カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「キョウヨウのある叔母の晩年、ダメな男たちの歴史」~カラオケと麻雀、昔の学生・今の老人②


 叔母は最後まで麻雀仲間にこだわって亡くなっていった。
 それは4人そろわないと遊べない麻雀の美しい一面だが、
 一方、その不思議な点数計算について考えてみると、
 ダメな男たちのダメな歴史が浮かび上がってくる。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200710074714j:plain(「マージャン」フォトACより)

 

【叔母:キョウヨウのある晩年】

  一昨年、91歳で亡くなった叔母が、救急搬送された病院で最後まで心配していたのが翌日、自宅でやることになっていた麻雀の中止をどう仲間に知らせるかでした。叔母は足が不自由で外に出られなかったので、自宅を会場にしていたのです。

 駆け付けた長男が「そんなことはオレがやるから」と言ってメンバーの名前をメモして、住所録の在りかを確認すると、ほっとしたかのようにその夜の内に亡くなってしまいました。
 もう何年も前から週3回ずつ麻雀を打っていた仲間ですから、よほど大切だったのでしょう。

 叔母がいつごろから麻雀をやっていたのかは聞きそびれました。私より一世代上ですから学生麻雀ではありません。
 連れ合いである叔父がなかなかの遊び人でしたからそこから手ほどきを受けたのかもしれませんし、考えてみたら地域の社会福祉協議会の行事にも「麻雀教室」というのがありますから、高齢になってから覚えたものかもしれません。
 いずれにしろ人生の最後の時期に良き友に恵まれ、一日おきに楽しみにすることがあったのは幸せでした。
 まさに「キョウヨウ(今日すべき用事)」のある晩年でした。

 

 【確定勝負と不確定勝負】

 囲碁・将棋・オセロ・麻雀、競馬・競輪・競艇オートレース、チンチロリンに丁半、花札・ポーカー、バックギャモン、パチンコ・・・世の中に勝負事・ギャンブルと呼ばれるものは数知れません。しかしすべての勝負は、基本的に「確定勝負」「不確定勝負」の二つに分類できます。

 確定勝負というのは実力差がそのまま出てしまうようなものです。例えば囲碁や将棋は相手を選ぶかハンディをつけないと勝負になりません。私が将棋で藤井聡太君に挑んでも、100回やれば100回、1000回やっても1000回、必ず負けます。それは確定勝負だからです。
 一方、不確定勝負は偶然がものを言います。典型的なのは丁半博打で、半か丁かは統計的には五分五分の確率で起こり、熟練とか才能とかは関係ありません。初心者にも勝つチャンスはあり、頼るべきは技術ではなく運です。

 もっとも完全な「確定勝負」「不確定勝負」というものも少なく、その中間にあってどちらに傾くかによってゲームの性質が変わってきます。
 競馬は研究の度合いによって当たる確率を上げることはできますが、必ず勝てるというわけにはいきません。花札は初心者と熟達者が戦えばおそらく熟達者の方がかなり勝率を稼げるはずですが、いくらもしないうちに初心者の技能が追いついて「不確定勝負」の要素が強くなってくるでしょう。

 麻雀はそこが微妙で、確率論で迫ればかなり確定勝負的で、熟達者の方が圧倒的に強くなりそうなのに、ひとり強運の持ち主が入るだけで局面はまったく変わってしまいます。
 100局とか1000局とか続けて打てばおそらく熟達者の方が成績は良くなるでしょう。しかし部分的には初心者が大勝ちすることもあります。そこがこのゲームの面白さで、がんばって努力すれば腕は上がる、しかし発展途上でも時に熟達者と互角の勝負ができる、だからやめられないという面があるのです。

 

【私のこだわり――点数計算の謎】――興味のない方は読み飛ばして①

 ゲームそのものの面白さと同時に、私はひところ麻雀の成り立ち自体に興味があって、ずいぶんと調べたことがあります。

 今と違ってインターネットなどない時代ですので大変苦労したのですが、大昔から中国で行われてきたと思っていた麻雀の歴史が意外と浅く、ここ150年ほどのものであること(元となったゲームには1000年余りの歴史があるそうですが)、1920年代に世界的ブームとなって特にアメリカで大きな変化を遂げたこと、リーチと言った英語が使われるのもそのためで、多くの役がアメリカ産であること、そういったことはすぐに分かりました。
 分からなかったのが点数計算です。

