カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「いい加減になさい! トリキの錬金術師たちよ!」~君たちが理解できないこと①  

 トリキの錬金術が話題となった。
 もちろん大半の人たちは冷笑する。
 古代~中世の錬金術師と同じように、
 現代の錬金術師にも決定的に理解できていないことがあるからだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20201012061901j:plain

(アドルフ・ヒレミ=ヒルシュル 「アケローン河の御霊」)


【トリキの錬金術師(鳥貴族マラソン)】

 すでに対応がとられて新鮮味を失った話題ですが、先週末、「トリキの錬金術」が評判になって、政府が慌てて声明を出したりました。

 起こったのは要するに、何を注文しても昼食に500円、夕食には1000円分のポイントをつけるというGoToイートの裏をかいて、298円(税込み327円)均一を売りにする焼き鳥チェーン「鳥貴族」で、一皿だけ注文し差額のポイント(昼食173円分、夕食673円分)を荒稼ぎしている人たちがいたということです。鳥貴族マラソンとも言うようです。

 政府は「そんなことは最初から分かっていた、店側が対応すると思っていた」などいけしゃあしゃあと発言していますが、ひとことで済むのですからやはり言っておくべきだったでしょう。
 また、この件に関して「悪いのは悪用する人か、制度か」といった観点から議論する人もいますが、「悪用」と言った時点で「人」の方が悪いに決まっているのであって、制度に欠陥があるならそのつど直して行けばいいのだと私は思います。
 完璧な制度をつくろうとしたらいつまでたっても始まりません。GoToイートなんて人の命や社会秩序に関わる問題ではないのです。まずやって、後から考えるということがあってもいいように思います。

 ただし私がおっとりと構えていられるのはここまでです。制度・政策の問題としてではなく、個人の生き方として考えると、怒り心頭に発するといったところ。
オマエ、恥ずかしくないのか? 情けなくないのか? 舌を噛んで死にたくならないのか?
という話だと思うのです。
 
 

錬金術師、かく語りき】

 トリキの錬金術については、本人たちがSNSに大量に書き込んだことで世間の耳目を集めたようです。「トリキの錬金術、オレもやって来たぜ!」みたいなノリで、レシートまで写真にして何人もが投稿していたのです。
 ツイッターにはこんな書き方をしている人もいました。

鳥貴族マラソン面白い
大爆笑
確かにモラルは無いかもだけどルール違反ではないから問題は無いだろうし気付いた人がどれだけ最初に凸できるかみたいなゲーム感覚なんだろうけどもw
ご飯食べてポイント貯めれるのはやばいw
いつも思うけどこーゆーのを考えてすぐ行動する人凄いなって思う

  
 そう言えば金曜日のNHKニュースで、この件についてインタビューを受けた若者が似たようなことを言っていました。
「ルールとしては間違ったことをしているわけではないので、モラルとしては良くないかもしれないけれど、悪いことではないと思う」
 マスクをして半分顔は隠れていましたが、私はこの子の親でなくて本当によかったと思いました。
 
 

【やってはいけないことは山ほどある】

 この子たちがまず間違っているのはモラルがルールより下の概念だと当然のように考えている点です。世の中にはルールとしては問題ないがモラルに反するからやってはいけないことは、山ほどあるのです。

 例えばレストランで出された“おしぼり”で、足を拭いちゃあマズイでしょ。
 いくら個人の自由だからといっても、それがブームになっているならまだしも、すっぴんにパジャマでスリッパをはいたまま出勤したり登校したら、それもやっぱり問題じゃありませんか?
 通勤電車の中で鼻くそをほじくって、ひとにつけてはいけないので舐めてきれいにし、そのツバだらけの指をハンカチで拭う――それがいけないなんて、法律にも書いてないし駅の掲示にも出ていない。衛生的に考えても最後はハンカチで拭いているから問題はないし、誰かにつけてはいけないと気を遣っているところなどは本当に見上げたものだと――そんなこと、絶対にないでしょ? ダメでしょ?
 鳥貴族で1品だけ頼んでポイントを稼ぐというのはそれくらい恥ずかしいことだと、なぜ思えないのか? 
 
 

錬金術師が理解できないこと】

 よおくイメージを浮かべてみましょう。
 その人は「鳥貴族」入る前、ネット予約する段階から錬金術を使うことを考えてイソイソ(あるいはドキドキ)しています。店の前で少しぐらいは躊躇するかもしれません。
 しかし勇気を振り絞って店内にはいり、さらに勇気を振り絞って(しかし表面は平生を装って)1品だけ注文します。食べます。どんなにおいしくても追加の注文もしなければビールも飲みません。
 それからゆっくりとレジに向かい、冷たい表情の店員から目を背けながら(あるいは逆に店員を見くだしながら)千円札を出して673円のつり銭とレシートをもらいます。キャッシュレス決済をしないのはあとでSNSに上げやすいからです。
 そして外に出るや否やそそくさと、「鳥貴族」の前でレシートと看板を重ねて写真を撮り、「トリキの錬金術、やって来たぜィ!」とか勝ち誇ったように投稿するのです。
 その一連の行為の、どこに美しさがあります? 賢さがあります? 勇気は必要だったかもしれませんが万引き犯と同質のものでしょ? 

