カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「ウシの話をしよう」~歳の初めに子どもたちに話すこと②

 年頭の担任講話をどう進めるか。
 どうしてもアイデアがなければ、
 蘊蓄を語り、もって児童生徒の興味関心を引き出した――と、
 その程度の時があっても仕方がないな。

という話。

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【蹄(ひづめ)の話】

 動物としてのウシについてお話しします。

 哺乳類の分類の仕方に、蹄のあるものとそうでないものという分け方があります。蹄のある方を有蹄類(ゆうているい)と言います。
 蹄は爪の変化したものですから最初は5本くらいあったと思うのですが、次第に収れんして、現在は1本だったり2本だったり、3本だったりします。例えばウマは足の第三指が発達してあとは退化したため、蹄は各足1本ということになっています。

 ウマは1本、カバやイノシシ、ラクダ、キリン、ヤギ、シカなどは2本、サイでは3本、バクは前脚が4本、後脚が3本となっています。
 10年ほど前に「口蹄疫」という家畜の病気について調べたとき、蹄の写真を集めておいたので改めてここに載せます。

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 それぞれウシ(左上)、ウマ(右上)、キリン(左下)、マレー・バク(右下)だそうです。
(参考)kite-cafe.hatenablog.com

【鯨偶蹄目:クジラとウシが親戚】

 蹄が奇数のものは有蹄類の奇蹄目に分類され、偶数(2本)のものはかつて偶蹄目と分けられていました。ところが驚いたことに、DNA検査の結果でクジラとカバが非常に近い関係にあることが分かり、ウシはカバと親戚ですからこれらはすべてひとまとめにされ、現在では鯨偶蹄目(くじらぐうていもく)をつくってそこに一括されるようになっています。ウマやサイに対抗するのがクジラとウシというのは何ともピンときませんが――。

 ただしかつての偶蹄目の代表をウシ、クジラ目の代表をクジラ(これは当たり前か)と考えると、ある共通点が浮かんできます。とにかくからだのほとんどの部位が人間の役に立つという点です。

 クジラ肉は新鮮なままだと食べにくいという特徴も含めて有益な保存食ですし、その体の脂は石けんに、脳油は機械油として、肝臓からは肝油を採り、軟骨はフィルム原料、髭は釣り竿の先といった具合に利用価値は多岐にわたります。 19世紀後半のヨーロッパで女性たちがふんわりと広げていたスカート、あの中には鳥かごのような構造物(クリノリン)が入っていましたが、大部分は弾力性のあるクジラの髭でつくられたものでした。

 ウシも負けじと利用価値の高い動物です。
 肉はヒレだのバラだの細かく分類され、それぞれふさわしい食べ方がされます。ロースなどは上ロース、中ロース、並ロースと三種類に分けられ、そのうちのひとつを選ぶことを三択ロースと言うようです(ウソです)。
 *このジョークは20年ほど前の私の完全なオリジナルですが、つい先日テレビで芸人が使っていたのでイラっとしています。まあ、誰だって考えつくことですが。

 食用としては肉だけでなく、その乳も利用される点で他の家畜の追従を許しません。チーズやバターなどの加工品を含めると、ほんとうに人類にはなくてはならない生き物といえます。

 革はベルトやら靴やらコートやらと、あらゆる場所に使われます。しかしウシの利用価値の最大のものは、やはり労力として使えることでしょう。農耕用、運搬用、そして平安時代は牛車の動力としても使われました。
 またウシが生み出す大量の糞は今でも肥料として重宝がられています。私も毎年使っています。

 ウシは日本の「角突き」やスペインの闘牛のような娯楽にも使われ、インドのヒンドゥー教では信仰の対象とさえなっています。そのくらい人間に身近な存在なのです。

【ウシの味覚は人間の 4~5倍】

 スペインの闘牛で思い出したのですが、小学生の頃、
「牛は色の見分けができないいわゆる色盲なので、闘牛士の持つ布で興奮するのは、それが赤色だからではなく、ひらひらと目障りだからだ」
と聞いて以来、
「牛になった人は誰もいないのに、なんで牛が色盲だなんてわかるんだ?」
が、数十年に渡っての私の悩みとなっていました。

