カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「それでも理解できないブラック校則」~「わけの分からない校則」にもわけがある⑤(最終) 

 「すべてのきまりには理由(ワケ)がある」と考える私でも、
 容易に説明できない校則が報道される。
 それは取材不足・説明不足・悪意によってゆがめられた校則だ。
 だからせめて市町村教委の段階に、
 学校教育を説明し、時には外に対して抗議する組織が必要だと思う。

という話。f:id:kite-cafe:20210409085922j:plain(写真:フォトAC)

【学校と世間の立場の違い】

 学校は子どもを学ばせ能力の最大限を引き出す場所で、そのために多くの仕掛けがあります。

 教科書や副教材、実験器具や運動施設、校舎、ソフトウエアとしての授業法やカリキュラム、私が「学校のアカデミズム」と呼ぶ学習の雰囲気、地域と年齢が同じというだけの理由で集まってきた烏合の衆を「学び、成長する」目的集団に変え、団体戦を戦える組織作り。そういったものはすべて学校の本来の目標を達成させるためのものです。

 学校は、その子が将来「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」憲法第25条)を保持したうえで、さらに少しでも豊かな生活が送れるよう技能を高めることを考えて設計されています。
 また、将来、進路選択や職業選択の場で可能な限り自由な選択ができるよう、知的・体力的・人間関係的能力を高めようと心血を注ぎます。というのは、例えば高校選択で最も多くの選択肢を持っているのは最も成績の良い子だからです。学区のどの高校へ進んでもいいのですから。職業選択も同じ。社会が求める能力が高ければ高いほど、自由な選択ができます。
 そんな将来の自由のためなら、中高生である今の、目先の自由など多少犠牲にしたってかまわないと本気では思っているのです。そこがマスメディアや人権派教育評論家と決定的な違いです。
 彼らにとって大切なのは目先の子どもの自由です。あとのことは学校が何とかしてくれるし、ダメならそれも自己責任です。

【それにしてもわけの分からない校則は多すぎはしないか】

 校則が過剰に児童生徒を制限したがる理由については昨年、記事にしたばかりなのでそちらを参考にしてください。

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com しかしそれらすべてを受け入れていただいても、なお残る「本当にわけの分からないブラック校則」の数々――。ネットをちょっと検索するだけで続々出て来ます。
『体育でのブラジャーの着用禁止』(女子スパ!)、
『タイツの着用禁止(女子スパ!)
『肌着の着用禁止』(ハウスポスト)
『中学生なのに体育前の着替えは男女同じ教室で行います』(ハウスポスト)
『セーラー服をまくったり、ブラウスのボタンの間からのぞいたりする肌着検査』(沖縄タイムス
『生理で水泳を休む時は女性の教員が一人ずつ保健室に呼び、ナプキンをしているか下着を触って確認した』(沖縄タイムス)
『廊下に1列に並ばされて、シャツの胸を開けて下着をチェックされる』(FNNプライムオンライン)
『男女一緒の体育館で下着の色をチェックされる』(FNNプライムオンライン)

 こうしてみると学校はほとんど狂気の場です。とてもではありませんが子どもを安心して預けられる場所ではありません。これはいったいどうなっているのでしょう?
 問い詰められると私にも答えられませんが、どうやらメディアは情報集めるだけで、直接、当該の学校に行って調べたりしないようなのです。取材するにしても知り合いの校長や教育委員会に電話をかけて聞く程度のことで、だからブラック校則はいつまでたっても『わけが分からないまま』なのではないかと、そんなふうに私は思うのです。

【取材不足・説明不足・悪意が増加させるブラック校則】

① 取材不足
『体育でのブラジャーの着用禁止だの『タイツの着用禁止だの、これだけの情報では私にだってわかりません。前後に落とされた情報があるとしか思えません。極端な話、前に「水泳の授業では」とつけただけで『体育でのブラジャーの着用禁止は理解可能になります。
「そんなヤツがいるのか?」「そんなヤツがたくさんいたからきまりになったんだろうな」「それにしても明文化するほどのことでもないだろう」などと議論になるにしても、「わけの分からない」と言った状況からは解放されます。
 ありえないとことのほとんどは実際に「有り得ない」のいです。きちんと調べれば理由が浮かんできます。

『中学生なのに体育前の着替えは男女同じ教室で行います』
『生理で水泳を休む時は女性の教員が一人ずつ保健室に呼び、ナプキンをしているか下着を触って確認した』

 これにはきちんとした理由があるはずです。私には心当たりがあります。しかしハウスポストや沖縄タイムスはきちんと調べて報道する気はなかったのでしょう。
(*具体的説明は欄外に置きます)

② 説明不足
 ブラック校則の多くは、学校がきちんと説明すれば納得の得られるものばかりです。しかし学校も教育委員会もきちんとした説明ができていません。
 それには理由があって、校則の多くが経験から生み出されて長く続いてきたもので、制定当時は分かっていたもののいつの間にか不明となり、そのまま今日まで続いている例が少なくないからです。
 小学校の低学年の体育の時間の肌着禁止などはその典型で、きちんと調べれば説明できるはずなのに、学校にも教委に余裕がありません。ですからすぐには説明できないのですが、説明が難しいからといって安易に変えられるものではありません。そこに何が隠されているか分からないからです。

 私は初めて小学校の担任になったとき、5年生にもなって理科室に行くのに教室から並んでいくのがバカらしくて(私自身も理科室で準備する必要があった)、中学校と同じように直接行くように指導して大変な目にあったことがあります。迷子にこそなりませんが、休み時間の遊びに夢中になって遅れたり、教室に忘れ物をしたりといった児童が続出して、授業にならなかったのです。
 結局、1カ月ほどして方針を変えたのですが、4年生までできたことが再びできるようになるまでにまた1か月ほどもかかってしまいました。校則や学校ルールは、動かすときには相当な研究と覚悟がいるのです。

 こうした経験から、私も校則の見直しは必要だと思うようになっています。廃止するという意味での見直しではなく、説明できるようにするという意味での見直しです。
 自信があります。「すべての決まりには理由(わけ)がある」からです。