 ここに問題の核心があるのです。
 レストランの“おしぼり”で足を拭いてはいけないのも、パジャマにすっぴんで出勤してはいけないのも、通勤電車内で鼻くそをほじくってはいけないのも、トリキの錬金術を使ってはいけないのも、すべて「ルールに則っているかどうか」とか「他人に迷惑をかけているかどうか」といった基準からは計れません。ここで使われる基準は「美しいかどうか」です。

 世の中のマナーや学校で教えられる道徳の大半は、正義の問題ではなく「美しいかどうか」なのです。
――だから難しい。

 トリキの錬金術を賞賛するツイッターのバカ者――もとい!――若者や、インタビューに平然と「ルールとしては問題ない」と答える青年に、決定的に欠けている観点はそこです。
 モーツァルトの音楽やピカソの絵の美しさ・良さが分からない人がいるように、人間の行いの美しさ・良さの理解できない人がいるのです。

(この稿、続く)
 

「誰も持っていない、私一人のデジタル教科書」~学校の教科書がデジタル化されるらしい③

 デジタル教科書の強みは、何といってもインターネットとの相性がいいことだ。
 教科書の記述から、どんなコンテンツへもいくらでも飛んでいける。
 もちろん最初はお仕着せのもので
あっても、
 やがて私たちは、自分が教えるための自分だけの教科書を、
 自由につくるようになるだろう。

という話。

f:id:kite-cafe:20201009071732j:plain(写真:Unsplash)

 

【現在のデジタル教科書】

 文科省が学校の教科書をデジタル化するというニュースが流れると、ネット上では大いに期待する声とともに「まさかPDFを貼るようなデジタル教科書じゃないよね」といった冷ややかな声もありました。
 おそらく、最初はその「じゃないよね」から始まります。というのはすでにデジタル教科書は、ほぼそういう形でできているからです。

 代表的なところで光村図書(体験版 令和3年度版 中学校)と東京書籍(学習者用デジタル教科書・教材)、そして教師用の見本として帝国書院平成28年度版デジタル教科書のご案内)のWebサイトを挙げておきます。
*光村図書の体験版は携帯及び特定のブラウザで見ることができません。簡単に内容を知りたい場合は、東京書籍の動画がお薦めです。

 見てすぐに分かる通り、現在のデジタル教科書は紙の教科書を基本として、視覚に障害のある生徒のために文字や画像を拡大したり、読むことが苦手な子に音声で読み上げたりするといった学習支援の要素の強いものです。実際に紙の教科書が中心の現状で、高価なデジタル教科書を導入するのはそうした特殊な場合だけでしょう。

 一方、帝国書院のサイトから教師用のデジタル教科書を見てみると、こちらは大型の電子黒板を利用して授業を進めるための教材なのですが、例えば「授業スライド」で嫌だなあと思うのは、何の独創性もいらない、活動写真の弁士のように、順次出てくるスライドに合わせてそこに書かれている文を読めばいい、そういった傾向がとても強いことです。
 歴史絵巻の「授業スライド」では、上に「この人々は何をしているのでしょうか」などといった文字が出てきます。教師は内容を広げたり、解説を加えたりして理解を促しますが、結局「この人々は何をしているのでしょうか」の枠からは出られません。同じ絵から別の学習をさせたいことだってあるのです。素人や駆け出しならまだしも、10年以上も教師をやって来てこんなマニュアル化された授業をやらされたらかないません。

 しかし現状のデジタル教科書がまるでダメかというとそうでもないのです。そこには非常にたくさんのヒントがあります。
 
 

【夢のデジタル教科書】

 例えば帝国書院のデジタル地図帳には拡大機能があって、現在のところは紙の地図の拡大でしかないので限度がありますが、いずれはGoogleマップのように際限なく近づき、際限なく遠ざかるようになります。さらにGoogleマップではできないこと――ボタン一つで白地図や土地利用図、農業地図等と切り替えられる、さらにそこからGoogleEarthに瞬時にと飛び込み実際の街の様子が見られる、そんなふうにもなるかもしれません。
 地図上に書き込みができてそれをプリントアウトでき、さらに自分のフォルダに保存できる、そういうことも可能でしょう。たぶん、すぐにもできるようになります。

 光村書籍の国語の教科書には文章を読み上げてくれる機能があります。もちろん教室では先生が読んでくれるからいいのですが、家で練習ということになったらありがたい機能です。
 何か気のついたことをペンで教科書の隅に書き込む機能も大切です。昔と同じように、作者の顔写真にヒゲやらメガネやらを書いてしまう子がいるかもしれませんが、それもやむをえません。
 教科書はデジタルになっても子どもは変わりませんから、そんな悪さをする余地も残しておきましょう。

