カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「金八の悪しき遺産と等身大の学校」~ドラマが現実を侵食する

 かつて『3年A組 今から皆さんは、人質です』という優れたドラマがあった。
 しかしあれほど優秀な作品でも、学校や教師を嘲笑することを忘れない。
 ただ茶化して嘲笑うだけならいいが、変に真面目だと現実世界を侵食し始める。
 等身大の学校が描かれるとよいのだが――。
という話。f:id:kite-cafe:20211217070713p:plain (写真:TBS)
 

【優れたドラマが現実を歪める】

 2年前の日本テレビに『3年A組 今から皆さんは、人質です』という優れたドラマがありました。主演は菅田将暉で、生徒役に永野芽郁今田美桜上白石萌歌川栄李奈富田望生福原遥など、いまをときめく若手俳優ばかりが配されていました(あれ? 全部女優さんだな)。

 物語はこうです。
 卒業まで残り十日となったある日、都内の私立高校3年A組の担任がクラス全員29名を集め、突然「今から皆さんには人質になってもらいます」と宣言する。校内の一部が爆破され、生徒たちは教室内に閉じ込められる。
 担任の目的は半年前に自殺した女生徒を追いつめた犯人を捜すこと。最初驚愕した生徒たちも担任の与える課題をひとつひとつ解決する中で、次第に団結を高め、真相に近づくとともに問題の本質に気づき始めるのだった――。

 私はこのドラマの第6回(サブタイトルは「容疑者は教師!? 怒濤の第2部開幕」)について長い感想を書いたことがあります。

kite-cafe.hatenablog.com
 非常に優れたドラマの中の、特に優れた回でしたが、十分に満足したわけではありません。
 ひとつはあまりの低予算のために、「教師が学校を爆破して生徒を人質に取る」という大事件にも関わらず、警察もマスコミも野次馬も、とんでもなく人数が少なかったこと、保護者も来ない。
 もうひとつは主人公以外の教師たちが戯画化されすぎていて、呆れることもできないほどに愚かで、信じられないほどバカげていたからです。事件現場に詰めていた教師が夜になると「時間外だから」と言って酒盛りを始めたり、報道関係者が集まったのをいいことに自分の著書を宣伝したりといったありさま。当時はやりすぎの演出かと思ったのですが、今考えると「普通の教師なんてこんなものだ」という明確な主張だったのかもしれません。腹の立つ話です。

【中途半端に真面目だと現実世界が迷惑する】

 このブログでも一昨日、マスメディアは社会を冷笑してはいないか、特にドラマは冷笑主義に侵されているようだといった話をしましたが、学園ドラマなどで教師を笑い者にする風潮はずっと昔からありました。
 1970年前後の青春学園シリーズ(「これが青春だ」「飛び出せ青春」「青春とはなんだ」等)ではすでに、暴力的な体育教師、腹黒く小ずるい教頭、好々爺というだけで何の役にも立たない校長といった図式は定着していました。
 主人公が教師の場合、熱血的に生徒に寄り添うのは主人公ひとりで、後に恋愛関係になる女性教師をのぞいて、あとは全員アホか弱虫です。夏目漱石の『ぼっちゃん』の陰がいつまでも付きまとっています。

 もちろんそれが『ごくせん』だの『GTO』だのといった、荒唐無稽自体が面白ドラマならいいのです。視聴者もそういうものだと思って見てくれます。昨夜最終回の医療ドラマ「ドクターX 」だって、あんな神がかった天才女性外科医がいると本気で信じている視聴者はいませんし、金のことしか考えない上層部だとか、「御意!」としか言わない医師たちというのもあり得ないと私たちは知っています。
 しかし中途半端に真面目だったり深刻だったりすると、視聴者の目は幻惑されます。

【金八の悪しき遺産と等身大の学校】

 『3年B組金八先生』などがその典型で、非行だの不登校だの、あるいは十代の妊娠だのと、とんでもなく深刻な問題を扱いながら、金八先生が言葉の力だけで解決していくさまは、私たちを絶望的な気持ちにさせました。朝、生徒と一緒に笑いながら登校してくるような教師に良い仕事ができるはずはないと感じているからです。言葉の力だけですべてを解決するなんてありえないと思っています。

