カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「クソ食らえと思った平安貴族と、江戸の庶民の話」~ベルサイユ宮殿とふんどし③

 「うんこ漢字ドリル」がかなり売れているようだが、
 私たちはなぜ、かくもうんこが好きなのか。
 そこで今日は、
 平安時代に貴人のうんこを食べた男の話、
 江戸の庶民のうんこ事情について考える。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200702072708j:plain(「江戸の商家」フォトACより)

 【貴人のうんこを食べた男の話】

 一昨日、ベルサイユ宮殿にはほとんどトイレがなく、主流は移動式簡易トイレとオマルだったという話をしました。しかし11世紀の日本の宮中でも、基本は「樋殿」「樋箱」と呼ばれるこの携帯型トイレだったのです。

 これについては「今昔物語」の第30巻「平定文、本院の侍従に仮借する語」に次のような話があります。

 名うてのプレイボーイ平定文(あざなは平中)は光源氏も顔負けの美男子で、宮中では人妻も娘も、言い寄らぬものがなかったということだ。ただ、大臣藤原時平に仕える侍従の君だけは例外で、手紙に返事こそすれ適当にあしらうだけで、まったく相手にしてくれない。それどころか平中顔負けの手練手管でからかって遊ぶだけであった。

 弄ばれることにホトホト疲れた平中は、未練を絶つために思い切った行動に出る。内侍の君の排せつ物を見れば、さすがの自分も興ざめして、忘れることができるに違いないと考えたのである。
 そこで彼は配下を使って使用済みのオマルを強奪。部屋にこもって中身を見ようとするのだが、なんとそのオマルは金漆を塗った素晴らしいもので、包んであった布とともに中を見て幻滅するのが惜しくなるほどの逸品であった。けれど平中は意を決して蓋を開ける。

 ところが中にあった黄色の液体に浮かぶ三切ほどの物体は、何ともかぐわしい香りのする美しいもので、平中は思わず液体からすすってしまった。すると何とも薫り高い味が口の中に広がって、次に手近にあった木切れで個体を切り分けて舐めると、甘く、苦く、素晴らしい味がした。それでいずれもが数種の香を混ぜ合わせてつくった作り物であることが分かったのである。内侍の君は平中の計略を察知して、先回りしてそんなものを用意したのだ。
 そう考えると内侍の君の賢さにさらに心が揺さぶられ、平中はついに恋焦がれて死んでしまったのである。

「朝廷」という言葉があるように、平安貴族の政治(農民からの収奪の算段)は午前中で終了、午後から夜にかけては遊び惚けていましたからオマルひとつを取っても技巧を凝らし、どうでもいいことに熱心に取り組むのが貴族でした。
 行って直接話しかければいいのに、いちいち和歌に認めて送り合ったりする面倒くささはその代表です。また、迷信深くて、「十月は『神無月』、アラ? “かみなし月”なんて縁起でもない。こんな月に髪を洗って抜け落ちでもしたらかなわない」などと訳の分からないことを言い出して丸一カ月間洗髪しなかったりといったこともしますので、不潔この上ありません。
 ベルサイユ宮殿もかなり臭かったようですが日本の宮中も相当なもので、だから香道というものも生まれます。
 
 

【トイレは庶民が先】

 しかし一方、庶民の方は意外と清潔な暮らしをしていました。
 弥生時代にはすでに川に桟橋のように突き出た構造物で用を足す習慣があったようで、その遺構も発見されています。さらに時代が下ると家の中に水路を通した簡易水洗便所まであって便利この上ない。
「三尺流れれば水清し」と言うように、日本の急流は浄化作用が強く、川の汚染も気にしなくて済んだのです。

 鎌倉時代以降になると人の糞尿が肥料として使われるようになり、そのため農村ではかえってトイレの普及が進みます。一か所に溜めて熟成を待つようになったのです。
 もちろん都市部ではそういうわけにはいかず、庶民は庭に穴を掘って用を足していたみたいですが、それも街の規模が小さなうちだけで、戦国時代が終わって平和が訪れ、都市の規模が無制限に大きくなると限界を迎えます。

 俗に100万人都市と言われる江戸は開府(1603年)当初は15万人ほどの人口でしたが、その後100年あまりの間に一気に100万から120万人と言われる世界一の巨大都市となり、以後、幕末までその水準を保っています。もうそうなるととてもではありませんが市内では処理できなくなります。
 100万人の糞尿をどう処理したのかは大問題ですが、それを説明する前に江戸の町の構造自体について話しておかねばなりません。
 
 

【江戸100万人都市の庶民たち】

 江戸は自然発生的に大きくなったものではなく、奈良や京都と同じ計画都市です。家康は外敵が江戸城に近づくまでに渦巻き状に遠回りをしないと来られない構造にするとともに、町家は主として防火上の理由からかなり余裕のあるつくりにしました。