 麻雀では14枚の牌がさまざまなルールにしたがって揃ったときに“アガリ”となりますが、基本的に3枚組4セット(12枚)と2枚組1セット(2枚)計14枚5セットの各組に、点数の決まりがあります。例えば「三萬」「四萬」「五萬」という順番揃えのセットは0点、表に「六萬」とか書かかれた牌(あるいは円や棒の絵が複数描いてあってその数がまったく同じ牌)、そういうもの3枚の集めると2点、だたしその数が1と9あるいは文字だけの牌(これをヤオチュハイまたは一九字牌と総称します)で3枚集めた場合は8点といったふうです。
 さらに細かなルールに従って点数がつき、それを全部たしたら26点という場合は1の位を切り上げて30符という言い方をします。それが基本の点です。

 次に14枚の構成を見て“役”と呼ばれるポーカーで言えば「ワンペア」とか「スリーカード」に当たるものがどれくらいあるかを計算します。ひとつしかなければ「一飜(イーハン)」、二つならば「二飜(リャンハン)」という言い方になります。
 そして点数早見表に照らし合わせて見ると、30符で一飜の場合は1000点、二飜の場合は2000点と書いてありますから、その点数のやり取りをすることになります。ここまではいいのです。早見表を見て覚えればいいだけですので。

 困るのが三飜です。一飜で1000点、二飜が2倍の2000点なら、三飜は4000点でなくてはならないのに、早見表では3900点なのです。これに私は引っ掛かります。

 先輩に訊けば、
「そんなの覚えりゃいいじゃん」
ということになりますが、筋の通らないことを覚えるのは大変です。

 

【麻雀の点数の仕組み】――興味のない方は読み飛ばして②

 30符だと1000点、2000点、3900点・・・分からない。ところが40符だと1300点、2600点、5200点で、最初の1300点は分からないものの、あとは倍々ですからその部分は分からないではない。50符も同様(2400点、4800点、9600点)、ところが60符は2000点、3900点、7700点でまた分からなくなる・・・。

 こんな不合理を黙って受け入れるわけにはいかないと、数字を並べながらあれこれ計算し、何日も考えて、私はようやく答えにたどり着いたのです。
「すべての基礎点は最初に32倍して10の位を切り上げている」
のです。

 30符は30と決まった時点で32倍の960点にしてしまい、10の位を切りあげて1000点。二飜は一飜の2倍なので1920点、10の位を切り上げて2000点となります。ところが三飜の場合は二飜を2倍すると3840点で10の位を切り上げても3900点にしかなりません。これが1000点、2000点、3900点の秘密です。
 同様に40符は40×32で1280点、さらに2倍で2560点、また2倍して5120点。それぞれ10の位を切り上げると1300点、2600点、5200点となって早見表の値に一致します。

 これでようやく安堵しますが、そこでまた新たな疑問が持ち上がります。32倍が「2倍の2倍の2倍の2倍さらに2倍」つまり2の5乗倍であることはすぐに分かりますが、何のためにそうしたかということです。

 

【ダメな男たちのダメな歴史】

 ここから先は私の想像ですが、おそらくそれは麻雀がずっとギャンブルだったからです。
 例えば「基本点が30符、一飜の役で上がると30符のままだから30セント」という時代があってそれなりに楽しんでいたのが、やがて物足りなくなって、誰かが「倍のレートでやろう」と言い出す。30セントの2倍の60セント時代がやってくる。
 ところがまたしばらくすると「1回の上がりで60セントってのはどんなもんかなあ」と言い出すやつが出てきてまた2倍にする、そんなことが長い歴史の中で5回もあって結局「基本点30符、一飜の役で上がると30の32倍して960点、10の位を切り上げて1000点、だから1000セント=10ドル」という時代がやって来た、そういうことではないかと思うのです(たぶん間違っていない)。

「ゴキブリが2匹這っていても男なら賭ける」
と言われるように、ほとんどの国でギャンブルの主たる担い手は男性です。伝説の将棋打ちである阪田三吉(演歌「王将」のモデル)も、本人が賭け将棋で腕を上げたため正規の対局でも金を横に置きたがったと言います。

 若いころの私が麻雀の点数計算の仕組みを考えながら思ったのは、そういった男たちの芯からダメな部分です。
 ああ本当に男たちはどうしようもない。

「彼女に捧げる四暗刻(スーアンコウ)」~カラオケと麻雀、昔の学生・今の老人

 畑をやって、本を読んで、文章を書いて――、
 それで私の一日は終わる。
 冬は畑の代わりに樹木の剪定といった仕事もある。
 しかし畑も果樹もない都会の老人たちは、
 どうやって時を過ごしているのだろう?
 その答えの一部が分かった。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200709073321j:plain(「麻雀卓を囲んで麻雀を楽しむ人たち」フォトACより)

【半年ぶりの飲み会】

 一カ月おきに会っている仲間と、半年ぶりの飲み会をしてきました。

 基本的には奇数月の開催でそれぞれ月当番が決まっているのですが、1月の新年会だけは年当番が扱うことになっていて、今年の場合その年当番に自覚がなく、周囲も急かさなかったので実施が2月にずれ込んでしまったのです。そこにコロナ禍がかぶさって中止。3月、5月の例会もできず、ようやく今月になって実施ができたわけです。