 実は優秀なのは金八ではなく、教師の言葉をよく聞き、理解するとたちどころに態度を改められる生徒の方なのだということを、世間のひとは理解しません。
 現実の児童生徒はしばしば素直に話を聞くことができない。それは当たり前で、何か問題を起こすような子は長い時間をかけて人間不信を募らせているのです。そう簡単に聞く耳を持ったりはしません。その心を開いて、きちんとした話をし、子どもが理解し納得したとして、問題はその先です。聴かせることも納得させることもできますが、「分かっちゃいるけどやめられない」のが人間です。その生き方を変えるのは容易ではありません。

 タバコが身体に悪いと分かれば、ひとは禁煙ができますか? 今日中に仕上げないと締め切りに間に合わないと分かれば、仕事は確実に終了しますか?
 同じように子どもは、非行グループから抜けようと決心しても簡単にはできないのです。場合によっては半殺しにされるしかありません。勉強しなくてはならないと理解しても、翌日からできるのはせいぜい30分の自宅学習です。それが学習習慣のない子どもの実体です。1年も学校に行かなかった子は、行こうと決心してからのハードルが高い――。しかし金八先生の生徒は簡単にそれができるのです。
 世間の人たちは金八先生の物語を見て、現実の世界は難しくてあそこまではできないにしてもその半分くらいはできるだろうと考えます。しかし半分だってできるものではありません。

 さすがに今も金八の亡霊が生きているとは思いませんが、ひとが学校に寄せる無体な要求の一部は、確実に金八の悪しき遺産です。昨日お話しした「ババア(私の妻)がキュンキュンしてしまう」ドラマ『この初恋はフィクションです』(これも昨夜最終回でした)が安心して見ていられるのは、そこに等身大の学校があるからでしょう。

 

「ドラマはプロデューサー・脚本家・演出家で選ぶ」~ドラマの正しい選び方 

 二日に渡ってテレビドラマの悪口を言ってきたが、もちろん秀作もある。
 マンガを原作としたものはほぼ間違いない。
 「一に脚本、二に役者、三に演出」ともいう。
 しかしプロデューサーも含めたヒット・スタッフ・セットというのもあるのだ。

という話。f:id:kite-cafe:20211216072009j:plain(写真:フォトAC)

【NHKの底力、民放の底力】

 マンガを原作としているテレビドラマには、いちおう挨拶をしておくことにしています。実写にして魅力の薄れるものも少なくないみたいですが、そもそも原作の方を読まないので私には分かりません。ただ、すでにマンガで定評を得たものを実写にするわけですから、一定以上の作品には仕上がっているはずです。今年で言えば夏のドラマ『ハコヅメ〜たたかう!交番女子〜』が面白い作品でした。

 ところがこの『ハコヅメ~』、第4話が放送されたところで主演の永野芽郁さんが新型コロナに感染。2週間に渡って特別編を放送することになったのです。第3話放送時点ではまだ感染は明らかになっていなかったのですから、実際には放送できるストックが1週間分しかなかったわけです。
 これと対照的なのがNHK大河ドラマ麒麟がくる』で、これは2020年4月1日に撮影中止が発表されてから6月第一週(7日)まで、何と2ヵ月1週(全11回)分ものストックがあったのです。NHKの巨大な予算と時間を物語るものですが、逆に言えば、民放には低予算で次々と作品を出す底力があるという見方もできそうです。
 ちなみに「ハコヅメ~」主人公の勤務する町山交番の、外観は生田スタジオ敷地のオープンセット、内部はスタジオ内。町山警察署の外観は東村山市役所を借りたと言います。俳優のギャラにはそれほど差はつけられそうにありませんから、民放もそれなりに頑張っているということでしょう。

【プロデューサーや脚本家・演出家で作品を選ぶ】

 それが一般的かどうか分からないのですが、私の家のビデオレコーダーは予約しなくても新しいドラマを次々と録画してしまう機能がついています。したがって何の予備知識もないのに第一回を見落とさずに済む、ということが可能になります。この秋、おかげで出会うことができたのがTBS『この初恋はフィクションです』です。深夜0時過ぎの放送ですので、VTRの機能がなければ見ることのなかった番組です。