③ 悪意によって増えるブラック校則
 悪意に満ちた偽情報も多くあります。
『セーラー服をまくったり、ブラウスのボタンの間からのぞいたりする肌着検査』沖縄タイムス
『廊下に1列に並ばされて、シャツの胸を開けて下着をチェックされる』(FNNプライムオンライン)
『男女一緒の体育館で下着の色をチェックされる』(FNNプライムオンライン)
 話半分としても重大な人権侵害、もしくは犯罪でしょう。特に下の二つはFNNの独自取材ではなく、福岡弁護士会が調査したもので、弁護士会は記者会見を開いただけで刑事告発もしなかったという悪質なものです。

 なぜ偽情報だと思うのかというと――、状況を思い浮かべてみてください。
廊下に1列に並ばされて、シャツの胸を開けて下着をチェック
ですよ。
男女一緒の体育館で下着の色をチェック
ですよ。
 わざわざ人目につくところで行う以上、そこには他の教師もいるわけです。その全員が変態だという可能性を飲んだとしても、女性教員は何をしていたのでしょう。ただ指をくわえて見ていたのですか? まさか一緒に楽しんでいたというわけでもないでしょう。
 中でも児童生徒の心と体に責任を持ち、日ごろから相談を受けることの多い養護教諭の罪は軽くありません。もし黙って見ていたとしたら、その罪は実際に検査した教員よりも重いと言ってもいいくらいでしょう。
 しかしそんなことはあり得ません。この情報は真っ赤な偽物か、もしくはごく少数の生徒の心象風景です。
 このニュースは、本来なら教育界が総力を挙げて批難すべき偽情報です。


【学校を説明し誤解を解き、場合によっては抗議する組織が必要だ】
 教員は忙しすぎてニュースも見ません。見て怒っても、抗議をする時間さえもありません。だからただ「なぶり者」にされているだけです。しかしこんなことが続けばブラック校則は教職をさらにブラック化し、深刻な教員不足を招きかねません。
 きちんとした企業には必ず「広報」があるように、せめて市町村教委レベルに広報係を置いて、学校の正しい情報を伝えていかなくてはならない、もはやその時期だと私は思います。

(この稿、修了)

《文中で説明しきれなかったこと》
『中学生なのに体育前の着替えは男女同じ教室で行います』
『生理で水泳を休む時は女性の教員が一人ずつ保健室に呼び、ナプキンをしているか下着を触って確認した』

 更衣室が一つか二つしかない普通の学校では、全校体育だの清掃だので着替えるときに、すべての生徒を更衣室に向かわせることができないのです。そこで男女一緒にということになり、それが体育の授業でも行われるようになるのですが、男女一緒というのは正しい情報ではないでしょう。
 運動着への着替えでは、女子のほとんどはスカートの中でズボンに履き替え、上半身は頭からかぶってブラウスの袖を抜くという実に見事なやり方で着替えますが、男子はまるでダメだめです。ズボンからズボンですから必ずパンツ姿になってしまう。そこで男子は教室内、女子は廊下としたり、男女時間を区切って交互に教室で着替えたりといったことになります。いずれにしろ男子を女子の目から守るような工夫がなされるのが普通です。女子だって見たくはないでしょうから。
 本質的な解決方法がないわけではありません。各教室に男女別の更衣室をつくればいいだけのことです。現在の教室を二つに分けるわけにも行きませんから、やはりすべての学校の改築が前提となりますが(他に解決策があるなら教えてください)。

 生理の確認については厄介です。
 女子の中には水着姿になるのが嫌で、連続3週間、9授業時間にわたって「生理のため」や「風邪」によって授業を休む子がいます(必ずいます、それもかなりいます)。特に男性が教科担任だとそうした申し出に抵抗できません。そこで養護教諭にお願いするわけです。養護教諭にしても言葉だけで許可を出すわけにはいきませんから確認ということになります。
 「地毛証明」もそうですが、少数の逸脱者のためにみんなが我慢するのは世の常です。みんながマスクなしで大声でしゃべるようなことをしなければ、緊急事態宣言も「マンボウ」もなかったのです。

「受験は団体戦だ」~「わけの分からない校則」にもわけがある④

 何やかや言っても、最終的に子どもの願う進路を選ばせたい、
 次の段階に進むのに、挫折からスタートさせるのは忍びない、
 そう考えると結局、良き受験生を育てるのが教師の仕事ということになる。
 しかしその受験は、団体戦として戦わないと厳しいものなのだ。

という話。f:id:kite-cafe:20210408072929j:plain(写真:フォトAC)

【支え合って勉強をする、支え合って勉強をしない】

  芸人のラサール石井は芸名の通りラサール高校の出身で、高校3年生の時に東京大学を受験して失敗しています。
 本人の話だと「とれもではないが東大に合格するような成績ではなかったが、ラサールの場合、一緒に受験に行く仲間の数がハンパではなく、ときどき『せーのォ、ホイ』みたいな勢いで紛れて合格してしまうようなヤツが出てくる。それを狙って挑戦したのですが、ダメな時はダメでしたね」(大意)
 最後はともかく「みんなで頑張るぞ」「みんなで合格するぞ」と気勢を上げると、その勢いで合格してしまう生徒がいる、というのはよくわかる話です。長野オリンピックでも最初の有力選手、清水宏保が金メダルを取った瞬間に後続たちが一斉にメダルを取れるような気がしてきて、実際に量産しました。

 それと正反対なのが沖縄です。
 沖縄県は全国学力学習状況調査(全国学テ)が始まった2007年から6年連続で小中ともに最下位で、「ふりむけば沖縄」という言葉ができたほどでしたが、その後、学力全国一位の秋田県から講師を招くなどして学力向上に努め、2019年にはついに小学校国語で5位、算数で6位という好成績を取るに至りました(2020年はコロナのため中止)。ところが中学校の方は、点数は伸びたとはいえ国語・数学・英語の三教科すべてで、相変わらずの最下位です。

