く持ちたがるのは自然なことなのかもしれません。
 江戸時代まで遡らなくても、明治・大正あるいは昭和の初期まで、村祭りはそうとうに危険な無礼講でしたし、クリスマス・イブだって大正から昭和のはじめは大人の乱痴気騒ぎでした。都会は知りませんが、私の育った田舎では昭和30年代まで、飲み屋街にとんがり帽をかぶったサラリーマンが溢れていたのです。翌朝起きると枕元に、前夜父の持ち帰った余り物の折詰が――それがクリスマス・プレゼントだったなんて最低の時代。
「正月まであと一週間だというのに、日本の子どもは甘やかされすぎている」と言ったのは、そういう私の恨み節なのかもしれません。



【子どもたちにクリスマスの意味を教える】

 ところで、クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日で、イブはその前夜祭だということ――現代の子どもはいつごろ知るのでしょう? 別にクリスマスのいわれを知らなければケーキやプレゼントがもらえないというわけではありませんから、子どもたちにとってはどうでもいいと言えば、どうでもいいことです。しかしせっかくの機会ですからどの程度知っているのか確認して、少し話しておくといいのかもしれません。
 というのは、聖書とシェークスピアをはずすと英語の慣用句は半分以上なくなってしまうと言われるほどに、キリスト教は欧米諸国の人々の骨の髄までしみついているものですから、どこかで勉強しておかないと、欧米人を理解できないまま日が過ぎてしまう可能性があるからです。


【死生観がそもそも違う】

 例えば欧米の人たちが、今回のコロナ禍であれほどたくさんの死者を出しながら、なおも多くの人々がマスクもしないで街を歩き、ワクチン接種に抵抗し、ロックダウンの際にも密かに家を抜け出してパブや友人のホームパーティに行くことができるのは、明らかに日本人とは異なる民族性を持っているからです。

 新型コロナによる死者は、きのう一日をとってもドイツ・イギリス・フランスが200人前後、アメリカ合衆国に至っては2000人を越えています。日本の今日までの死者の最大値は(明らかに統計上の報告遅れを一気に修正した二例を除けば)120人程度ですから、いかに欧米人の死に対する関心・感覚は私たちより低いのか、自ずと知れるというものです。
*人口比をみるとドイツが日本の三分の二、イギリス・フランスはほぼ半分で合衆国ですらおよそ2・5倍しかありませんから、200だの2000だのといった死者はほんとうにとんでもない数だということになります。

 もしかしたら死者の復活という基本的理念を共有するキリスト教徒たちは、信仰心の篤いうすいとは関わりなく、肉体の滅びることへの恐怖感が私たちより少ないのかもしれません。具体的にイメージが浮かばなくても、死んでもいつか復活するのだからいいやと、あっけらかんとしていられる面があるのかもしれません。
 もしそうだとしたら、欧米のコロナ対策をそのままマネするわけにはいかなくなります。基礎が違いすぎます。


【子どもたちにどう教えるか】

 子どもたちにクリスマスの意味を教えると言っても、小学生なら、
「日本には日本の神様がいるように、世界には2000年ほど前にイエス・キリストというという人が広めたキリスト教というのがあって、明日はそのイエスの誕生を祝う日だ。そして今日がその前日祝いの日。ヨーロッパやアメリカの人たちにとっては、とても大切な日なんだよ」
 その程度でいいでしょう。中学生なら社会科の授業や国際理解の中で、前もって扱っておくべきでしょう。いずれにしろ、すべての子どもたちにとって関心のある日です。ただ黙って帰すのはもったいないことです。
*児童生徒の中には家がお寺だとか熱心な仏教徒ということがあります。現在では在日のムスリムということもあるでしょう。この人たちにとってクリスマスはどうなっているのかと調べたところ、国あるいは家庭によってかなり様子が違っているみたいです。宗教の問題は安易に扱っていいものではありませんから、前もってそれとなく聞いておくのがいのかもしれません。
 

「2022年賀状」~飲みにも行かず、外食もせず

2年前まで、年賀状は自分自身の前年の振り返りを書いた
1月・・・、2月・・・と
細かな文字で紙面をびっしりと覆ったものだ
ところがこの2年、何もしないから書くこともない。そこで――


【2022年の年賀状】

 昨年は通りいっぺんの年賀状でしたが、今年はこういうのを出すことにしました。

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 妻からは「暗すぎるんじゃない?」と言われましたが、楽しい一年でもありませんでしたから、これでいいや。