 「TBSスター育成プロジェクト」というオーデション番組で選抜された若者が中心の学園ものラブコメディで、知っている役者さんはほとんど出て来ません。直前まで素人同然だった俳優ばかりで、時々ぎこちない演技もあったりしますがそれも初々しく、妻などは、
「ババア(自分のこと)がキュンキュンしてしまう」
などといってBGD(バックグランド・ドラマ)ではなく、テレビの前で正座してみています。
 私は、なにも最初からこうした若者向け番組を見ようと思ったわけではありません。ただ番組紹介に「秋元康 原案・企画」という一行があり、しばらく前のテレビ東京『共演NG』がやはり「秋元康 原案・企画」が面白かったので見る気になったのです。

 そんなふうに、タイトルや出演者によって見るのではなく、プロデューサーや脚本家・演出家が誰かによって作品を選ぶことは少なくありません。「一に脚本、二に役者、三に演出」と言いますから正しい見方でしょう。
 私が好きな脚本家は(倉本聰山田太一といった大御所を除けば)宮藤官九郎北川悦吏子野木亜紀子中園ミホ・奥寺佐渡子・金子茂樹といったところです。

【ヒット・スタッフ・セットによる、この秋一番の『最愛』】

 この秋、そうしたスタッフの観点から選んだのが、吉高由里子主演のTBSドラマ『最愛』でした。
 プロデュースが新井順子、脚本が奥寺佐渡子・清水友佳子、演出は塚原あゆ子、音楽が横山克という組み合わせは、かつて『Nのために』『リバース』を仕上げたチームで、このメンバーから脚本家を野木亜紀子に代えたのが『アンナチュラル』のメンバー。いずれの作品も音楽に特徴があり、作品のどこにも破綻のない良質の推理ドラマでした。

 明日最終回となる『最愛』にしても、よく見直すと実に細部が丁寧。例えば番組後半で問題となる所有者限定のペンは、第一回でも第二回でもさりげなく映像に残されていますし、あとで回収されるべき伏線らしきものがあちこちに散りばめられています。主人公の父親が殺人現場に出くわした時、陰で動いている人影のようなものは何なのでしょう?
 私はこうした丁寧で誠実な仕事が大好きです。



(以下、私と娘のシーナがLINEで交わした『最愛』の推理物語。ハズレたら削除します)

 推理を外しましたので、予定通り削除しました。

「脚本は自動筆記、情報番組もいかようにも調理できる」~ドラマの中で浪費される人々の苦悩②

 時間を埋め物語の進展を図るために、テレビドラマは何でも素材にしてしまう。
 深刻な社会問題も個人の苦しみも、都合よく取り込み消費される。
 報道番組もスポーツ番組も、
 マスコミの一部にとっては商品以上の何ものでもない。

という話。

f:id:kite-cafe:20211215064737j:plain(写真:フォトAC)

【私たちは簡単に責任を放棄しない】

 昨日のお話ししたNHK朝ドラ「おかえりモネ」の劇中に出てきた「東日本の大震災の避難の際中、担任する児童を置き去りにして自宅の様子を見に行こうとしてしまった女性教師」は、モネの母親です。この事件を機に、母親は教師をやめます。そして誰にも気づかれないまま、大きな心の傷として10年近く胸に抱えてきたのです。

 同じ元教員として私は激しく気持ちを揺さぶられます。そんな教師は日本広しと言えど、どこにもいないと考えるからです。これは教師だからということではありません。あの日、現場にいながら職務を放棄してわれ先に避難した公務員、消防隊員、警察官、消防団、地区役員、医師、看護師、そのほか社会を支えるべき人たちがどれだけいたか、考えてみればいいのです。それどころか何の責任もない人までも、大勢で誰かを助けるために働いたのです。

 もちろん人間ですから恐怖に襲われて一瞬の回避行動はとったかもしれませんが、それとて一瞬のこと、10分も20分も現場を離れるということはあり得ません。あの大川小学校でも11人の教職員が津波に飲まれ、そのうち10人が亡くなっているのです。11人もいれば一人や二人は市の広報車の放送に怯えて逃げ出してもよさそうなものを、誰一人子どものそばを離れませんでした。
 もっとも教師と呼ばれる人は公立だけでも幼・小・中・高、合わせて100万人近くもいますから、中にはとんだ不心得もいるかもしれませんが、彼らは後悔したり反省したり、ましてや心に傷を残したりしませんからどうでもいいのです。