 小学校と中学校で何が違ったのか。
 実は沖縄の中学校には「まーめー」という特殊な概念があって、それが邪魔するらしいのです。
テレビで見ただけですから詳細は分かりませんが、「まーめー」は「真面目」を語源としていて、真面目であることをからかうというよりはさらに一歩進んで、「学校の勉強はいい加減だったのに社会的に成功する」、そういう生き方こそ格好いい、目指すべき姿だ、といった価値観があるようなのです。
 私たちが高校生のころも、東大や早稲田を中退することこそが格好いいのであって、卒業するようではだめだといった歪んだ価値観がありました。比較的最近でも、ホリエモン村上世彰のように、額に汗して働くのではなく情報と才覚だけで一瞬のうちに数億円を動かす生き方こそ正しいといった時代もありました。
 いずれにしろ、こうした歪んだ価値観からは一生懸命勉強しようという気分は生まれて来ようがありません。沖縄の中学生の成績を上げるのは、これからも大変でしょう。
*ただし私は沖縄の中学生がダメだと言っているわけにではありません。こうした価値観の裏には地域や保護者の意向が働いている場合が多いからです。私が以前勤めた牧畜業のさかんな地域では「そんなにいい成績を取って、都会に行って帰って来られなくなっても困るで・・・」といった調子で勉学には全く不熱心で、子どももガツガツと勉強したりしませんでした。それでも教師は学力をつけるために頑張らなくてはいけませんが、地元や親がそれでいいなら、子どもたちもそれでいいのです。
 
こういう地域で学力順位うんぬんをいうのは政治家と地域ナショナリストだけですから、彼らを黙らせればいい。
 
 

【受験は団体戦だ】

 はじめて中学校の学級担任になったとき、私が最も大切にしたのは生徒の自由と自主性でした。おかげで「みんなを自由にすると、誰も自由でなくなる」という法則を発見することになるのですが、今日はその話ではありません。

 個人が大事で集団性が嫌いだった私は、クラスマッチや合唱コンクールのような「みんなで力を合わせる」といった行事にも不熱心でした。そもそも学校は勉強をするところで、そんな余暇めいたものにエネルギーを注ぐことはないと思っていたのです。
 ところが3年生になっていざ受験という時期になると、私のクラスだけが成績が低い――いや10クラスもありましたから他にも低いクラスはあったのですが、上位のクラスとは平均点で段違いの差ができていたのです。
 しかもそれまでの2年半、クラスマッチだの合唱コンクールだので華々しい活躍を競っていたクラスばかりが、ここでも上位に並んで光り輝いているのです。

 クラスごとの平均点など外部に出すことはありませんが、入試が終わって進路がはっきりするとどうしても学級の学力差は表面に出ます。地域のトップ校に5人~6人と送り込むクラスがいくつもあるというのに、私のところはたった二人しかいません。トップが二人しかいないということは、私のクラスの多くの生徒がランクの階段を一段下がって進学しているということになります。
 これには私も参りました。たくさんの子どもたちが「挫折」から高校生活を始めるのです。

 「受験は団体戦」という言葉を知ったのはそのころでした。
 私自身が受験生だった頃は「友だちを蹴落としてまでも」みたいな言い方が流行しましたが、高校は全県、大学は全国が相手ですから隣のひとりを引きずり降ろしても何にもならないのです。それよりは隣と競い、力を合わせ、問題を出しあい、教え合う方がよほど有利です。
 勉強の苦しい夜、あと一問が解けないときも、
「オレも苦しいがアイツらも頑張っている」
「明日、会って恥ずかしくないようにもう少しがんばろう」
 そんな自分に対する言い聞かせがどれほど力になるか、想像に難くありません。スポーツもそうですが、独りで戦うより、みんなで戦う方がずっと楽なのです。

 当時は3年間クラス替えなし、学級担任も変わらないのが普通で、初任の私はそのうちの二年半をウカウカと過ごしてしまいましたが、もしかしたらベテランの先生たちは最初から「受験という団体戦」に向けて、行事を通して周到に集団性を高めていたのかもしれません。いや、きっとそうです。
 
 

【良き受験生をつくる】

「中学高校は、つまるところ良き受験生をつくる場だ」
 そう言ったら抵抗があるでしょうか? もちろん「受験」の中には就職試験も入ります。

 私の言う「良き受験生」とは、簡単に言えば計画性があって目的追求力が高く、忍耐力と集中力、安定した情緒や思考力、判断力、決断力などをもった人間です。それだけだと人間性や社会性で不十分な面も出てきそうですが、受験を団体戦として戦う受験生はその点でも力をつけています。
 つまり目標は「良き受験生をつくる」こと、しかしその目的は人格の形成という意味です。

 団体戦を勝ち抜くためにはチームの統一性が必要です。学級旗をつくったり統一した色の鉢巻を用意したりといったことも大切かもしれません。
 そこに数人、茶髪やピアスをしたグループがいるのは、やはり困るのです。

(この稿、次回最終)

「学校のアカデミズム:子どもは学校に来てはいけない」~「わけの分からない校則」にもわけがある③

 学校には苦しい勉学を支える雰囲気が必要だと考える教師、
 学校は生活の一部であり、青春そのものだと感じている生徒たち、
 その間に横たわる溝は深く、長い。
 しかし児童生徒諸君! それにもかかわらずキミたちは、
 最終的には高い学力や技能が欲しかったと言い出すのではないか?

という話。

f:id:kite-cafe:20210407073119j:plain(写真:フォトAC)

 

【それぞれの学校観が違う】

 つまるところ、「ブラック校則」の問題は関わる人々の学校観・教育観による違いから生じるのではないかと思っています。

 教師は学校を、「子どもたちに学ばせ、鍛え、育て、それぞれの持っている能力の最大限を引き出す場」としか考えていません。しかし子どもにとっての学校は、日中のほとんどをそこで過ごす生活の場なのです。生き生きと楽しく、充実した日々を送ることが最大の目標となります。
 保護者の多くは、教師と子の両方の立場に片足ずつを置いています。ひとこととで言えば「自由に伸び伸びと過ごし、いざというとき(受験期や就職期)はしっかり勉強して学力をつけてもらいたい」とそんなふうに考えているのです。
 政治家にとって、学校は自らの活動の成果を示す場であり、日本国、あるいは薩摩の国や尾張の国と言った意味での「国」の、国威発揚の場でもあります(学校に臨時講師の予算をつけたのは私だ、wi-fi環境を用意したのも私だ。そして我が町の全国学テの成績は、県内トップクラスだ!)。


