カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「オンライン学習、やるならむしろ徹底しよう」~不登校の子たちにオンライン学習を⑤

 日本中のいくつかの学校で、
 新型コロナウィルス事態のためにオンライン学習の扉を開けてしまった。
 そこに不登校の子や親たちが注目する。
 今さら開いたその扉を閉じるわけにもいかないだろう。
 だったらそれを担う、うってつけの場所を教えよう。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200624071032j:plain(「山あいの集落」フォトACより)

【『オンライン授業はコロナ理由に限定』】

  一昨日の読売新聞に「『オンライン授業はコロナ理由に限定』、福岡市教育委の通知に不登校の保護者落胆」という記事がありました。

 せっかくオンラインを通して学習の機運が見えてきた不登校の子どもや親にとって、ハシゴを外されるのは切ないだろうなと思いながら、「コロナが理由であれば」の意味もよく分からないし、不登校の子を外す理由もわからないので先まで読んだら、
 福岡市は5月31日、オンライン授業の開始を発表。コロナが理由であれば、貸与するタブレット端末や家庭のパソコンなどで授業を受けられる。
 しかし、
 対象を、本人や家族に基礎疾患があったり、感染が心配だったりして登校していない児童・生徒に限定したので、不登校の児童生徒の保護者を落胆させているというものでした。

 不登校の子を外すのも、
 現状では不登校の児童・生徒約1800人全員には端末を配備できないため、インターネットを使える環境がない家庭では授業を受けられず、貧富の差などで公教育の公平性を欠く
といいうことで、文脈からすると端末を貸与する枠から外せばいだけで、授業そのものへのアクセスから外さなくてもよさそうなものです(ホントにそうしたのかな?)。それを一括して「コロナ理由に限定」してしまったというなら、「やはりお役所仕事」と言えばその通りです。

 

【お役所仕事、やはり公立学校には限界がある】

 1800人分の端末が揃えられないから=いかにもお役所。
 これが民間で儲かると踏めば、1800人分の端末ならあっという間にそろえるでしょうし、儲からないとなれば最初から話題になりません。
 貧富などで公平性を欠くから=これもいかにもお役所。
 民間だったらお金持ちは払ってください、そうでない方は諦めてくださいで、どこにも問題は発生しません。私立学校でオンライン授業の進められているところはかなり多く、それを売り物にして生徒募集を計っているところもあると聞きますが、私立だからできることです。「無理ならお辞めいただいて公立に転校手続きを」でまったく問題ないからです。

 しかしやはり公立学校は「できる(お金持ちの)家から始めましょう」というわけにはいきません。今やスマホは常識と言っても子ども専用を用意している家はそうたくさんあるわけでもありません。PCにしても、在宅で仕事をしている人がいれば、常時子どもに明け渡すわけにもいかないでしょう。
 公立学校がオンライン授業を始める以上は、やはりタブレットくらいは学校で用意するのが当然でしょう。そして現段階では不可能です。

 

【無理をすることもない】

 もっとも、「『オンラインで自分のクラスが見られるのなら授業を受けたい』と息子も乗り気だった。登校再開のきっかけになるかもしれないと期待していたのに」と嘆くお母さん、福岡市のオンライン学習は始まったばかりです。同級生が楽しく授業を受けている姿をモニターで見て、登校したくなる可能性と傷ついてさらに引き籠りを深める可能性は五分五分です。何しろ友だちはみんなその子がいなくても生き生きと学校生活を送っているのですから。そんな様子を見て自尊感情を失うことだってあるのです。

 両極端の五分五分を試すことを、普通はギャンブルと言います。私だったら自分の子どもを賭け事のテーブルに乗せたりはしません。オンライン授業を試していいのは、コロナ休校のようにみんなが休んでいるときか、不登校の子たち専用のプログラムが立ち上がったときだけです。

 