 全員が参加すれば11名ですがたいていは5~6人しか集まらず、時には3人といったこともあります。高校時代の同級生が中心で、卒業して一緒に東京に行った仲間に同居の兄や弟が加わり、その友だちまで来るようになってと、そんな感じで続いているけっこう緩い関係です。その緩さと、集まれる者だけが集まればいいといったいい加減さが、50年も継続できた秘訣でしょう。

 緩いので半年ぶりの再会だというのに何の感慨もない。変化の少ない生活をしているのでこれといった話題もない。それなのに会話が途切れないのはやはり50年の妙というものでしょう。

「最近の若い連中(と言っても話題になっているのは40代~50代の後輩のこと)は、平気でベンツだのアウディだの、あるいはレクサスなんかに乗っている、あれってどういうこと?」
と一人が言えば、
「いやいやいや、いま日本中で“家”なんてものが余っているだろう? アイツら親の建てた家に住んでいてローンを背負っていない。住宅ローンがなければベンツやアウディは買えるぜ。フェラーリってわけにはいかんけどな」
と蘊蓄を語り、別の仲間が、
「そういや若いころは将来フェラーリを買って乗り回してと、そんな話をしていたよな」
 そこに私が割って入って、
フェラーリは無理でも国産のスポーツカーなら買えるだろう。オープンカー。夢だったじゃないか、買えよ、俺はダメだけど」
「どうしてオマエはダメなの?」
「髪が乱れる」
 私以外は全員ハゲなのでこういう会話が成り立ちます。

 

【カラオケと麻雀、昔の学生】

 次に出てきたのが麻雀とカラオケの話です。
「とにかくオレの周辺でも年寄りたちはみんなカラオケ、麻雀。ものすごくはやっているらしい」

 そう言えば北海道でできた新型コロナのクラスタのひとつは昼カラでした。真昼間から使えるカラオケ店、またはカラオケ設備のある喫茶店などのことです。利用者は昼間から何時間も入り浸って歌っていられる暇人たち、つまり老人です。

 考えてみればカラオケ装置が発明されたのが1970年代、カラオケボックスの登場は1980年代で、ブームをけん引したのは現在70歳前後になっている団塊の世代です。定年退職で暇になって、歌いに行かないはずがない。

 麻雀も、これは私たちおよび私たち世代以上の学生にとっては、流行というよりは一種のたしなみでした。ドストエフスキーサルトルを読んで、麻雀を打って政治を語るのが大学生――そう思い込んでいたのです。コンピュータゲームもスマホもない時代ですから日常に大して面白いこともなく、貧乏な学生にとって遊びと言えば屋外はパチンコ、屋内だと麻雀以外考えられなかったのも事実です。
 最近、賭けマージャンで検察を追われた黒川弘務さんも1957年生まれの63歳で完全にその世代です。

 ブームの火付け役の一人は作家の色川 武大(阿佐田 哲也、井上 志摩夫、雀風子)で、1965年~75年に『麻雀放浪記』をヒットさせると、伝説の深夜番組「11PM」の麻雀コーナーでも腕を振るって麻雀を世間に知らしめ、日陰の遊びから日向へと引きずり出したのです。
 ブームが去ったのはおそらく室内遊びとしてコンピュータゲームが幅を利かせるようになったからでしょう。「ファミコン」と呼ばれるニンテンドーの「ファミリーコンピューター」が発売されたのが1983年。90年代には麻雀をする学生もかなり少なくなったと思われます。
 ただしそれまでの学生は、昼夜をたがわず牌を打ち続けたものでした。

 

【彼女に捧げる四暗刻(スーアンコー)】

 私が自分自身について印象深く覚えているのは、南の島へ1週間も海水浴に行ったというのに、島での時間の大部分を麻雀に費やしたことです。せっかく来たのですから泳ぎにも行きたいのに、仲間に言わせると、
「目の前に海があるのになんで泳がにゃならんの? いつでもできるじゃないか」

 いつでもできるのは麻雀も同じだと思うのですが、とにかく起きたら麻雀を打つ、朝食を食べたら麻雀を打つ、海へ行って少し泳いで帰って麻雀を打つ。夕食を食べて浜へナンパに出て、女の子とビヤガーデンでビールを飲んで帰って麻雀を打つ――そんな生活を1週間も続けたのです。行きも帰りも揺れる船の中でも打ち続けました。