 道路幅は12m。これには買い物客が道の両側を行き来してものを選ぶ新京極のようなものを想像していた商人たちの猛反対を受けますが、構わず断行します。商用地は一町40丈四方と言いますから120m四方、これを道路で囲みます。碁盤に例えて縦横の線を道路と考えると、1マスが120m四方の町人の区画なのです。

 こんなにバカでかいものを与えられても困りますから、商人たちは区画の縁にそって「ロ」の字に2階建ての家を建て、1階部分を商店、2階部分を住居としました。これを「表長屋」と言います。
 残った空間には井戸を掘り(と言っても実際に掘ると海水が浸み出してきますから、ほとんどは上流から引いてきた地下水道の水)、共同便所を置きました。ほんとうに余裕のある広々とした空間でこれを「会所地」と言います。
 その会所地に、ある時期から人々が住み始めます。幾度かの大火のあと、町の防火施設が整い耐火建築も増えて、四方囲まれた会所地でも安全に住めるようになったからです。

 そこにつくられた長屋を、1棟をいくつかに割った住宅の様式から「棟割長屋」、一軒の大きさ(間口9尺《約2.7m》奥行きが2間《約3.6m》)から「九尺長屋」「二間長屋」、その位置から「裏長屋」と言ったりします。
 九尺二間の長屋というのは畳6畳の部屋とほぼ同じ大きさで、そのうち1畳半を土間に4畳半を部屋として区画するのが一般的でした。

 落語によく出てくる長屋の大家さん。これは土地や家屋の所有者ではなく、所有者に雇われた管理人です。「大家と言えば親も同然」と言いますが、生活全般なにくれと面倒を見てくれる人で、喧嘩の仲裁や家族のもめごとの相談に乗ったりもします。長屋に関する苦情処理もこの人の仕事ですが、初期の長屋で最も多かったクレームは共同便所の汲み取りが遅く、溢れて自分の家まで流れてきたといった話でした。
 ところがこれもある時期を境に、パタリとなくなりなります。大家さんがこまめに回収業者に連絡するようになったからです。
 そこで住民が怪しみます。あんなに熱心に汲み取りをするからには、何か理由があるに違いない、と。

(この稿、続く)
 

「江戸の町の裸族、ふんどし男と泥人形」~ベルサイユ宮殿とふんどし②

 夏の江戸では男たちが裸像同然の姿で働いていた。
 そうして帰ってくれば泥人形だ。
 好き嫌いの問題でも道徳の問題でもない。
 とにかく洗い落とさなければ一日が終わらない。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200701072347j:plain(「東京花火大会(イメージ)」フォトACより)

 

【18歳、東京の暑さに音を上げる】

 18歳の年に東京で暮らし始めて最初に躓いたのが東京の暑さです。夜、窓を開けても涼しくならない気候というのは生まれて初めてだったのです。

 あまりの暑さに寝付けない。2時間も3時間も布団の上でもだえ苦しんで、それでも2時、3時頃には多少楽になってウトウトし始めるのですが、わずか3~4時間で再び暑さで目が覚める。太陽はカッと暑く、しかも全身汗でびっしょりになって起きるのです。連日寝不足。

 今でこそエアコンのない部屋というのも稀でしょうが、昔の学生アパートにはそんなものはあった例がない。学校に行っても暑い(学校にもエアコンはない)、道路は照り返しで暑い、日陰を求めて路地に入ればそこにはエアコンの室外機があって熱風を当てられてなお暑い。湿気で息ができない、一日中ぬるま湯のなかで泳いでいるみたい――そのために私はすっかり前向きに生きる気力を失ってしまいました。
 
 

【裸族:江戸の男たち】

 そうした暑さは江戸時代とて大差なかったはずです。
 今と違ってビル風といったものはありませんが、その代わりに重く熱い湿気を含んだ風は遮るもののない関東平野江戸湾からまっすぐ西に向かって走ります。とにかく蒸し暑い、それが江戸の街です。

 そこで男たちは駕籠かきも飛脚も職人たちも、皆、裸同然で暮らしていました。最初からふんどし一丁の者もいれば、着てきた着物の上半身を後ろに落として作業する者もいます。映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんの口上に、「見上げたモンだよ屋根屋のふんどし」というのがありますが、実際に当時の屋根屋はふんどし姿で仕事をしていたのです。
 そうした様子は広重の「東海道五十三次」や北斎の「富岳三十六景」「北斎漫画」のあちこちに見られます。

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 ところでそうした姿で一日働いて帰ってくるとどうなるのか――そこが同じ17~18世紀でもパリと異なるところです。
 馬車のための石畳が敷かれていたパリとは違って当時の江戸なんて舗装道路がありません。ですから風が吹くたび、あるいは荷車が走るたびに土埃・砂ぼこりが舞い上がって汗だくの男たちの肌に張り付いたのです。風の強い日などは泥人形のようになって帰ってくることもあったのかもしれません。