 しかしこれらの機能はそれほど大したものではありません。デジタル教科書の最も強力な機能は、左下にある「はる(リンク・がぞう)」、つまり自らに合わせて画像やリンクを貼り、カスタマイズできるということです。
 
 

【教師である、わたし独自の教科書】

 「はる(リンク・がぞう)」はよほどのことがない限り生徒はあまり使わないものです。しかし教師にとってはとんでもない武器です。

 というのは、これまでどれほど熱心に教材研究をしてきても、それを提示できる形にするのが実に大変だったのです。
 資料をプリントにしたり模造紙に書き写したり、あるいはPowerpointに作り変えたり――。大型カラープリンタが学校に入ったときは、うれしくて、うれしくて、あらゆる資料をポスターに変えて、おかげで一年分のインク代を2カ月ほどで使い切って事務の先生からえらく怒られたこともあります。しかしそれらすべてが「はる(リンク・画像)」で簡単にできるのです。

 教師は教材研究の過程で得た画像やリンクをデジタル教科書のあちこちに貼り、教科担任独自も教科書にしてそれを生徒にダウンロードさせればいいのです。
 例えば文章の途中の「織田信長」という部分にリンクを貼って、信長の写真を見せたり簡単な人物紹介を見せられるようにすればいい。自分が撮った写真や作った図、word文書もどんどん張り付けていけばいい。
 おそらくそんなことは教科書会社もやってくれるでしょうが、「実際に自分が使いやすい教科書」ということになったら自分の作ったものが一番いいに決まっています。ちょっとした豆知識などは、何を選ぶかは教師の個性に関わる部分です。

 専門の教科書会社のつくるものですから、おそらく初期状態でかなりの高度なものが出されてくると思いますが、同時にそれは教科担任が腕前を発揮できるものでなくてはなりません。自分流に成長させられる教科書ということです。
 それはたぶん早い段階から可能となります。なぜならいかに教科書会社とはいえ、すべての教師に満足してもらえるコンテンツを用意できるはずがないからです。どうしても改良の余地を残さざるを得ません。
 
 

【相互性、そして心配なこと】

 いま気になっていることは、子どもたちのノートと学校の黒板はどうなるのかということです。
 教師がデジタル教科書に情報を出せるようになると、黒板を使う必要がなくなります。なぜなら板書というのはあれでけっこう面倒くさいのです。
 書くのが面倒というのではなく、黒板に何かを書くと必ず考えるのをやめて、ノートに写し始める子がいるからです。あとで消すことになる部分まで書いてしまう子がいます。書いておかないと不安なのでしょう。
 ですから私は黄色のチョークを使って板書し、「あとで必ず白で書き直すから、絶対に写すな」とまで言ってとどめたものです。
 しかしあらかじめ用意しておいた板書内容を、授業の最後に一瞬にしてデジタル教科書に提示し、生徒のデジタル教科書に送ることができるとしたら、私が書く手間も、生徒も写す必要もなくなり、黒板もいらなくなります。

 では生徒のノートは?
 これも理屈上はタブレットにして、「では〇〇くん、前に出て黒板に書いてみてくれる?」みたいなことはやめて電子黒板に出力してもらえばいいことになります。
 5年、あるいは10年以上かかるかもしれませんが、未来はきっとそうなるでしょう。


 心配なことはひとつだけ――放課後の小学生の様子などを見ていると、ランドセルのままで走ったり転んだり、面白いものを見つけると平気で投げ捨てて飛んで行ってしまいます。

 タブレットの予備と修理費をどれほど用意しておいたらいいのでしょう? あ、それと毎日充電させることもきちんとやらないと、トイレに行きたがること充電に行きたがる子の両方に苦しめられることになるかもしれません。
 

「子どもに苦労させてはいけない国の、やたら薄っぺらな教科書」~学校の教科書がデジタル化されるらしい②

 アメリカの教科書は、何もかも情報が山ほど入って、
 百科事典のように厚いらしい。そしておもしろい。
 しかし日本の教科書は、ひたすら薄く、軽く、
 フルカラーで・・・そして分かりにくい。

という話。

f:id:kite-cafe:20201008074439j:plain
(写真:フォトAC)

 アメリカの教科書は面白いらしい】

 アメリカの公立学校で使う教科書が、昔の百科事典みたいに分厚いという話を聞いたことがあります。
 なぜそうなるのかというと、1冊の中に日本で言う教科書と参考書と場合によっては問題集が、全部入っているからです。そうなると当然、「そんな巨大なものをどうやって持ち帰りするんだ」ということになりますが、答えは簡単。持ち帰りはしません。
 教科書は日本のように児童生徒に給与されるものではなく、「貸与」されるものなので、個人が持ち帰ってはいけないのです。教室に据え置きで、学年が上がるときはそのまま置いていきます。