 大人になって、それもずいぶん齢を食ってから知りました。答えは、
「解剖の結果、ウシの目には明るい場所で色を認識する錐体細胞(紡錘形の細胞)がないことが分かっている」
でした。
 同様に、
「牛の舌には味を感じる器官(=味蕾〈みらい〉)が20000~25000個ほどあるが、それは人間の4倍~5倍にあたる」
ということも分かっています。つまり牛はグルメなのです。味にとてもうるさい。
 なぜうるさいのかというと、毒性のあるものはほんの少量でも食べないように厳密に管理しているからです。

【ウシの胃は四つ】

 ウシに四つの胃があることはとても有名です。
 なぜ四つもあるのかというと、あの消化の悪い牧草・野草を食ってなおかつ上質な肉やミルクをつくるには、時間をかけてエサを発酵させ、消化しやすくしておかないと栄養吸収の効率が悪すぎるからなのです。

 そのために牛は、第一の胃と口との間で食物を何回も移動させ、細かく噛み砕きます。これが有名な「反芻(はんすう)」ですが、いつまでも口の中で噛んでいるだけではなく、口と第一の胃の間を行ったり来たりさせるのは、胃の中に飼っている微生物と十分に混ぜ合わせ、発酵を促進させるためです。その上で第二・第三の胃でさらに発酵を進め、最後に第四の胃で消化をさせるのです。つまり正式に「胃」と呼べるのは第四の胃だけで、1~3は消化を促すために変形した食道の一部なのです。

 もうお分かりかと思いますが、ウシの舌の味蕾が人間の4~5倍もあるのは、厳しく毒を選り分けて、胃の中の微生物を殺さないようにするためです。それくらいものを消化するというのは大変なことなのです。

【ここからは児童生徒に向けて】

 分かりましたか?
 消化しにくいものを食べて、それを血や肉にするのはそこまで大変なことなのです。
(え? 血の話はどこに出てきたかって? おやおや知らないのですね、ミルクの原料は血液なのですよ)

 学校の勉強も同じです。
 漢字や計算、化学式だの英単語だの、そんなものはちっともおいしくないし消化するのは容易ではない。中には一つか二つ、好みによって食べやすいものもあるかもしれないけど、みんながみんな食べやすいということはめったにないことだ。しかしそれらはいずれ血となり肉とならなければならない。そのためにはどうしたらいい?
 そうだ、反芻だ。

 何度も何度も噛み砕いて、微生物の助けを借りながら、自分の血や肉にしていくしかないんだ。
(え? その場合の微生物って何かって? まあ、そんなもの、先生たちでいいだろう。キミたちもどうせその程度の扱いしかしていないのだから)

 さて今年は丑年だ。
 ウシのように台地にしっかりと足を延ばし、重い荷物にも耐え、新しいものを繰り返し飲み込み、反芻し、吟味し、確実に自分の血肉に変えて、たくましく生きていこうではないか!
 そうだろ! 諸君!

「3学期が始まります」~歳の初めに子どもたちに話すこと①

 3学期が始まる。
 学期の当初、新年の冒頭は、
 子どもたちに良い話をするところから始めたいものである。
 そんな場合のヒント。
という話。

f:id:kite-cafe:20210106154410j:plain(写真:フォトAC)

【3学期が始まります】

 いよいよ3学期が始まります。早いところでは明日から、あるいは明後日、来週の月曜日からというところもありそうです。

 例年なら小学生は書初めの宿題を抱え、中学三年生は受験に向けてフンドシを締め直して登校!というところでしょうが、今年は特に感染の拡大している地域では不安な始まりとなりそうです。
 しかしとりあえず新年。新しい歳、新しい学期、新しい自分という生まれ変わりのゴールデン・タイムです。時間に余裕があれば、「2021年の誓い」「2021年の目標」などを考えさせながら、新しい年を迎えた、新しい心構えをさせたいものです。

 年初にあたっての担任講話というのも大切です。相手は思った以上に清新な気持ちで登校してきますから、そのまっさらな心と耳に、美しい言葉を流し込みたいものです。けれどうまく話題が見つからないとき、私は毎年、干支に関する知識をしこたま詰め込んで、それをヒントに講話を始めたものです。