 【教師は学校を勉学の場としてしか考えていない】

 教師が子どもたちの能力を伸ばすことに熱中するのには理由があります。法律や学習指導要領に書いてあるからです。それで給料をもらっているとみんな思っています。
 しかし法令を持ち出すまでもなく、目の前に100の能力があるのに70に甘んじている子がいたり、さまざまな事情によって半分しか力のつけられない子がいるとしたら、教師でなくても手を差し伸べたくなるでしょう。

 運動が得意でプロスポーツの選手にもなれそうな子がそこそこの成績で満足していたり、そこまではいかずとも、運動を生涯の趣味として活躍できそうな子がいい加減な練習で済ませていたら、私なら怒ります。せっかく才能を持っていながら生かさないのは、私のような才能のない人間を小バカにしているのと同じです。私がどんなに望んでも手に入らないものを、その子は平気で棄てようとしているのです。
 では才能のない子はそのままでいいのかというと、それも不可能でしょう。天才がないのならなおさら、半歩でも、ごくわずかでも、より高い学力や技能を身につけて卒業させることは、その子にとって絶対に大切なことだからです。

 しかし能力を限度いっぱい伸ばすというのは、そう簡単なことではありません。
 その子の今の力を100とするなら、いつも120程度の負荷をかけておかなければ体も心も知能も衰えてしまうからです。だから教師は子どもたちの前に繰り返しハードルを置いて、さあ跳びなさい、こんなふうに跳ぶんだよ、ガンバレ! と応援するのが仕事と心得ているのです。

 そうした事情のため、必然的に学校は禁欲的にならざるを得ません。教師が華美や奢侈を嫌うのはそのためです。明るく華やかで浮かれた気分で、苦しい勉学に耐えるというのは困難だと思うのです。
 教師は、苦しい勉強を支えるためには学校に「勉強の雰囲気」がなくてはならないと考えます。静かで穏やかで冴えた空気、教師に「さあ支えるぞ」という気概があり、児童生徒に「学ぶぞ」という意志がある――私はそれを「学校のアカデミズム」と呼んでいます。
 教育評論家の諏訪哲司は、
「子どもは学校に来てはいけない。来ていいのは児童生徒(学ぶ意志を持った者)だけだ」
と言ったことがありますが、おそらく同じ意味なのでしょう。
 しかし世間はそう考えません。

 

【彼我の溝は深い】

 私がたびたび引用する教育研究家の妹尾昌俊氏は、
 スカート丈から下着の色の指定、髪の毛を染めさせることまで、なぜ、学校にはわけの分からない校則があるのか、なぜ直そうとしないのか。
と言いますが、「学校のアカデミズム」だの「子どもは学校に来てはいけない」だの、そういった立場の私たちからすれば、「茶髪だのパステルカラーの下着だの、学問の世界にそんなものダメに決まっているじゃないか」ということになります。

 妹尾氏はまた、
「よく校則違反をする生徒が『いや、これは誰にも迷惑をかけていないし』と言うのは、結構本質を突いている話ですね」(2019.07.30「毛染め強要あるいは禁止から考える、校則はなんのため?【もっと学校をゆるやかにしよう】」
などとおっしゃいますが、学校にアカデミズムを作り上げなんとか維持しようとする私たちからすれば、それはとんでもない迷惑行為です。葬式にウェディングドレスで出かけてきて「誰にも迷惑をかけていない」と言われても困ります。
 人権派の教育評論家と私たち、彼我の間にはとんでもなく大きな溝があります。
(ただし私は妹尾氏の考え方を、「わけが分からない」といった言い方はしません)

 子どもたちの大半は、勉強をするために学校に来ているわけではありません。友だちに会って話したり、一緒に遊んだりするために来ているのです。小学生ならドッジボールや追いかけっこ、中学生以上だとゲームの話をしたりファッションの話をしたり、あるいは恋バナに花を咲かせバカを言い合うために学校に来ているのです。
 ですから学校を窮屈に感じるのは当然で、ここでもやはり「学校を勉学の場としてしか考えない」教師との溝は深いと言えます。

 では多様化の進む現在、私たちの方から子どもたちに近づいていけばいいのでしょうか? 学校をもっと明るく楽しい場にして、苦しい勉強から解き放ってやればいいのでしょうか?

 

【結局、勉強をさせておかなければかわいそうじゃないか】

 正直言って、私は世間の言うほど子どもや保護者の価値観が多様化しているようには思いません。多様化しているとしたらなぜ中学3年生の秋、子どもや保護者は高校に進学しないとか、普通科より実業科の方がいいとかいった選択をしないのでしょう。もちろん以前よりはずっとよくなっていますが、大半の子が、実力不相応な普通科への進学を希望します。平たく言えば「ひとつでも上の高校」をめざすのです。

 保護者の多くは「自由に伸び伸びと学校生活を過ごし、いざというとき(受験期・就職期)はしっかり勉強してほしい」などと言っていますが、1・2年生の間ずっと「自由に伸び伸びと過ごしてきた子」に、3年生になって突然、「さあ今日から勉強を頑張ろう」といっても無理なのです。突然フルマラソンに出る決心をして、その決心がどれほど強くても、翌日から毎朝10kmずつ走るということができないのと同じで、勉強は意欲だけでできるものではなく、精神的体力と習慣がなければ続かないのです。

 結局、最後に「勉強をしておくことが必要」という場に戻るなら、最初から私たちと一緒に学校のアカデミズムの枠の中にいればいいじゃないか、そうすればキミの志望校だって実力不相応なものにはならなかったはずだ、
――それが私の最終的な思いであり、希望をかなえさせてあげられなかったという意味での、恨みです。
 そしてそうした経験を繰り返してきたからこそ、どんなに世間にバカにされても、学校を勉学の場とすることにしがみつくのです。

(この稿、続く)

「校則における三つの役割とひとつの機能」~「わけの分からない校則」にわけがある② 

 現場の忙しい先生たちに、
 この校則に何の意味があるのかと聞かないで欲しい。
 代わりに私が答えよう。
 しかしその前に、校則の基本的な役割について考える。

という話。

f:id:kite-cafe:20210406074258j:plain(写真:フォトAC)

【校則の三つの役割】

 一般に校則と呼ばれるものにはとりあえず三つの役割があると考えられます。これについては他のところでまとめたことがあるので、ほぼそのままで写します。

 第一は集団の秩序を守るためのものです。
 「遅刻をしてはいけません」とか、「授業中は静かにしましょう」といった類のものがそれにあたります。ただし違反があったとき、それを盾に「ここに書いてあるからダメだ」といった言い方で指導するためのものではありません。そこに示されているのは行為の基準だからです。