 次に出る質問は、「じゃあ宿題はどうするんだよ!」ということになりますが、これも答えは簡単。「(少なくとも)教科書を使うような宿題は出ない」です。
 計算練習などはプリントで出せばいいのです。しかし実際に宿題の出し方は州や学校区や学校や、そして先生によって全く異なるようです。

 1年の時の担任は死ぬほど計算練習のプリントを出したのに2年生の担任は「親子で工作」とか「親子で交通標識調べ」といったものばかり、そうかと思うと3年生になってから宿題というものは一度も出たことがない、といった場合もあるようです。

 合衆国という国はドナルド・トランプが大統領になってバカをやっているみたいに、基本的にいい加減な国なのです。すべて自己責任で済みますから、優秀な連中が自己責任で頑張って世界最強の国を支えていると、そんな感じなのでしょう。

 しかし一方で、見る人が見るとアメリカの教科書はほんとうにおもしろいといいます。何しろ何でもかんでも入っていて、先生のレベルや考え方に関わりなく、本人にその気があれば教科書を読んだだけで、高級な授業を受けた以上の効果があるからです。

 欲しい情報が何でも入っている教科書は楽しい――何となくわかりますよね。だからジョブズのようなスーパー・エリートが育ってくる、そう言うことなのかもしれません。
 
 

【子どもに苦労させてはいけない国の、やたら薄っぺらな教科書】

 日本の教科書は逆です。
 何しろ教育評論家が、
「サッカーの試合のあと日本人サポーターがゴミ拾いをしている光景が海外から称賛されるなど街なかにゴミが少ないことは清掃指導の効果かもしれません。だからといって毎日・強制的に子どもたちに掃除をさせる必要があるのでしょうか」2020.09.29 NHK「学校の掃除ってなんで子どもがやるの?」
 などと平気で言う国です。
 子どもたちが掃除で苦労するくらいなら、日本人サポーターが誉められたり街なかにゴミが少なかったりといったことはなくてもいいというのですから、その潔さにはむしろ頭が下がります。

「重い教科書をあんなに持たせたら子どもが可哀そう、あんなに勉強させられるのは可哀そう、子どもが小指の先ほどの苦労もせずに天よりも高い学力がつけられるよう、どうぞ先生たち、精一杯、がんばってくださいね」
とやってきたのが日本の教育です。おかげで教科書はどんどん薄くなり、がんがん分かりにくいものになってしまいました。
 
 

【薄い教科書は分かりにくい】

 薄い教科書がどれだけ分かりにくいかという話は、このブログで5年ほど前に書きました。

kite-cafe.hatenablog.com

 結構一生懸命書いたので、詳しくお知りになりたい人はそちらを読んでいただければありがたいのですが、簡単に言えば、子どもにとって歴史の教科書の、

「1560年、織田信長桶狭間の戦い今川義元を破って天下統一の道を歩み始めました」
は、Wikipediaの、
「阿波では三好長治の実弟十河存保と三好康俊が激しく抵抗しましたが、長宗我部元親は1579年、重清城を奪って十河軍に大勝しました」
と同じように難しいという話です。

 私たち大人にとっては俄然、上の方が簡単です。なぜなら「織田信長」も「桶狭間」も「今川義元」も「天下統一」もよく知っているからです。
 しかし後ろの文となると、とりあえず読み方すら分からない。

 「阿波(あわ)」はいいにしても「三好長治」ですら難しいという人もいるかもしれません(サンコウ・チョウジ?)。「長曾我部元親」はとりあえずどこで区切ったらいいのか分からないという人もいるでしょう。「十河存保」にいたってはおそらくほとんどの人が読めない。実弟と書いてなければ何かの四文字熟語と勘違いしかねません。私自身は「重清城」で躓きました。

 正解は「アワではミヨシ・ナガハルの実弟のソウゴウ・マサヤスとミヨシ・ヤストシが激しく抵抗しましたが、チョウソカベ・モトチカは1579年シゲキヨ城を奪ってソウゴウ軍に大勝しました」ですが、読みが終わったところで、一体それがどういう歴史的意味を持つのかは、全く別問題です。

 同じように子どもは初めて出会う人物である織田信長の名前が読めません。オリタ・シンチョウなんて読む子がいても不思議はないのです。
 桶狭間と聞けば私たちは山の中の小さな盆地を思い浮かべます。知らなくても「狭間」という部分からなんとなく狭い場所を思い浮かべるはずです。砂浜や大平原が浮かぶようでは困ります。しかし子どもの多くはこの部分で圧倒的な「桶」のイメージに支配され、身動きが取れなくなってしまうのです。
 そして、おそらくこの文で一番難しいのが「天下統一」です。

 この言葉を理解するためには、それまでの権力の分立状態が理解されていなくてはなりませんし、統一が権力の集中であることがイメージとして理解されなくてはならないからです。「天の下で統一」と考えたら、それだけで訳が分からなくなってしまいます。

