カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「東京は差別されている」~それぞれのコロナ③ 

 新型コロナ感染に関して、すでに国内の分断が始まっているのかもしれない。
 東京をはじめとする都会は、いつまでたっても感染者をゼロにできないのに、
 いたって呑気に見えるからだ。
 そのことに田舎びとは苛立っている。
 しかし都会と田舎、それぞれに理由があるのだ。

という話。

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川瀬巴水東京二十景 平河門」

【第一波を振り返る】

 昨日、田舎の田舎に住んでいる年金生活者にとっては、緊急事態宣言ですらどうということはなかったという話をしました。
 しかしあの時期の、東京に住んでいる人たちの緊張は尋常ではなかったでしょう。新宿や渋谷駅の周辺が、怪獣映画でしか見たことのないような閑散とした状況で、浅草の仲見世通りなどはほとんどCGでした。
 たくさんの人たちが遊びに出かけるのではないかと心配されたゴールデン・ウィーク、人々は観光地どころか職場にすら行かなかったのですから。
 しかし都会は緊張しきっていた時期、田舎はそれほどでもなかった、こうした風景の違いは人々の意識も変えて行ったに違いありません。

 全国的にはまだ感染者ゼロの県がいくつもあった4月中旬、首都圏や阪神では毎日大変な数の感染者が炙り出され、死亡者数もうなぎ昇りに昇って人々を震え上がらせました――と書いて確認すると、ちょっとした意識の混乱が起きます。
 というのは第一波おける東京都の感染者数は、せいぜいが150~200人なのです。最高到達点は4月17日の201人でした。

 しかし昨日(10月1日)の東京都の感染者数は235人、それを私たちは「ちょっと多かったかなあ」くらいの気持ちで見られるのです。4月の201人に怯えていた私たちは何だったのでしょう。

 もっとも死者数についてみると第一波の際の最高到達点は5月2日の15人。全国的に見てもこの日がピークで36人の方が亡くなっています。第二波のピークは今のところ東京で9月8日と9月28日の6人、全国的には8月28日の20人です。当時の現在進行形で言えば36人が翌日40人にもなるようにも感じられたはずですから、怯えるに十分な数字だったとも言えます。

 そしていずれにしろ、コロナに対する恐れは田舎と都会とではだいぶ違ったものでした。
 
 

【東京人の東京コロナ】

 東京に住む娘のシーナの話によると、緊急事態宣言の自粛のあいだ、確かに東京都民は怯えて家から一歩も出ないような生活を続けていました。しかし実感としてのコロナ感染はまったくやって来なかったようなのです。

 シーナの夫の勤める学校でも児童・保護者、あるいは同居する祖父母たちが感染したといった情報はまったく出てこず、シーナが保育園に子どもを迎えに行ったついでに保育士さんや保護者の話を聞いても、感染の噂はまったくないのです。不安ばかりが大きくて実態はまるで見えてこない――そんな状況のままやがて緊急事態宣言は解除されてしまいます。まるで拍子抜けみたいな感じだったようです。

 それはそうでしょう。
 東京における第一波のピーク――4月1日を挟んだ前後合わせて一週間の感染者数は1026人。ただしこれを東京都の人口で割って10万人あたりで出すとわずか7・48人なのです。割合にすると0・0078%。これでは噂として聞くことも難しいのは当たり前です。
 ちなみに昨日(10月1日)までの直近1週間の、東京都の感染者数はそれより多くて9・65人。割合にして0・0096%です。東京都民が実感としてコロナを感じるのはやはり難しいままです。

 5月ごろのニューヨークのように大型冷凍車が病院に横付けされて次々と遺体が運び出されるとか、インドの町はずれの広場にいくつもの穴が掘られて遺体の到着を待っているといった風景でもあれば別ですが、目に見えなかったり耳に聞こえてこなかったりする危機は、実感として捉えるのは難しいのです。
 ただし同じ東京の状況を、田舎から見るとずいぶん雰囲気は違ってきます。
 
 

【田舎びとにとっての東京コロナ】~東京は差別されている

 さきほど「昨日(10月1日)東京都の感染者数235人」と書きましたが、今日まで9カ月余りの全部の感染者が235人よりも少ない自治体が、日本全国に15もあります(山口・山梨・新潟・大分・岡山・徳島・島根・高知・愛媛・香川・山形・秋田・青森・鳥取・岩手)。
 中でも岩手県は現在に至るまでわずか23人ですから、岩手の9か月分のさらに10倍が、昨日の東京では1日でドサッと降っている計算になるわけです。人口が110倍以上といったことは問題になりません。

 感染者数の中央値は鹿児島県の417人、そう考えると東京都の1日235人がいかに巨大な数字か分かろうというものです。
 それが地方人の持つ東京都のイメージなのです。

 家族が東京へ行って来ると介護サービスが一斉に止まる、教職・介護職・医療の関係者の家族が東京に行ったり東京から帰省した場合、本人は2週間の出勤停止といった極端な対応は、そこから生まれます。
 田舎の人間は都会の人たちがいつまでたっても感染者をゼロにできないことに苛立っています。田舎でせっかくゼロにしても、都会がゼロにできないからまたいつの間にか繁殖して、田舎が侵されてしまうからです。

 あちこちの自治体のホームページを見ていると、東京に関してのこんな記述に出会ったりします。
 特別の注意を払わなければならない段階に入っていると考えられ、東京都へお出かけの際には最大限警戒して、自分の健康状態はもとより利用する施設の感染防止対策を確認し、その必要性を判断し、 「三つの密(密閉、密集、密接)」を避ける、人と人との 感染防止距離(概ね2m)を取る、距離が取れない場合の マスクの着用や 手洗いなど、他の地域へ行く時よりもさらに 感染予防に万全の注意を払っていただきますよう強くお願いします。
例えば、お知り合い等との会食であっても飛沫感染した例も多発しており、特定の地域へ行かなければよい、ということでは十分な対策とは言えないことにご留意ください。(2020.10.01更新)
 これではとてもではありませんが気楽に「東京へ行ってきた」などとは言えません。家族を帰省させるのも困難でしょう(観光客には来てもらいたいけど)。