 そんなにやったのだからさぞかし強くなったと思われるかもしれませんが、私は最後まで弱かった。なかなか勝つことができない。
 賭け事は全部ダメで、パチンコは『悪魔の仕掛けるビギナーズラック』で最初の一カ月間、勝ちに勝ちまくってその勝ち分を一週間で吐き出し、以後10年間は負け続け。最後は誘われてどうしてもつき合わなくてはならないときにだけ、千円札を握りしめて「これだけ負けたらやめる」と決めて取り掛かることにしました。そして負ける。競馬はいつも「鼻毛の差」の負けでした。

 そんなに弱い癖になぜか麻雀牌のセットを持っていて、おかげで私のアパートがたまり場になる。やがて私の部屋で役満が出るとそれを記録するようになります。

 当時はB4用紙が一般的でしたのでそれを縦に二つ折りにして、
「〇月〇日 午前2時15分。〇子(つき合っている女の子の名前)に捧げる四暗刻(スーアンコー) 〇〇〇〇(達成者の名前)」
と書いて鴨居に並べるのです。

 おかげで私の部屋は好きな女の子を連れて来られない部屋になってしまいました。私の掲示もあって、そこには達成当時につき合っていた女の子の名前が書いてあったからです。
 仲間のKはカードに書いた女の子の名前が毎回違うのに平気です。自分の部屋でないのは有利だな、と変にひがんだものでした。

(この稿、続く)

 

「『九州男児』は本人も周囲も大変」~あらゆるものの存在する土地が生み出す強い精神

 たいへんな日々が続いてるが、
 九州にこれ以上の災厄が降りかかりませぬように。
 しかしそれにしても、長い長い苦難の道を、
 よくもここまで歩いてきたものだ。
 そこに生きる人々の精神は強く、そしてなかなか大変だ。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200708052108j:plain(「熊本県大観峰フォトACより)

【災害のハイウェイ】

  九州の豪雨がまったく治まる気配がなく、昨年から熊本に息子のアキュラを置いている私のとしても落ち着かないところです。
 しかしなぜ今回も九州なのでしょう。

 平成以降だけを見ても、
1991年(平成 3)雲仙普賢岳噴火・火砕流
1993年(平成 5)鹿児島8.6水害
1996年(平成 8)台風12号災害
1999年(平成11)6月豪雨、台風18号災害
2000年(平成15)水俣市土石流災害
2001年(平成16)に至っては、台風15号・16号・18号・21号災害
 そして2009年(平成21)以降は、ほとんど毎年のように大きな災害に見舞われています。

2009年(平成21)中国・九州北部豪雨
2011年(平成23)霧島山新燃岳噴火
2012年(平成24)九州北部豪雨
2014年(平成26)8月豪雨
2015年(平成27)口永良部島噴火
2016年(平成28)熊本地震
2017年(平成29)九州北部豪雨、台風18号被害
2018年(平成30)西日本豪雨、台風24号被害
2019年(令和元)九州南部大雨(6月~7月)、北部大雨(8月)
 そして今回の大雨。まるで災害のハイウェイです。

 もちろん「なぜ九州ばかりが」は愚問であって、地理的・地形的に大昔から災害の多い土地柄ではあります(ただしここ数年の豪雨は特別な気もする)。そこに人々は生き続けてきた――。
 
 

【あらゆるものが存在する土地が生み出す強い精神】

 台風の通り道であって梅雨時には前線が停滞しやすい、海からの距離を考えると九州山地筑紫山地も急峻で川の流れは一気に駆け下る、活火山が多くしばしば噴火を繰り返す上にシラス台地を始めとする火山灰台地が厚く積もっていて崩れやすい――これではもう、「災害よ来たれ!」と言っているようなものです。

 さらに自然災害だけではなく、白村江の戦いやモンゴル来襲、朝鮮出兵南蛮貿易、幕末の外国船来航など、外国との交易にも交戦にも、常に最前線として晒されてきた場所でもあります。

 国産の鉄砲が初めてつくられた島と、現在、国産のロケットが盛んに打ち上げられる島は同じものです。そのうえ九州島自体が今やシリコン・アイランドと呼ばれるような最先端の地域となっています。それが現在の九州のひとつの面ですが、そのくせもう一方で、日向にも宗像・沖ノ島にも、五島にも、洋の東西を問わない神々が、今も宿っている不思議な場所です。

 これだけ大変で面倒くさい土地だと、やはり頑固でたくましく強い精神は育つに決まっています。
 
 

【必要なことだが、「九州男児」は本人も周囲も大変】

 九州男児と総称される男たち(「肥後もっこす」だの「薩摩隼人」だの、少し変わったところでは「いもがらぼくと」だの)は、どんなにやせ我慢をしてでも内面の弱さを外に見せようとはしません。
 それはおそらく地理的にも文化的にも激しく人間をゆさぶる土地にあって、一歩譲ることが百歩譲ることになりかねなかったからなのでしょう。
 すごいことです。