 だから信長に関する部分は、せめて、
「日本中の武将が戦い合った戦国時代を終わらせ、日本を一つの国にまとめようと最初に立ち上がったのは尾張(オワリ:現在の愛知県)の織田信長(オダ・ノブナガ)でした。1560年、信長は東の大大名、今川義元(イマガワ・ヨシモト)を桶狭間(オケハザマ)という場所で戦いの末に破り、全国に名を知られるようになりました」(カタカナ部分はルビにする)
くらいには書いてもらわなくてはならない――それが5年前の文の趣旨でした。別な言い方をすれば、文章の長さを3倍にしろということです。そのくらい長くないと、内容は入っていかないのです。

 薄い教科書は索引と同じで、それだけでは意味が理解できません。もちろん、
「だから授業が大事」
という言い方にはなりますが――。

(この稿、続く)

「学校の先生をバニーガールにして知識の量を増やす方法」~学校の教科書がデジタル化されるらしい①

 児童生徒に一人一台のパソコンが配置されるようになり、
 それに合わせて教科書もすべてデジタル化しようという話が出ているらしい。
 いいじゃないか。
 これで教科書は、仮想空間で莫大に膨らみ、勉強は大いにしやすくなる。

という話。

f:id:kite-cafe:20201007071947j:plain(写真:フォトAC)

 

【学校の教科書がデジタル化されるらしい】

 昨日の二ユースに、

this.kiji.isというのがありました。

 それによると、
 平井卓也デジタル改革担当相は6日の閣議後記者会見で、小中学校で使う教科書を原則デジタル化すべきだとの考えを示した。2日に河野太郎行政改革担当相を交えた3者会談を行い、萩生田光一文部科学相に提案。国が進める1人1台のパソコン配備などの環境整備を前提に「デジタルファーストは時代の要請だという共通認識を持てた」と明らかにした。
とのことです。

 教科書は制度的に無償で給与されるものであり、児童生徒にはタダで配られます。しかしもちろんタダでできるわけではありません。その財源は国庫。日本中の児童生徒に渡される教科書代ですから大変な支出になるわけです。近い将来それに加えて1人1台のパソコンまで配備しなくてはならないのですから、国はたまったものではありません。
 そこで誰かが思いついたのです。
「そうだ! パソコンを渡す以上、紙の教科書なんかやめてしまえばいいんだ!」
――そこには教育的観点からの「紙の教科書を残すべきか否か」といった議論の入る余地はまったくありません。あとのことは現場に考えてもらえばいいのです。

 平井大臣は「デジタルファーストは時代の要請だという共通認識を持てた」などとおっしゃっていますが、大臣や官僚たちの本音は、
「財政ファーストは最大の要請だという共通認識を持てた」
といったところでしょう。

 ただし、だから私は教科書のデジタル化には反対なのかというと、そうではありません。賛成、実はまったくの大賛成なのです。なぜならデジタル化によって教科者は薄くする必要がなくなり、際限なく分厚い内容にできるからです。
 教科書の無限の肥大化によってどれほど学習がやりやすくなるのか、計り知れないほどです。
 
 

【名前が覚えられない苦痛】

 いったん脇道に逸れますが、私は人の名前を覚えるのが本当に苦手で、卒業式の前日練習に証書を受け取る生徒の名前が言えなくて、怒られたことがあります。
「先生、いいかげんオレの名前くらい覚えてくれよォ~」
 いつも苗字の方で呼んでいたので、下の名前の方が出てこなかったのです。

 本番は卒業生台帳(歴代の卒業生の名前が全部記してある名簿)を読むという体裁をとって行うので問題なかったのですが(*1)、練習ではそこまで用意していませんでした。普通は丸2年も担任した生徒の名前を忘れるなんてありえないじゃないですか。
 名前というのは実に理不尽なところがあって、美人でもないのに美子とついていたり、強くもないのに剛だったりして、そのあたりが私を混乱させるのです。
*1 
実際には問題のあった年もありました。前のクラスの担任が感極まって台帳を閉じてしまい、そのまま私に手渡したのです。相当な量の白紙がうしろについている何百ページもある台帳から該当のページが見つけるまで、いつ名前が言えなくなるかとヒヤヒヤしながら、生徒の顔を見ては名前を呼び、台帳に目を落としてはページを探すという作業を必死に続けたものです。


 そんな調子ですから転任やクラス替えで、新しい名前を何人も覚えなければならないときはほんとうに大変でした。そこで編み出したのが「イメージこじつけ法」という私独自のやり方です。
 
 

【イメージこじつけ法】~学校の先生をバニーガールにする

 それはこんなふうです。
 太田という何の変哲もない名前のゴリラみたいな先生――この人には割烹着を着てもらい、赤ちゃんをオンブしたイメージを重ねさせます。もっとも合わないイメージですのでインパクトが強く、記憶として定着し易いのです。で、それがなぜ太田先生なのかというと、
「負うた(太田)子に教えられる」
 これでばっちりです。