 ところがモネの母親は、10分以上に渡って誰にも告げずに現場を離れ、それを10年近く心の傷として抱え、しかし家族に告白することで放送時間にしてわずか一週間で克服してしまうのです。それが我慢できない。そもそも「教師と言えど、いざとなればそんなものだ」といった扱いが許せないのです。

 私は元教員ですから引っかかるのはその部分と、東京のシェアハウスに住むひきこもりの青年の扱いだけですが、被災地の人たちはあのドラマを見てどう感じたのでしょう?


【LGBTQも女性の働き方改革も単なる素材】

 普段はドラマなどあまり見ない私ですが、この秋は心惹かれる番組がいくつかあり、途中まで集中して見たものもたくさんありました。「ラジエーションハウスⅡ」「ドクターX」「この初恋はフィクションです」「婚姻届けに判を捺しただけですが」・・・ちょっと数えただけでも初回を見たドラマは10本以上です。妻がBGD(バックグランド・ドラマ)というとんでもない技を持っていて、周囲にさまざまな声がないと仕事に集中できないため常に何かのドラマが流れているせいもあります。

 十数本のほとんどは早い段階で飽きて自然にやめてしまったのですが、ひとつだけ、腹を立てて意図的に視聴をやめたものがあります。「SUPER RICH」という江口のり子主演のドラマです。私は江口のり子という女優が大好きで、ほとんどの場合「いや~な感じのする癖の強い女」しか演じない江口が善人を演じるというので、ずいぶん楽しみに見始めたのです。しかしとんだ期待外れでした。社会や個人にとって重要な問題の扱いが、あまりにも雑なのです。

 主人公の片腕である今吉という名の女性がLGBTQだと世間に知れた時、泣きじゃくる彼女を抱きしめて江口がささやく言葉は、
「今吉は悪うない。今吉は悪うない」
 LGBTQの問題を、いいとか悪いとか、善悪の問題として扱ったのは旧時代のことでしょう。今どきそんな話し方をしているだけで冒涜です。しかも今吉の苦悩はこの言葉によって救われ、その部分の彼女のドラマは終わりです。

 もう一人、鮫島という女性は独身のまま子どもを産もうとして会社を辞める決心をします。それを江口の社長が引き留めようとすると、鮫島は「この会社は女性が子育てしながら働けるようにできていないじゃないですか」と責めます。すると社長は、
「そやな、悪かった。ほなら鮫島、あんたが会社を変えな・・・」
 そう言ってこの問題も終了。何と軽いことか。

 

【マスコミのオートマティズムとシニシズム

 今年の1月から3月にテレビ朝日が放送したドラマ「書けないッ!?〜脚本家 吉丸圭佑の筋書きのない生活〜」は、売れない脚本家がチャンスをつかんでゴールデンタイムの脚本を書くことになったのだが、なかなか進まないという物語でした。主演俳優は次々と無茶な要求を突きつけ、翻弄された主人公はついに間に合わなくなって1話分をベテランに代わってもらうことになります。ところがその台本を読んだ主演俳優が、「これはどこかで見たような内容ばかり、意外なことが起こって“ああこれは夢落ちだな”と思ったらやはり夢落ち、作品に対する愛がひとかけらもない」と一蹴して、売れない主人公を励まします。

 こうした情熱や愛ではなく、磨き上げられた技術によって自動的に作品を創り上げてしまう自動筆記(オートマティズム*)はマスコミのいたるところに見えます。
*本来は神や霊によって、霊媒師が意志とかかわりなく自動的に記述すること