 もっとも昔、修学旅行を引率して行った京都で、私の学校の生徒とトラブルになった相手が、「九州男児」で困ったことがありました。相手の学校の先生がそばにいなかったということもあるのかもしれませんが、簡単に引いてくれないのです。お互い様というわけにはいかない。

 以来、新しいクラスの担任になって修学旅行に行く際は、「旅先でトラブルになっても必ず先生(私)が解決する。ただし九州の中学生相手だけはやめてくれ」と生徒にお願いしておくことにしました。おかげで以後はそうした種類のトラブルはまったくありませんでした。
 相手が九州男児かどうか確認してから突っかかるなどという面倒なことはできないので、旅先で他校生と接触しないようにみんなが気をつけてくれたのです。
 それはそうですね。ガンをつけただの何だのとさんざんやり合った後で九州と知って、それから「ごめんなさい」などと引き下がるわけにもいきませんもの。

 しかし「九州男児」、そして「薩摩おごじょ」をはじめとする「九州女子」たち、この人たちは現在進行形の災害に対しても、きっとへこたれることなく、何度でも立ち向かっていくことでしょう。そう考えると、その精神のありように私の心も震えます。

 これ以上、災害が大きくなりませんように。
 

「年寄りに必要な『キョウヨウ』と『キョウイク』」~母の誕生日に寄せて

 母が93歳になった。大変なことだ。
 ところで、老人にこそ、
 「キョウヨウ」と「キョウイク」は必要だという。
 何のことか分かるだろうか。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200707071503j:plain(「ひとりぼっちの老後」フォトACより)

 

【母が93歳になる】

  今日、7月7日は母の誕生日です。昭和2年生まれで93歳になりました。
 この「昭和2年生まれ」というのは絶妙で、昭和の元年は一週間しかありませんでしたから、「1年早く生まれたら『大正生まれ』の仲間にさせられるところだった」と、何回も話してくれたことがあります。(恐ろしいことに?)今も元気な二人の姉がともに「大正生まれ」で、そこに多少の優越感を持っているみたいです。
「昭和生まれ」だの「平成生まれ」だのと言った話は今でもしますよね。

 その流れで言いますと、私の二人の子どもはともに平成の一ケタ生まれですが、娘婿のエージュだけは母や私と同じ「昭和生まれ」になります。34歳なのに93歳と同じ仲間、それだけ「昭和」が長かったということですが、エージュには気の毒なような気もします。今はまだ若いからいいですが、しばらくしたら「昭和のおじさん」扱いです。
 年号は違いますが母と同じ「2年生まれ」の娘は、もしかしたら将来、「平成生まれ」の優越感をもって夫に接するのかもしれません。
 
 

【なんとか元気】

  腰は曲がって歩きはゆっくり、立ったり座ったりが大変ですが内臓に問題を抱えたことがないので“あと10年は生きてしまいそうだ”とさかんに嘆きます。「早く死にたい、(天国の)お父さんはなぜ迎えに来てくれないのか」としょっちゅう恨みがましく言っていますが、地震がくると本気で怯え、大雨が降ると大真面目で洪水を心配します。川は家からずっと下の方にしかないのに。

 そんな母を見て弟は、
「そんなに死にたいなら強盗が来た時に、命は取られてもいいけど(遺産になるはずの)金は取られんようにね」
などとからかいますが、根っからの臆病者で、毎晩の戸締りは欠かしません。私がくると分かっているのに鍵をかけてしまうこともあるくらいです。しかしどうやらその背景には、二人の姉よりは先に逝きたくないという対抗心もあるみたいです。

 週2回のデイケアセンターが面倒くさくなって、辞めたい、辞めたいとしょっちゅう言いながら、行って帰ってくるとそれなりに満足そうです。センターの職員が喜んでくれると言ってせっせと布製のマスクを作ったりもしています。
 
 

【年寄りに必要な「キョウヨウ」と「キョウイク」】

 9年前の東日本大震災の年に父が亡くなってから、母には実家で一人暮らをしてもらっています。私の家から20分のところです。
 一時は引き取って一緒に暮らすことも考えたのですが、いろいろ助言があって結局はやめました。一番多かったのが「場所を変えるとボケが進むよ」というものだったからです。

 その話は確かみたいで、私の歳になると知り合いのあちこちで「母を引き取った」「父を引き取った」という話を聞くのですが、どこもあまりうまくいっている様子がありません。どうしてもお客さんになってしまい、いろいろとやらせてもらえないのです。やらないとできなくなる。

 私のところでも5~6年前、一度だけ来てもらったことがあるのですが、一日中テレビを見ているくらいしかやることがありません。勝手がわからないので台所にも立てない、縫物ひとつにしても針や糸の場所がわからない。畑も小さいので草取りをやってもすぐに終わってしまう。そもそもその冬の間、畑は雪の下です。1年じゅうできる仕事ではありません。