 同じ県のホームページの別のページには、
 新型コロナウイルスに関する誹謗中傷、不当な差別的言動はやめましょう(条例でも禁止しています)
とありますから、事態はさらに厄介です。
 
 

【みんな迷っている】

 「安心と安全は違う」とはよく言われることです。
 東京都民に会うとして、その人が感染者である確率は0・0096%。仮に感染者であったとしても他人にうつす確率はその5分の1以下――だからむやみに恐れる必要はない、それが科学的判断で、そこから導き出せるのが「安全」です。しかし必ずしも「安心」に繋がるものではありません。
 県民の「安全」を守るとともに「安心」を得るには、東京をはじめとする“危険地帯”との往来を遮断するしかない、そういう思いが上のホームページのような記述になるのでしょう。
 しかし東京には行くなと言いながら「GoToトラベルでも本県には来ないで下さい」とはとてもではありませんが言えません。そこに迷いがあります。

 私も、迷っています。
 東京都が感染状況を4段階あるうち厳しい方から二番目の「感染の再拡大に警戒が必要であると思われる」に設定しているとはいえ、娘の家に行って帰ってくるだけのことにどれほどの感染リスクがあるのでしょう。おそらく限りなくゼロに近い。

 しかし万が一のさらに万が一、つまり1憶分の1の確率であっても、私から母を通してデイサービスへ、妻を通して学校へ、感染を広げるようなことになったら世間に顔向けできません。
 一方、5歳の孫のハーヴはまだしも、1歳になったばかりのイーツなどは、半年会わなかったら別の生き物になっています。
 ハイハイの時期を見逃してしまいました。初めてのパチパチ(手を合わせて叩く)も見ていません。
 返す返すも厄介で寂しい話です。
 

「ダンスを踊る人、ハンマーで叩かれる人」~それぞれのコロナ②

 病気は誰にも同じように訪れる――わけではない。
 新型コロナウイルス感染は実に不平等だ。
 一方にダンスを踊る人がありながら、
 他方にハンマーで叩かれっぱなしの人がいる。

という話。

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(ヘンリク・シェミラツキ「剣舞」)

【不公平なウイルス】

 新型コロナというのはどこまで不公平なウイルスなのかと、イラつくことがあります。
 
 第一に、このウイルスで重症化したり死んだりするのは、基本的に老人か基礎疾患のある人だけ、という点です。昨日までの死者1574名中(私の数え方に間違いがければ)30代の死者は6名、20代に至っては2名しかいません。10代はゼロです。

 感染者自体は20代30代が圧倒的多く、70代以上は12%程度しかいないのに、亡くなった人は全死亡者の8割にも及ぶのです。致死率(感染者の中で亡くなった人の割合)は70代で7・5%、80代以上では17・4%もあります。元気な若者が無症状のままあちこち走り回って老人が死ぬという構図です。

 第二に、新型コロナによる社会的被害が、業種によってひどく異なるという点です。
 いうまでもなく飲食・観光業などのサービス業は被害が大きく、農業や製造業は比較的緩やか。逆に通販や運送関係では収益を上げているところもあります。
 規模が小さいのでニュースの扱いも小さいのですが、昨日も話した通り、芸能や芸術関係には壊滅的な被害を受けている人たちもいます。

 第三に、感染者の多い都会と田舎の差も見過ごせません。
 私は田舎の田舎、田園地帯に住んでいる年金生活者ですので、緊急事態宣言が出ようが出まいが日常生活に何の支障もありませんでした。日中ひと仕事しようと外に出ても、畑では密になる相手がいないのです。また、一緒に暮らす子どもがいないと買い物すら、週にいっぺんも行かなかったりします。外食もしません。
 
 しかし都会ではそうはいかないでしょう。とりあえず外に出れば人がいる。畑などという贅沢なものを持っている人は少ないでしょうから、年金生活者が行くとしたら碁会所か雀荘、カラオケ、フィットネスジム、飲み屋・・・どこに行っても人から逃れることができません。

 そう考えるとまだ60代で、無職で、田舎暮らしの私なんかまったく気楽という気もするのですが、それでも難しい事情がないわけではありません。なぜなら私は93歳の母と半同居していて、妻が現職の教員だからです。
 
 

【ダンスを踊る人、ハンマーで叩かれる人】

 しばらく前のニュースで見たのですが、東北地方で一人暮らしをさせている高齢の親を心配して、東京から娘が様子を見に来たところ、とんでもないことが起こったという話がありました。娘が来た瞬間からいっさいの介護サービスが停止してしまったのです。訪問介護もなければデイサービスにも行けない、買い物等の支援にも来てもらえない――ほんの二日ほどのつもりで帰省した娘はほんとうに困ってしまいました。

 何が起こったのかというと、それが介護サービスにおけるコロナ対策なのです。
 新型コロナ危険地帯の東京から娘が来た以上、感染していないことが証明されるまでの2週間、介護関係者は一切近づけないということがきまっていたのです。もちろん説明はプリント等で出されていたはずですが、東京に住む娘の知る由もありません。

 同じことが私にも言えます。例えば私自身が東京へ行った場合はもちろん、妻が一人で行ってきても、あるいは娘の家族が帰省しても、私が実家にひとたび足を運んだ時点で、母はデイサービスに2週間の出入り禁止になってしまうのです。週に2回の運動の時間ですが、筋肉の衰えた母には重い2週間です。そんな目にあわせるわけにはいきません。

 妻が教員だということも問題です。
 介護サービスと同じように本人はもちろん、家族が危険地帯に行ってきたりsると、妻は2週間の出勤停止となってしまいます。担任が2週間も休むなど、本人の緊急入院とか逮捕とかでない限りありえないことです。したがって家族は、誰も都会と一部地域に、行き来することができないのです。

 おそらく介護職はもちろん、医療関係者の家庭も同じ状況にあるのでしょう。
 一方で「Go To トラベル」「GoToイート」と(小池都知事の表現を借りれば)ダンスを踊るように誘導されている人がいるのに、他方でずっとハンマーでたたかれ続ける人たちもいるのです。叩かれる人々の多くは、まさに新型コロナ事態で最も苦労されている人たち(医療関係者)なのです。

 私たちは、いつまでこの状況に耐えなくてはいけないのでしょう?

