カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「コロナのおかげで年賀状の書けない人がいる」~ほんとうに何もなかった一年

 いよいよ年賀状も締め切り間際。
 毎年、近況報告のような賀状を書いているのだが、
 今年はコロナ、コロナ、コロナで、書くことがない。
 いったいどうしたらいいのだろう。

という話。

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【私のつくってきた三種の年賀状】

 12月も20日を過ぎて、いよいよ年賀状も締め切り間際となりました。私が自分自身に課した締め切りは12月24日。毎年クリスマスカード代わりにイブの日までに作成しています。

 例年、作ることにしている年賀状は2種類。
 ひとつは私自身の一年間を振り返るもので、できごとを1月から順次数え上げて一つひとつにコメントをつけるものです。3年前の戌年はこんなふうでした。

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 最近は老眼の進んだ友人たちからの厳しい声も聞かれるようになっているのですが、自分自身の記録の意味もあって、こうした形式はもう30年以上も続けています。

 もうひとつは家族に関するもので、一人ひとり名前を挙げて、近況を4行程度で記しておきます。主として親戚や家族ぐるみの付き合いのある相手に送るものです。
 Web上に出しやすいものをということで、さらに一回り昔の2006年のものを載せておきます。もちろん本名や素性のバレそうなところは仮名や伏字にしてあります。

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 まだ担任を持っていたころには「児童生徒からもらった賀状の返事」というのもありました。これも2006年のものが扱いやすいということで、載せておきます。それぞれの年の干支に関するウンチクで埋めています。
 かつての教え子たちもみんな大人になってしまったので、いまはこうした賀状をつくることはありません。

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 今年も2020年の年の瀬を迎え、さあ取り掛かろうと思って――ハタと立ち止まってしまいました。
 書くことがないのです。

【農業日記か介護日記か】

 今年あった思い出に残る出来事と言えば、2月末に行った初めての5泊6日の九州旅行です。
 もともと夫婦で忙しがっていて旅行などほとんどしない家庭で、泊を伴う家族旅行はディズニーランドとUSJに合わせて3回。それと娘が結婚する直前の家族解散旅行でそれぞれ一泊しただけです。
 退職後は温泉好きの義理の兄弟に連れられて、近場の一泊ということもありましたが、5泊6日の家族旅行など空前(そしてたぶん絶後)ですから、十分に年賀状に値する大事件です。

 で、それを書いて次は・・・と考えると、あとはひたすらコロナ、コロナ、コロナ。自粛、自粛、自粛。
 子どもや孫たちとは半年以上会っていませんから、家族の様子も報告のしようがありません。

 もちろん一年間、何もしないで生きてきたわけではないので、ムリをすれば書けないわけではないのですが、おそらくでき上るのは小さな畑でやってきた「農業日記」もしくは母の「介護日記」くらいなものです。実に味気ない。

 ああ、そうこうするうちに今日は22日。
 年賀状、ほんとうにどうしたらよいのでしょう?

「教師の首に突きつけられる匕首」~35人以下学級が始まる

 小学校の35人以下学級が始まるらしい。
 一方で熱烈歓迎みたいな扱いをされているが、実際は焼け石に水
 それどころか、
 楽にしてやった分、教育の質も上がるはずだと、
 教師の首に突きつけられた匕首
という話。

f:id:kite-cafe:20201221080805j:plain(写真:フォトAC)

【35人以下学級制度が始まる】

 頭と心を新型コロナに奪われている間に、社会ではさまざまなことが起こっています。そのひとつは学校の長年の夢だった一クラスの定員の引き下げです。

 先週17日(木)、文科省の荻生田大臣と財務省の麻生大臣との折衝で、小学校の一クラスの定員を5年かけて35人以下に引き下げることで合意しました。文科省は小中ともに30人以下を要求したのですが、そこにまでは至りません。

 これを受けて学校もマスコミもお祭り騒ぎで、例えば産経新聞2020.12.17『「よくぞやってくれた」35人学級に保護者ら歓迎の声』)では、堺市の小学校長が、
「よくぞやってくれた」と歓迎。「子供1人1人の活躍の機会が増える。教師はきめ細かい指導ができる」と話した
とか。
 大阪市の教頭も、
「担任が児童と関わる時間を増やせる」「配慮が行き届き、学力の安定や保護者の安心にもつながる」
と歓迎の声を上げています。
 さらに東大阪市の女性教諭は、
「40人と35人では、子供に割ける時間も力も全然違う」
 大阪府の30代教諭も、
「40人の子供には、勤務時間中に対応しきれない」
 保護者たちも、もろ手を挙げて歓迎している様子が紹介されています。

 しかし私は、これがほんとうの話かどうか、かなりまじめに眉にツバをつけて聞いているのです。

【35人以下学級でも変化は緩慢】

「40人と35人では、子供に割ける時間も力も全然違う」
 たった5人の差がそこまで大きなものですか?
「40人の子供には、勤務時間中に対応しきれない」
 35人だったら勤務時間中に対応できるのですか?