「神様はなぜ、あんな善き青年の命を奪ったのか」~クリニック放火殺人で殺された元教師の話

 大阪のクリニック放火殺人事件の被害者の中に、
 昨年教員採用試験に合格し、今年春に辞職した元教員がいた。
 退職して9カ月にもなるというのに、まだ病院を離れられなかったのだ。
 神様はなぜこの人に、あんな仕打ちを許したのか――

という話。f:id:kite-cafe:20211221074040j:plain(写真:フォトAC)

【被害者の中にいた元教員】

 大阪のクリニック放火事件のニュースを見ていたら、ひとりの被害者の友人という男性がインタビューを受けていて、その人の口から亡くなった方の人生の一端が語られていました。

 昨年、教員採用試験に合格して4月から働き始めたもののこの春に退職、現在はクリニックに通いながら再起を計っていたとのこと。事件の被害者は30名近くもいますからきっとそういう人もいると思っていたのですが、やはりそうでした。
 心の病で休職する教員が毎年5000人もいる世界です。休職寸前の教師も退職してしまった人も含めるとたいへんな数になりますから、27名の被害者の中にはもうひとりかふたり、現職も含めているのかもしれません。

 かつてはこうしたニュースで被害者や加害者のことが報道されてもせいぜいそこまで、あとは週刊誌が後追いするのを待つしかなかったのですが、現代は違います。素人の私でもネットで何かないか、調べることができます。
 そこで亡くなったこの方について調べると、すぐに出てきました。フェイスブックです。

【熱意があるゆえに正規採用になれない講師たち】

 年齢も居住地も、そして昨年4月から教員になったという点も一致します。よく覚えていないのですがニュースで見た写真と顔も一致しますから、まず間違いないでしょう。
 現在34歳で昨年4月に新規採用というのはピンとこなかったのですが、大学院修了でスタートが遅かったこと、大阪府内で中学校の講師を長く続けた上での他県での合格、ということで遅い採用となったようです。
 中学の講師の場合、教員採用試験と部活の本大会がピッタリ重なってしまうため、仕事に熱心であればあるほど合格が遠のくという恨みがあります。クラスにも生徒指導にも部活動にも熱心で、自分の受験勉強だけはやっていないという講師はいくらでもいます。この人もそうだったのでしょう。
 剣道とスキューバダイビングをこよなく愛す好青年で、体育会系のさわやかな感じが全身からあふれ出ている人です。
 その彼が、わずか1年の正規教員で退職を余儀なくされ、9カ月たった今も心療内科に通わざるを得なくなっていたのです。講師経験がたっぷりあったところで、壊されてしまうときは壊される――それが現在の学校の恐ろしさです。

【神様はなぜ、あんな青年の命を奪ったのか】

 この人のフェイスブックは昨年3月、正規の教員となって赴任する直前の投稿を最後に、以後まったく更新されていません。すくなくとも一般公開のページとしては何もないので、今日までの1年9カ月をどう過ごしてこられたのかは、まったくわかりません。たぶん、そうとうに苦しい日々を送って来られたのでしょう。
 34歳と言えばかつての同級生の半分以上は家族をもち父親となり、残りの半分も、結婚するかどうかは別として、組織の中堅となって将来の展望も開けているはずです。それなのに自分は病気の出口さえ見えてこない――。そんな中での、突然の人生の中絶。

「エロイ エロイ レマ サバクタニ(神よ 神よ なぜ我を見捨てたもうや)」はイエス・キリストの最期の言葉として知られるもので、キリスト教徒はこれに特別な解釈をします。しかし私は非キリスト教徒ですから字義の通りにしか受け取りません。
 神様はなぜ、こんな青年の命を奪ったのか。
 そして熱意ある誠実な青年が、あっという間に心を病み、何の咎もないのに殺されていく不条理を恨むのです。
 学校は彼に何をしたのでしょう?

 

「誰かが支えるべきだった二つのできごと」~クリニック放火とアナの死 

 先週金曜日に最終回となったドラマ『最愛』には
 誰かのために支え尽くす人物がいた。
 しかし現実社会には支えのない人と支えきれない人の双方がいる。
 先週末に起こった二つのできごとは、そのことを考えさせる。

という話。f:id:kite-cafe:20211220072558j:plain(写真:フォトAC)