 ヨーロッパの大都市と同じく水不足であったにもかかわらず、江戸の庶民に銭湯や行水が欠かせなかったのはそのためです。どんなに無理をしても体を洗わなくては部屋にも入れない。泥人形が二人も三人も部屋に入って来ては、室内はあっという間に土まみれです。
 
 

【必要がなくても文化は広がる】

 私も東京に出て初めて、夏は毎日風呂に入るという生活を始めます。もちろん銭湯です。
 一度脱いだものは洗濯をしない限り二度と身に着けなくなりました。今は当たり前ですが、子どもだったころの私は下着もシャツも3日くらいは平気で同じものを着ていたのです。白い木綿のパンツなんて、前の内側の部分に黄色いシミがついて匂うようになって初めて着替えることを考えます。
 田舎の人間は不衛生だったというわけではありません。夏も乾燥していたので着替える必要がなかったのです。汗も染みませんから汚れもつきにくく、いつもサラサラしているのです。さらに夏は水道代がもったいないといって川で洗濯をしていたような時代ですから、やたら着替えると母が大変だったということもありました。

 思えば時代は変わったものです。
 テレビを通じて東京の文化が日本の津々浦々に広がり、生活が豊かになって風呂付の家に住むようになると、自然と毎日入浴する習慣が身についてきます。洗濯機という便利な機械も入って気軽に洗濯ができるようになると「夕飯とお風呂、どっちを先にする?」みたい会話までが一般的になってきます。
 これも文化の一面でしょう。日本人の優れた衛生感覚と言いますが、入浴の習慣は主として太平洋岸の大都市で必要に迫られて始まり、やがて必要のない地方にまで広がって行ったのです。人は必要・不必要だけで文化を共有するわけではないのです。
 
 

【残された大問題】

 さて、ヨーロッパの国々との比較でもうひとつ大きな問題が残っていました。糞尿の処理です。

 もちろん高温多湿の江戸のような街で、路上に放置したらいつまでも臭いうえにハエなどがたかって不衛生極まりないこともあります。しかし日本の場合、別の事情によって人間の排せつ物が問題にならなかったのです。それについては明日のお話しします。

(この稿、続く)
 

「パリの空の下、糞尿は流れる」~ベルサイユ宮殿とふんどし①

 かつてのパリは王宮も街も糞尿に満ち満ちていた。
 人々は糞尿を避けて道を歩き、
 糞尿から身を守るためにさまざまなものを発明した。
 しかしそれは道徳心の問題ではない。
 要するに、それでよかっただけのことだ。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200630072844j:plain(「ベルサイユ宮殿」フォトACより)

 

【ベルサイユの壺】

  ベルサイユ宮殿にはトイレはなかったという話はあまりにも有名です。しかし実はあった、数は少ないがあることはあったという話も同じくらい有名でしょう。より正確に言えば、王の部屋の近くには個室のトイレがあって立派な椅子式便器が置かれており、宮殿内のあちこちには273個もの移動式便器があったというのです。現在のポータブルトイレとよく似たもので、衝立の陰などに置いて使ったもののようです。

 ただし常時1000人もの王侯貴族と4000人もの召使たちが出入りしていましたから、場合によっては足りず、そこで活躍したのがポットみたいなオマルでした。その数2000個といいます。

 ただしこうした話は鵜呑みにしてはいけないのであって、5000人が出入りする宮殿に移動式便器とオマル総計2273個はやはり多すぎるのです。移動式は王族専用、オマルは貴族や召使たちと、そんな区分けでもあったのかもしれません。しかもそもそも男たちは外に行ってやって来ればいいのですからオマルすらいらないのです。そんなふうに考えていくと、特別な場合(例えば“大”の場合)を除いて、移動式やオマルは基本的に女性が使用するものだったのかもしれません。

 しかし衝立はあるにしても個室のない場所で女性がどうやって用を足したのでしょう?
 そこで活躍するのが、あのバカみたいに大きく広がったスカートです。フープスカートというらしいのですが、中にフープ(輪っこ)を重ねて提灯の骨みたいにした構造物が入っていて、裾からオマルを入れてそのまましゃがむと、うまくたためる仕組みになっているのです。用が済んだらオマルを召使に渡して終わりです。

 召使はそれをどうするのかというと、実は移動式便器の中身も同じなのですが、宮殿の庭に持って行って、適当なところにポイ捨てしたのです。前述のとおり男性は最初からそこに行って用を足していますから、着地点は一緒です。しかし(ここからが眉に唾をつけて聞くところなのですが)召使が不良だと庭に行くのも面倒くさがって廊下の隅に捨ててしまう。男性貴族や男性の召使も不良だと廊下の隅でやってしまう。そこで当時のベルサイユ宮殿はものすごく臭かったという話が出てくるのです。