 ものの置き場所などをひとつひとつ覚えていけばいいようなものですが、使い慣れたミシンだの、大量の糸や布の在庫といったものは全部実家から運ばなくてはなりません。しかも配置もほぼ依然と同じにしなくてはならない。だとしたらそれよりは母を独り暮らしさせておいた方がいい。
 食事ひとつ、お茶の一杯でも自分でやらなくてはならないとなると、どうしても動かざるを得ません。それが運動にもなります。
 年寄りには「今日、やるべき用事(キョウヨウ)」と「今日、行くべきところ(キョウイク)」がどうしても必要なのです。
 デイケアセンターにも、面倒でも行ってもらいましょう。その代わり週のうち6日は、夜、私が母の家に行って用を足し泊まってくることにしました。残りの一日を、まだ勤めている弟が面倒を見ます。そんな生活が今年で8年目になります。
 
 

【それもおもしろいかもしれない】

 迷惑をかけて申し訳ないと母は言いますが、別に迷惑だと思ったこともありません。逆に長生きしてくれとも思いませんし、ただ淡々と、今の生活が永遠に続くといいなあくらいはボンヤリと思っています。

 100歳を過ぎて有名になった双子の金さん銀さんは、
「テレビにもたくさんお出になって、随分お稼ぎになったんじゃないですか? お金はどうするおつもりですか?」
と聞かれて、
「老後のために蓄えておきます」
と答えたとか。

 ギネスにも載った120歳の泉重千代さんは好みの女性を尋ねられて、
「年上の女性」
 また、健康の秘訣を問われると、
「4年前(116歳の時)に禁煙したことかな?」

――母もそんなふうになってくれたら面白いのですが。

 ハハ。
 

「欲の深い人間かどうかをテストする」~Fire TV Stickとペディグリーペット詐欺 

 新しいFire TV Stick を購入した。
 そこで見た映画に面白い場面があったので紹介する。
 自分が欲深い人間かどうかをチェックするテストだ。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200706065348j:plain(「犬(ペキニーズ)」フォトACより)

 

【新しいFire TV Stickを買った】

「Fire TV Stick 4K - Alexa対応音声認識リモコン付属」という装置を購入しました。アマゾンのサービスのひとつ、アマゾン・プライム・ビデオをテレビで見るための道具です(コンピュータだとアマゾンのサイトから直接見ることができる)。アマゾン・プライム・ビデオには相当な数の映画が入っておりプライム会員ならほとんどが無料で見られるのです(一部有料)。


 実は数年前に4Kではない「Fire TV Stick」を購入してけっこう楽しんでいたのですが、ここのところ機械の調子が悪く、起動に時間がかかったりフリーズしたりでとてもストレスだったのです。
 当面4Kテレビを購入する予定はないのですが、いずれは買うことになります。そこで思い切って割高の「Fire TV Stick 4K」の方を購入したわけです。

 その結果どうだったのか、ひとことで言えば、
「もっと早く買い替えればよかった――」
です。とにかくサクサクとよく動く。待機時間もやや少ない感じです。新しいリモコンには以前はなかった音量ボタンがついており、電源ボタンもミュートもあってとても便利です。

 

f:id:kite-cafe:20200706065616j:plain

 もっとも私の場合、最近は映画よりも音楽を聴くことが多く、同じ「Fire TV Stick」からアマゾン・ミュージックを呼び出して聞くのを常としています。テレビにはサウンドバーシステムを接続してあるので音質がいいのです。昼間はたいていジャズをかけっぱなしにしていて、音楽が始まるとウサギの「ミルク」がやってきて、部屋の隅でマッタリとしていたりします。

 妻は私と違って音楽よりもテレビです。“ながらテレビ”のできる人で、推理ドラマの途中で何かに熱中して謎解き部分を見落としてもまったく苦にならないという特技を持っています。その妻が先日、新しい「Fire TV Stick」で「コンフィデンスマンJP ロマンス編」(2019)を見ていて、その冒頭に面白い場面がありましたので紹介します。

 

【ペディグリーペット詐欺】

 主人公のひとりを演じる長澤まさみが喫茶店のテラス席に座っていると、一匹の毛むくじゃらの白い犬(ペキニーズというのかな?)を連れた若い女性が現れます。彼女は自分と長澤まさみの間に犬をつなぎ、長澤が「まあ、かわいい」と近づくと、さりげなく「彼氏さんからのプレゼントなの」と紹介します。
 それから携帯で誰かに電話するのですが、「えー、どういうこと?!」と突然、声を荒げ、聞かれたくない内容なのか携帯を耳に当てたままその場をいったん去ります。そこへ今度は初老の紳士が現れて、
「おや、マーブルアイですな、これは珍しい。私はブリーダーをしているのですが、良かったら100万円で譲ってくれないか」と持ち掛けるのです。長澤が、
「いえ、この犬は・・・」
と言いかけると紳士は、
「いや今すぐに返事をということではないのでよく考えて、その気になったらここに電話をください」
 そう言って名刺を預け、その場を立ち去ります。そこに先ほどの若い女性が戻って来ます。大きな声をあげて、
「ああ!フラれた! もうそんな犬、二度と見たくない! だれか引き取ってもらえないかな、10万円くらいで!」
と叫びます。
――さてそこで問題です。このあと長澤はどうしたのでしょう?