(この稿、続く)
 

「小柳ルミ子のダモクレスの剣」~それぞれのコロナ①

 新型コロナ自粛の中で、歌手・小柳ルミ子はいったん引退を決意したという。
 その期間中、誰も小柳ルミ子を思い出さず、誰も仕事をくれなかったらからである。
 しかし芸能人の大半は同じ状況にいたはずではないか。
 小柳ルミ子はなぜそんなふうに思いつめて行ったのか。

という話。

f:id:kite-cafe:20200930010649j:plain(フェリックス・オーヴレイ「ダモクレスの剣」)

【大スター、涙ながらに語る】

 我が家は夫婦の趣味がことごとく合わず、したがって一緒にテレビを見るということがありません。私が見ているときは妻が別の仕事をし、妻が見るときはたいて私はコンピュータに向かって別の仕事をしています。音声がうるさいのでほとんどの場合はヘッドフォンで音楽を聴きながらの仕事です。

 一昨日の夜は妻が「徹子の部屋」のVTRをつけていて、「ああ小柳ルミ子が出ているな」と思いながら特に興味も沸かないでいつもの通りにしていたところ、曲の切れ目に聞き捨てならない言葉が聞こえてきて、おもわずヘッドフォンをはずして振り返りました。
 こんなことを言っていたのです。
「徹子さんにはわかってもらえるかもしれませんけど、私たち芸能人と言うのは人気商売で、必要とされてお仕事いただけるわけです。で仕事がないって言うことは・・・もちろんコロナのことは分かっています。でも、コロナであっても必要だったら、オファーがいただけると、思うじゃないですか。
 それがもうないということは、ああもう自分に力がないんだな、もう皆さんに楽しんでいただける歌も踊りも芝居も、必要とされてないんだなって思って、もう本当に7月は引退しようと決心して、そしたら――」
 この話の続きは、自分のブログのコメント欄に“サザン・オールスターズの桑田佳祐さんが雑誌で小柳ルミ子さんのことを絶賛していましたよ”という書き込みがあって、さっそく取り寄せて見ると「最高のエリート歌手」だとか「歌がうまい」とかあって、それで再び歌手の道を歩もうと思ったというところに繋がっていきます。

 それもまったくの涙ながらで、何回も声を詰まらせ、何枚ものティッシュ・ペーパーを無駄にしながらの話です。私の心には、幾重もの違和感が降り下りてきます。

【私には理解できない】

 ひとつには「それはそこまで深刻な問題なのか?」ということです。
 この4月・5月・6月を、それこそ身を削り命を懸けて過ごした何百万人もの人たちがこの国にはいるはずです。
 今日の糧が手に入らない、明日の目星がつかない、月末までの資金が用意できなければ社員が路頭に迷う、店を手放さなくてはならない、自宅を失うかもしれない――そんな思いで過ごしてきた人たちです。
 しかし小柳ルミ子さんが失うかもしれないと恐れているものはオファーなのです。

 まさか生きていくだけの蓄えがないということもないでしょう。事務所からの固定給だってあれば、CDや音楽配信の印税だってあるはずです。ファンクラブからの収益だってまだまだ見込めます。いざとなれば借金をしたってコロナ明けにディナーショーを何回か開けば簡単に返せる人です。
 前夫から受け取った1億円の慰謝料はどうなったのでしょう? 小柳ルミ子の前夫という以外に何の取りえもないダンサーが、わずか数年で1億円を返せるのが芸能界です。小柳ルミ子だったら何とでもなるでしょう。

 そもそも仕事が来ないのは芸能界が彼女を必要としなくなったからではありません。もちろん最前線の流行歌手としての需要ならとっくに失っていますが、その代わり今は中堅の、安定した歌唱のできる歌手として地方公演やディナーショーなどでは引っ張りだこのはずです。それがライバルというなら同じような人はいくらでもいますが、このコロナ禍のもとで、ほとんど全員が休んでいたはずです。ジャニーズやAKBのような最前線の人気タレントですら仕事がないのに、中堅歌手の出番などどこにもありません。

 芸能なんて主要不急の職業であって、自粛期間中は「だるまさんが転んだ」で鬼に振り向かれたときと同じように、ほぼ全員が一斉に止まっていたのです。コロナが明けたら、鬼が再び「だるまさんが・・・」と言い出すのに合わせて、みんなで一斉に動き出せばいいだけのこと、それまでのあいだに歩みを進めている仲間などいるはずがありません。
 それを、
 もう自分に力がないんだな、もう皆さんに楽しんでいただける歌も踊りも芝居も、必要とされてないんだな
だなんて、ほんとうにコロナに苦しんでいる人たちが聞けば、怒り出しそうです、と悪態をついておいて――しかし「それが人間なのだ」という思いも、私にはあるのです。 

小柳ルミ子ダモクレスの剣

徹子の部屋」の録画を最初から見直すと、自粛期間中、小柳ルミ子さんは毎日19にも及ぶコロナ関連の番組を見続け、自らを「除菌オバさん」と呼ぶほどに防疫の腕を上げたそうです。おそらく独り暮らしで、朝から晩まで独りぼっちで新型コロナの情報にたっぷり汚染されていたのでしょう。