【パリの空の下、糞尿は流れる】

 王宮ですらその有様ですから庶民となるとさらにひどい状況です。
 トイレなんかなくてオマルでの用足しは同じですが、庶民の場合それを2階の部屋から道路に投げ落とすのです。いきなり投げ捨てて直接ひとにあたってはいけないので「捨てます!」とか「水に注意!」とか言ったらしいのですが、その声が聞こえると道を歩いていた人たちは一斉に道路中央から飛びのかなくてはなりませんでした。当時の民家の二階は歩道部分に張り出していましたから、その下に潜り込むと比較的安全だったのです。

 さらに商店――、特にレストランなど食べ物関係のお店は軒先にサンルーフを出して防御し、女性は日傘をさして街を歩きました。シルクハットだのマントだのもみんな汚物から身を守るためのものだったという説もあります。しかしこの件に関する最大の発明品はハイヒールでしょう。

 できるだけ汚物に触れる面を少なくして靴を汚さず、家に糞尿を持ち込まないようにしたい――、そういった願いから、まず男性が踵を高くし始めました。それをファッションとして王や貴族が真似をし、やがて女性の元へ降りてきたのです。よくわかる話です。

 かつてのパリは、王宮も街も糞尿で満ち満ちていました。
 しかしそれではあまりにも不衛生だろうという話になるのですが、東京あたりで同じことをやれば不衛生でも、パリではそうではないかもしれません。気候が違うからです。

【フランスでは人間そのものが匂う】

 パリと東京を比べると夏の湿度(一般に使われている相対湿度)はさほど変わりないように見えますが、それは平均気温がパリの方が5度あまり低いためであって、絶対湿度(空気中に含まれる水分量)は東京に比べてずっと低く、さわやかで過ごしやすいようです。東京のむっとした夏とは違って、かなり乾燥した感じです。
 これを糞尿レベルで言うと、放置してもすぐに乾いてしまい、風に吹かれてどこかへ消えてしまうということです。不衛生でもない、だからそんなに気にすることもない。

 人間の話に戻すと、だから汗もあまりかかない、土やほこりが体に張り付くこともない、体が汚れない、だから風呂に入らない、とつながります。

 パリはもともと水不足の町ですから、簡単に水浴びとか風呂に入るとかいうわけにはいきません。現在でもパリ市内で部屋を借りようとすると、一般人に手の届くアパートには風呂がない。基本的にシャワーだけで、温水タンクも小さいので二人以上が使うと2番目の途中から水になってしまいます。
 しかもそのシャワーを、フランス人の男性3人にひとり、女性の5人にひとりは週に1~2回しか浴びないのです。しかし汚いことは汚い。汗はかかないといってもまるっきりかかないわけではないので次第に体が匂い始める、だからフランスでは香水が発達する――そんなつながりもあります。

 フランス、フランスと言ってきましたがヨーロッパ諸国はどこも同じで、本格的に下水道をつくり汚水処理を始めるのは、産業革命で都市に大量の人間が流れ込み、もはや糞尿で街が埋め尽くされそうになった1850年代以降のことでした。

【私もフランス人並みに汚かった】

 もっとも私には「フランス人は汚い、日本人はきれい」と偉そうに言えない事情があります。それは私自身が子どものころ、夏でも風呂は週2回、冬だと1週間に1回ないしは10日に1回しか行かなかったからです。
 パリ生まれではありませんが、内陸で夏でも湿気の少ない土地の生まれ育ちでしたから、高校を卒業して東京で暮らすようになるまで、汗びっしょりになる経験がなかったのです。汗さえかかなければ体が汚れることも臭くなることもずっと少ないのです。

 小学校2年生のときに初めて家にテレビが入り、東京のホームドラマを見るようになりました。そこでびっくりすることがいくつもあったのですが、そのうちのひとつがサラリーマンの夫が帰宅したときに妻がかける言葉です。
「夕食とお風呂、どっちを先にします?」

 夕食と入浴が同じ頻度(つまり毎日)であるということに驚き、家に風呂があるということでまたびっくり。それ以来、東京は憧れの街になりましたが、実際に住むようになると湿気という点ではとんでもない街でした。

(この稿、続く)

 

「ぶどう酒が水になった話と都市封鎖」~きちんとロックダウンすれば、感染はすぐになくなるはずではないか?