 第二に危険回避のためのものがあります。「ベランダに寄り掛かるな」「右側通行をしなさい」「廊下は走らない」などがこれです。これらについては説明の必要はないでしょう。
 ただしそれにもかかわらず、「そんな常識的なことまで校則にする必要があるのか」という疑問はあるかもしれません。それに対する答えはこうです。

「人は常識を備えて生まれてくるわけではなく、学齢期になるまで、あるいは中学校入学までに必ずしも全員が常識を完成して入るわけではない」

 「体育の授業では運動着の下の肌着は脱ぎましょう」という小学校低学年の「きまり」ないし「方針」は、実はここに分類されるものでした。
 「運動をして汗びっしょりになったら乾いた布で身体を良く拭き、肌着を交換しましょう」というのは保健衛生上の常識と言えます。しかし小学校の1~2年生がそんな常識を身につけて、おまけに着替えの用意までしてくるとはだれも考えなかったのです。
 現実問題として、体育のある日に確実に着替えを持ってこさせるのもなかなか徹底できることではありません(中高学年になると自分が恥ずかしいから親に言います)。そこで安易に「体育の時間は肌着を脱げ」とやってこの始末です。まさか教師が(女性教師も含めて)低学年女児の胸の発達を見たいからきまりをつくったなどと言われるとは、夢にも思わなかったのです。
 ドジを踏みました。

 三番目に公平を守るためということがあげられます。
 小中学校の場合、義務教育である以上、原則的にすべての子どもが来なければなりません。学校はですからすべての子が来られるよう条件整備をしておかなければならないのです。
 学校給食はそのような理念のもとに始められましたし、制服が長く存在価値を持っていることにもそうした意味もあります。弁当の中身によって生徒が無用な劣等感を持つことがないように、有名ブランドや高価なコートが買えなくても安心して学校に来られるように、そういった配慮が校則に盛り込まれているのです。

 その意味で、文科省が児童生徒の学校へのスマホの持ち込みを許容する方向で通達を出したのは、ですから痛恨でした。クラスの6割~7割が学校に持ち込むようになったら、残りの子どもの保護者のほとんどは、何としても持たせてやろうという気になります。そんなもののために仲間外れにされては大変です。子どもの安全や心の成長を考えて持たせない方向で指導してきた家庭も、持ち込みの流れに抵抗することが難しくなります。
 しかし100年に1度起こるか起こらないかの大災害や、塾の行き来の便利を考えると、文科省も許さざるを得なかったのでしょう。まさか携帯会社の圧力とも思いませんが。

 以上が校則の三つの役割です。こんなふうに穏やかに話せば、どうということのない話です。しかし次の内容は、教員の方以外には素直に聞いてもらえないものかもしれません。

【副次的な、しかし重要な校則の機能=心のサイン発生装置】

 「服装の乱れは心の乱れ」という言葉は昔の教師によって好んで使われ、世間からは蛇蝎のごとく嫌われた言葉です。服装が乱れたからといって生活が乱れることはないというのです。

 正直に言って、私はそのときどきの最先端の不良ファッションに身を包んだ子どもは、勉強などそっちのけでそれにふさわしい場所へ行ってそれふさわしい活動をしてしまう、それが現実だと思うのですが、人々は容易に認めてくれません。それに元来この言葉には「服装が乱れると心が乱れる」という意味ではないのですから、敢えて戦うこともないでしょう。

「服装が乱れは心の乱れ」の本来の意味は、
「心が乱れると服装や外見に出やすいから、注意深くきちんと見ておきなさい。心配な子がいたらすぐに対応するのですよ」
という教育者への警句なのです。

 一般的に学業や部活動に熱中している生徒は服装のことなどにあまり気にしません。
 普通の生徒は校則に多少の不便や不合理を感じても、教師や親と対決し、同級生や世間の冷たい視線に耐えてまでそれと戦おうとしたりしません。子どもだって時間やエネルギーに限界があり、「校則」に挑戦することはけっこう面倒なことだからです。
 しかしそれにもかかわらず敢えて挑戦してくるような生徒には、それなりの理由があります。

 服装に異状が生じたり髪が赤くなってきたりしたとき、教師はとりあえずその生徒の心を怪しみます。この子は髪を染めることで何を表現しているのだろう、と。
 もしかしたら「勉強が分からなくなってきたよー」「身が入らないよー」と叫んでいるのかもしれません。あるいは「家に問題を抱えているよ―」「学校内で『その他大勢』になるのはイヤなんだよ」「悪い仲間に誘われてるよ―」、そんなふうに言っているのかもしれません。さらにあるいは「ボクを見ていて、じっと見ていて、ボクだけを大事にしていて」と叫んでいるのかもしれないのです。
 経験を積んだ熱心な教師なら、必ずそこになんらかの問題を発見し、対処・援助しなければならないと考えるでしょう。

 「子どものサインを見落とすな」という言い方がありますが、服装の乱れはまさにこの「サイン」なのです。同時に40人近い児童生徒を前にして、その気持ちの揺れを発見しようとすれば、サインの発信装置は多ければ多いほどいいのです。服装や髪型などに関する規定は、その中でももっとも有効なサイン発生装置なのだと教師たちは考えてきました。

 もちろん、だから校則をつくるというのではありません。付随的にそのような効能を持つということ、そしてこれがかなり有効な機能だというだけの話です。

 もっとも、ここまでの話では教員の茶髪やツーブロック、下着の色などに対する偏執とも見える情熱は理解できないでしょう。
 そこにはまた別の、けれど重要な要素があるのです。

(この稿、続く)

「教員は異常集団だと思われているぞ」~「わけの分からない校則」にわけがある①

 3月のYahooニュースは教員不祥事とブラック校則ばかりだった、
 ――というのは私のコンピュータの特殊事情である。
 しかし不祥事や校則で、世間はボロクソに言っているぞ。
 「わけの分からない校則」にもワケはあるのに。

という話。f:id:kite-cafe:20210405073545j:plain(写真:フォトAC)