 実は35人以下学級というのは「児童数が35人を越えたらクラスを割りなさい」という制度ですから、1学年の児童数が35人だったら1クラスのまま、36人になったら18人ずつの2クラスになります。担任ももう一人入ります。
*これについて昔、「良い子30人と悪い子6人の二クラスに分けたらどうか」と本気で考えたことがあります。もちろん私はどちらの担任であっても構わないのですが。
*1学年が70人を越えたら2クラスでは収容しきれませんから、3クラスにします。その場合は23人・23人・24人といったふうにするのが一般的です。

 産経新聞のインタビューに答えた二人の先生は、それが念頭にあって劇的に余裕が生まれるような言い方をしたのでしょう。しかしそんな大げさな変化は実際には起こりません。

 ニュースによると、文科省は35人以下学級を来年度から5年かけて小学校全体に広げると言っています。実は現在でも小学校1年生だけは35人以下ですので、来年度は新1年と新2年が同時に35人以下になることになります。つまり2年生以上では何の変化も起こらないということです。
 再来年は新1年から新3年まで、さらに翌年は4年生までが35人以下学級となる、というふうに順次のばしていって、5年間で全学年に生き渡ることになるのです。
 ということは現在40人の学級は卒業まで40人のままだということで、一村一校みたいな地域で中学校に進んでも40人だったら、そのクラスは最後まで40名のままということになります。担任教師も、児童生徒と一緒に進級している限りは、劇的な変化を味わうことはありません。もちろん下の学年に移れば別ですが――。

【35人以下学級でもそれほど楽になるわけではない】

 私は38人の学級担任から、転任のために13人のクラスの担任に変わったことがあります。
 それはもう劇的に事務処理は少なくなります。日記を見るのも通知票を書くのもテストの採点をするのも、すべて三分の一程度で済むのですから。

 しかし児童が三分の一だからといって国語の授業を三分の一に減らせるわけでもありません。
 児童のための授業プリントは印刷時間こそ三分の一ですむものの、原稿の制作時間は一緒です。家庭訪問も懇談会も確かに三分の一ですが、その分、通り一遍では済まなくなります。
 それがきめ細かい指導ということなのかもしれません。しかし対象の人数が減った分だけ内容が深まるなら、結局教師の多忙には変わりはないことになります。実際に事務処理の楽になった分は他の仕事に吸収されてしまいます。
 しかも私が13人のクラスの担任だったのは、今から四半世紀も前の話で当時は今よりもずっと余裕があった時代です。

【教師の首に突きつけられる匕首

 産経新聞が『「よくぞやってくれた」35人学級に保護者ら歓迎の声』とはしゃいだ記事を書いた17日夜のNHKニュース9は、今回の35人以下学級のねらいについて、要領よく次のようにまとめていました。
「今回の定員の引き下げ、背景には感染拡大だけではなく、新たな時代を見据えた学びが次々と導入されている教育改革もあります。
 一方的な知識の詰込みではなく、子どもたちが対話をしながら思考力や表現力を育む教育が求められています。さらに情報化や国際化の流れに対応できるよう、今年度から高学年では英語が教科に、プログラミング教育も必修化されました。今、現場はこうした新たな学びへの対応に追われています」


 その上で、夜の10時過ぎまで小学校英語の教材づくりに励む先生の姿や、いきなり児童数分のコンピューターが送られてきて、その初期設定ができずに苦労している先生の姿が映し出されていました。
「子どもたちのために仕事をしているのに、これ(小学校英語やプログラミング学習の準備)で圧迫されて、明日の準備に影響が出るようなら逆効果」
とは、そこにいた情報教育担当者の弁です。
「(新しい学びのために)放課後の仕事の量も変わってくるし、授業中のみとり、一人ひとりへの対応も変わってくるので、少人数学級が実現してもらえたらうれしい」

 しかし少人数学級が実現したところで、次々と導入される新たな学びによる負担が減るわけではありません。
 マラソンの40km地点でフラフラになっている選手に栄養ドリンクを渡して、
「さあ楽にしたんだから金メダルを目指して走れ!」というようなものです。
 キジでもサルでもイヌでもないのに、キビ団子ひとつで命を懸けさせられる――。

 そういえばニュース9の有馬キャスターも、
「教員にゆとりが出れば、学びの質は上がるはず」
と教師の喉元に匕首を突きつけ、和久田キャスターも「ぜひ(35人以下学級が)学びの質が上がること、なにより子どもたち一人一人の成長に繋がって欲しいと思います」
とか言ってまとめていました。

 アメを渡されてヘラヘラしているとムチでブン殴られる世界の話です。
 

「踊る人々、耐える人々」~コロナ禍のもと、年末年始をどう過ごすか③ 

 もしかしたらファクターXなどなくて、欧米よりはマシだとしても、
 これから大変な感染拡大が始まるのかもしれない。
 しかし国民のすべてに自粛を呼び掛けるのも無意味だ。
 踊る人、耐える人、双方に呼びかけるべき別々のことがある。

という話。

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(写真:フォトAC)

コロナウイルスは浴室の黒カビ】

 昨夜は「東京都 新型コロナ 新たに822人感染確認」のニュースでかなりへこみました。
 700人台は一回もないまま、一気に800人台です。今週は月曜日から300人台、400人台、600人台、そして800人台ですから、これから先どれだけ伸びて行くか分かりません。

 海外ではヨーロッパの大国で唯一危機を凌いでいたドイツが、ついに堤防を決壊させたみたいに爆発的感染拡大を起こしていますし、韓国も三日連続で1000人以上の感染者を出しています。
 私は韓国に対してある種の信頼を寄せていて、「自由主義でもあそこまで国家に情報を提供すれば感染拡大は防げる」という手本のように思っていたのです。その韓国ですらダメなら、何をやってもダメという気もしています。