 ロンドンもパリもローマもマドリードも、
 あんなに厳しいロックダウンをしたのに、
 なぜ新型コロナウイルス感染は長引いたのだろう?
 それは日本でコロナ死が少ないこと以上に謎だ。
というお話。f:id:kite-cafe:20200629065435j:plain(「ロンドンの街並み」フォトACより)

【ぶどう酒が水になった話】

  大家さんの還暦のお祝いに店子一同で酒を贈ろうということになって、空徳利を回すから一軒一合ずつ入れて最後に大家さんのところに届くようにしようとしたのだが、大家さんが飲もうとしたところ徳利いっぱいの酒はいつの間にか水に変わっていた――そういう小話があります。昔聞いた落語の枕にあったものです。もちろん酒が変質したのではなく、店子それぞれが「自分のところ一軒くらいは水を入れても分からないだろう」と考えて全員が水を入れてしまったからです。

 この話、落語の枕に使われていたのは間違いないのですが、今回調べてみたらどうも元ネタは別にあって「ぶどう酒が水になった話」という外国の寓話のようなのです。それをどこぞの落語家がアレンジして自分の話の冒頭に持ってきたらしいのです。

 しかしその先がけっこう難しくて、グリムでないイソップでもないO・ヘンリーでもない、スペインのカタルーニャ地方の民話という話もありましたが根拠がない。
 ワインを贈られた相手も町を離れようとする偉い学者だったり、フランスの長寿のおじいさんだったり、ユダヤ教のラビだったりとさまざまです。
 道徳の教科書で読んだとか、いや国語だったとかいろいろな話がありますが、あちこちの校長先生が好んで講話の題材にしているのは事実のようで、検索にかけるといくつか拾えます。ただし分かったのはそこまでで、それ以上は何も出て来ません。

 こうした逸話の多様性というのはけっこうあって、ある著名人が酒席に遅刻しそうになって慌ててみすぼらしい普段着のまま会場に入ろうとしたら断られ、いったん家に戻って改めて盛装で出かけたらすんなり入れた、そこでその“著名人”は中に入るなり来賓席に自分の上着を掛け、自身は末席に座った。来賓として尊重されるのは服であって自分ではないからだ――そのようにして彼は外見で人を判断することの愚かさを示したという話があります。
 聞いてなんとも嫌味なことをする奴だなあと私なんぞは思うのですが、この物語の主人公は、私の知る限り、一休禅師であり沢庵和尚であり、エジソンでありアインシュタインであり、野口英世です。
 うろ覚えの話を断定的に書く人がたくさんいたのか違うと承知で確信犯的に作り話をしているのか分かりませんが、こうなるともう追求する気にもなりません。

 横道のそれました。話題にしたかったのは、「自分ひとりがずるいことをしたって大勢に影響はないだろうとみんながズルをすると、たいへんなことになる」という本質的な部分です。

【小武漢と大ダイヤモンド・プリンセス】

 中国の武漢でどうやら新型のコロナウイルス感染が起こっているらしいという話が出たのが今年の1月上旬。それから半年近く経ってさまざまな知見が共有されるようになってきました。
 例えば感染力がすさまじいということ、発症の前後がもっともウイルス拡散が激しいということ、特に若年層で無症状または軽症のまま終わる人が多いということ、感染から発症までは最長で2週間くらいで、軽症者はその期間内に自然治癒してしまうことも多いということ、等々。

 こういう知見を積み上げていくと、例えば感染の可能性がある一つの家族を完全に隔離して、重症者が出た場合は入院措置を取り、それ以外は放置するという方法を4~5週間も続けるとウイルス感染はほぼ終わってしまうことが分かります。ウイルスをもつ人間が最初の2週間の最終日に別の家族にうつしたとしても、うつされた側が次の2週間内に入院するか自然治癒してしまうと、あとが続かないからです。
 もちろん4人家族のAが2週間目にBに感染させ、Bがまた2週間目にCに感染させといったリレーが続けば8週間もかかる理屈ですが、新型コロナの感染力を考えると極めて稀な例ということなるでしょう。基本的には2週間におまけの数日を加えれば、その家族は全員、安心な人々になるはずです。
 クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスの乗客乗員はその理屈で2週間ものあいだ誰も下船させず、その後、乗客たちは公共交通機関で自宅に戻ったりしたのです。もちろん帰宅後発症した人もいましたが、乗員乗客が3700人もいたことを考えると、その程度は誤差みたいなものでしょう。

 日本でも緊急事態宣言が解除され、ヨーロッパの主要都市でも厳しいロックダウンが解除され、人々は清々しい表情で街に出てきていると言います。2カ月以上の蟄居生活からの解放ですからうれしいに決まっています・・・と、しかし私はここでふと思うのです。
 あれ? どうして2カ月なんだ? 2週間でよかったんじゃないか?

