カイト・カフェ

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「3学期が始まります」~歳の初めに子どもたちに話すこと①

 3学期が始まる。
 学期の当初、新年の冒頭は、
 子どもたちに良い話をするところから始めたいものである。
 そんな場合のヒント。
という話。

f:id:kite-cafe:20210106154410j:plain(写真:フォトAC)

【3学期が始まります】

 いよいよ3学期が始まります。早いところでは明日から、あるいは明後日、来週の月曜日からというところもありそうです。

 例年なら小学生は書初めの宿題を抱え、中学三年生は受験に向けてフンドシを締め直して登校!というところでしょうが、今年は特に感染の拡大している地域では不安な始まりとなりそうです。
 しかしとりあえず新年。新しい歳、新しい学期、新しい自分という生まれ変わりのゴールデン・タイムです。時間に余裕があれば、「2021年の誓い」「2021年の目標」などを考えさせながら、新しい年を迎えた、新しい心構えをさせたいものです。

 年初にあたっての担任講話というのも大切です。相手は思った以上に清新な気持ちで登校してきますから、そのまっさらな心と耳に、美しい言葉を流し込みたいものです。けれどうまく話題が見つからないとき、私は毎年、干支に関する知識をしこたま詰め込んで、それをヒントに講話を始めたものです。

【牛に関することわざ・熟語】

 牛に関することわざ・熟語・言いまわしについては、ちょっと検索するだけで次のようにいくつも出てきます。
 鶏口牛後(けいこうぎゅうご)
 鶏口となるも牛後となるなかれ(けいこうとなるもぎゅうごとなるなかれ)
 角を矯めて牛を殺す(つのをためてうしをころす)
 草木も眠る丑三つ時(くさきもねむるうしみつどき)
 牛に引かれて善光寺参り(うしにひかれてぜんこうじまいり)
 汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)
 九牛の一毛(きゅうぎゅうのいちもう)
 風する馬牛も相及ばず(ふうするばぎゅうもあいおよばず)
 風馬牛(ふうばぎゅう)
 商いは牛の涎(あきないはうしのよだれ)
 牛に経文(うしにきょうもん)
 牛に対して琴を弾ず(うしにたいしてことをだんず)
 牛は牛連れ、馬は馬連れ(うしはうしづれ、うまはうまづれ)
 牛も千里、馬も千里(うしもせんり、うまもせんり)
 牛を馬に乗り換える(うしをうまにのりかえる)
 馬に乗るまでは牛に乗れ(うまにのるまではうしにのれ)
 馬を牛と言う(うまをうしという)
 馬を牛に乗り換える(うまをうしにのりかえる)
 馬を崋山の陽に帰し、牛を桃林の野に放つ(うまをかざんのみなみにきし、うしをとうりんのやにはなつ)
 馬を買わんと欲してまず牛を問う(うまをかわんとほっしてまずうしをとう)

 その中で私が知っていてすぐに説明できるものはごくわずか、最初に並べた五つだけです。しかも「鶏口牛後」と「鶏口となるも~」は同じものですから、実質的には四つしかないことになります。
 「牛に経文」と「牛に対して琴を弾ず」はたぶん「馬の耳に念仏」と同じ意味で、「牛は牛連れ、馬は馬連れ」「牛も千里、馬も千里」「牛を馬に乗り換える」なども何となく意味が想像できますが、十分に咀嚼できていない言葉を使おうとするぼろが出ますから、最初の五つから話題を探します。

【鶏口よりも牛後が向く人間もいる】

 鶏口牛後は本来「大きな集団の端っこでこき使われるよりも、小さな集団であっても長となるほうがよい」ということですが、しばしば「トップグループの最後尾よりも第二グループの先頭の方がよい」といった形で誤用されることがあります。
 高校受験の指導の際に担任が「無理してA高校に行かなくてもお前の成績ならB高校に行けばトップになれる。鶏口牛尾と言うように、牛のしっぽでいるよりも鶏の頭でいるべきだよ」とアドバイスするのがそれで、おそらくこれだと内容的にも間違っています。というのは世の中には牛の尻尾が似合っていて、“鶏口のつもりで二番手校に進学させたら、いつの間にかその高校の尻尾に収まっていた”という例がいくらでもあるのです。

 高校入試のランキングなんて基本的に輪切りですから、それはもちろんトップ校の最上位には先生よりも頭の良い天才児が山ほどいて学力は天井知らずですが、二番手、三番手、それ以下になると、成績の上も下も切り取られていてトップ合格の子も最下位合格の子も、点数でみるとほとんど差はないのです。それ以上に成績の良い子は上のランクの高校へ、それよりも低い子は下のランクの高校へ行っています。
 ですから鶏口で入学した子も、ちょっと油断しているとアッという間に鶏の尻尾で、1年間ほども尻尾にいるとほぼその位置で固定化されてしまいます。あとで考えれば「鶏尾牛尾(牛の尾にならずに鶏の尾になった)ということになりかねません。そうした子の中には「誤用された牛後」(上位校の最下位)でもなんとかやっていける者もいたりします。
 どうせ間違って使うなら「鶏口牛後」、そこまで考えて指導してあげたいものです。

【草木も眠る丑三つ時】

 「草木も眠る丑三つ時」は、“気味が悪いほどひっそりと静まりかえっている真夜中の表現”としてよく使われます。
 講談では怪談話が、
「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時・・・」(ゴーンという鐘の音)
で始まったりします。

 「丑三つ時」というのは丑の刻(季節によって異なりますが大雑把に午前1時から午前3時ごろまで)を四つに分けたうちの三番目の時間で、およそ午前2時から2時30分頃までのことを言います。深夜一番眠りが深くなる時間帯です。
 「丑の刻」の次の時刻は「寅の刻」です。この「丑」と「寅」を合わせた「丑寅の方角」といえば北東、邪鬼や悪霊がやってくると言ういわゆる鬼門に当たり、建築ではこの方角に玄関や門を置くことを嫌ったりします。
 鬼は丑寅の方角からやってくる、だから牛の角を生やし、虎のパンツをはいている
 というのは私の十八番(おはこ)の知識です。

 しかし「鶏口牛後」にしても「草木も眠る丑三つ時」にしても、どう料理しても年頭の清新な子どもの心に注ぎ込みたくなるような話には繋がっていきません。

 「角を矯めて牛を殺す(小さな欠点を無理に直そうとして、むしろ全体をだめにしてしまうことのたとえ)」とか「牛に引かれて善光寺参り(思いがけず他人や運命に導かれてよい方面に向かうこと)」 だったらどうでしょう?
 これだと何かしら教訓めいた話に結びつけても行けそうです。

【“牛”そのものについて話す】

 私は子どもたちに、最低でも一日一回は「よい話」をしようと心がけてきました(そのなれの果てが毎日書いているこのブログです)。
 しかしどうしてもうまくいかないときは主題に関する知識を紹介するにとどめて、終わりにすることも少なくありませんでした。
「〇〇に関する興味関心を呼び起こしたのだからいいや」
というわけです。
 たとえば「牛」という生き物それ自体について紹介したりすることですが、今日は紙面が尽きました。続きは明日、お話しすることにしましょう。

(この稿、続く)