 今でも感染者・死者の極端に少ない国・地域はありますが、台湾もベトナムニュージーランドもアフリカの小国の多くも、何か特別なことをやってきたわけではなく、2月~3月という極端に早い時期に厳しい出入国制限を始めて、とにかくウイルスの一粒も入れまいとしたことが勝因ではないかと思っています。

 浴室の黒カビと同じで、「何となく壁がくすんでいるかな?」という段階で丁寧に除菌して、あとは毎日水洗いをしていれば何ということはないのに、いったん全体にはびこらせてしまうと何度カビ取り作業をしても繰り返し生えてくる、あんな感じです。

 もちろん一カ月くらい入浴禁止にして毎日大量の塩素を降りかけ、そのつど丁寧に乾燥させるようなことを続ければ完全制圧も夢ではありませんが、国家の洗浄ということになるとそんな荒療治ができるのは一部の社会主義国くらいのものでしょう。
 ちなみにベトナムは一人でも感染者が見つかるとそのアパート一棟が丸々ロックダウン、村部だったら一か村まるごと封鎖だそうです。中国は言うまでもありません。

【ファクターXなんてなかった(のかもしれない)】

 日本についても、もしかしたら山中伸弥先生のおっしゃるファクターXなんてものはなく、たまたまマスク好きの国民性と花粉症の時期とがかみ合って、みんながマスクをしていたから黒カビの蔓延・定着を防げたというだけのことかもしれません。しかし10カ月の間に次第に蓄積し、壁の奥深くに根を広げた黒カビはついに一斉に胞子を撒き散らし、東京では1日に800人越え、全国で3000人越えという感染者を発生させるに至った――そうことなのかもしれないのです。

 もちろん相変わらず日本人はマメにマスクをつけていますからヨーロッパや南北アメリカのような悲惨なことにはならないでしょうが、それでもこれまでのように、
「たいそうなことはしなくても、このまま何とかなるんじゃネ?」
といった雰囲気ではいられないのかもしれません。

 このまま東京の一日あたりの感染者が1000人だの1500人だのということになったらあの都知事のことですから、
「トーキョー、ロックダウン。おウチを出てはいけません」
くらいのことは言い出しかねせん。
(もちろん本気でそう思っているわけではありませんが)
 そうなったら2021年の正月を家族で過ごすという私の夢も雲散霧消です。

【感染者の内訳を考える】

 ところで、現在爆発的に増加しつつある新型コロナウイルスの感染者、その内訳はどうなっているのでしょう? 年代別の数字は繰り返し報道されるのですが、男女別・職業別といった統計は見たことがありません。独身者か家族持ちかといったことはけっこう重要ではありません? 職業だって。

 例えば、私が感染拡大地域に住む家族持ちのサラリーマンだったら、コロナに対してかなり慎重になると思います。とにかく家族に迷惑はかけたくありません。それが第一の理由です。
 会社でうつされるのは仕方ないにしても、「会社で最初にコロナを持ち込んだ人間」には絶対になりたくありません。感染者を差別するなとは言いますが、私がコロナを持ち込んだばかりに企業活動が停滞し、顧客に迷惑がかかったとなると、それでも素直でいるのは誰にとっても難しいことでしょう。
 数年後、業績も実力も同じ誰かと出世を争うとき、最後の決め手が「危機管理能力」になることだってあり得ます。

 そう考えるとマスク・手洗いは徹底し、通勤電車内では息もしないように心がけ、家人にもうるさく言い続けるに決まっています。外食・会食・宴会等には不参加が基本となります。もっとも、会社から家庭に直行といっても、そこには家族とともに過ごす楽しい時間もありますから、極端な感染対策も苦しくありません。

 一方、私が地方からで出てきてアパートに住む、もちろん独身の大学生だったらどうでしょう? おまけに授業はリモートだとしたら――。

 三食作って食べるなどという生活スキルはありませんから最初はコンビニ弁当かホカ弁・レトルト、しかしさすがに10カ月にもなると耐えられなくなります。
 一日部屋の中で過ごして会話というものがほとんどない。リモート授業で発言はしますが、そんなの会話じゃない――と、そこに友だちからの誘いがあって、西村大臣も「5人以上がすべてダメというわけではない」とかおっしゃっていましたから出かけることにして、一次会、二次会、さらには酔ったついでのカラオケ。気がつけば午前5時で、なんだか寒気がして熱っぽくもなってきた――そういうことだってあり得ます。

――とここまで書いてきて、気づいたことがあります。

【それぞれのコロナ、それぞれのリスク】

 昨日の段階で、東京都の直近一週間の感染者数は10万人あたりで28・9人です。これは偶然会った東京都民の、感染している確率が0・0289%であることを意味します。しかし現実には先ほどの“家族持ちのサラリーマンの私”と“一人暮らしの学生である私”とでは可能性に大きな差があります。
 あるいは同じサラリーマンでも、独身者と妻帯者・子持ちとでは違うでしょうし、社員数10万人といった大企業の社員と、全員の顔が見える20人規模の会社員とでは、当然行動様式も感染リスクも異なってきます。

 リモートワークは企業や社会を守ることには役立つかも知れませんが個人を守るかどうかは分かりません。私が独身のサラリーマンで、アパートでリモートワークだけを続けていたとすれば学生生活と変わりないようなものです。孤独に耐えかねて行ってはいけないところに繰り出してしまうこともあるでしょう。