【ニュースのパーソナライズで、気が狂いそうになる】

 一日のルーティーンとしてやっていることはさまざまですが、そのうちのひとつは「Yahooニュース」をざっと見て、めぼしい教育関連の記事を読むことです。特に何か言いたいことがあると引用元に行ってコピーを取り、「キース・アウト」の記事にしたりします。
 ところが最近困った事象が起きています。Yahooニュースのパーソナライズです。

 Yahooのニュースページを見るとまず頭に8本ほど国際政治から芸能に至る主要な記事が並べられ、その下に日テレやTBSのニュース動画があって、さらに下に「あなたにおすすめ」の記事がずらっと並びます。この「あなたにおすすめ」が曲者で、その部分に並んでいるニュースは、広告を除けばほとんどが教育関係と東アジアの国際政治関連なのです。私が好んでそうした記事を見たり読んだりしてきたからです。

 そんなふうに過去の閲覧履歴や投稿の記録から類推して、閲覧者が好みそうな記事だけを拾い出すことをパーソナライズというのだそうです。ですから例えば妻のコンピュータで見るYahooニュースは(アカウントが違うので)並ぶ記事もまったく違ったものになっています。

 また、程よく教育関連と東アジア関連が並ぶかというとそうでもなく、月によっては東アジア関連ばかりで教育関係が薄く、別の月には教育関係ばかりとなったりといったことがあります。両方とも薄いといった場合もありってアメリカ政治やEUが穴を埋めたりします。
 先月、2021年3月は教育関連ばかりで、しかも「わいせつ関連の教員不祥事」と「ブラック校則問題」で満ち満ちていました。

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 私は特別に「不祥事」や「ブラック校則」が好きなわけではありません。見出しを見て腹を立てるから読むのであって、読むたびに同じような記事が拾い出されるのでは、まるで腹を立てたくてやっているようで、まったくの本末転倒です。

 上の画像で既読になっている「授業中にホラー映画 高校教諭に厳重注意」は、授業中、気晴らしに映画を見せようと考えて、生徒に訊くとホラー映画の希望が多かったので見せたら保護者に訴えられたというもので、人間関係のできている子どもは納得しているのに保護者が訴えるという、よくあるパターンです。
 しかしこんなことまで地方紙に載るのですから油断ができません。要するに「教師は授業以外に余計なことはするな」という教訓ですから心すべきでしょう。
 さて、現在の教育問題の二大潮流は「教師のわいせつ事件」と「ブラック校則」です。前者については最近扱ったばかり()ですから、「ブラック校則」について、これからしばらく考えてみましょう。

kite-cafe.hatenablog.com以下。

【女性も含めて、教員は異常集団だと思われている】

「ブラック校則」の記事がこれほど急激に増えた理由のひとつは、今年に2月15日に“地毛なのに黒染めを強要された”と大阪府を訴えた女子生徒に対して、大阪地裁が「指導に違法性はない」と判決したためです。
 同判決で地裁は「女子生徒の髪はもともと黒だった」と認定しているのですが、マスメディアもネットも、「地毛なのに黒染めを強制された」事件として猛然と噛みつきました。

 もうひとつきっかけとなったのは、小学校の一部で実施されていた「体育の授業では体操着の下の肌着を脱ぐ」という方針です。高学年の女児までというのは明らかに行き過ぎですが、基本的にこれは低学年の話です。少なくとも私の勤務してきた学校ではそうでした。
 小学校の1~2年生の代謝なんて乳児と変わるところなく、夏の体育ではあっという間にびしょ濡れになってしまいます。それが気化熱で急激に冷やされるのですから不健康極まりない――教師はそう考えました。あるいは保護者からの要請だったのかもしれません。
 どちらにしてもあまり深く考えず、“子どものため”と単純に考えて行ってきたことですが、世間的は「教師が女児の胸のふくらみを確認したくてやっていること」と評価され、多くの批判を招きました。

 小学校1~2年生でも胸のふくらみ始める女児はいるかもしれませんが、そんなものに興味を持つ教員がかなりいて、女性教員を含む全教職員がそれを支持して校則ないしは指導の方針としたと思われているわけですから、学校不信もここに極まれりといったところです。

 その他、
 廊下に1列に並ばされて、シャツの胸を開けて下着をチェックされる
 男女一緒の体育館で、下着の色をチェックされる
 下着規制に違反した生徒は、学校で下着を脱がされる

2021.03.31 テレビ西日本「『男女一緒の体育館で下着の色をチェックされる』 理不尽な“ブラック校則” 福岡での実態は?」)
となると、学校の異常性は誰の目にも明らかでしょう。
*もっともこれはテレビ西日本の調査ではなく、福岡弁護士会の調査によって明らかになったものだそうで、これを告発しない福岡弁護士会にも問題がありそうです。

 【すべての決まりにはワケがある】

 私がたびたび引用する教育研究家の妹尾昌俊氏も2019/8/24 Yahooニュース「その校則、ちゃんと説明できますか? ― なぜ、理不尽な校則は変わらないのか」などと言って猛然と校則に噛みつきます。
 スカート丈から下着の色の指定、髪の毛を染めさせることまで、なぜ、学校にはわけの分からない校則があるのか、なぜ直そうとしないのか。

 しかし自分が「わけの分からない」ことは誰にとっても「わけが分からない」と考えるのは不遜ですし、「その校則、ちゃんと説明できます?」と問うて反語的に「説明できねぇだろう」匂わせるのは卑怯です。
 これは妹尾先生に限ったことではありませんが、どうやら校則に疑問を持つ人々の多くは、なぜそれが決まりとなるのか理解できないらしいのです。それならきちんと調査あるいは取材すればいいのに、なぜかこの人たちは丁寧なことはしないのです。

 それは忙しくて校則のいちいちを検討していられない現職教員たちに訊けば、答えられない場合もあるかもしれませんが、私なら答えられます、暇ですから。また、きちんと取材すれば、答えてくれる教員はいくらでも見つかるでしょう(例えば、2021.04.03NEWSポストセブン「『体操服の下の肌着禁止』不可解な校則はなぜつくられるか」に出てくる佐藤先生のような人。内容的には必ずしも賛成しませんが)。