【牛に関することわざ・熟語】

 牛に関することわざ・熟語・言いまわしについては、ちょっと検索するだけで次のようにいくつも出てきます。
 鶏口牛後(けいこうぎゅうご)
 鶏口となるも牛後となるなかれ(けいこうとなるもぎゅうごとなるなかれ)
 角を矯めて牛を殺す(つのをためてうしをころす)
 草木も眠る丑三つ時(くさきもねむるうしみつどき)
 牛に引かれて善光寺参り(うしにひかれてぜんこうじまいり)
 汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)
 九牛の一毛(きゅうぎゅうのいちもう)
 風する馬牛も相及ばず(ふうするばぎゅうもあいおよばず)
 風馬牛(ふうばぎゅう)
 商いは牛の涎(あきないはうしのよだれ)
 牛に経文(うしにきょうもん)
 牛に対して琴を弾ず(うしにたいしてことをだんず)
 牛は牛連れ、馬は馬連れ(うしはうしづれ、うまはうまづれ)
 牛も千里、馬も千里(うしもせんり、うまもせんり)
 牛を馬に乗り換える(うしをうまにのりかえる)
 馬に乗るまでは牛に乗れ(うまにのるまではうしにのれ)
 馬を牛と言う(うまをうしという)
 馬を牛に乗り換える(うまをうしにのりかえる)
 馬を崋山の陽に帰し、牛を桃林の野に放つ(うまをかざんのみなみにきし、うしをとうりんのやにはなつ)
 馬を買わんと欲してまず牛を問う(うまをかわんとほっしてまずうしをとう)

 その中で私が知っていてすぐに説明できるものはごくわずか、最初に並べた五つだけです。しかも「鶏口牛後」と「鶏口となるも~」は同じものですから、実質的には四つしかないことになります。
 「牛に経文」と「牛に対して琴を弾ず」はたぶん「馬の耳に念仏」と同じ意味で、「牛は牛連れ、馬は馬連れ」「牛も千里、馬も千里」「牛を馬に乗り換える」なども何となく意味が想像できますが、十分に咀嚼できていない言葉を使おうとするぼろが出ますから、最初の五つから話題を探します。

【鶏口よりも牛後が向く人間もいる】

 鶏口牛後は本来「大きな集団の端っこでこき使われるよりも、小さな集団であっても長となるほうがよい」ということですが、しばしば「トップグループの最後尾よりも第二グループの先頭の方がよい」といった形で誤用されることがあります。
 高校受験の指導の際に担任が「無理してA高校に行かなくてもお前の成績ならB高校に行けばトップになれる。鶏口牛尾と言うように、牛のしっぽでいるよりも鶏の頭でいるべきだよ」とアドバイスするのがそれで、おそらくこれだと内容的にも間違っています。というのは世の中には牛の尻尾が似合っていて、“鶏口のつもりで二番手校に進学させたら、いつの間にかその高校の尻尾に収まっていた”という例がいくらでもあるのです。

 高校入試のランキングなんて基本的に輪切りですから、それはもちろんトップ校の最上位には先生よりも頭の良い天才児が山ほどいて学力は天井知らずですが、二番手、三番手、それ以下になると、成績の上も下も切り取られていてトップ合格の子も最下位合格の子も、点数でみるとほとんど差はないのです。それ以上に成績の良い子は上のランクの高校へ、それよりも低い子は下のランクの高校へ行っています。
 ですから鶏口で入学した子も、ちょっと油断しているとアッという間に鶏の尻尾で、1年間ほども尻尾にいるとほぼその位置で固定化されてしまいます。あとで考えれば「鶏尾牛尾(牛の尾にならずに鶏の尾になった)ということになりかねません。そうした子の中には「誤用された牛後」(上位校の最下位)でもなんとかやっていける者もいたりします。
 どうせ間違って使うなら「鶏口牛後」、そこまで考えて指導してあげたいものです。

【草木も眠る丑三つ時】

 「草木も眠る丑三つ時」は、“気味が悪いほどひっそりと静まりかえっている真夜中の表現”としてよく使われます。
 講談では怪談話が、
「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時・・・」(ゴーンという鐘の音)
で始まったりします。