 18歳でデビューしていきなりスターダムにのし上がり、以後ずっとその地位を維持してきました。家庭を持たず、芸能以外の仕事に手を出すこともなく、常に健康と体力に気を遣って体形や運動能力の維持のために最大の努力をしてきた。二六時中誰かに見られ、いつも気を張って緩めることもない――そういった 人間が、数カ月に渡って部屋に居ずっぱりで、朝から晩までひとりでコロナと戦っている――。
 その目に映る社会や世界の姿が、歪んでくるのも致し方ないのかもしれません。

 思えばスターダムというのはシラクサの王・ディオニュシオス一世の玉座と同じです。逸話によると、廷臣ダモクレスが王を讃えて羨むと、王は黙ってダモクレス玉座に座らせ、上を見るように指示します。するとそこには天井から毛髪一本で吊るされた抜身の剣が下がっていたのです。
ダモクレスの剣――玉座のいかに危ういかを示す逸話です。

 芸能人というのは因果な商売です。評価の基準は「人気」という徹底的に他力本願のところにしかありません。努力や実力が単純に反映しにくいのです。そしてそれにもかかわらず、定年のない世界ですから果てしない競争にさらされ続けます。
 一方でルミ子さんよりも20歳も年上の黒柳徹子さんが最前線で活躍しながら、80歳の老優・藤木孝さんが「役者として続けていく自信がない」と遺書に書いて自殺する世界です。死ぬまで生存競争から自由になれない。
徹子の部屋」からオファーが来て「やったー!」と両の拳を振り上げたという小柳ルミ子さん狂いは、芸能界全体のものなのかもしれません。

 それは三浦春馬さんや芦名星さんの生きた世界でもあります。

 

「ふた組の三姉妹」~浅井三姉妹、宋家の三姉妹 

 NHK大河ドラマ真田丸」の淀君竹内結子さん)はすごかった。
 しかし淀君を含む浅井三姉妹の生涯自体も凄まじいのだ。
 そしてふと思い出すのは、
 時代も国もまったく異なる、別の三姉妹のことだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20200929083657j:plainボッティチェリ「春」の三美神《左》)

【消化不良な歴史】

 昨日、竹内結子さんについて書いた際、4年前のNHK大河ドラマ真田丸」での淀君の演技が素晴らしかったというお話をしましたが、私は淀君を長姉とするいわゆる浅井三姉妹について非常に消化不良な思いを持っています。
 ものすごく興味があるのに、ロクな資料に出会わないのです。

 歴史というのはその主軸が政治史にあって、政治の世界はほぼ男性に独占されてきました。したがってそれぞれの時代を女性がどう生きてきたかという記録は、ごく少数の例外を除いて、ほとんどないのです。その中にあって浅井三姉妹と呼ばれる茶々(ちゃちゃ)・初(はつ)・江(こう)の生涯については、事績としては比較的よく残っているのですが、それでも人物像を思い浮かべられるほどの記述はありません。
 「真田丸」の茶々(淀君)が素晴らしかったのは確かに竹内結子さんの演技力によるところも大きいのですが、三谷幸喜という風変わりな脚本家が自由に想像を巡らせることができるほど、資料がなかったからかもしれません。 

お市の方

 浅井三姉妹の母親は織田信長の妹で、戦国一の美女と謳われたお市の方です。同盟のために二十歳前後で浅井長政のもとに嫁した政略結婚ですが、三人も子どもが生まれたところをみるとそれなりに仲も良かったのでしょう。
 織田と浅井の同盟はやがて破綻し、信長は小谷城浅井長政を殺して、そのときお市の方と三人の娘は城から逃れます。逃れたというよりは脱出させられたといったほうがいいのかもしれません。
 信長は祝勝の酒宴の席で、長政の髑髏を盃に祝杯を挙げたと言いますから、よほど腹立たしかったのでしょう。しかしお市の方にとってはやりきれない話です。

 本能寺の変で信長が死んだのち、柴田勝家に再嫁したお市の方は秀吉に攻められて再び落城の憂き目に遭います。しかし秀吉の熱心な勧めにもかかわらず、北庄城落城に際して自らは脱出せず、三人の娘のみを外に出して夫とともに自害する道を選びました。前夫のことで後悔もあったのでしょう。

浅井三姉妹

 その後、3人の娘たちはそれぞれ数奇な運命を辿ることになります。
 茶々(淀君)は秀吉の側室となって二人の子を産み、最後は大坂夏の陣で三度目の落城の中、息子の秀頼とともに自害します。

 次女の初は秀吉の命によって室町以来の名家・京極家に嫁します。夫の京極高次という人はかなり面白い人物で、両親がキリスト教徒で(母親は京極マリアというなで名が残っています)自身も最後は妻とともに改宗したり、妹が秀吉の側室で妻が信長の姪であるとともに秀吉の側室の妹、その七光りのおかげで出世したと陰口をたたかれ、「蛍大名」などといったあだ名さえあった人です。
 そうかと思うと関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)に味方して、わずか3000人の兵で大津城に籠城し西軍1万5000人(別に3万7000にとも4万人とも言われる)を足止め、東軍勝利に貢献した知将といった面もあったりします。
 ちなみに高次がなくなると初は剃髪して仏門に入りますが、ここは“あれ? キリシタンの話はどうなったんだ?”と首を傾げたくなるような部分です。

 三女の江は秀吉の命によって強制的に結婚させられたかと思ったらやがて強制離婚させられ、二度目の結婚相手は朝鮮出兵で戦病死。三度目の嫁ぎ先が徳川家康の嫡男で後の2代将軍、徳川秀忠という激しい前半生を送ることになります。
 次姉の初は子どもに恵まれませんでしたが、江は二男五女をもうけ、その中には有名な千姫や三代将軍徳川家光もいます。
 波乱の多い前半生に対して、もっとも安定した後半生を送った人といえます。