 最近の傾向として職場内感染と家庭内感染が中心となっていると言いますが、飲食店や接待を伴う飲食店も人によっては“職場”です。オフィス街の雑居ビルの一室が“職場”という人もいれば、だだっ広い工場や倉庫で、わざわざ歩かないと隣の人と話もできない“職場”もあります。
 家庭内だって例えば、夫婦ともに医療関係ということだと超危険で超安全(職場リスクの高い分、家庭内の防疫意識も態勢も万全)と言えますし、このコロナ禍でも毎日飲んで帰るのが楽しみという構成員が一人でもいれば、その家はかなり危険です。

 私のような田舎人からみると都会人は全員が“怪しい人”ですが、内実としてはかなりの差がある、そう考えて間違いはないようですが、すると、どうなるのか。

【踊る人々、耐える人々】

 小池都知事は以前、「ダンス&ハンマー」という言葉をつかいました。
「感染者が少ない状況では経済を活性化させるために踊らせ、感染者が増えたらハンマーで叩く」というずいぶん上から目線の考え方です。
 しかし現実としては都内に、あるいは全国にも、ずっと踊りっぱなしの人とハンマーの下で耐え忍び続けている人とがいるのです。前者を押さえるのも難しければ、後者を踊らせるのも厄介です。

 今は感染拡大の時ですから踊る人々を押さえるしかありません。
 耐え忍ぶ人たちに対してやれることはないのです。この人たちは一度だって気を緩めたことなどないので、前者と一緒くたにして「気の緩み」などとは言ってはいけません。いつも誉めてあげなくてはならない人たちです。

 感染拡大が止まらないのは踊る人々が浮かれすぎたからです。
 しかしこの人たちだって大切でしょ? 一晩に二軒も三軒もハシゴしてカラオケで朝まで遊んでくれるような人がいるから、飲食や観光娯楽業の人々は潤うのです。生きていけます。
 まだ十分に企業体力のあった4月ならまだしも、青息吐息でようやくここまでたどり着いた今、こうした警戒心の薄い人たちこそ救世主です。

 そう考えると踊る人たちは、ただ押さえつけなくてはいけない対象ではなく、“いまは控えていただく人”ということになります。誰にでも役割はある、しかし今は出番ではない。
 やがて感染が治まってきたら、その時こそあなたたちの活躍の時です。どうか死ぬまで飲んで、死ぬまで歌ってください――そんなふうに呼びかけ、現在の自粛をお願いしなくてはならないのは、こうした人たちです。

(この稿、終了)

「誰にでも役割がある」~コロナ禍のもと、年末年始をどう過ごすか②

 田舎では人々が戦々恐々として暮らしているのに、
 都会では毎日飲み歩いているバカがいる
 ――と田舎人は感じていたが、結局、
 「結局、都会でも田舎でも、自粛する人は一貫して自粛し続け、
 警戒心の薄い人はどこにいても飲みに行く、遊びに行く」
 それだけのことだ。

という話。

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【昨日の嘆き】

 昨日は、
「新型コロナの感染者がほとんどいない田舎で私たちがこんなに気を遣っているのに、直近1週間で10万人あたりの感染者数が23・8人にもなる東京のど真ん中で、夜の繁華街に繰り出して仲間と酒を飲んでいるなど、都会人は何をしているんだ」
と怒鳴り上げたあと、
「しかし10万人あたりの感染者数が23・8人という状況は100人あたり0.0238人、つまり目の前の東京人が感染している確率は0・0238%ということ。これでは深刻になるのは難しいよな。もう10カ月以上続いているのだから、緊張感を持続させるのも難しいしね」
と理解を示し、
「しかし状況はますます悪くなってこのままでは娘も息子もいつまでも帰省できず、1歳の孫はどんどん違う人間になってしまうし、93歳の母は孫やひ孫に会うことなくコロナ以外で死んでしまいかねない、どうすりゃいいんじゃ!」
と嘆きまくって話を終えました。

「理解はするけど都会人よ。
 もうちょっと頑張ってもらえないものか!」

 ところが昨夜のNHKニュースウォッチ9を見て、“ああこういうことなのか”と考えさせられる場面があったので紹介します。


【二極化、一方はすでに限界が来ている】

 それはNHKが人の移動に詳しい専門家としてインタビューした早稲田大学佐々木邦明教授の次の言葉です。
「自粛の呼びかけがそれほど大きな効果を持たなかったのは、そういったものを非常に気にしている人はすでに自粛しているだろうし、そうでない方は外出しているということ」
だから今後のGoToトラベルの
「事業の停止は、自粛よりインパクトが大きいと思う」

 ああ、そうだ。
 やる人は既にやっている、しかもずうっとやっている
のです。これ以上自粛しろと言われてもやることがありません。
 街頭のインタビューでも、
「不要不急の外出の自粛、手洗い、マスク、換気、これ以上なにができますか?」とか、
「『勝負の三週間』と言われても新たに取り組むことは何もありません」とか、
そういう人はいくらでもいます。

 しかし他方には「ずっと家にいるとストレスが溜まっちゃって――」という人もいます。
 先月、テレビのインタビューを受けていた男子大学生は、熱があるのに友だち7人と居酒屋に行き、うち3人は帰宅したものの残り4人と二次会、続いて朝までカラオケと遊びまくった挙句、後日4人全員がPCR検査で陽性になったと言います。
 親と同居していましたから家族全員が濃厚接触者となってしまい、父親と兄は会社を欠勤。学生4人が感染者となった大学でも講義が延期となります。本人はメチャクチャ反省していましたが、こんなふうに事前に想像力が全く機能しないという人も世の中に入るのです。