 「丑三つ時」というのは丑の刻(季節によって異なりますが大雑把に午前1時から午前3時ごろまで)を四つに分けたうちの三番目の時間で、およそ午前2時から2時30分頃までのことを言います。深夜一番眠りが深くなる時間帯です。
 「丑の刻」の次の時刻は「寅の刻」です。この「丑」と「寅」を合わせた「丑寅の方角」といえば北東、邪鬼や悪霊がやってくると言ういわゆる鬼門に当たり、建築ではこの方角に玄関や門を置くことを嫌ったりします。
 鬼は丑寅の方角からやってくる、だから牛の角を生やし、虎のパンツをはいている
 というのは私の十八番(おはこ)の知識です。

 しかし「鶏口牛後」にしても「草木も眠る丑三つ時」にしても、どう料理しても年頭の清新な子どもの心に注ぎ込みたくなるような話には繋がっていきません。

 「角を矯めて牛を殺す(小さな欠点を無理に直そうとして、むしろ全体をだめにしてしまうことのたとえ)」とか「牛に引かれて善光寺参り(思いがけず他人や運命に導かれてよい方面に向かうこと)」 だったらどうでしょう?
 これだと何かしら教訓めいた話に結びつけても行けそうです。

【“牛”そのものについて話す】

 私は子どもたちに、最低でも一日一回は「よい話」をしようと心がけてきました(そのなれの果てが毎日書いているこのブログです)。
 しかしどうしてもうまくいかないときは主題に関する知識を紹介するにとどめて、終わりにすることも少なくありませんでした。
「〇〇に関する興味関心を呼び起こしたのだからいいや」
というわけです。
 たとえば「牛」という生き物それ自体について紹介したりすることですが、今日は紙面が尽きました。続きは明日、お話しすることにしましょう。

(この稿、続く)

「アイデンティティとそれぞれの同調圧力」~同調圧力の話③

 同じでありたい、同じであってほしいという願いは、
 いずれの国・地域であても同じだ。
 「同調圧力」などという言葉で、
 みんなでこの国を良くして行こうという意志をくじいてはいけない。
 多少の行き過ぎはそのつど修正していけばいいだけのことだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20201225173311j:plain(写真:フォトAC)

【勇み足――自由と命とどっちが大事だ!】

 数カ月前、ネット上で海外動画を拾っていたら、韓国の電車の中で演説する青年というのが出て来ました。ボックス席のない通勤用車両の端に立って、宗教家らしい白服を来た若者が文在寅政権のコロナ対救を批判しているのです。日中の電車らしく青年を真横から移した映像には乗客は映っていません。
 批判の中心は韓国政府がコロナを理由に個人情報を吸い上げていることで、彼は深刻な自由の侵害、自由主義の危機だと考えているようなのです。
そしてさまざまな角度から激しく語ったあと、彼はついに叫びます。

「自由と命と、どっちが大事なんだ!」

(そりゃあ命ダロ)
と私なんぞは思うのですが、演説の流れから、彼は自由の方が大切だと考えているようです。

 もっとも青年の名誉のために付け加えると、彼の言っている「命」は自分の命もしくは自分の仲間の「命」のことであって、電車の乗客にまで差し出せと言っているわけではありません。自分の命を捨ててでも韓国国民の自由を守りたいという決意を語ったのですが、不用意に言葉にすると何かトンチンカンな感じになってしまいます。
 一般論として韓国人は「命より自由が大切」とは言いそうになく、その点では日本人も同じでしょう。
 しかし世の中には、本気で自由の方が大切と思っている人々も少なくありません。

 

【命よりも自由が大切な国―フランス】

 芥川賞作家の辻仁成ミポリンの元夫、と言っても若い人は分かんねェだろうなあ)は、今月号の月刊文芸春秋でロックダウン中のパリをこんなふうに報告しています。「知り合いのカフェやレストランはシャッターこそ半分下ろしているけど、窓の隙間から中を覗けば、近所の暇を持て余した連中が集って、暗がりでコーヒー片手に談笑している。行きつけのバーはさらに酷く、ドアには鍵がされ、窓ガラスは戸板で塞がれつつも、ノックすると、隙間から店員が覗き、ぼくだとわかると、扉を開けて、飲んでいくか、と笑顔を向けられる。カウンターには地元の常連が居並び、片手にジョッキ。完全に法律違反だけど、通報でもない限り、警察も一軒一軒チェックは出来ず、パリは水面下でこういう違反者が溢れかえって、むしろ三密は避けられず、感染が逆に拡大しているという悪循環にある」