 週刊誌の記者たちはテーマと方向性さえ与えれば、本人の主義主張と全く異なる記事をいくらでも増産できます。その際、タイトルは思わず中を見てみたくなるような羊頭狗肉、内容も裁判に訴えられないギリギリのところでウソをつくことを厭わない、それが自然にできる。
 テレビの情報番組も手持ちの事実が足りなければ推測だけで果てしなく時間を潰し、暴言暴論のキャラクターを一人置いては自由に発言させて炎上商法ギリギリのところで視聴率を稼ごうとする。
 そしてドラマは、見てきたように社会問題や重要な個人の苦悩を、安易に持ち込んで個性の色付けや物語の多様性を計ろうとするのです。

 メディア全体には、こうした技術が積み上げた一種の冷笑主義シニシズム)が漂います。甲子園野球やオリンピックを熱く語りながら、その実、うまく番組を盛り上げた、視聴率が上がったと笑っているのです。
 私たちはイヤな時代を生きているものです。
 

「重いテーマを淡々と、あるいは軽々しく」~ドラマの中で浪費される人々の苦悩①  

 テレビ・ドラマは社会の重いテーマをどのように扱うことができるか。
 同じ清原伽耶を主人公とする「透明なゆりかご」と「おかえりモネ」
 脚本家も同じ安達奈緒子なのだが、
 描かれ方はまったく違う。
という話。f:id:kite-cafe:20211214075249j:plain(写真:フォトAC)

【「透明なゆりかご」~重苦しいことを淡々と】

 昨日の話の中で、清原果耶という優れた女優さんについて少し触れました。私が字幕付きで見て感心したのは、NHK朝の連続ドラマ「おかえりモネ」でのことです。

 ただしこの人に注目したのはこれが初めてではなく、2年前のNHKドラマ「透明なゆりかご」で主演をしたときのことです。発達障害のある見習い看護師の役で、不器用で誠実で、いつも薄く不安を抱えているような揺れる心をうまく表現していました。当時まだ17歳でした。

 ドラマの原作は、漫画家の沖田✕華(おきた ばっか)さんの「透明なゆりかご 産婦人科医院 看護師見習い日記」。作者の実体験に基づいた物語で、主人公が小さな産院で働きながら、生まれてくる命の重さや大切さに気づいていくという内容です。

 私は沖田さんの作品はひとつも読んでいないのですが、発達障害を扱ったテレビ番組にたびたび出演していて、自身の主観に世界がどういうふうに映るか、どういった点にこだわりがあり、どのようにして社会と折り合いをつけているのか――そういったことをとても分かりやすく説明できる人で、聞いていてとても勉強になります。いわばマンガ界の草間彌生ムンクみたいな人なのです。

 その沖田✕華さんの原作を清原伽耶さんという将来を約束された女優さんが演じ、さらに脇をマイコ、水川あさみ原田美枝子安藤玉恵平岩紙、モトーラ世理奈角替和枝イッセー尾形といった一癖も二癖もありそうな俳優さんたちで固めるわけですから、面白くないわけがありません。

 脚本は安達奈緒子という人でした。この人が再び清原伽耶を主人公に据え、オリジナルに書いたのが「おかえりモネ」という構図になります。NHKの朝の連ドラですからほかの出演者も豪華キャストになるのは明らかです。当然、大きく期待して、VTRながら夫婦で毎日見始めたのです。ところがそれはとんでもない期待外れ、途中からは腹が立ってまじめに見ることもやめてしまいました(妻が見続けたので、私も最後までお付き合いはしたのですが)。


【「おかえりモネ」~重いテーマを軽々と】

 何がいけなかったかというと、物語の中にちりばめられたエピソードが多すぎるのです。
 宮城県気仙沼市の亀島(架空の島)に生まれ育ったモネは、高校を卒業すると登米市山中の森林組合に就職し、そこで気象予報士になる決心をして受験。3回目で合格すると東京のテレビ局に就職。数年勤めたあとで気仙沼に戻ってコミュニティFMの天気予報担当になります。
 もともと東日本大震災に心の傷をもつモネは、高校を出てから森林問題・海洋資源問題、後継者問題、あるいは地域医療の問題等に深く悩み、東京に出てからは各地で頻発する災害に心を痛め、妻を亡くした友人の父親の問題にも触れ、両親の過去の恋愛話あり、本人の恋愛ありと全く盛りだくさんです。