 それぞれ別な場所で生きることになった三人ですが、一瞬、激しく交錯する歴史的場面が生れます。1614年の大坂冬の陣、そして翌年の夏の陣です。
 言うまでもなくこのとき茶々(淀君)は豊臣方にあって総大将の母親、江は徳川方2代将軍の妻なのです。このとき両者の間にあって、和睦のために奔走したのがすでに未亡人となって僧籍にあった初でした。

 この時代の女性は男たちに運命を振り回されるのが常でした。浅井の三姉妹の生涯はその最も激しい典型ですが、それでも人間は生きていける、なんとかなる、自ら棄てることはないと教えてくれる例のような気もします。

宋家の三姉妹

 歴史、特に戦国史が大好きで、自分自身が教師としては歴史が専門だと思っていたにもかかわらず、浅井三姉妹に興味をもったのはずいぶん後のことでした。学生時代は茶々以外のことはまったく知らず、三姉妹といったらまず浮かんだのは中国の、宋家の三姉妹の方です。
 中国近代史が私の専門でしたので。

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(下)靄齢、(左上)美齢、(右上)慶齢

 宋家の三姉妹と呼ばれるのは戦前の中国の財閥、宋家の三人の娘、宋靄齢(そう・あいれい)、宋慶齢(そう・けいれい)、宋美齢(そう・びれい)のことです。父親は牧師でありながら金融と印刷業で財を成した人で、母親は元数学者。娘たちは三人ともアメリカで高等教育を受けています。
 三人が有名なのは浅井の三姉妹同様、嫁ぎ先がかなり特殊だったことと、そして政治の世界にそれぞれ役割があったことによります。

 長女の靄齢の嫁ぎ先は富豪で政治家でもあった孔祥熙(こうしょうき)、孔は宋家とともに孫文中国国民党を財政面から支援し、抗日運動も支えた人です。ただし晩年には一族を挙げて私腹を肥やした面もあり、最終的な評価は靄齢とともにかなり芳しくないものがあります。

 次女の慶鈴の夫は近代中国の国父とされる孫文です。宋家・孔家が国民党支持を続けたのに対して慶鈴は途中から中国共産党支持に回り、中華人民共和国成立後も大陸に残って毛沢東の中国の国家副主席にまで昇り詰めました。非常に清廉な革命家といった感じの人です。

 三女の美齢は三人の中でももっとも華やかな女性でした。夫は蒋介石中華民国の初代総統です。中華人民共和国成立後は台湾のファースト・レディとして国政政治の舞台でも活躍しました。2003年まで存命でしたのでその姿を覚えている人も少なくないでしょう。政治的野心の強い人で、戦後の台湾史をちょっと覗くだけでも繰り返し名前が出て来ます。

 中国共産党の国家副主席と台湾国民党のファースト・レディーですから次女と三女の関係は大坂夏の陣淀君(茶々)と江に匹敵する、あるいはそれ以上に厳しい関係だったと言えます。
 1981年には名誉国家主席になっていた宋慶齢が危篤となり、その際、中華人民共和国は見舞いのための訪問を打診しましたが、敵対関係を理由に美齢はこれを決然として拒否しています。

 三者三様の生き方――。こうした事情から、三姉妹については靄齢、美齢、慶齢の順に、「一人は金と、一人は権力と、一人は国家と結婚した」と言われています。

【誰か物語にしてくれないか】

 宋家の三姉妹については記録もたくさん残っていて調べるときりがないのでこの程度の紹介にとどめます。1998年に映画になっていますから、そちらを観るのが早いでしょう(私は見ていないので評価はできませんが)。
 浅井の三姉妹については、どうして映画にも大河ドラマにもならないのか不思議です。2011年の「江 ~姫たちの戦国~」は確かに浅井三姉妹が主人公ですが、江に寄せすぎている感じもします(これもあまり熱心に見ていなかったので評価の対象外ですが)。

 私ももう齢ですので、今から熱心に調べようという気力がありません。だれか都合よくまとめて見させてくれる人がいればいいのですが――。

「死に逝く者の責務を果たせる者だけが死んでいい」~女優、竹内結子も逝ってしまった

 女優の竹内結子さんが亡くなった。自殺の可能性が高いという。
 打ち続く芸能人の自殺、
 あるいはそこに共通点があるのかもしれないが、竹内さんは少し違う。
 人には死んではいけないときがある、死ぬことが許されない場合もあるのだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20200928064230j:plain(ダフィット・テニールス「聖アントニウスの誘惑」《部分》)

竹内結子さんの死】

 女優の竹内結子さんが亡くなりました。自殺の可能性が高いとのことです。享年40歳。

 昨年の2月に再婚し、今年1月の末に第二子を出産したばかりでした。長子は歌舞伎役者の中村獅童の子で、今年14歳になるはずです。

 私は竹内さんのファンでも何でもないのですが、4年前のNHK大河ドラマ真田丸」で演じた狂気の淀君が忘れられません。
 4歳の時に落ちる小谷城に父を残して母や兄妹とともに脱出し、14歳で北の庄城に母を残して二人の妹とともに秀吉の軍門に下り、その側室となってからは最初の子の鶴松を死なせ――と、わずか20年余りの半生の間に、家族の大部分を次々と亡くすような体験をした女性は、きっとこうなるだろうと強く思わされる演技でした。

 結局、最後には豊臣家を亡ぼして両親の復讐を果たした――そう考える見方も多くありますが、竹内結子さんの演じた淀君にとっては豊臣家も浅井家も、天下統一も復讐も何もかもどうでもいいことで、常にその場その場を生きていた――ただそれだけのことだったのかもしれない、それこそがほんとうの淀君の姿かもしれない、そう思わせるだけの素晴らしい演技でした。