 したがってさらに踏み込んで今以上の自粛、となると、こういった今までほとんど自粛してこなかった人にしてもらうしかないことになりますが、その点で今回は甘かったのかもしれません。

 4月の緊急事態宣言下では「人との接触を8割減らせ」といった恐ろしい数値目標が掲げられ、全国の“自粛警察”が営業を続けるパチンコ屋に大挙して押しかけたり、県外ナンバーの車を傷つけたりといった過激な行動に走ったりしましたから、さすがに能天気な人でも自粛せざるを得なかったのでしょう。ところが 今回はそこまでの圧力はありませんでした。
 GoToイートもGoToトラベルも続いていて、「経済を回せ」は社会全体の、そして自らに厳しい自粛を課さない人たち取っても、大義名分でした。

 では今回も4月同様、明確な数値目標を示し、自粛警察を呼び起こして厳しい自主管理をやればよかったのかというと、そうとも言えないので困ります。


【誰にでも役割がある】

 映画「ロード・オブ・ザ・リング」で、主人公たちの後をつけてきた怪人ゴラムに気づいた主人公が「もっと早くに殺しておけばよかったんだ」と言うとリーダーの魔法使いが、こう答える場面がありました。
「死に値するものが生き永らえ、生きていて欲しいものが死ぬ。しかしお前は死者に命を与えられるのか?
 軽率に死の判定を下してはいけない。善か悪か分からないがゴラムも役目を持っている。それが何かはやがて明らかになるだろう」

 そして物語の最終盤で、あれほど無意味と思われたゴラムの存在が、決定的に重要な役割を果たすのです。

 同様に、第三次感染拡大のさなかにも関わらず毎晩のように飲みに出かけ、大声でしゃべり、歌い、感染を広げるかもしれないということに想像力の働かない人たちも、一定数いる以上、何らかの社会的役割があるのかもしれません。

 彼らは必要だから存在する、そう考えると怒るのではなく、別の方策を考えようという気持ちに傾いていきます。

(この稿、続く)
 

「家族がもたない」~コロナ禍のもと、年末年始をどう過ごすか

 新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。
 一方でコロナ感染に神経質な人もいれば、他方に能天気な人がいる。
 ほとんど感染者のいない田舎で戦々恐々としている人々がいるかと思うと、
 都会では毎日飲み歩いているバカがいる(と田舎人は感じている)。
 こんな状況で帰省が規制され、家族がもたない――。

という話。

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【痴呆が進みそう・・・】

 高校時代の同級生で、大人になってからはふた月にいっぺんずつ会って飲んでいた友人たちと、もう4カ月も会っていません。というか、この一年間で会ったのはたった一回でした。

 1月の新年会を当番の勘違いで流してしまい、3月の当番はきちんとやろうとしたのですが新型コロナの第一波で流会。5月は私が当番で6月初旬まで粘ったのですが感染が落ち着かず断念。7月の当番は何とか実施にこぎつけたものの、9月の当番は早々に断念(これには批判が集まった)。11月の当番もさっさとやめてしまい、忘年会の係はやる気満々だったのですがさすがに巨大な第三波に飲み込まれて流会。
 2021年の新年会の係も早々に中止を伝えてきたのですが、「2月でもいいので、もう少し様子を見よう」と要求する声もあって、現在、少々もめているところです。

 考えてみるとこの数カ月、買い物での店員とのやり取りや電話でのさまざま勧誘を除けば、私は毎日会っている母と妻以外とはまったく会話をしてこなかったことになります。
 そんなことがこのさき半年以上も続くのでしょうか?

 年寄りには「きょういく」と「きょうよう」が必要だと言います。「今日、行くところ」「今日やる用事」のことです。しかし行って黙って仕事をして、黙って帰ってきても大した刺激にはなりません。「人間」は「人との間」が生命線ですから、言葉を交わしてこそナンボなのです。
 今回のコロナ禍でデイサービスなどに通えなくなったお年寄りや、家族と会うことのできなくなった施設の入居者に、深刻な認知症の進みがあると言います。さもありなんと思います。

 さて、
(いま私は腹の底から溶岩のようにせりあがってくる怒りを抑えながら話しているのですが)
 先日、東京で飲食店の10時までの時短営業が始まったというニュースを見ていたら、そのことを忘れていた若い女性3人組が居酒屋の入り口で断られている場面が出て来ました。直前は同じ店でラストオーダーを頼む男性の映像でした。
(プチン←頭の中で何かがキレた音)

 私は叫びたい!!
 直近1週間の10万人あたりの感染者数が0・39人しかいない田舎の都市で、私たちがこんなに気を遣っているというのに、東京のど真ん中、10万人あたりの感染者が23・8人もいる場所で、オマエたちはいったい何をやってるんだ!!