 確かに5カ月間(120回)に及ぶ長丁場ですから、場所を変え、手替え品替えあれこれやらなくてはならないのも分かりますが、その扱いが悪い。
 例えばのちの婚約者の、「死期の近い患者に寄り添えない医師の悩み」というのはそれだけで1本の長編映画ができそうな重い内容なのに、深く悩んで軽く扱われる。車いすのアスリートを気象の側面から支えるというテーマは、これも十分に重いが2週間足らずで克服。シェアハウスの住人には長期のひきこもりもいるというのに、姿の見えないまま思わせぶりだけ残して消える。
 さらに東日本の大震災の避難の際中、担任するクラスの児童を置き去りにして自宅の様子を見に行こうとしてしまった女性教師だの、津波避難に応じない祖母を見捨てて逃げた孫娘だの、どう言葉をかけたらよいのか分からないほど重苦しい問題も、何の解決もなく数日で終了。何もかもあっけなく通り過ぎて行きます。

「それが人生だ、人の苦しみなど他人にとっては単なる人生の一挿話に過ぎない」と言い切る覚悟があってのことならいいのです。
「おかえりモネ」に続く「カム・カム・エブリバディ」では太平洋戦争の末期に主人公の周辺の人々が、これでもか、これでもかというほど死んでいきますが、「それが戦争の実相だ」という明らかな主張があり、あっけない死はそれ自体に意味があります。ところがモネの場合、すべてが軽やかで何もなかったように過ぎていくのです。
 清原伽耶を始めとする一流の俳優たちの熱演がありながら、これではあまりにもお粗末です。

(この稿、続く)
 

「日本語の番組に日本語字幕をつけて観る」~新しいテレビと名優の見つけ方の話②  

 大型テレビに字幕を表示させると、画面が縮小され、
 その枠外に文字が表示されるようになる。
 近すぎる場所での視聴に都合がいいばかりでなく、
 日本語放送に日本語字幕は、意外な発見につながるのだ。
という話。
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【日本語字幕が適切に表示できる】

 夜は週に六日ほど実家で過ごしているのですが、94歳の母は近頃さすがに耳が遠くなり、テレビの音量も次第に大きくなりがち。ボリュームレベル50とかになると一緒にいる私もかないません。そこでここ1年あまり、音量を抑える代わりに日本語字幕を映し出す設定にしています。
 ただこの日本語字幕、上の写真の通り、オリジナルの画面に字幕が出るとさらにその上に設定字幕が乗るので、画面の半分近くが覆われてしまい。見にくいことこの上ありません。NHKは時間もお金もたっぷりあるのでこの程度で済みますが、番組によっては映像が見られたものではないといったときもあります。

 ところが新しい大型テレビは、字幕を出すときに画面を縮小して、画像の上または下に字幕を出すことができるのです(下図)。もちろん従来のように画像に重ねて表示することもできます。その仕組みが、テレビの前で寝っ転がって半分のけぞりながら画面を見上げる私にはちょうどいいのです。画面全体も自然と目に入る大きさになっています。

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【字幕を読むことでの新発見】

 ところで、母をダシにしましたが、実は私たち夫婦も耳が遠くなりつつあるらしく、ときどきセリフを聞き逃してしまいます。そのため自宅でも字幕をつけっぱなしにすることが多くなっているのですが、そこで新発見があったのです。

 元々は分かりずらいところを目で確認するための字幕でしたが、見慣れてくると常時、目の隅で文字を追い続ける感じになってきます。ところがたっぷり間をとってしゃべる俳優さんの言葉よりも、目で読む方が早いので次第に逆転して、文字を音声で確認するような感じになって、そこで驚いたのが、才能ある俳優さんたちのセリフの底力です。
 字幕を読んで私が頭の中で思い浮かべるセリフと、俳優が後から当ててくるセリフの感じが、まったく違っているときがある――。
「ああ、そのセリフ、そういうふうに言うんだ」
と感心する瞬間です。

【感嘆詞が簡単ではない】

 その点で最近一番驚かされることの多かったのが清原果耶さんです。特に感嘆詞の扱いが全然違う。「え」とか「ああ」とかいった短い言葉の中に、私には思いつかない理解とか状況判断とかがあるのでしょうね。やはり評判が高いだけのことはあります。もちろん同じ感嘆詞が私の感じ方と一致する俳優さんも大勢いますが、こうなると本当に凡庸な感じがします。