 痩せぎすで清楚な感じの女性教諭・稲葉先生。稲葉という苗字で知っているのは昔いた俳優の稲葉義男さんだけ。この俳優さんは刑事がはまり役のブルドッグみたいな顔立ちで、「稲葉」姓にはブサイクが絡みついています。清楚な稲葉先生を何時間みていても、絶対に出てくる名前ではありません。とても覚えにくい。
 そこで稲葉先生にも稲葉義男さんにも全く合わないイメージを重ねます。バニーガールの扮装をさせるのです。これなら定着します。
「バニーガール」→「因幡(いなば)の白ウサギ」→「稲葉先生」
というわけです。
 神聖な学校の、清楚な稲葉先生をバニーガールとして見ていたとばれたら、絶対に怒られそうですが仕方ありません。名前を間違えるよりいいでしょう。(違うかな?)

 もちろんこんなやり方がすべての先生に通用するわけではありませんが、「こじつけ法」で半分覚えただけでも、残りを記憶するのはずいぶん楽になるはずです。

 あれ? 何の話をしていたのでしたっけ?
 あ、教科書だ。

 つまり言いたいのはこういうことです。
「知識は、しばしば長ったらしく面倒くさい方が頭によく入る」
「教科書も厚ければ厚いほど、勉強ははかどる」

のです。

(この稿、続く)

「複合的で個性的な各国のファクターX」~大統領と日本のファクターX②

 トランプ大統領、病院内でもやはりひとの言うことをきかないらしい。
 ものの考え方の一部がチコちゃんと同じ5歳児で、
 思ったことはすぐに口にし、行動に移さないと気が済まない。
 しかしそれがアメリカで、感染が収まらない理由もそこにあるのだろう。
 もちろんそれだけではない。
 日本も同様で、感染の広がらないファクターXはひとつではないはずだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20201006081122j:plain(写真:フォトAC)

 

【軽薄な大統領の周辺の、これまた軽薄な人々】

 昨日の朝はいきなり「トランプ大統領が今、病院から出てきました」でびっくりさせられました。ご存知のように専用車で病院の周辺をぐるっと回っただけのことですが、“ああやっぱりこの人はタダものではない”と思わせるに十分なものでした。そして今朝のニュースだと、早くも退院してくるとか。

 アメリカのメディアの中には「軽率だ」といった指摘もあるようですが、軽率や軽薄はそもそもがアメリカの文化。アナキン・スカイウォーカーも熟慮実行型ならダース・ベーダーにならなかったろうし、スパイダーマンも家族を失うことはありませんでした。そしてコロナウイルスもあんなに広がらなかったはずです。
 国土面積は日本の25倍、人口は2・5倍。それなのに感染者は日本の86・4倍、死亡者は実に131・1倍なのです。

 トランプ大統領がいつ感染したのかという点についてはさまざまに憶測がありますが、今いちばん有力だと考えられているのは、9月26日にホワイトハウスの前庭で開いた連邦最高裁判所の新判事の候補(エイミー・バレット連邦高裁判事)の紹介行事です。テレビでは同じ場面が繰り返し放送されていますが、行事が終わったあと、政府高官や関係者たちはマスクもせずにグータッチをしたりハグしたりお互い至近距離で話したりと、密閉ではないものの密集・密接で、今となればあの時うつしあったに違いないと思わせるに十分な状況でした。
 そのあとも屋内イベントがあったと言いますから、ここでクラスターが発生した可能性は十分に高いと言えます。
 
 

【日本人―1m未満は異空間】

 しかしそれにしても、なぜ欧米人はああもくっついたり抱き合ったり、キスしたりし合うのでしょう?
 相手が他人の奥さんであろうが若い娘であろうと、ところかまわず抱き寄せたり頬を合わせたりする――そんな様子を見ると“昭和”な私などは鬱陶しくもあり、羨ましくもあったりします。

 しかも考えると、ハグだのキスだの以前にそもそも対面する相手との距離が決定的に近い、私には耐えがたい至近距離――。

 試しに妻を立たせ、正面から向かい合ったらなんと1mの距離でも圧迫感を感じてそれ以上近づけませんでした。背後から近づいてこられたら50㎝でもゴルゴ13のごとく感知して避けてしまう。つまり家庭内で自然とソーシャルディスタンスが取れているのです。

 これが他人の奥さんだったら、正面で1mは痺れるほど“ヤバイ状況”でしょう。若い娘だったら1mに近づくはるか以前に、向こうの方が走って逃げだすかもしれません。少なくともその前に十分な距離をとってくれるはずです。

 そう言えば日本に限らず、アジアには総じてベタベタとくっつく文化がない。中国人も韓国人も、手をつないだり腕を組んだりして歩くのは若いカップルが中心で、それもかなり少ない気がします。
 良く知りませんが、アフリカで黒人同士が抱き合っているという光景もしっくりしませんから、抱き合う文化はおそらくアフリカにもないのでしょう。