【都会人が疎ましい】

 これは妻の目撃談ですが、先日、信号待ちで前の車を見たら、テールランプ横に不釣り合いに大きなステッカーが貼ってあって、読むと、
「東京ナンバーですが、住民票も移した○○県の住民です」
と書いてあったそうです。ひところ県外ナンバー車は傷つけられるという噂があり、そのための対策なのでしょう。

 観光収入は大切なので都会人に来るなとは言いませんが、さっさと来て、さっさと金を使って、さっさと帰ってほしいと本気で考えている人も少なくないでしょう。さらに言えば、金を落とす見通しのない来訪者、具体的に言えば帰省する学生、里帰りの子どもたち・孫たちは、とりあえず今年は帰って来なくていいと思っている人も少なくありません。
 親が自主的に子に向かって「来るな」というのはかまいませんが、社会の目として都会に親せきをもつ家庭に冷たい目を向けるのは問題です。
 けれど「問題です」と言えば冷たい目がなくなるわけではなく、私自身が、
「都会の飲み屋街で毎晩飲み歩いているアイツらはなんだ」
と思うくらいですから実際に都会人を煙たく見る目はあるのでしょう。
 もちろん田舎の繁華街にも飲み歩く人はいますが、こちらはまだ10万人あたり0・39人というレベルです。どう考えてもそう簡単に感染したりはしません(という言い訳が発動します)。

【意識はあまりにも違う】

 一方、東京に住む娘のシーナの話を聞くと、あちらの雰囲気はだいぶ違うようです。
 東京といっても多摩の外れですので10万人あたりの感染者も12人程度。渋谷あたりでインタビューを受けているサラリーマンですら、「同僚にも知り合いにも感染者が出たという話がないので、何かピンときませんねぇ」と答えるくらいですから、多摩などコロナのどこ吹く風――といった感じで、実感としての危機意識などさらさらないようなのです。

 考えてみれば4月の緊急事態宣言で新宿や渋谷がゴーストタウンみたいになった日から9カ月あまり、その間、完全に気を緩めた日は一日もなかったわけですから緊張感の持続しようがありません。

 しかも、私の街からみれば東京は60倍以上も危険(23・8÷0・39)ということになりますが、「10万人あたり23・8人」は「100人当たり0.0238人」。つまり誰と会ってもその人が感染している確率は0.0238%しかないのです。これでは普通に生活していては濃厚接触者になることすら難しい――危機感の薄れるのも無理ありません。

 「最近は特に家庭内感染が中心になっている」という情報もありますが、おそらく家庭にウイルスを持ち込んだ人たちには共通の特性があるはずで、「外飲み」が好きだとか会食の機会が多いとか、あるいは仕事上不特定多数と接触せざるを得ない人とか、こういった人々は濃厚接触者になる確率は高く実際に感染する人も多いでしょう。
 けれど正反対の人だっています。

 ああ、何を私はくだくだ言っているのでしょう?

【家族がもたない】

 県のサイトを見ると正月帰省について、
「できるだけ同居の家族で穏やかに過ごしてください」
「帰省に関しては、特に感染拡大地域からの帰省や、重症化リスクの高い方の家への帰省は、十分に慎重な判断を」

とあります。
 慎重な判断を――そうこうしているうちに弟のアキュラの住む熊本県も昨日の段階で10万人あたり10・87人。シーナの住む街とほぼ同等の感染拡大地域になってしまいました。そのうえ私の県の一部では、東京全体をはるかに上回る感染地域まで出てきています。
 どうしたらいいのか?

 答えはもちろん分かっています。「誰も動くな」です。
 しかし5歳の孫のハーヴはまだしも1歳のイーツなどは3カ月会わずにいたら別人です。息子のアキュラとは10か月以上も会っていません。
 93歳の母は最も重症化リスクが高く、とてもではないがありませんが孫たちに会わせるわけにはいかないという考え方もありますが、一方、いま会っておかなければコロナ以外の理由で死んでしまう可能性だって十分にあるのです。

 何か本当に、このままだと家族がもたない気になってきました。

「ひきこもりのための第三の男と応援小人」~クローズアップ現代+「“こもりびと”の声をあなたに」より③

 何でも子ども優先に考えればいいというものでもないだろう。
 中にはとんでもない要求だってある。それは絶望からの叫びだからだ。
 もう親にできることはない。
 ここに至って必要なのは、第三の男と応援小人である。

という話。

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【親もたまったものではない】

 先週9日(水)のクローズアップ現代プラス(以下「クロ現+」)「“こもりびと”の声をあなたに~親と子をつなぐ~」に登場する当事者たちは、自分の非は語らず親のことばかりを非難しているように見えます。
「中学時代、学校を休みたいと親に伝えたところ、父親はその理由も聞かず、車に乗せ、学校に連れて行きました」
「面接に行って何回も落ちても、『お前が悪いんだ』『何でこんなこともできないんだ』ということも言われました」
「なんで私を生んだんだとも思いましたし、それでも一人の娘として、認めてほしかった」
「(一番絶望的な気持ちになったのは靴を買うという)親との約束を守ってもらえなかったときですよね」


 クロ現+ではないのですが類似の非難で記憶に長く留めているのは、30歳代で家庭内暴力のあるひきこもり男性の言葉です。
 みんなお前たちが悪いんだ! お前たちのせいだ! 
 お前たちのおかげで、オレはこんなふうになっちまっている。
 友だちもいない、学歴もない、何の知識も経験もない。こんなんでどうやって世の中に出ていけるというんだ。
 お前たちはなぜあの時――オレが学校へ行きたくないと言ったとき、首に縄をつけてでも学校へ連れて行かなかったのだ、学校へ行くことがどんなに大事かって教えなかったのだ。
 まさかお前たち自身が分からなかったというわけじゃないだろう。
 本当に愛情があったなら、子どもを学校に行かせるなんて絶対にできたはずだ。オレに泣いてすがってでも行かせようとしたはずだ。
 それをしなかったということは、結局オレのことなんてどうでもよかったってことだ。自分たちが可愛いくて、それでオレを放ったらかしにした。
 それでも親か!? それでも人間か!?
 いったいどういうつもりでオレを産んだんだ? どういうつもりでこんな人間に育てたんだ!?