【授業のライブ配信は教師を殺す】

 私がこのニュースを見て非常に衝撃を受けたのは、
 大阪府寝屋川市は15日から授業のライブ配信を始めた
という部分です。

 先生としてはカメラの向こうに学校に来られない子どもがいると承知で、あたかも存在しないように授業を進めることは不可能でしょう。さりとて日ごろは表情や発言からその子の理解や進捗状況を計れるのに、何も見えない、何も聞こえない相手に向かってどう配慮したらいいのか分かりません。カメラに向かって「大丈夫? ここまでは分かった?」などと訊いても返事は返ってこないのです。苦しいですね。

 おまけにカメラの向こうにいるのは児童生徒だけとは限りません。保護者や全く見知らぬ人、マスコミ関係者だっているのかもしれません。

 授業中、関係のないおしゃべりをしている子がいたら注意しなくてはなりませんし、他の子をからかったり差別的な言動があったら、それこそ土砂降りのごとく叱らなくてはならないのですが。その怒り方は見る側によっては「やりすぎ」だったり「甘すぎ」だったりします。

 また教室内での教師と子どものやり取りは、日常の人間関係が前提となっていますから、その言動が他者には不適切に見えることもあるでしょう。それをいちいちとがめられていたら、とてもではありませんが、授業などやっていられません。

 授業のライブ配信などというものを思いついた人は、きっと大学の大講堂で200人くらいの学生を相手にする講義のようなものを思い浮かべているのでしょう。それは日本の小中学校の授業とは、全く違ったものなのです。

 

【超小規模校を、学校に来られない子のオンライン学習の拠点に】

 教育には意識的教育と無意識的教育というものがあります。「親が背中で教える」というのはもちろん後者ですが、学校は基本的に前者で、学校教育は組織的・計画的なものでなくてはなりません。それはオンライン学習においても同じです。

 講義式の授業を予定しない限り、オンライン学習は少人数教育にならざるを得ません。児童生徒の手元が見えない、直接ノートを指さして説明できない等々、制約の多い授業ですから極めて専門性の高いものとなります。
 そのための「オンライン専門教育小中学校」といった学校を全国各地につくって、不登校や病気で学校に来られない子の学習を補償するのが一番いいのですが現実的ではないでしょう。それが無理な以上、現在、少人数教育の技能を持っていて比較的時間に余裕のあるのは、島嶼部やへき地の小規模学校で教鞭を振るう教師だけです。

 ほうっておけば学校どころか地域自体もなくなってしまうような小規模校の力を、生かさない理由はありません。
 もちろん現在のままでは、特に小学校で負担が大きすぎますから職員の充実を図らなくてはならないのですが、一度あけてしまったパンドラの箱です。今さら不登校の子のためのオンライン学習は致しませんでは済まないと思うのですが。

 

「山や島の小さな学校の不思議な風景」~不登校の子たちにオンライン学習を④ 

 山間や島嶼の小規模校は、
 教師のあり方も特殊だが、子どもの様子もかなり変わっている。
 入学式の歌が当たり前に歌えない、運動会が変、
 そして日常の授業も少し違っている。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200623072558j:plain(「春の長野県 小川村」フォトACより)

 

【山や島の小さな学校の不思議な風景】

 超少人数の山や島の学校には、街場の学校では想像もできない特別な風景があります。
 例えば新入生2名といったミニサイズの入学式だと、ありふれた入学式の歌も歌えません。
♪一年生になったら
♫一年生になったら
♪ともだち100人 できるかな

まど・みちお作詞/山本直純作曲「一年生になったら」)
 全校18名の学校では歌っても空しいだけです。友だち100人なんて絶対できませんし、そもそも自分以外の17人は先輩も含めてみんな昔から友だちみたいなものです。

♪サクラさいたら いちねんせい
♫ひとりで いけるかな
♪となりにすわる子 いい子かな

伊藤アキラ作詞・桜井順作曲「ドキドキドン! いちねんせい」)
 となりにすわる子、先刻承知。生まれた時からずっと一緒ですから今さら「ドキドキドン!」ということもありません。

