ハンス・アンデルセン・ブレンデキルデ 「田舎道」 (1893)
【年収40万円で生涯を生きる――コロンブスの卵3個目】
十日ほど前のことです。
テレビのニュースを耳で聞きながら片づけ仕事をしていた私は、面白い話が紹介されていることに気づいて慌ててテレビの前に戻り、途中からじっくり見ることになります。
それはプロのファイナンシャルプランナーが、40代の引きこもり男性を持つ家庭に関わって資産や収入・支出を計算してみたという話です。
その結果、今のままだとやがて資産は食いつぶされ、引きこもりの男性は死ぬ前に無一文になってしまうが、年収39万円の仕事を続ければ何とか今の生活が続けられることが分かったのです。
誤解のないよう繰り返しますが、月収39万円ではなく年収39万円です。月収に直すとわずか3万数千円――。
どうしてそんな魔法みたいなことになるのかというと、まず家庭には持ち家があってローンが残っていない、つまり家賃がゼロなのです。預金等の金融資産が2500万円ほどあります。
現在の収入は両親の年金だけなのですが、つつましい生活を続けているため、多少ではあるものの毎年黒字になります。これは二つの意味で重要です。
ひとつは、死ぬまで続ける予定の「現在の生活」がそれほど高い水準ではなく、比較的少ない収入で維持できること、もうひとつは毎年黒字ですから両親が死ぬまで資産の2500万円に手を付けなくて済むことです。つまり両親が亡くなった日から、ようやく食いつぶす生活が始まるわけです。
しかしさすがに2500万円では生涯を支えきれません。そこで今から働くことを考えなければならないのですが、どれくらいの収入があれば死ぬまで困らずに済むのかと計算した結果が、年収39万円なのです。
39万円と言ってもバカにはできません。
男性が現在40歳で70歳まで働くと考えると39万円×30年で1170万円にもなるからです。両親の資産と合わせると3600万円以上。食いつぶしていく金がこれだけあると考えれば、少しは安心できます。
そこで年収39万円、つまり月に3万数千円を稼ぐためにはどれくらい働かなければならないかと考えると、時給800円の仕事をわずか40時間やればいいだけです。1日8時間勤務だとすると月5日、4時間勤務でも10日働けばいい。なんと三日に一度職場に行けばいいのです。
もちろんそんな都合の良い仕事があるかどうかは別ですが、10年以上引きこもっていてフルタイムの仕事などとても考えられない人にとって、まさに“僥倖”と言えるでしょう。
私がテレビのニュース番組で見た男性も、月に3万数千円ならばと、少しは仕事を探す気になったみたいでした。
実際にはじめてみて3万数千円稼ぐ生活が軌道に乗ったら、月収5万円くらいをめざせばいいのです。余分な2万円弱は将来の余剰資金です。30年間続けると630万円にもなります。ただし月収5万円の生活ができるようになった人は、いつかフルタイムで働けるようになってしまうかもしれません。そうなればしめたもの、少なくとも引きこもり問題は終了です。
【簡単すぎる答え】
不登校・引きこもりについて、ずいぶん長いこと考え、勉強してきました。
私には恐れがあったからです。
子どもが学齢期にあるうちはいいのです。学校や児童相談所、病院の思春期外来など様々に相談の窓口があります。支援の手が目の前まで伸びているのです。
また高校入試や就職といった大きなイベントがあり、細かなところでは入学・卒業、各学年の進級、学期といったメリハリがあり、文化祭や運動会、修学旅行などの各種旅行行事、児童生徒会などいった刺激的な行事・活動があります。そのつど仕切り直しができるのです。
しかし不登校がそのまま大人になって引きこもりに繋がってしまうと、社会的支援は精神科くらいしか考えられなくなります。時間はのっぺりと果てしないものとなり、どのタイミングで仕切り直しをしたらいいのか分からなくなってしまいます。
だから学齢期の間になんとか問題を解決してしまいたい、しなければならない、それが私の焦りでした。
しかし世の中には年収40万円弱でも生きられる人がいるのです。そのことを知らせるだけで、外に出る勇気を持てる人がいます。
こんな簡単なことだったのです。
【自分ができることよりも、できる仲間をたくさん持っていること】
私の誤りのひとつは、自分だけで何とかしようと考えたことです。
教師としての技能を高め、エネルギーを溜め、それを使ってひとりでも多くの不登校を学校に来させる。
学校に来ることだけが問題解決ではないという人もいますが、子どもが生き生きと学校に来るようになれば問題の大半は解決です。
そのために私に何ができるか、教員に何ができるか、そのことばかりを考えていました。
しかし昨日からの流れで言えば、一週間分の料理を作ってもらうだけで解決してしまう問題もあるのです。料理を基礎から教えてくれる人がいればいいだけの場合も、生きて行くのにどれくらい働けばいいのかを具体的に計算してくれる人がいるだけで解決してしまう問題もあるのです。
もちろん私一人でそうした技能をすべて手に入れることはできません。
やれることはそうした技能を持つ人をたくさん知って、容易に頼める関係を築いておくことだけです。
自分ができることも大切ですが、頼める人をたくさん持っていることの方がよほど意味があります。
【人材は目の前にいる】
実は私たちの周辺にはものすごい数の人材がいます。
その人たちは公民館や図書館、地区社会福祉協議会、地域包括支援センター、商工会議所、JA、地域の文化センター、児童センター・児童館にいます。肩書として民生児童委員、保健師、司書等をもっている人たちもいます。
さらにその一部は、学校評議員として年に何回か学校に足を運んでくれています。
ほとんどが地域の生え抜きで、児童生徒を赤ん坊のころから知っている人たちです。それどころかその子の保護者の、赤ん坊時代まで知っている人たちまでいます。
農業指導のできるのは誰か、調理を教えてくれる人はだれか、法律問題を相談できる人はいるか、保護者間のトラブルに割って入れそうなのはだれか――。そういう知識も経験も、この人たちの中にほぼ確実にあります
また民生児童委員や保健師の中には、驚くほど個々の家庭に入り込んでいる人もすくなくありません。
ただし残念なことに、これら人材の活動時間に普通の教員は学校で授業を行っています。だから容易に親しくなれない。
デリケートな問題をあつかっていただくわけですから、人格的な部分まで知って、細かな打ち合わせができるような深い関係を結ばなければならないのですが、教員には絶望的なまでに時間がなく、関係を結んでいる余裕がありません。
忙しすぎて民生児童委員や保健師が、具体的に地域でどんな仕事をしているのか、それすら知らない教員がほとんどなのです。公民館や社協の事業もよく分かっていません。
地域の人材と渡りをつけられる教職員は、現実的には校長・副校長・教頭くらいしかいないのですが、この人たちもなかなか忙しく、十分な仕事ができません。
ほんとうに残念なことです。