【イギリス人は独立不羈だ】

 ダイヤモンド・プリンセスの隔離が始まったとき、これを「小武漢」と表現する人たちがいました。裏を返せば武漢は「大ダイヤモンド・プリンセス」だったわけです。パリもロンドンもローマも同じです。だとしたらクルーズ船同様、2週間もロックダウンすれば感染者は劇的に減ったはずです。それなのに2カ月もかかってイギリスは現在も毎日1000人前後の感染者と100名を越える死者を出しています(日によってばらつきが多い)。
 いったい何が起こっていたのか――。

 おそらくこれには二つの要素があります。
 ひとつはヨーロッパ諸国の「ロックダウン」が、私たちが考えるほど厳しいものではかなったこと。例えばイギリスでは、「外出は原則禁止、企業は必要な場合以外は在宅勤務、外出禁止に違反した個人には罰金」ということになっていて、リモートワークの遅れた日本とは違ってみんな家でじっとしていたのかと思っていたのですが、「外出は原則禁止」の例外として、「買い出しや散歩は可」というのもあるのです。買い出しはともかく「散歩は可」となるとかなりゆとりが出て来ます。
 しかもBBCの「News Japn」を見ると、
「ロックダウンが始まって3回目の日曜日だった4月11日(*)には、公園やビーチへの移動は通常より37%減少していた」
といったことになります。(2020.04.20「イギリスのロックダウンで変わった6つのこと……外出、買い物、犯罪、大気汚染」 *4月11日は12日の間違いかと思う)
 日本人の感覚からすれば、「ロックダウンで37%減かよ」ということになりますが、それがイギリスです。人は簡単に政府のいうことを聞かないのです。それが第二の理由。

 3月の末にはイギリス首相の顧問が親せきの家に行っていたことが問題になり、数日後にはジョンソン首相自身が新型コロナウイルスに陽性となって入院してしまいます。ロックダウンの最中、人々は何をしていたのでしょう? 確かに、散歩と必需品の買い物以外で屋外に出ている人は少なかったでしょう。しかし屋内と言っても、自宅でじっとしていたかどうかは定かでないのです。
 「ぶどう酒が水になった話」が思い起こされる話です。

 ちなみに5月の大型連休中の日本の人出は各地で8割減でした。
NTTドコモによると、4日午後3時台の人出は、昨年の大型連休の同じ時間帯の平均と比べ、北海道・札幌駅が80・6%減、東京・新宿駅が84・8%減、愛知・名古屋駅が83・0%減、大阪・梅田が87・7%減、福岡・天神は79・8%減などだった。2020.05.05 朝日新聞
 例年のようにたくさんの人が観光地に繰り出すのではないかと心配された大型連休でしたが、人々は観光どころか会社にもいかなかったのです。欧米よりはるかの強力な都市封鎖が行われたも同じでした。

「何が出ても、すべてアタリの出産ガチャ」~子どもは生まれたとき、すでにたくさんのものを持っている  

 久しぶりに二人の孫にあった。
 特に1歳のなったばかりの下の子は、まるで違った子に育っていた。
 しかも兄とも、顔以外は全く違っている。
 出産ガチャ――子どもは生まれたとき、すでにたくさんのものを持っている。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200626073135j:plain(「寝転ぶ赤ちゃん」フォトACより)

【子どもは予定通りに生まれない】

 昨日は、東京の娘のシーナところへ行ってきて、あとで心が痛んだ話をしました。しかし孫たちに会えたこと自体は嬉しいことです。

 1歳になったばかりの次男のイーツはよちよち歩きというよりは酔っ払いのようなヨタヨタ歩きで、ハイハイもほとんどしなくなっていました。2月に会ったときはまだズリバイ(匍匐前進みたいなハイハイ)も十分ではなかったので、大切な時間の多くを新型コロナのために見落としたことになります。しかしそれも運命でしょう。

 運命と言えばこの子が生まれたときも予定通りではありませんでした。母親のシーナは長男が難産の上に新生児仮死で生まれてきたこともあって、不安で、2度目は無痛分娩で計画出産するはずだったのです。ところが1カ月も早くに破水してしまい、結局、普通分娩で産まざるをえなくなりました。
(参照)kite-cafe.hatenablog.comi
以下。

  そんな出産もあるかと思えば、これも先日お話ししたシーナの友だちのエリカの方は、同じ無痛分娩でしかもほぼ計画通りだったにもかかわらず、出産のスピードが速すぎて産院についてからの麻酔が間に合わず、十分に効き目が出る前に生まれてしまったそうです。シーナに比べれば超短時間だったはずなのに、痛みが半端ではなかったとかで、「もう二度と子どもを産まない」と固く誓ったといいます。
 何ごとも予定通りには行かないものです。そして生まれた子も予定通りには育たない。

【イーツの成長】

 久しぶりに会ったヨタヨタ歩きのイーツは陽気な子でした。いっしょにいたのが短時間でしたのでたまたまその時間だけ機嫌が良かったのかもしれませんが、テレビや玩具から音楽が聞こえてくるとどうしても身体を動かさずにはいられないみたいで、細かく上下にはずんでみせたり両手を左右に振ってみせたり――そしてときどき親の方を振り返ってキャッキャと大声で叫んでみせたりします。
 そうかと思うとお笑い番組で出演者たちが大笑いすると、意味も分からないのに一緒になって笑っています。大勢が笑っていると自分も笑わなくてはいけないと思い込んでいるようです。