 芸能人の自殺については三浦春馬さんや芦名星さんを例につい先日書いたばかりです。

kite-cafe.hatenablog.com そこで考えたのは、人気俳優としてほとんど休みもなく突っ走ってきたこの人たちが、今回のコロナ自粛で完全に止められてしまった、その働いていないことの消耗についてでした。
 さらに竹内さんの場合は生まれたばかりの赤ん坊を抱えての自粛ですから、育児ノイローゼ的なものも重なっていたのかもしれません。竹内さんに限ったことではありませんが(コロナ感染を恐れて)両親等の助けを一切うけられない養育というのは、これまでほとんどなかったことです。
 いずれにしろ尋常ではない状況下にあったわけで、私には淀君の狂気の演技が記憶に焼き付いていますので、その最後の姿が目に浮かぶようでほんとうにやりきれません。


 ただしそんなふうに思い遣りながらも、三浦さんや芦名さんとは違った思いで竹内さんの死を考える私もいます。それは何と言っても彼女が14歳とゼロ歳の子の母親であり、結婚一年半の、年下の配偶者の妻であることから来ています。

 

【死に逝く者の責務】

 二十数年前、私が肺ガンの宣告を受けて死を覚悟したとき、娘は小学校2年生、息子はまだ4歳でした。発見の段階でレントゲン撮影の病巣が2×3cmもあって(最終的には8×6×6cm)医者からもⅢA期かⅢB期と言われたので、“これはもうダメだな”と諦めるのも早かったのです。それほど悲壮感のあるものでもありませんでした。

 ただ7歳と4歳の子を残して逝くのは忍びない気がしましたし、特に下の子は年齢的に記憶にすら残らないかもしれないと思ってそこには気を遣いました。たくさんの映像とたくさんの文章を残しておこうと、自分のWebサイトをつくったりあれこれ始めたのもこの時です。

 それとは別に、妻や親兄弟のために心がけたこともあります。それはこの人たちが私の元に持ってくる治療や治療もどきのことは、資金の許す限り試してみようということです。困ったことにこの病気になると、頼んでもいないのにあちこちから特別な治療やら栄養食品やらの話がやたらと舞い込んできます。
 私はすっかり諦めつくしていましたからそんな無駄なこと、面倒なことはしたくない気持ちもあったのですが、家族の勧めを断り続けた挙句に結局死んでしまったら、それで切ない思いをするのはその人たちです。
 もっと強く勧めていたら、もっと強引に引っ張って行っていたらと、そうした悔いは人の死にはつきものです。だから私たちは葬儀の席で「お悔やみ申し上げます」と言い合うわけですが、それでもその“悔い”を最小限にとどめるのは死に逝く者の使命だと思ったのです。もちろん何百万円もする治療などお断りですが――。

 しかし私は生き残ってしまいました。どの治療・治療もどきに効果があったのかは分かりません。もしかしたら生きる可能性をさっさと諦めて気楽に病気と付き合ったのがかえって良かったのかもしれません。

 

 【残された人々への哀悼】

 もちろん同じく死を目前にしていると言っても自殺と病気とでは全く違います。自死する人の最後の瞬間はおそらく正気ではありませんから、その人たちに「残される者の気持ちを考えろ」とか「死ぬより大切なことはあるだろう」とか言っても無意味でしょう。しかしそれでも私は思わずにはいられないのです。

 最初にクローゼットの中の遺体を発見した若き夫は、これから長く続く人生をどう生きて行ったらいいのでしょう。最も近くにいて、最も救える可能性のあったのはこの人なのです。 
 14歳の、とてつもなく多感な時期の真っ最中にいる長男は、事態をどう受け止めるのでしょう。彼女は自分自身が演じた茶々(淀君)が母を奪われたのと同い年の息子から、自ら母親を奪ってしまったのです。
 この子に語ってやれる言葉はそう多くはありません。

 ゼロ歳の次男は、もちろん今は何も分かりません。しかしこの自死の原因に育児ノイローゼがあるとして、将来おとなになったとき、その事情をどう消化したらよいのか。
 普通の家の子ではないのです。インターネットで検索をかければ、10年後であっても20年後であっても、母親に関する情報はいくらでも出て来ます。
 ――そう考えただけでも、とてもではありませんが死んで行ける状況ではないのです。

 もちろん、繰り返しになりますが、自死する人の最後の瞬間は正気を失っているはずです。ですから私の想いをもって竹内結子を非難することには、何の意味もないことは百も承知です。
 百も承知の上で、この女性の失われた才能を心から惜しむとともに、たいへんな重荷を家族に残していった恨みを抑えきることもできないのです。

 *2020年10月1日追補
 こののちも竹内結子さんについては続報が出ていますが、私の心に引っ掛かったのは、竹内さん自身が14歳でガンのために母親を亡くしているという事実です。14歳、おそろしく因縁めいた話だと思いました。
 

「我が家のジェリーマウスとの戦い」~カラスとネズミに悩まされる②

 ネズミとネコ、人間が本当に好きなのはどちらなのだろう?
 現実のネズミはあんなに嫌われているのに、フィクションの中では人気者、
 ネコはその逆だ。
 それにしてもネズミって、なぜあんなにも頭がいいんだ?