 テレビの「コンフィデンスマン」を一度でも見たことのある人ならこれが詐欺師の話だと知っていますから簡単には引っかからないと思いますが、そうでなければイチコロでしょう。

 これは「ペディグリーペット」と呼ばれる古典的な詐欺で、欲をかいた人間はその場で10万円を渡し、売れるかどうかも分からない雑種犬と、決して通じることのない電話番号の書かれた名刺を手に入れることになるのです。若い娘と初老の紳士はグルです。

 詐欺にかかりやすい人間のひとつの特性は「欲が深いこと」です。もちろん金銭に淡白すぎるから引っ掛かる詐欺というのもたくさんありますから一概には言えないのですが、映画を見ながら一緒にペディグリーペットに引っ掛かりそうになったあなたは、おのれの欲に注意した方がいいのかもしれません。

 私?
 私は大丈夫です。きちんと働いて手に入れたお給料や年金以外には、すべてに呪いがかかっていていると信じているような臆病者です。あぶく銭からは危険の匂いしかしません。
 映画のような詐欺の場面に遭遇したら、犬を連れたお嬢さんに名刺をさしあげて、「今ここを通りかかった紳士が100万円で買うと言っていましたよ」と教えてあげるに違いありません。
 たぶん・・・。

「日本人の衛生意識、素晴らしいが誇るようなものではない」~ベルサイユ宮殿とふんどし④

 100万人都市である江戸は実に清潔な町だった。
 しかしそれは歴史的産物であり、むやみに誇るようなものではない。
 翻ってそうではない国々を貶めるべきでもない。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200703071746j:plain(「江戸城の巽櫓」フォトACより)

 

【金肥:売り物になる糞尿】

 それまで屎尿処理に不熱心だった大家さんが急に熱心になった理由、それはもちろん共同便所の糞尿が売れるようになったからです。

 江戸という巨大な胃袋を満たす食料は近隣の農家が供給しましたが、関東平野の大部分はローム層と呼ばれる痩せた火山灰台地で、干鰯(干して砕いたイワシ)、油粕(菜種油の搾りかす)といった肥料のみでは、とてもではありませんが追いつかなくなったのです。
 下肥問屋(しもごえどんや)と呼ばれる専門の屎尿収集業者も現れ、江戸の糞尿は組織的に集められるようになります。もちろん個人で集めて回る農民もいましたが、その場合の支払いは金銭ではなく、作物で物々交換されることが多かったようです。

 しかしそうなると長屋の店子たちも黙っていません。
「それはもともとオレたちのケツから出たものだからオレたちに権利があるはずだ」となって大騒ぎ――というのは落語ネタですが、実際には大家さんの収入として認められていました。大家は現代と違って地主あるいは家主ではなく、裏長屋の管理人でしたからその給与の不足分として与えられていたのです。

 肥料用の糞尿は下肥(しもごえ)と呼ばれ、新鮮なものは作物に有害なうえに寄生虫の問題もありましたから、夏ならば1~2週間、冬ならば3~4週間、溜め置いて熟成させる必要がありました。そのために畑の隅に埋められた大きな壺のことを“のつぼ”といいます。
 ところがこの“のつぼ”、溜めた糞尿の表面にはすぐに薄い皮膜ができ、さらにその上に土埃がかぶさるとあっという間に雑草が生えて、完璧な落とし穴になってしまうのです。それに小さな子どもがはまってしまい、糞まみれで泣きながら帰ってくるなど日常茶飯事でした。今から考えると不思議なのですが、毎年同じ場所でだれかこうかはまっていたのです。学習能力がなかったのでしょうか?