 アラブ諸国は男同士、女同士の近接関係は分かりませんが、男女は厳しく分けられますから接触機会は他の世界の三分の二ほどになるはずです。ただし1日5回もモスクでお祈りをすることを考えると、欧米とは違った意味で人と人の距離は近いのかもしれません。
 実際にイラン・イラクでは10万人当たりの感染者が非常に多く、エジプトやアルジェリアでは極端に少なくなっていますから、宗教よりは中東か北アフリカかといった位置的な要素の方が強いのかもしれません。
 中央アメリカや南アメリカはどうか? まず思い浮かぶのがカーニバルや闘牛祭りなので、近い印象しかないのですが――。
 
 

【各国のファクターXは、複合的で個性的(なのかもしれない)】

 昨日は、
「『日本ではなぜ新型コロナによる10万人あたりの死亡者が少ないのか』の答えは、『そもそも10万人あたりの感染者が少ない』からだ」
と書きましたが、そこで次に問題となるのが、
「なぜ日本ではコロナ感染は少ないのか」
です。2月~3月と同じの設問で、半年かかって元の場所です。

 おそらく要因(ファクターX)は複合的にあるのです。これが単純な理由――例えばBCGだとか特定の薬に対する感受性だとかいったことなら簡単です。もう10カ月近くもつき合ってきたのですから、そろそろ完全な答えが出ていてもおかしくありません。

 いまだに答えが見つからないのは、
  1. アフリカやアジア全体に共通する「距離を置いた人間関係」という習慣が日本にはあること。
  2. あるいは台湾・ニュージーランド・オーストラリアなどと共通する「陸で外国と繋がっていない国土」の形(したがって水際作戦が取り易い)。
  3. 独自の特徴としての100年近い歴史を持つ「マスクの文化」。
  4.  政府の指示に主体的に従う能力(これをガバナビリティという)の高さ。
  5. 自粛警察も生み出す相互監視・相互批正の傾向。
  6. 高温多湿で病原菌の発生しやすい環境にあったため、昔から定着していた手洗いやうがい、清潔を重視する生活習慣。
 それらが複合的に重なって、感染の少ない社会をつくっているのではないかと思うのです。

 もちろん同じく感染者の少ない国でも要素がまったく異なる場合もあります。ファクターXが異なる場合です。
 しかしそれも複合的な、それぞれの国の事情によって達成できているにすぎません。例えば中国には2・3・5・6の条件がありません。しかしそれを補って余りある優秀な感染者追跡システムがある、というふうにです。
 

「心配するな、大統領は還ってくる」~大統領と日本のファクターX①

 トランプ大統領とその夫人が新型コロナに感染したという。
 超大国の大統領の入院に世界は戦々恐々としているが、
 大丈夫。大統領は還ってくる。
 ただし還ってからは、どうか日本基準に近づいて、
 安心・安全の選挙戦を戦ってほしいものだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20201005064457j:plain(写真:フォトAC)

【大統領は甦る】~ドナルド・トランプも還ってくるに違いない

 先週金曜日にドナルド・トランプ米大統領と夫人が新型コロナに感染したという情報が入り、ざまあ見ろとも思いませんが、ちょっと喉のつかえがとれる感じがしました。

 私のように感染者ゼロみたいな田舎県に住みながら、ちょっとした買い物にもマスクを忘れていないか気を遣い、消毒用アルコールのある店では入店の際に消毒し(お店のため)、店を出るときはまた消毒し(自分のため)といった生活を送っていると、いかに遠い異国の話とは言え、大規模選挙集会でマスクもつけずに大声を出し、ハグやらキスやらをしている姿を見せられるとイライラするのです。
 コロナウイルスを舐めてかかっていた大統領が感染したことで、アメリカ国民、特に共和党員が少し反省して、日本基準に近づいてくれるといいのですか――と思ったりしています。

 もっとも今日までコロナを舐めてコロナに感染した国家指導者もそこそこいました。しかし英国のジョンソン首相は重症になりながらも復活し、ブラジルのボルソナロ大統領は軽症のまま復活してしまいました。(「してしまいました」という言い方もないけど・・・)
 両方とも破格に感染者と死亡者を出している国です。国民は大量に死んで指導者は復活する――割り切れないような気もしますが、これらの国の指導者はそのくらいの魔力がなければ勤まらないのかもしれません。
 そうなるとロナルド・トランプ氏などは絶対に復活してくるわけで、是非とも早い復帰を祈りたいと思います。
(戻ってから白い目で見られるのは怖いですから、おもねっておきます)

 もっともジョンソン首相にしてもボルソナロ大統領にしても、そしておそらくトランプ大統領も、もともと確率としては復活する可能性の方がはるかに高かったと言えます。

 先日、「コロナウイルスは不公平だ、若者が走り回って感染を広げ、年寄りばかりが死んでいる」といったことを書きました。

kite-cafe.hatenablog.com そこで紹介した死亡率は70代で7・5%、80代以上では17・4%です。裏を返せば70代の92・5%、80代は82.6%が新型コロナで死なないのです。80代など普通の風邪でも亡くなる時は亡くなってしまうのに。