 9日のクロ現+は、ひきこもりの子をどう理解するかという立場からの構成でしたから子を非難するような発言は出て来ませんでした。しかし親からしたらたまったものではないでしょう。
 一方に、
「学校を休みたいと親に伝えたところ、父親はその理由も聞かず車に乗せ、学校に連れて行きました」
と言う女性がいて、他方に、
「なぜオレが学校へ行きたくないと言ったとき、首に縄をつけてでも連れて行かなかったのだ」
と叫ぶ子がいるのです。いかに答えのない問題とはいえ、これでは動きようがありません。しかも取り返しのつかない時期になってこんなふうに言われるのです。

【一人では担いきれない絶望】

 ただし親を非難するこの人たちも、自分が理不尽な要求を突き付けていることに自覚がないわけではありません。もう大人ですから十分に分かっているのです。

 それにも関わらずこんな言い方しかできないのは、彼らの背負っているものはあまりにも重く、分かっていても誰かに一端を背負ってもらわなくては押しつぶされてしまうからです。
 彼らはまさに、
友だちもいない、学歴もない、何の知識も経験もない。こんなんでどうやって世の中に出ていけるというんだ
という状況にいるのです。“未来”がまったくない。
 重荷の一部を背負ってもらうとしたらそれはもう親を除いては他にいません。学校の先生や友だちのせいにしてもいつまでもつき合ってくれるわけではないからです。
 ただし親のせいにしてもどこかに突破口が見えてくるわけではありませんし、親が妙案をもっているわけでもありません。
 どうしたらよいのでしょうか。

【第三の男】

「完全に煮詰まっている以上、ひきこもりが長期化した家の親に、できることはない」
――まずはそう覚悟をすることが大事かと私は思います。何とかなる可能性はゼロでありませんが、昨年(2019年)の元農水省事務次官による長男殺害事件のような極端な選択になる可能性も少なくないからです。

 親にできることがなく子が八方塞がりだとすると、あとは他人を入れるだけです。9日の「クロ現+」で5番目にインタビューを受けた母親は行政やNPOをくまなく訪ねても支援の窓口がなかったと嘆きますが、それでも諦めずに探すしかないでしょう。一度はダメだったとしても状況が変われば受け入れてもらえるかもしれません。
 悪名高い「引き出し屋」は論外ですが、きちんとした民間の自立支援施設もあるはずです。本人が行く気になったらすぐに対応できるよう、自分の目で見て確認しておくことも必要でしょう。

 問題は本人が“普通に生きていく道筋”をまったく思い描けないでいるということです。NHKドラマ「こもりびと」では、主人公が密かに行政書士精神保健福祉士といった資格を取ろうとしていましたが、資格を取ったところで実際の活動となると人づきあいのハードルの高さに変わりはありません。
 それよりも「友だちもいない、学歴もない、何の知識も経験もない」状況でも生きていける道筋があれば、そちらを先に探すべきでしょう。

 ファイナンシャルプランナーの診断の結果、親に多少の蓄えがあり持ち家さえあれば年収(月収ではない)40万円でも死ぬまで生活していけるという話は、それだけで私たちに勇気を与えます。

kite-cafe.hatenablog.com

 あるいは「クロ現+」で靴を買ってもらえなかった男性が保健所の支援を得て親子関係を組み直し、アパートで一人暮らしを始めるとともにNPOなどで働き始めたといった話も参考になるでしょう。
 NHKドラマ「こもりびと」でも、膠着した親子の関係に主人公の姪(父親にとっては孫)が割り込むところから事態は動き始めました。

 いずれにしろ小さな一歩、小さなステップを踏み出す力を、第三の人に与えてもらうのが可能性のある唯一の道のようです。

 もちろんだからと言って親が手を引いていいというものではありませんし、その後も長く見守っていく必要があります。
 いつまで?

【応援小人の話】

 先週12月8日、私はこのブログで次のように書きました。
 子育ても生徒指導も大切なのはいざというときの対応ではありません。どうでもいいときにどれだけ愛情を降りかけ、心を耕しておくかです。やり方がわからなければとりあえず言葉をかけておきましょう。
「お前が可愛い」「お前が大事」「世界で一番大切なのがお前」――。
「お前はすごい」「大したものだ」「ほんとうに感心する」――。

kite-cafe.hatenablog.com ところが同じころ、私の娘のシーナは自身のSNSにこんな書き込みをしていました。
 結局、どんなときも
「大丈夫だよー、それでいいよー、十分よくやってるよ~、そんなあなたが大好きだよ~」
って言ってくれる自分が、自分の中にいるか?っていう、それだけなんだけど


 親はいつまで見守ればいいのか。
 それは親ではなく、子どもの心の中にそんな自分を応援する「応援小人」が働き始めるまでです。

「子どもじみたあの人たちに未熟な印象がない」~クローズアップ現代+「“こもりびと”の声をあなたに」より② 

 先週9日(水)のクローズアップ現代プラスに登場したひきこもり当事者たち。
 彼らのことがまた理解できなくなってきた。
 彼らの言っていることは一見あまりにも幼い。していることも子どもじみている。
 それなのに“未熟”という印象がまるでないのだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20201214080100j:plain(写真:フォトAC)