 東野圭吾の「ガリレオ」シリーズの主人公、湯川学先生の口癖のひとつは「現象には必ず理由がある」です。それを模して言えば「すべての決まりにはワケがある」のです。「わけのある」ものを「わけが分からない」と言い放しにするのは怠慢です。

 妹尾先生も多くのメディアも丁寧な取材をしないので、私が教えてあげましょう。別に上からものを申そうということではありません。現場の先生は忙しいのです。こういうときこそ、暇人OBの出番です。

(この稿、続く)

「児童生徒・同僚・保護者との関係を築き、セーフティーネットを張る」~2021年度が始まります②

 新年度、4月の始まりにしかできないことがある。
 4月やっておけば後々ずっと楽になることがある。
 同僚の誰が優秀で、何を持っていて、自分のために何をしてくれそうか、
 そういうことをたくさん知って人間関係を作っておくこと、
 子どもと保護者の心を掴むこと。

という話。

f:id:kite-cafe:20210402071156j:plain(写真:フォトAC)


 昨日の、2021年度、最初の勤務、いかがでしたか?
 新規採用の若い先生、昇任や出向で新しい立場や職場に移られた先生、そういう方にとってはほとんど地獄の1日だったと思います。
 転任で新しい学校に移っただけでも大変なのに、職自体が変われば何も分からなくて気絶しそうになる、それは私も幾度か経験したことです。しかし「明けの来ない夜はない」。こんなことは大型連休までです。頑張りましょう。

 

【同僚を助けてあげられなかった】

 話は変わりますが先月上旬、現職教員である妻の同僚の家で不幸がありました。まだ高校生のお子さんが亡くなったのです。
 前々からお子さんのために年休を取っていたことは承知していたのですが、そこまで危険な状態だったとは全く気付かず、妻はとても後悔しています。知っていれば助けてあげられることもあったのかもしれません。

 ちょうど一年前に転勤で来られた先生で、当時は新型コロナの感染拡大第一波のため、生徒が学校に来ない代わりに家庭学習支援に大わらわ、当然、歓迎会もなく、通り一遍のあいさつと簡単な校内の食事会だけ新年度が始まりました。その後1年を通して、一度の飲み会もありませんでした。

 考えてみれば家庭の事情といった込み入った話となると、飲み会の席でしか出て来ようがありません。日常はいつも忙しく、仕事の話以外は話をすることもありません。少し余裕ができても、互いのことを知らないわけですから、立ち入った話の糸口さえないのです。妻がその先生を知らずに一年過ごしてしまったのも無理ないことです。

 

【自分ができる子ことも大切だが、誰ができるか知っていることも大切】

 アルコールに弱いこともあって、私は飲み会などちっとも好きではありません。かなり早い段階で酔ってしまい、酔うと食べ物が口に入らないので必ず会費負けです。ですから出なくて済む飲み会にはほとんど出ず、出席した場合も、特に結婚してからは、2次会までつき合うことはまずありませんでした。しかし今考えると、そんな気の進まない飲み会でも、学んだことは多かったなと改めて思うのです。

 社会が狭いと言えばそれまでですが、教師というのはグデングデンに酔ってもなお児童生徒の話ばかりしている人たちです。その話の中に子どもの見方・捉え方、あるいは生徒指導的な問題の対処の仕方など、大切な内容が山ほどあって、知らず知らずのうちに身についていたからです。
 あの頃、そうした仕組みに気づいて意識的に学ぶ姿勢でいたら、私はもっといい教師になれていたのかもしれません。

 酒宴の席で説教をする先輩もいました。
 あるとき私は名指しで呼ばれ、「T先生は生徒と勝負していない!」と叱られたことがあります。他学年の先生ですが、遠くから見ていても目に余ったのでしょう。あとから考えるととてもありがたい話でした。それも学年を越えた酒席がなければ起こらないことでした。(もちろんそのときは相当にウザかった)。

 飲み会は顔つなぎの場です。その人が何を考え、何を持っているか掴む絶好の機会です。
 今は誘うだけでパワハラと言われる時代ですからコロナがなくても誘いにくいのですが、それでも感染リスクの少ない時期、少人数の飲み会に誘われたら参加してみる価値があります。

 私たちは自分磨きに余念がなく、知識を深め、力をつけることに夢中になりがちです。しかし効率だけで言ったら、自分が優秀な人間になるよりも、同僚の誰が優秀で、何を持っていて、自分のために何をしてくれそうか、そういうことをたくさん知って人間関係を作っておくことの方がはるかに有利です。
 高い参加費を払って好きでもない会に行くと考えるのではなく、情報を手に入れ、いざというときに助けてもらうセーフティネットを広げる機会と考えれば、むしろ安いものかもしれません。

 

【一瞬にして保護者の心を掴む】

 もうひとつ、
 今日、話しておかないと間に合わなくなるかもしれないので簡単に記しておきます。ずいぶん昔、夫婦で教員をやっている奥様の方から聞いた話です。

「あのねT先生、ウチのダンナ、今年1年生(小学校)の担任になったでしょ。そしたら入学式の2~3日前から何か口の中でブツブツ、ブツブツ言ってるわけよ。何かと思ったら新入生の名前を暗記しているんですって。それを入学式の終わったあとで教室に入ってから、一人ひとり名前を呼んで、『よろしくお願いします』ってやったわけ。全部終わったらもう後ろにいる保護者は拍手万来で、いつまでも鳴りやまなかったんだって。ずるいでしょ?」

 最後の「ずるいでしょ?」は同業ライバルとしての言葉であって、私も同意します。そんなふうに最初の段階で保護者の気持ちをグッと掴んでしまったら、あとがずいぶんやり易くなるはずです。
 教師の本筋とは思えないそんなやり口を思いついたことに嫉妬し、40人近い子どもの名前を暗記できる記憶力に嫉妬して「ずるいでしょ?」となったのです。これで後日、学級内で多少のミスはあっても、親は簡単に責めたりしないでしょう。一瞬にして投網のようにセーフティーネットを広げたわけです。

 しかし数年後、同じような機会に恵まれたものの、私はそれを真似ようとはしませんでした。だってそのやり方、ひとりでも間違えたらアウトでしょ? 間違えられた子は傷ついて、以後ずっと立ち上がれないかもしれません。
 私には私に似合った別なやり方があるはずです。そんなふうに思っていました。
 