 

【糞尿の等級】

 その下肥には等級があって、最上等は大名屋敷のもの、上等は市内公衆便所のもの、中等品は普通の町家のもの、下等は「タレコミ」といって尿の成分の多いものが相当します。どうやったら尿が多い糞尿になるのかよくわかりませんが、おそらく雨水が入り込んで薄められてしまったのでしょう。等級は糞尿の出所とともに匂いで判断されたと言いますから、どんな世界にもプロフェッショナルはいるものです。

 町家よりも大名屋敷の方が等級が高いのは、そうはいっても栄養価の高いものを食べていたからでしょう。町人にも豊かな人はいましたが、貧乏人をたくさん含んでいるので全体としては低いものとならざるを得ません。公衆便所はさまざまな人が利用するので上等品に分類されます。
 薄められた下肥よりもさらに悪いのが刑務所や留置場の糞尿で、よほどひどいものを食べさせられていたのか、上記の分類より下の最下等品ということになっています。そうなると武家屋敷の最上等の上を行く、超上等品というのも存在しそうです。
 もちろんあります。江戸城の糞尿です。

 これには特別の権利を持った業者が船で濠を渡って回収に当たったようです。支払いはタクアンで行うというのがきまりだったみたいで、いくつもの桶にびっしりタクアンを詰めて城内に入り、その桶に下肥を入れて引き返したのです。ということは再び江戸城に向かうときは同じ桶を丁寧に洗ってタクアンを詰めたわけで、現代人である私の感覚では相当に嫌なのですが、昔の人はあまり気にしなかったのかもしれません。私も、実際には他人事ですから、“黄色いタクアンをたくさん持って行って黄色の下肥を持ち帰るというところが何となく面白いなあ”などと気軽に思ったりしています。

 

【50年違っていたら日本史は変わっていた】

 ヨーロッパの大都市が本格的に下水道整備を始めた1850年代より以前に限って言えば、江戸とロンドン・パリの衛生状況には雲泥の差がありました。江戸市内の糞尿はほぼすべて回収され郊外に運ばれていたのに対し、ロンドン・パリでは街路にも王宮にもうずたかく積まれていたからです。しかしその様子を見た日本人はおそらくいません。

 岩倉具視を首班とする遣欧使節がヨーロッパに渡ったのが1873年ですから、ロンドンもパリもそうとうにきれいになっていたはずです。彼らはヨーロッパ諸国の発展と強さと美しさに度肝を抜かれて帰ってきますが、あと50年早く訪れていたらすっかり幻滅していた可能性もあります。そうであるならその後の日本の歴史もかなり変わったものになっていたことでしょう。

 ちなみに、もし汚いヨーロッパを見た可能性のある日本人がいるとすれば、それは天正遣欧少年使節(1582~1590)と支倉常長(遣欧は1613~1620)です。しかしいずれも国賓扱いでしたから、汚い部分は見て来なかったのかもしれません。

 
 

【すばらしいが誇るほどのものではない。翻ってそれのない国をバカにしてもいけない】

 4日に渡って風呂と糞尿の話をしてきました。私が申し上げたかったことは、ひとつには“やはり日本人の衛生意識は欧米人と比べると格段に上だ”ということです。しかしそれは歴史的・気候的・社会的必然であって、決して日本人が道徳的に優れているからではありません。それが二番目です。

 日本では緊急事態宣言か解除されてもマスクを外す人はいません。蒸れて肌が荒れたり日焼けでマスク痕が残るようなことがあっても手放そうとしないのです。それに対して欧米の各都市ではロックダウンが解除されると同時に、大半の人々は清々しいほどに鮮やかにマスクを棄ててしまいました。合衆国ではマスクを強制する州の方針に反対するデモまで起こっています。しかしそれとて感染予防意識の低さと言った問題ではないでしょう。

 アメリカ映画を見ていると西部劇にでてくる銀行強盗は皆スカーフで口元を覆っています。現代ものでも「羊たちの沈黙」のレクター博士を初めとして、悪役はしばしばマスクをつけて登場します。
 しかし日本の場合、(子どもたちに訊いてみれば分かるのですが)不審者はほぼ全員サングラスをしていることになっています。あるいは瞬間的に顔を隠そうとすると私たちは反射的に目を覆います。テレビや雑誌で人物を特定されたくない写真には目の部分に黒い線を入れたりします。
 顔を知られたくないとき、欧米人は口元を隠し日本人は目を隠すのです。そこには何か特別の理由があるのかもしれません。

 マスク対して反対運動が起こるのも、彼我の自由に対する感覚の違いだと説明する人がいたら私は引き下がってもいいと思っています。
 日本人にとって自由や平等は政府や欧米から与えられたものです。しかし欧米人にとっては、市民革命やその後の混乱の中で、とんでもなく大量の血を流してようやく獲得したものなのです。新型コロナごときのために譲っていいものではない――と、そういうことかもしれません。

 山中伸弥先生のいう日本人にコロナ死が少ないファクターXの一部は、確実に日本人の生活習慣(手洗い・うがい・入浴・マスク、靴を脱いで部屋に入る習慣、身体接触の少なさ等々)によるものだと私は思っています。しかしそれは誇るほどのものではなく、翻ってそれのない国々をバカにしていいものでもないと思うのです。

(この稿、終了)