という話。

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【人とネズミの長い長い好ましからぬ付き合い】

 人間との関係において、ネズミほど不思議な生き物はいないのかもしれません。とにかく有史以来、両者が仲良かったことは一度もないのに、いつでもそばにいたからです。

 古くは縄文時代、私たちの祖先は竪穴式住居の炉(いろり)の上に、火棚(食料棚)を作ってそこに食べ物を置いたくらいです。炉は1日24時間360日火を絶やさないもので、乾燥保存と同時に、火と煙で小動物(主としてネズミ)から食べ物を守る仕組みでもありました。ネズミとの共生はそのころからなのです。

 弥生時代には高床式倉庫の床を支える柱に「ネズミ返し」と呼ばれるオーバーハングの部材をつけて、ネズミの侵入を防ぎました。ネコを手元に置いて退治させ始めたのもこの時期です。

 これが海外となると、エジプトではすでに紀元前4000年ごろかネズミ駆除のためにネコを飼っていた証拠があるといいます。要するに食料の貯蔵が始まると同時にネズミとの攻防が始まり、ネコは人間の友だちになったのです。

 6世紀以降のヨーロッパでは繰り返しペストが流行しましたから、その意味でもネズミ駆除は最重要で、ネコの需要も大きかったと思われます。
 
 

【ネズミは意外な人気者】

 では人類にとってネズミは常に悪魔のような存在だったのかというと、そうでもないのです。これが昔話やファンタジーの世界だと、俄然、人類のお友だちです。

 その最大のヒーローは言うまでもなくミッキーマウス。少し下って映画「シンデレラ」のネズミたち。私くらいの世代だと「トムとジェリー」のジェリー。日本では「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男。もう忘れられているかもしれませんが50年ほど前に大ブームとなって、その後20年おきくらいに再燃しているイタリア生まれのトッポジージョ。さらに下って「ポケモン」のピカチュウ。現在では「ぐりとぐら」と、拾い上げるときりがありません。

 “これはミッキーマウスを生み出したウォルト・ディズニーの功績かな?”と一瞬、思ったのですが、考えてみたら昔話には「ねずみの嫁入り」や「ねずみの相撲」。「おむすびころりん」だってネズミの話です。

 現実にはあれほど忌み嫌われながら、フィクションの世界ではこれほどまでにもてはやされるネズミって何なのでしょう?
 
 

【割を食ったネコ】

 それで割を食ったのがネコ。
 ドラえもんがネコかどうかは議論になるところですが、愛すべきネコと言われてそれ以外に思いつくのはせいぜいがキティちゃんか長靴をはいたネコくらいのもの。逆に意地の悪いネコ、頭の悪いネコの方は枚挙にいとまがありません。

 日本では鍋島藩の化け猫をはじめ「注文の多い料理店」の店主山猫、もう一度古いところで「徒然草」の猫又(奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……)。

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 海外では「シンデレラ」のルシファー、エドガー・アラン・ポーの小説で主人公をジワジワと追い詰めるプルート(「黒猫」)。「トムとジェリー」のトムは意地が悪いうえに、どう考えても“招き猫”ならぬ“間抜け猫”(アメリカ海軍はなぜ自分たちの戦闘機にトム・キャットなどというアホな名前をつけたのでしょう?)。


 ところがネズミと違って現実のネコとなると、今の日本は空前のブーム。私の住む田舎町にもいくつものネコ・カフェがあったりします。ネズミ・カフェはひとつもない。

 人間との関係において、現実とフィクションで逆転するネコとネズミの関係、もう少し考えてみたいところです。

 
 

【我が家のジェリーマウスとの戦い】

 さて今日、ネズミについて何か書こうと思ったのは、実は一カ月ほど前から、母の家にネズミが出るようになったからなのです。
 私は基本的に夜は母の家で暮らしているのですが、ある夜中、耳元でガザゴソといった音がして、体を起こすと同時にすさまじい勢いで台所の方に走っていくものがありました。クマやカモシカでないとしたら、間違いなくネズミです。

 以前にもそういうことがあって何か対応した方がいいかなと思いながら数日過ごすうちに、いつの間にかいなくなったので、今回も同じかもしれないと様子を見ることにしました。ところが翌日も、そのまた翌日も私のところにやってきて起きると同時に逃げ去るのです。
 どうやら台所の方から来るらしいのですが暑い時期で戸を閉め切るわけにもいきません。しかたなく意を決してホームセンターで粘着式のネズミ捕り(30㎝四方くらいの巨大なゴキブリホイホイ見たいなもの)を買ってきて、2か所に置きました。

 ところがそれから1週間たっても罠にまったくかからない。それどころか毎晩、相変わらず私の近くまで来て遊んで帰るのです。
 そこで今度は一段のレベルアップをすることにしました。実は私はかつて、学校の校務で「ネズミ捕り係」(*)だったことがあるのです。
*本当は飼育委員会顧問。ニワトリ小屋にネズミが再三でて、エサを横取りするだけならまだしもニワトリの脚まで齧ってケガをさせるので、ネズミ退治が私の仕事になった。

 笑い話みたいですが“ネズミはチーズが大好き”というのはほんとうの話です。昔ながらの鉄かご式の罠にチーズを吊るすと、面白いように捕まえることができます。しかし鉄かご式はそのあと“ネズミを殺す”という嫌な仕事があるため、今回はそのまま袋に入れて生ゴミとして出せばいいだけの粘着式にしたわけですが、チーズの魔力に変わりはないでしょう。
 私はベビーチーズを細かく砕き、ネズミ取りの中央に置くとともに周辺にもばら撒いておきました。二つとも。
 ところが3日続けて仕掛けたのに一匹もかからないのです。しかもネズミ捕りの周辺のチーズはすべて平らげられ、本丸だけが全くの手つかず――。
(アイツら、分かっているのか・・・?)