 そんな様子を動画に撮りたくてスマホを向けると、はじめのうちはいいのですがやがて私に気づいて、ニコニコヨタヨタ近づいてくると膝にちょこんと乗ってスマホを奪おうとします。久しぶりというよりは未知に近いはずの私に対して、何の警戒心もないのです。
 もちろん可愛いのでそれでいいのですが、驚かされるのは兄のハーヴとの違いです。ハーヴはそれとまるで違った子だったのです。

【二人はこんなにも違う】

 当時はそんなふうに思わなかったのですが、今のイーツと比べると、ハーヴはとても不愛想な子でした。うっすらと笑うことはあってもキャッキャと声を上げて笑うことはあまりありませんでした。

 新生児仮死で生まれたときはものすごく心配させた子です。しかしその後は大きな病気もすることなく、おとなしく、育てやすい子でした。
 持って生まれた臆病者の都会っ子で、ハイハイの時期には畳の部屋から板の間に降りる3cmほどの段差が怖くて、後ろ向きで下がったくらいです。

 歩き始めの一週間は、それこそ顔をクシャクシャにして笑いながら歩いていたのに、しばらくすると修行僧みたいな厳格な表情で、果てしない歩行訓練といった感じになってしまいます。
 砂も水も草もみんな嫌いで、海水浴は泣きっぱなし、公園で靴を脱ぐこともできません。
 私と一緒の時もずっといい子で困ることもないのですが、さりとて私といるのがうれしい様子もありません。先日、久しぶりに会ったときも大げさに喜ぶふうもない。
 あとでシーナから「ハーヴもとても楽しそうでした」とLINEのメッセージが入ったのですが、私からしたら「あれが楽しいっていう顔かい?」てなものです。

 一方、イーツはじっとしていない。乳幼児につけるヘルメットが売ってないとシーナが嘆くほどによく動く、転ぶ、頭を打つ。音楽が鳴れば踊る、笑い声が聞こえれば一緒に笑う。夜泣きは頑固で、根性を見せて泣き続ける――。

 兄弟を見比べて「同じように育てたつもりなのに――」という人がいますが、生まれたときからこれほど違う子どもたちを、“同じように育てた”はずがありません。違うタイプの子が生まれて、違った育て方をしたのです。

【出産ガチャ--子どもは生まれたときにすでに、たくさんのものを持っている】

 昨年、一部で「出産ガチャ」という言葉が流行したみたいです。良い意味ではありません。

 子どもに手間も暇も金もかけて、一生懸命勉強させたのに大した大学には入れなかった。一方、近くに住む貧乏人の子どもは東大だ。やはり出産した段階でカプセルトイのガチャのようにハズレを引いてしまえばしょうがない――とネットのどこかに載った嘆きが始まりだったみたいです。

 親にハズレと言われた子はかわいそうですが、カプセルトイは必ずしも当たりはずれの問題ではないでしょう。
 ガチャを回すとき、「これが出てほしい」「これが出なくてはだめだ」という思いで動かせば、目指したもの以外はすべてハズレです。しかし「何が来てもいい」「どれが来てもおもしろそう」――そう思って回せばすべてがアタリです。

 “子どもは生まれたときにすでに、たくさんのものを持っている”という意味では、確かに出産はガチャみたいなものですが、シーナのように二度回したら二度ともまったく異なるものが出てきて、それがおもしろい、そう考えれば出産ガチャも希望に満ちてくるではありませんか。
 私は歳ですのでこれから先に機会があるわけではありませんが、こんなことなら出産ガチャ、もっとたくさん回しておけばよかったと思っています。

「責められて、責められて」~情報をきちんと確認しないと、ひどい目にあう

 6月1日から緊急事態宣言が全国で解除され、
 私は勇んで東京の娘の家に行ってきた。
 急いでいかないと孫が歩くようになってしまう。
 ところが行ったばかりに、ひどく傷つくハメになった。
というお話。

f:id:kite-cafe:20200625073623j:plain(「ハイハイする赤ちゃん」フォトACより)

【『首都圏と北海道への移動は慎重に』・・・】

 5月29日の夜にボーッとテレビのローカルニュースを見ていたら、県知事が、
「全国の緊急事態宣言が解除されて、県をまたぐ移動も自由になりますが、首都圏1都3県や北海道との移動は引き続き慎重にお願いします」
とか言っていました。
 さて、この「慎重にお願いします」の意味、普通の人はどうとらえたのでしょう?