 フランスという国は二百数十年前、たいへんな数の市民を死なせたうえで、世界で最も早く国民の自由を獲得した国です。そうした誇りもあるのか、自由が何よりも大切で政府の言うことをなかなかききません。
この国の同調圧力はむしろ自由であることに向いていきます。どんなに感染が広がって死者が増えても、自ら自由を制限するが許されていないかのようです。

 下は最近パリから戻って来た、日本に永住権を持つフランス人の報告ですが、エマニュエル・マクロン大統領は、連日ように、まるで王様ように国民に話しかけます」といった調子で、政府に対して非常に好戦的です。

toyokeizai.net 今やフランスはひどい官僚主義と中央集権、そして国民の政府への信頼性の欠如により、恐怖に基づいたシステムができてしまいました。国民を守る代わりに、国民を脅し、「規則」を守らなければ罰を与えられる。何とも気が滅入ってしまう話です。

 とんでもなく激しい調子で責めますが、ここには人口が日本の半分ほどの国で62000人以上もの人々(日本は3100人ほど)をコロナで死なせてしまったことへの悔恨とか恨みとかはほとんどありません。あるのは自由を奪われたことに対する激しい憤りです。
 自由の国フランスで、人々はそのように躾けられてくるのでしょう。

 

【それぞれの国の同調圧力

 たまたま目についたのでフランスを例に取り上げましたが、それぞれの民族にはそれぞれの「あるべき姿」があります。それは民族のアイデンティティですから、暗黙の裡に強制し合います。今の論題で言えば、同調圧力です。

 アメリカ人にはおそらく、強くなくてはいけない、勝たなくてはいけない、陽気でなくてはいけないという同調圧力があります。しかし24時間つねに競争に曝され、しかも陽気でなくてはならないとしたら、私などはとてもではありませんがついていけません。

 私は日本に生まれて日本で育ったためか(おそらくそうでしょう)この国のやり方が性に合っています。
 街を汚さないとか、規律を守るとか、人に迷惑をかけないとかは、他人の目を気にしてやっていることではありません。確かに「世間体」という言葉があり、「人さまに恥ずかしくない生き方をしなさい」とかいった言い方もしますが、それらの言葉を使いたがる人たちに、「では、あなたにとって『世間』とか『人さま』というのは具体的に誰ですか?」と訊けばたいていの人が答えられません。
答えられないのは「世間」や「人さま」に実体がなく、それはその人の中に内在化された「他人の目」――「誰が見ていなくても自分だけは見ている」とか「お天道様が見ている」というときの「見ている主体」のことを言うからです。

 孔子は「70歳になったら自分の心のままに行動しても人道を踏み外すことがなくなった(七十にして心の欲する所に従えど矩をこえず)」と言いましたが、日本ではそれに近いことのできる人がかなりいると、私は信じています。

 

【お疲れさまでした! よいお年を!】

 長い2学期、ご苦労様でした。
 28日まで授業という学校も少なくありませんが、日本中のほとんどの学校で今日が終業式だったようです。
 例年だと懇談会をやって通知票を書いて、ようやくたどり着いた今夜は忘年会で一夜限りのバカ騒ぎ、というところですが、皆さま、今日は静かにお帰りになったことでしょう。
 その労をねぎらう言葉が、いまは見つからなくて困っています。コロナ禍での学校の実際が分からないからです。だからここは中途半端な慰労などせず、黙ってお見送りしたいと思います。

 年が明ければ何かが大きく変わるわけでもありませんが、先生方、しばらく心を休めて、また戦場にお戻りください。
 私も1月7日ごろまで休むつもりです。
 それでは皆様、良いお年を!
 