 ジョンソン首相は56歳、ボルソナロ大統領は65歳ですからそう簡単には死なない。トランプ大統領は77歳でそれよりは危険ですが、9割がた元気で戻ってくるものと考えて差し支えないでしょう。それでも、
「コロナを克服した強い男だ」
などといってほしくはありません。回復するのが普通なのです。

 

【ファクターX:日本人の10万人あたりの死亡者はなぜ少ないのか】

「日本人の10万人あたりの死亡者はなぜ少ないのか」という設問があります。 その要因を中山伸弥先生が「ファクターX」と呼んでいます。

 ほんとうに日本ではコロナ死は少ないのかというと、グラフにすれば一目瞭然、10万人あたりの死亡者は1・26人ですから国際的にはかなり少ないことが分かります。
 それにもかかわらず数値だけを見て、「日本は新型コロナ防疫失敗国だ。韓国(0・81)や中国(0・33)、台湾(0.03)などアジア諸国は軒並み低い」という人もいたりしますが、世界的に見れば日本と韓国の差はほとんど誤差の範囲くらいで無視できるものです。
 日本・韓国・台湾・ベトナムシンガポール、アフリカに行ってアルジェリアエチオピアオセアニアではニュージーランド・オーストラリアなどは、極めてコロナ死の少ない国と言ってかまわないでしょう。

f:id:kite-cafe:20201005064904j:plain
(グラフの左端が日本)


 ところで「日本人の10万人あたりの死亡者はなぜ少ないのか」は、2~3月ごろは「なぜ日本人は新型コロナに感染しないのか」というものでした。中国やヨーロッパ、アメリカ、そしてお隣の韓国で感染爆発が起こっているというのに、日本ではほとんど感染者が出なかったからです。
 ところが3月末からの第一波があり、「日本人ではPCR検査が極端に抑えられているから感染者数が少ないのだ」という話もあって、以来、「(感染しにくいのではなく)感染しても死なないのだ」という方向に変わってきました。感染者数はかなり隠されていると皆が思っていたのです。

 しかし状況はずいぶん変わってきています。今でも日本の感染者数は不当に低く抑えられたままなのでしょうか?

 

【ファクターXのしっぽを捕まえた】

 そうではありません。日本の検査体制は以前に比べるとはるかに充実してきました。
 東京の感染者数が毎日100だの200だのというと焦りますが、検査体制の拡充のために3月時点では掘り出せなかったものまでが数えられるようになったのは間違いありません。以前とは異なり、おそらく無症状も含めて、ほとんどの感染者が補足されるようになってきたのでしょう。というのは感染者に対する死亡者の割合が、このところ1・9で落ち着いているからです。

 死亡率が一番高かったのは6月6日ごろの5・4で、なぜ高かったのかというと検査数が不十分で分母(感染者数)が不当に低かったからです。別に大勢が亡くなっていたからではありません。
 そののち検査数が大幅に増え、特に無症状の感染者がどんどん拾われるにしたがって感染者数は増加し、数字上の死亡率は減ってきたのです。

 この1・9という数字はかなり信頼できるものだと私は思っています。
 新型コロナに関しておそらく一番正確な数値を持っているのは韓国で、個人情報の徹底的な収集とPCR検査の実施で、ほぼ完全に割り出した感染者数に対する死亡者の割合が1・7です。
 また、完全な閉鎖空間で細大漏らさず調査することのできたダイヤモンド・プリンセスでの死亡率が1・8でしたから、乗客に高齢者が多かったことを考慮すると韓国の1・7が正確だという私の想像はかなり的を得たものでしょう。
 その韓国の1・7にかなり近い1・9を出している現在の日本は、いまや感染者の大多数を補足できるようになた国だと考えられます。

 私は何を言いたいのか?
 簡単なことです。
「『日本ではなぜ新型コロナによる10万人あたりの死亡者が少ないのか』の答えは、『そもそも10万人あたりの感染者が少ない』からだ」
ということです。
 感染者数がほぼ正確に補足できるようになったところで、改めて10万人あたりの感染者数を比べてみると、やはり日本はかなり少ない。
 こんなふうです。

f:id:kite-cafe:20201005065001j:plain

(この稿、続く)

「更新しました」~キース・アウト

「正しい行いは訓練しないとできない」という、
当たり前のことを専門家に説明しなくてはならない悲しさについて


 なぜ学校の掃除を、子どもがやらなければならないのか分からない人たちがいる。
 もちろんそれがマスコミ関係者や保護者だったら素人だからかまわないが、
 教師や教育評論家だったらマズイだろう。
 特に後者は、なまじっか影響力を持つだけに、捨てておくわけにはいかない。
という話。

kieth-out.hatenablog.jp