 私は文字通り「慎重に行って来ればいい」、つまり“夜の繁華街に出かけたり、わざわざ人ごみに入ってはいけません”くらいに考えて、早速三カ月ぶりに東京の娘のところに行くことに決めたのです。
 他の予定も勘案して6月3日の水曜日に行こうと連絡したら、娘のシーナが「うん、いいよ。だったら子どもたちの保育園、休ませるから」というので、いやいや、特に長男のハーヴは保育園大好き人間、だから休ませるほどのこともない、と週末に変更したのです。週末なら妻も一緒に行けます。
 ところが妻に話すと、ちょっと首を傾げ、
「あら? 確か昨日、“18日までは首都圏に行ってはいけない”って連絡があったはずだけど・・・」
 妻は特別支援学校の教員で、支援学校の場合はさまざまに制約あることが多いのです。特に病弱養護学校の場合は感染症が死に直結したりするため、一般とはかなり異なった対応となるのが普通です。
 そこで調べてもらうと、
「やっぱり18日まではダメだって。どうしても行かなければならない事情があるときは校長の許可を取って、帰ってからは2週間、出勤停止だって・・・」
 2週間の出勤停止は妻の受け入れられる内容ではありません。支援学校はやはり特別なのでしょう。

 しかし私にもどうして今のうちに行っておきたい、不要不急ではない、特別な事情があったのです。
 それは、
 はやくしないと、1歳になったばかりの孫のイーツが歩いてしまう。
ということです。
 
 

【ハイハイする赤ちゃん】

 私は昔から未就学の子どもが好きで、気の置けない間柄だと赤ん坊は必ず抱かせてもらい、屋外で出会う小さな子どもたちにも、不審者と間違えられない範囲で必ず挨拶するようにしてきました。
 若い夫婦が小さな子をつれてゆっくり散歩する姿などは、見ているだけで幸せになります。

 夫婦いずれかに抱っこされている赤ん坊、ベビーカーの赤ん坊、よちよち歩きの子、親よりも先にスタスタと歩いて行ってしまう子、一生懸命自転車をこいでいる子、それは微笑んで見られる「子どもの成長の一覧表」です。ところがその一覧表にも、一か所欠けた部分があるのです。どんな場合も、子どもをハイハイで散歩させている親子はいない、したがってハイハイの子どもを見ることはほとんどないのです。

 ハイハイができるようになると、赤ん坊は自由に室内を移動し始めます。親にとっては目が離せなくなる大変な時期ですが、好きなところに行けるようになった子どもの目は生き生きと輝いています。生まれて初めての冒険のとき、興味あるものには何にでも触りに行け、舐めたり噛んだりできる、こんな素晴らしいことはありません。

 ところがそんな楽しいハイハイの時期は案外短く、数カ月もすると今度は立って歩きたがります。これが不思議で、一度立って歩くことを覚えた赤ん坊は、二度とハイハイの時代に戻ろうとはしないのです。
 その上、私の娘のシーナのときも息子のアキュラのときも、最初の孫のハーヴのときもそうでしたが、歩き始めの数日間は満面ニコニコ顔で大きな声を上げ、歩けるようになったことがそんなにうれしいのかと呆れるほどの様子なのです。
 それを見逃してはいけない。

 6月7日の日曜日、私としては珍しいことですが、いつもの電車ではなく、一人で自家用車を運転して、娘の家では半日過ごして一歩も外に出ず、往復ともサービスエリアのトイレに寄った以外は車から降りることなく、日帰りで帰ってきました。要するに「慎重に行ってきた」わけです。ところが・・・
 
 

 【責められて、責められて】

 気分良く過ごしていた翌週(14日の週)、突然テレビなどで、「いよいよ19日から県をまたぐ移動が自由になります」と言い出したのです。それも、何度も、何度も、何日も、何日も。

 私としては「あれ? ダメだったの?」といった感じです。
 知事の話を聞いた自分の耳が間違っていたのかも知れないと慌てて県のサイトを調べると、やはり「首都圏1都3県や北海道との移動は引き続き慎重に」とあります。しかしそれは6月1日から18日までの対応で、本格的に自由になるのは19日以降だったのです(普通は誰でも知っていることだったらしい・・・)。

 「慎重に」が期間限定となるとずいぶん印象が違ってきます。“県をまたいだ移動はいちおう許可した形にするが、19日までは我慢しなさい”の意味が強くなるのです。
 知り合いからも連絡が来て、「フェイスブックのあれ、マズくないか?」。
 そう言えば「東京へ行ってきましたー」なんて元気に書いてしまったのです。慌てて削除。炎上するほどのアカウントではないのですが、知り合いばかりなので見識が疑われそうです。

 それからはもう、ニュースを見るたびに責められて、責められて・・・・。なんとも苦しい十日間ほどでした。

 めったにないことですが、それでも私はしばしば、こうしたポカをします。
 ポカをするとすぐにしっかり反省できるところが私の偉いところですが、反省を生かさないのがダメなところです。