【加瀬という生き方】

 先週金曜日、TBSドラマ『最愛』の最終回が放送されました。

 ネット上ではさまざまに推理され、私も娘と夢中になって話し合い、ほぼ完璧な犯人捜しに成功したと思ったのですが結論はまったく違ったものでした。

 これに関して「第9話までに加瀬犯人説に何の伏線もなかったじゃないか」とか「渡辺父殺しが計画的なものでなく、その場の衝動では推理しようがないじゃないか」とか「最初の被害者の持ち物は、寮の2階の酒盛の部屋にあるはずだがどう始末したのだ」とか、言い始めた切りがありませんが、『最愛』という題名のドラマとしては加瀬犯人が一番妥当であり、「登場人物それぞれの最愛とは何か」というテーマが、「いざとなれば平然と一線を越えてしまう加瀬弁護士の『最愛』」に凝縮されてしまっても、まったく文句のないところです。十分に楽しめたドラマでした。

 私は、誰かのために全力を尽くすという生き方に非常に共感します。世の中には自身が主人公であるような生き方を求める人もいれば、社会の片隅にじっとして目立たぬように生きるのが理想だという人もいます。それぞれに合った生き方があり、信念があり、あるいは運命のとして受け入れざるを得ないとことがあります。
 最終的には好みの問題かもしれませんが、私自身はどこかの中心になるのではなく、その中心が中心でいられるよう、様々に配慮し、手を尽くし、陰に陽に支え尽くすような生き方が似合っているし、好きでもあると考えています。

【誰かが支えるべきだった二つのできごと】

 『最愛』の最終回が放送された同じ金曜日の日中、大阪の北新地近くでは大変な事件が起こっていました。雑居ビルにおける心療内科の火災です。その日の報道では事件か事故かさえはっきりしていませんでしたが翌日土曜日以降、チラホラ情報が出てきました。
 61歳の元患者が可燃物を紙袋に入れて持ち込み、火をつけたらしいとのことです。本人も命の危険があるほどに重体とのことですから、おそらく着火されたのはガソリンに近い何かなのでしょう。昨日の段階では24人が亡くなり、3人が重体のまま、一人が軽傷。被害者の大部分は治療中の患者さんです。

 普通の生活をしていた人が突然亡くなるのも切ないですが、心療内科の患者となれば亡くなるその日までも苦しい日々が続けられてきたのでしょう。ご遺族も含めてほんとうにお気の毒だと、心底から哀悼の気持ちが沸き上がってきます。
 現在報道されている通りにこれが放火だとすると、犯人は憎んで余りあるところですが、その人も患者でした。まだ十分な情報は出て来ませんが、一部では、
「容疑者は1人暮らしで、近所づきあいもほとんどなかったとみられている」
とか、
「元勤務先の関係者は『みんなに縁切られて、親にも兄弟にも子供さんにも。一人ぼっちになった』『そういう心の悩みを主人に打ち明けています』と語った」
といった話も出ています(2021.12.19 ytvnews「北新地放火殺人 自転車で可燃性液体運ぶ?」)。
 誰か側にいて支えてあげられなかったのか――。

 そうかと思ったら昨日(12月19日《日曜日》)朝には、「神田沙也加さん死亡」というニュースが飛び込んできました。自殺とみられるそうです。
 これも、誰か側にいて支えてあげられなかったのか――。

 追いつめられた人間を支えることの難しさはもちろん承知しています。自殺念慮の強い人は24時間見張っていてもダメな時はダメです。
 火災事件については、「みんなに縁切られて、親にも兄弟にも子供さんにも」といった状況には本人の問題も大きかったのでしょう。支援の手を振り切ったり、逆に支援者を傷つけたりする人の多いことも十分わかっています。しかしそれでも、誰か側にいて支えてあげられなかったのか、そう思わざるを得ません。

【フランシスコの平和の祈り】

 先週の日曜日(12日)のNHK海外ドラマ「アンという名の少女」では、重要な人物の一人が病気で死ぬ場面が出てきました。多くの村人から讃美歌を贈られた女性は、「なんてお礼を言ったらいいのか――」と迷いながら、一番好きだという祈祷文を読むことにします。
 あとで調べたら「フランシスコの平和の祈り」と呼ばれる有名な一節でした。

 主よ 私を平和のためにお使いください
 憎しみがあるところに愛を置かせてください
 争いがあるところに赦しを
 疑いがあるところに信仰を
 絶望があるところに希望を
 闇があるところに光を
 哀しみがあるところに喜びを
 ああ主よ 慰められることより慰めることを私が求めますように
 愛されるより愛することを求めますように
 なぜなら私たちは与えることによって受け取り
 赦すことによって赦され
 死ぬことによって永遠の命を得られるからです。


 人にはさまざまな状況があります。そのときどきに力の残っている者が力のない者、弱っている者を支えるのが人間社会の習いです。
 私は現在余力のある側なのに家族以外の誰も支えておらず、ずいぶん悔しいことです。