 もっとも収穫がまったくなかったのではなく、その三日目、音がするので台所に行って灯りをつけると、どうした拍子か逃げ遅れた一匹が私の目の前を後れて走って、食器棚の後ろに入って行くのが見えたのです。
 その先がどうなっているのかは分かりませんが、重い家具を移動して確認するまでもないでしょう。経路がわかったのですからそこに罠を仕掛ければいい――。
 そこでネズミの走るコースにネズミ捕りを並べて、待つこと10日間、以後ネズミの動く気配はまったくしなくなったのです。
 そこは通れないと、やはり分かっているのです。入り口を押さえられて、入るのを諦めたのです。

 私は本気で、我が家のジェリー・マウスが指揮をとっている様子を思い浮かべました。
 大したものだ。

「カラスの不吉な滑り台」~カラスとネズミに悩まされる①

 姿も悪い、声も悪い、
 傍若無人で人間を恐れず、平気で死肉も食らう――、
 カラスは古来、不吉な鳥とされてきた。
 同情する気がないでもないが、でもやっぱりなあ・・・

という話。

f:id:kite-cafe:20200924064921j:plain(写真:フォトAC

 

【ほぼ一日おきのジョギング】

 ほぼ一日おきに30分のジョギングに出ています。
 毎日でないのは、
「骨は折れた部分が治ったときに太くなっている。筋肉も同じで激しい運動で細胞を破壊して、それが回復することで太くなる。だから毎日やるのではなく、回復期を置いて再生させなければならない」
という説を信じているからです。

 しかし一方、私は運動なんか大嫌いで、嫌いなことには忘れやすいという性質があります。一週間に二回といった頻度では結局いい加減になって続かないに決まっています。そこで一日おきなら何とかなるだろうと思ったのですが、困ったことに一週間は7日間。月・水・金・日とやると翌週は火・木・土なのでこれも覚えられない。
 そこで結局、火・木・土・日と週4日間することに決めました。「ほぼ一日おき」と書いた「ほぼ」はそういう意味です。土・日は妻の目もありますので、見栄っ張りな私としてはこれも歯止めになります。

 「最低30分は必要」と言われたので、時間は素直に従うことにしました。しかし、(繰り返しますが)運動なんて大嫌いですから10秒だって余計にやりたくない、歩くのも嫌だ――と、そうなるとジョギングコースや速度はかなり厳密なものになってきます。
(最初の5分で郵便局まで走って、次の5分で神社の杉の木の前を通って・・・)

 走りながら何度も時計に目をやってペースを確認する姿は我ながらすばらしいアスリートなのですが、フォームはめちゃくちゃ息も絶え絶えですから傍目にはすぐにばれてしまうでしょう。
 それでも元来が頑固で融通の利かない性質ですから、かれこれ一年半も続けてこられています。

 
 

【嫌なカラスと出会う道】

 このみっともないジョギングについては人様に話すつもりもなかったのですが、これからお話しする「嫌なカラスと出会う道」について、当然あるだろう「だったら別の道を通ればいいじゃないか」という疑問に前もって答えておこうと思ったからです。

 あれこれ試したのですが、家の玄関をスタートしてきっかり30分で帰ってくるには、あちこちに適当な目標のあるその道をどうしても通らなくてはならないのです。

 それは3回目の5分間(つまり走り出して15分後)を示す角を左に曲がった先の、畑の中にあります。高さ2mほどの農業用の資材棒が4~5本立っていて、その先端から逆さづりにしたカラスが、紐でぶら下げられて風に揺れているのです。 もちろんつくり物ですが恐ろしくリアル(*1)で、怖くて直視できません。
*1
 どのくらい“リアル”かというと――気持ちが悪いのでリンクはつけませんが、怖いもの見たさで調べてみようという人は「カラス除け_人形」か何かで検索してみてください。すぐに出てきます。1体3000円以上のものが効果があるみたいです。

 同じ畑では数年前、本物のカラスがものの見事に十字架に磔(はりつけ)になっていたことがありましたから、畑の耕作者の怒りのほどがわかろうというものです。もしかしたら今ある4~5羽のつくり物カラスの中には、ひとつくらい本物も混ざっているのかもしれません。

 
 

【「カラスの葬式」を逆手に取る】

 なぜそこまでリアルなカラスを置かなければならないかというと、それはひとえにも二重にもカラスが頭が良いからです。生半可な置きものだと、すぐに見分けてしまいます。

 また、俗に「カラスの葬式」と言われるように、カラスは仲間が死ぬとその場所に一斉に集まってくることがあります。別れを惜しんでのことではありません。そこが危険個所だと、みんなで教え確認し合っているのです。

 本物の死体を磔にしたりリアルなカラス逆さづりにしたりするのは、そうした学習能力を逆手にとってのことなのかもしれません。
 しかし無関係な私には、ただ、ただ気味が悪いだけです。

 

 

【不吉な滑り台】

f:id:kite-cafe:20200924065204j:plain カラスといえば奇妙な思い出があります。 もう40年近くも前のことですが、市の教育会館が新築移転となって廃屋である旧会館が長く放置されていたことがあります。当時の勤務校のすぐ近くで、屋上に望遠鏡を格納する銀のドーム(右の写真のようなもの*2)のついた立派な建物した。

*2
 これついて子どもから問われ、「あれはウルトラセブンのヘルメットのケースだ」と答えたら本気にされそうになって慌てたことがあります。

 そのドームの縁を3羽ほどのカラスが歩いているのが見えたのですが、ふと気づくと1羽がてっぺんに登っていって、そこから滑り台の要領で滑り降りてきたのです。するとそれを見ていた他の2羽も、同じように登っては滑り始めます。
 下まで降りるとまた順番にひょこひょこと登って行って(なぜ飛んでいこうとしないのだろう?)、何度でも繰り返し滑り降ります。要するに遊んでいるのです。

 犬や猫は賢い動物ですのでそのくらいはするのかもしれませんが、カラスの脳みそなんておそらくクルミの大きさほどもありません。そんな小さな頭脳のどの部分で、人間の子どものような遊びを思いついたのでしょう。
 すごく不思議でした。

 ただそれから数年して教育会館の本格的解体が始まったら、中で古い自殺体が発見されたという新聞記事が出て、ぞっとしました。
 カラスはやはりカラスです。
 
 しかしそれにしても、今日のジョギング、やはり気が重いよなあ。