 

【濃密な親子関係――自分はどうだったのか】

 先週9日(水)の「クローズアップ現代プラス(以下「クロ現+」)「“こもりびと”の声をあなたに~親と子をつなぐ~」を見て、最初に感じたのは「自分はこんなに濃密な親子関係を持ったことがあるのか」ということでした。

 父は私の覚えている限りいつも忙しい公務員で、家でゆっくりしていた記憶がありません。もちろん定年退職後は比較的ヒマでいましたが、そのころになると私の方が大人でしたから親子はあまり意識しないで済んだという事情もあります。一緒に住んだのは18歳の高校卒業までと20代最後の1年間だけ、それもあっという間でした。
 また、私は世間でいう“よい子”でしたから葛藤も生まれにくかったのかもしれません。

 自分自身が父親として子どもとの関係はどうだったかというと、これもあまりねちっこいものではありません。私は“我が子”という以上に“子どもそのもの”が好きでしたから関わった時間は平均よりはるかに多いはずですが、葛藤の記憶はあまりないのです。もちろん“葛藤”は一方だけが感じることもありますから、シーナやアキュラが何らかの屈託を抱えた時期のあった可能性も否定できません。
 機会があったら訊いてみましょう。その上で「クロ現+」に出てきた女性のように、
「なんで私を生んだんだとも思いましたし、それでも一人の娘として、認めてほしかったという気持ちもあった」
というような話が出てきたら根本から考え直さなくてはなりませんが、基本的に私についてはあんな濃厚な親子関係はありませんでした。おそらく一般的にもそうたくさんあることではないでしょう。子どもが小さなころならまだしも、ある程度の年齢になったらあれほど激しく親を追及し、親を恋うることもないと思うのです。


【“人のせいにしない”が精神的自立の指標】

 子どもの「精神的自立」について、私はかなり頑固な信念を持っていました。それは、
「自らの責任をきちんと引き受けることができるようになること」
というものです。もちろん反対側には「取る必要のない責任に対しては毅然として拒否できるようになること」というのもありますが。

 これは一種の指標で、精神的自立のできていない人間は簡単に割り出すことができます。何かあるとすぐに他人のせいにするのです。特に親のせいにする。
 したがって教師としての、あるいは親としての私の指導の中心は、自然と“責任の所在を明らかにすること”に傾いていきます。
 簡単に言ってしまうと「誰のせいかはっきりしろ」ということです。

 実は自分がそうした指導をしていることに気づいたのはずいぶんと後のことで、小学校のクラスで子どもと雑談めいた話をしている最中、何かを他人のせいにしかけた子どもに対して別の子が「誰が悪いんだ!」ときつ目に言ったときのことでした。あまりの勢いにびっくりしていると、自らフォローして「――と先生の口癖」とかわします。それで気づきました。


【重すぎる責任やお門違いの責任は負わせない】

 もちろん子どもたちの責任を追及するということは、大人としての自分の責任もきちんと追及するということですから、謝るべきところは平謝りに謝ります。それで五分の対応ができます。
 また、
「取る必要のない責任に対しては毅然として拒否できる」
がもうひとつの目標ですから、本人の責任ではないことや子どもには背負いきれない大きな責任を負わせないようにすることも原則です。

 話の流れを少し乱しますが、その意味で不登校に関して、
「学校に行かないという本人の選択を大切にしてやる」
という言い方には強く抵抗します。
 学校に行かないことによる利益もその子のものですが、行かないことによる不利益もすべて背負わなくてはならないとしたら、それはあまりにもかわいそうでしょう。

「クロ現+」の女性の父親のように、
「面接に行って何回も落ちても、『お前が悪いんだ』『何でこんなこともできないんだ』ということも言われました」
というのもダメです。面接に落ちるのは必ずしも本人の責任ではありません。「こんなこともできない」のは、父親がきちんと指導してこなかったからです(ということもあります)。
「責任をきちんと引き受けることができる子」を育てることが目標なら、その責任の重さをコントロールするのも親や教師の大事な仕事になってきます。


【子どもじみたあの人たちは未熟な気がしない】

 話がだいぶ遠回りになってしまいますが、私が9日の「クロ現+」を見て非常に戸惑ったのは、そこにある“激しく親を追及し同時に恋うる親子関係の濃密さ”が、まるで5歳児のそれと同じだと感じたからです。何かの失敗をしたときに「だってお母さんが〇〇したんだもの」と泣き叫ぶあれです。
 すこし年かさになってから、
「いま勉強しようと思っていたのにお母さんが言うからやる気がなくなった」
などと言うのも同じです。

 クロ現+に出てきた36歳の男性の、靴を買う約束をしたのに忘れられたからひきこもることになったというのはまさにそれで、ダダをこねているのでなければイチャモンの類です。それがどんなに大切な靴だったかと力説しても、最初に言っていなかったのだからダメでしょう。そのあたりのやり口も子どもっぽい。

 しかしだからと言って「クロ現+」に登場したひきこもり当事者は“未熟”だという感じはしません。 何でも親のせいにするのは精神的自立ができていない証拠だとも言いましたが、それも違う感じです。
 ではなぜあんな子どもじみた言動になるのでしょう。

(この稿、続く)