「相互批正と同調圧力――子どもの頃からずっとやってきたこと」~同調圧力の話②

 同調圧力だの自粛警察だの――、
 しかしそれらは結局、程度の問題なのだ。
 私たちは子どもの頃からお互いを見て、お互いを正すことになれている。
 それを大人になった今も続けているにすぎないのだ。

という話。f:id:kite-cafe:20201224150704j:plain(写真:フォトAC)

【シーナは同調圧力に負けたのか】

 年末年始の帰省を非常に楽しみにしていた娘のシーナが、新型コロナ感染第3波のために断念しました。
 親や祖母にうつしてはいけない、東京のウイルスを田舎に持ち込んではいけない、といった公徳心からではありません。とてもではないが今の東京に里帰りできる雰囲気がない、許される気がしないというのです。
 昨日残したのは、この事実をもって「シーナは同調圧力に屈した、負けた」という話になるのかという設問でした。

 答えはそれほど難しいものではありません。

 結局すべては“方向性”と“程度”の問題で、戦争遂行だの犯罪だの、あるいは「いじめ」といった悪い方向へ向けた有形無形の集団圧力とは戦わなくてはなりませんし、正しい方向への圧力であっても、コロナ自粛の最中の、他県ナンバーの車を傷つけたり、自粛要請に従わない飲食店への張り紙、マスクをしていない人の画像をSNSにアップするなど、行き過ぎは厳に慎まなくてはなりません。

 もちろんだからと言って「人ごみでマスクもせず咳き込んでいる人」を温かく見守る必要もありませんし、マスクをなくして困っているといった話なら助けてあげてあげればいいし、訳もなくそうしているなら思い切り冷たい目で見てやればいいのです。
 
 同調圧力という言葉に負のイメージを被せて、一括で扱ってしまうと社会の自浄能力や教育力さえ失ってしまいかねません。
 今年の年末年始に限って、里帰りは自粛しようというのはどう考えても正しい見方です。だったらその流れに乗ることは、決して負けたことにも屈したことにもならないはずです。

【私が子どもの時代の人民裁判

 考えてみれば学校というところは、昔から同調圧力を借りて子どもを育てる場所でした。
 保育園でヤンチャだった子どもが小学生になったとたんにしっかりし始めると、保護者の中には、先生の偉大さだ、学校の凄さだととても感心して下さる方が出て来ますが、特別の技があるわけではありません。
 1年生になるにあたって、相当な覚悟をして入学してくる立派なお子さんがたくさんいるのです。教師はその力を借りて全体に枠を作るだけです。

 今は人権意識も広く定着して先生たちもとても優秀になりましたからそんな乱暴なことはしませんが、私が子どものころの帰りの会はまるで人民裁判でした。私などはかなり良い子だったはずなのに、それでも週に2~3回は、
「T君は今日、〇〇をしていました。やめた方がいいと思います」
とか、
「今日、T君に〇〇されました。やめてほしいと思います」
とか言われて、そのたびに立って“お詫び”をさせられていました。毎週2~3回というからにはよほど懲りない性格をしていたのでしょうが、吊るし上げる方も実に熱心でした。

 今の先生たちはそんな明け透けなことはしませんが、やっていることは基本的に同じです。常に正しい行い・善い行いを称揚し、悪い行いは陰で丁寧に潰すようにします。そうすることで学級内にモラルの枠を示すのです。
 するとそれだけで、子ども同士がお互いを正す”相互批正“が自然に発動してくるのです。特に小学校の低学年ではその力は絶大です。

【相互批正と同調圧力――子どもの頃からずっとやってきたこと】

 なぜそうなるのかというと、比較的自由で遊ぶことが主な活動だった保育園から、制約の多い小学校に入ってくると、どうしてもうまく順応できない子が出て来ます。その子たちは枠からはみ出しやすく、“良い子”から見ればひどく身勝手です。自分たちはきちんとやろうと努力しているのに、“悪い子”たちはまったく自覚なく、好き勝手に生きているように見えるのです。そこで正義の大鉈が振るわれるようになります。 “良い子”たちだって我慢しているわけですから、我慢できない子たちが許せないのは、ある意味で無理ないことです。

 この構造はコロナ自粛をかたくなに守っている“ハンマーの下の人々”と、常に枠の外に出たがる“踊る人々”の関係にそっくりです。
 別の言い方をすると、同調圧力だの自粛警察だのといったことは、私たちが小学校のころからずっと続けてきたことなのです。

(この稿、続く)

「子どもたちの帰って来ない正月」~同調圧力の話①

 結局、子どもたちは年末年始の帰省を諦めた。
 私も致し方ないと思う。
 しかし結論は同じでも、そこに至った理由は同じではない。
 私たちはどれをどう考えたらよいのだろう。