「年度の始まりに心しておきたいこと」~2021年度が始まります①

 2021年度が始まる。
 年度の始まりに、これからの1年がどんなふうになるのか、
 簡単に見通しをつけておきたい。
 コロナとコンピュータ、そして改正「高齢者雇用安定法」

という話。f:id:kite-cafe:20210401070355j:plain(写真:フォトAC)

 2021年度が始まります。本年度もよろしくお願いします。
 数少ない読者の皆様。風前の灯ブログです。今後もどうぞお支えください。

【学校のコロナ禍はさらに一年】

 さて今年度が学校にとってどういう一年になるのかと考えたら、やっぱり新型コロナとともに過ごす一年にしかならないと思いあたりました。現在のところ16歳未満に摂取できるワクチンがないからです。

 今月から65歳以上の高齢者と基礎疾患のある人から摂取が始まるそうですが、供給が十分に進んだとしても、集団免疫が成立するための人口の7割(およそ9000万人)が接種完了するには1年近くかかりそうです。
 高齢者の感染リスクが下がれば気分的にはずいぶん楽になるでしょうが、小中学生の親世代でも重症化したり亡くなったりするケースはあるのです。そうなると学校は最後の最後まで、感染予防に努力を払い続けなくてはなりません。
 新型コロナウイルスについてはだいぶ分かってきて、無暗に恐れることもなくなりましたが、まだまだ学校の負担は続くでしょう。
 学校のコロナ禍はさらに一年と思い定めて、計画などを立てた方がよさそうです。

 

【リモート学習の可能性はほとんどない】

 負担と言えば、全国的にほぼ配布の終了したコンピュータの学習も大変です。
 現代の電子機器は投げつけたり蹴ったりしなければまず壊れないようにできていますが、前提として「常識的に使えば」ということがあり、子どもの一部はまったく常識的ではありません。
 自宅に持ち帰って風呂に入れて防水性能を確認したり、電源の差込口にチーズを食べさせたり、USBの代わりにマイナス・ドライバーを差し込んでほじくってみたり、ありとあらゆる想定外に備えなくてはなりません。現在、全国に小中学生は950万人ほどいますから1万人にひとりというトンデモないガキが950人もいるわけです。用心してかかりましょう。
 事故を防ぐ教育も大事ですが、事故が起こったら誰に謝ってどう対処するのか、事前に調べて知っておくことの方が役に立つかもしれません。

 もうひとつ、
 つまるところ、通信教育を除けば、この国にリモート学習とは根付かないと私は思っています。
 この先、今回の新型コロナに関して長期の休校措置が取られる可能性はほとんどありません。また、世界のどこかで新しい感染症が広がれば、新型コロナの記憶の新しい今なら大騒ぎで対処しそうですから、次のパンデミックまでにはまだまだ時間もあります(100年くらいは大丈夫かな?)。ですから感染症対策のリモート学習の必要はありません。

 将来、社会に出てからは、オンライン会議やリモート・ワークの技能が必要となるでしょう。しかし今から訓練するほどのことではありません。黒板と紙を使った授業は日本に限っても150年、世界的には200年を越える歴史があるのです。そう簡単に克服できるものではありません。
 「児童生徒が学校に来ているのに、先生は別室からリモート学習」といった滑稽な姿が長続きするとも思えません。

 

【コンピュータの学習は、ちょっと遅れて進めるのがコツ】

 コンピュータを使った学習は、検索やお仕着せのドリル問題をやらせるのはいいですが、他に先んじて大真面目に取り組むべき課題ではないと考えます。

 いまのところ学級担任や教科担任の授業を越える映像コンテンツはありませんし、自作するにはあまりにも下準備が大変です。電子黒板に画像や動画を張り付ける技術はすぐに身に着きますが、提示する資料を探したり選んだりするには膨大な時間がかかるからです。
 そういう仕事は、他人より少し遅れて、他人をアテにしながらやるのがコツなのです。

 私は昔、中学校1年生から3年生までの社会科(地理・歴史・公民)のすべてカリキュラムを、半年でつくるという大変な仕事を成し遂げたことがあります。文科省から「各校で作成するように」という指示があったからです。でもそんなもの、今では教科書会社の出している指導書に書いてあるでしょ?
 私が死ぬほど苦労している間、他の学校でもつくっていて(大きな学校では教員が手分けをして作成した)そちらの方がよほど良いということもありました。そして2年もしないうちに、教科書会社が標準的ンなものを提供するようになったのです。

 それから10年ほどして、今度は全学年、すべて教科について「絶対評価の評価基準」をつくれという指示があり、その時はさすがに私も成長していましたからあちこちの学校に連絡して、一番はじめにできた学校からデータでもらってそれを改良して教委に提出しました。
 ほどなく教科書会社からきちんとした「評価基準表」が出され、私たちのつくったものは(カリキュラムの時と同じように)、文科省教育委員会も忘れ去られました。興味がなくなったようです。

 新しい仕事というのは、ちょっと遅めにやるのがコツで、研究指定校や先進的な人が作成し、あちこちの学校で実施・検討して、取捨選択・修正された完成品を使うのがもっとも簡単で、合理的です。無駄な苦労は避け、浮いた時間は児童生徒のために使いましょう。

 

【改正「高齢者雇用安定法」が施行される】

 60歳定年制の時代から、65歳までの雇用をきちんと守ろうと2012年に制定された「高齢者雇用安定法」が改正され、今日から施行されます。
 これまで65歳までとなっていた雇用機会を70歳まで引き上げるものですが、今回は「努力義務」で、必ずしも実施する必要はないようです。

 公立学校について今のところ話題になっていないようですが、採用試験の受験者が激減している昨今、教員確保の観点から再任用期間を70歳まで伸ばそうという動きが出てくるかもしれません。ただし教員の側にどれほどのメリットがあるのかは疑問です。

 現行制度でも65歳を過ぎても働きたい人は講師となって続ければいいのです。講師だと再任用の2倍近い給与。再任用が70歳まで延長されれば給与の増額は望めません。もちろん必ず仕事があるという点では再任用制度にもメリットはあるのですが、若いなり手がいない以上このさき講師の口がなくて困るようなこともないように思うのです。

 こういったことにも気を配っておいた方がいい2021年度です。