 私自身が男ということもあって、男性の俳優との一致・不一致はとても気になります。総じて、ベテランで息の長い俳優さんは私と一致せず、映画・テレビドラマを中心にやってきた人よりも舞台中心、劇団出身の人の方が私と合いません。つまりそれだけすごいということです。

 日本人のドラマを日本語字幕付きで読むとか、二か国語放送の外国ドラマを原語・日本語字幕で見るとか、あるいは歌番組を消音の状態で延々と眺めるとか、テレビの見方もいろいろやってみると面白いものです。
(生中継のもの、例えばニュース番組などは字幕をその場でつけていくため表示がずいぶん遅れます。こういったものは、文字を追わないようにしないとうまく行きません)

 

「更新しました」~キース・アウト

一部自腹で毎年修学旅行に参加しなければならない校長が、スイートルームに宿泊したと非難されている。ミーティングのできる広い部屋でさえあれば、どこでもよかったのだが他に部屋はなかった。コロナ禍でとんでもない苦労の末に実現した修学旅行だが、それでも配慮が足りなかったと学校は責められているのだ。

kieth-out.hatenablog.jp

「買ったテレビが大きすぎた」~新しいテレビと名優の見つけ方の話①

 久しぶりの大きな買い物、
 あれこれ迷って買ったテレビだったが、
 居間に入ったらやはり大きすぎた。
 そこで私は・・・。

という話。

f:id:kite-cafe:20211210072127j:plain(写真:フォトAC)


【新しいテレビを買う】

 10年ほど前に購入した液晶テレビに何本か縦の線が入るようになり。見づらいというほどでもなかったのですが買い換えました。その際、とりあえず問題となったのはサイズです。小さくても大きすぎても困ります。

 先日わが家を訪ねてきた義姉が、
「大きいテレビ買ったよ。すごい迫力でいいよ」
とか言っていたのでどのくらい大きいのか問い合わせたら、
「ムフフフ❣️教えましょうね、SONYの4K液晶TV75インチかと。すごく見易くて臨場感があります。是非ご検討を」
との返事。
 調べると75インチ・ブラビアは、大きさは39 ×166.7×98.5 cmで、アマゾンで買っても37万4800円という代物。値段もさることながら畳一畳分のテレビではわが家に置くところがありません。そこで娘のシーナに訊ねると、こちらは49インチとか。実際に見たことがあって程よい大きさだったので、それで決めることにしました。50インチ前後かな?


【ケチの買い物は問題が多い】

 ところがネット購入というのは厄介なもので、2020年製以前の型落ちがいくらでもあるので、同じメーカーでもサイズと値段が比例しないのです。大きいサイズの方が安い場合もかなりあって、中には65インチ7万9800円(2021年モデル)というものもあれば、60インチ74万9918円(2015年モデル)などというフシギなものまであります(誰が買うんじゃ?)。
 欲の深い人間というのはこういう時にダメなもので、2021年製の50インチより2020年製の60インチの方が安いとなると、迷わず後者を選んでしまうのです。何しろより大きくて安いのですから。

 しかし買ったのはスイカではなくてテレビなのです。大きければいいというものではありません。もともとサイズが問題というは大きくても小さくてもダメだという話だったのです。案の定、居間に入れたら大きすぎた――。
 きちんと椅子に座って見るのならよいのですが、普段通りテレビの前に寝っ転がって見ると、画面全体がすんなりと視野に入って来ない。ボーっと見るには全体の8割程度が自然の大きさです。しかも50cmのテレビ台に90cm近い高さの本体が乗っているわけで、あまり近くで肘枕で見ると、そのまま後ろに倒れかねない感じになってしまうのです。

 購入前に大きさは何度も調べて、壁の上に繰り返しイメージを描いてそのくらいは分かっていたはずなのに、なんで60インチなんか買ってしまったのか・・・?
 かくて私は対応策を探さざるを得ず、ついに大きなテレビの中で画面を縮小して見るという、ありえない方法に至り着くのです。
 これが案外よかった。

(この稿、続く)