という話。

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【正月、子どもたちが帰って来ない】

 結局、娘のシーナも息子のアキュラも、この年末年始の帰省を断念しました。シーナの家族は一年おきに夫の実家、妻の実家と交互に正月を過ごしますので、私の家で家族が揃うのは2年後ということになります。その間に孫のハーヴやキーツはどんどん大きくなってしまいますから、返す返すも残念です。

 ついこの間まで、
「直近一週間の10万人あたりの感染者が23・8人(当時)の東京に住むシーナが感染している確率は0・0238%。しかし踊る人々と耐える人々とでは自ずと危険性に差があるから、シーナの感染している可能性はさらに低いだろう。だったら第三波の真っ最中という体裁の悪いタイミングだが、帰省したってかまわないじゃないか」
と思っていたのです。しかし完全に様相が変わりました。

 全国知事会が暗に“帰省してはダメ”と言い、小池東京都知事が、
「年末年始は『家族でステイホーム』に、ぜひとも協力いただきたい。買い物や通院など『どうしても』という場合を除いて、外出はぜひとも自粛をお願いしたい」
と呼びかけた以上、何も考えずに帰省というわけにもいきません。
「お正月は田舎で、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に」
は通院や買い物と肩を並べるには、あまりにも不要不急です。

 周囲を見回して職場の人々やママ友、SNSでつながる友人たちの話を聞いても、あっちでも断念こっちでも「帰りまテン」では、その中にあって「帰ります」とはとても言えない。
 黙っていれば分からないという理屈は、5歳のハーブは保育園できっとしゃべるに違いないという現実的な面を差っ引いても、背負い続けることのできるものではありません。

 

【アキュラの場合、シーナの場合】

 アキュラの住む熊本は東京の多摩地区よりさらに感染率は低くなります。しかし根に妙に生真面目な部分を持つこの息子は、「すべての人が自分は“感染者である”という想定の下に行動すべきだ」という話をどこかで信じているみたいで、私たち夫婦(高齢者だそうです)や祖母(93歳ですから本物の高齢者)に感染させるのではないかと本気で恐れているのです。
 もっとも感染リスクを負いながら苦労して帰省しても、友だちと飲んで話に花を咲かせるわけにもいきませんから、重症化リスクの高い私たちと一週間も過ごして帰るだけならそれもかわいそうです。
 独りぼっちの大晦日は気の毒ですが、感染させる心配がないという意味では気楽でいいのかもしれません。

 ところでアキュラの断念はかなり自主的なものでしたが、シーナの断念理由は主に「周りが次々と帰省を取りやめている」「みんな我慢している」「それなのに私たちだけが帰るわけにはいかない」という、人間関係、社会関係から来ているものです。周囲のことを気にしさえしなければ、私と同じように感染の可能性は極めて少ないと考えている娘ですから、帰って来たと思います。

 そこで思ったのですが、日ごろから日本人の同調圧力について問題視している皆さんは、この事態をどう考えるのでしょう?
 シーナが直接「みんなに合わせて帰省を見合わせろ」と言われたわけではないので、同調圧力の問題とは言えないということなのでしょうか、それともシーナは無言の同調圧力に屈して自己を曲げたということになるのでしょうか?

 

【何か奇妙な言い回し】

 同調圧力についてよくわからなくなったのはこの4月、自粛警察が問題になったときのことです。これを扱ったニュースの終わりで女性アナウンサーが、
「私も人ごみでマスクをしていない人を見ると、思わず視線がきつくなったりしてしまいます。気をつけなくてはいけませんね」
とまとめたのですが、それがどうにもしっくりこない。

 言い換えて見ましょう。
「人ごみでマスクもせず咳き込んでいる人がいたとしても、温かい目で見守ってあげましょう」
「犯罪に走るような人たちは、たいてい不幸な生い立ちをしているものです。罪を憎んでひとを憎まず。警察に訴えるようなことをしてはいけません」
「政府が自粛を呼び掛けていたとしても、それに応じるか応じないかは個人の自由です。法律ではないのだから、彼らが群れようがマスクをせずに大声で叫んでいようが、冷たい目で見てはいけません」
 何か変ではありませんか?