 運動会でも「かけっこ」は1レースのみで終了。「大玉送り」は列が紅白それぞれ3mですからあっという間の勝負です(ウソです。実際には行いません)。
 綱引きはひとりひとりの比重が半端でないので、実力が拮抗するよう初めの調整が大変です。児童の紅白決めも綱引きを考慮するところから始まります。ただしそれにもかかわらず当日1名が欠席してしまい、やる前から勝敗が見えてしまうこともあります。14人対14人で均衡が取れていたのに、一方が一人欠ければどちらが勝つかは明らかです。

 運動と言えば、小規模校では日常の体育からして普通ではありません。
 私が小規模学級としては最初に担任したクラスは児童数が13名でしたが、初めての体育の授業で子どもを殺しそうになりました。
 跳び箱の授業だったのですが、2列で練習させると片方の列が6~7名。これだと走って跳び箱を跳んで元の場所に戻って来るころには、もう自分の番です。待っている時間がまるでない――。ですから15分も続けるとひとり30回~40回は跳ぶことになり、あっという間にへばってしまうのです。
 たった45分の授業なのに何回も休憩を入れないと、子どもは過労死しかねません。
 
 

【小規模学校の特殊な教育】

 教室の授業でも普通規模の学校とは違ったことがたくさん起こります。
 話し合いの場面では、優れた発言がひとつあると後が続かない。「アイツが言うんだから間違いない」といった雰囲気が広がり、中身も吟味しないで皆で引き下がってしまうことがたびたびあります。保育園のころから1クラスでやってきていますから、勉強や運動の序列が十二分に分かっているのです。がんばってもしょうがないと、がんばり屋さんも少なくなります。

 小規模校の「子どもひとりひとりに丁寧に対応できる」ということが、必ずしもよくない場合もあります。日本の40人学級は褒められることは稀ですが、それでいいことだってたくさんあるのです。
 40人もいると、子どもが練習問題を解くような場面では担任の手が回り切らなくなり、どうしてもほったらかしの子が出て来ます。
 ほったらかしでも優秀な子はガンガン進めていきますから問題ありません。普通レベルの子も、時間はかかるものの何とかひとりでやっていきます。なかなか理解の進まない子には担任がつきますからこれもいいでしょう。問題はその間の層、独力ではかなり苦しいものの、担任がべったりついているほどではない、教科では「中の下」か「下の上」くらいの子たちです。

 児童30~40人のクラスではその層も自主的に動きます。待っていたって先生は来てくれませんから、友だちに訊いたり一人で悩んだりしながら、なんとか問題を解いてしまうのです。それで実力がつく。
 ところが小規模校では同じレベルの子が頑張らない――頑張らなくても先生がきて、助けてくれることは分かっているからです。

 担任の方でもなんとか独力で解かせたいのでその子のもとへ行かないよう努力するのですが、この勝負、たいていは子どもの勝ちです。15分も何もしないで待っていれば、さすがに耐えかねた担任が折れて助けに来てくれます。あとは1対1で教えてもらえばいいだけです。

 あ、宿題を一つ忘れていました。
 昨日の「小規模小中学校、教員相互の持ち時間数差をどう解消するか」
という件です。
 
 

【小規模小中学校、教員相互の持ち時間数差をどう解消するか】

 小規模校の場合、同じ3学級でも小学校は教諭が3人、中学校は教頭先生を含めて8人もの担任(学級担任・教科担任)が配当されている、しかも小学校の担任は全教科・全授業を一人で見なければならないのに対し、中学校で学級担任を持たない教諭は、音楽などで全学年合同授業などを行ってしまうと週に1~2時間しか授業のないこともある、極めて不公平だという話です。
 その不公平をどう解消していくのか。――。

 ひとつは昨日もお話しした中学校教科担任9教科10人の不足分(2~3人)を、複数免許を利用したり免許外で受け持ったりして少ない先生の時数を増やす方法です。例えば音楽と家庭科を同じ先生が持つ、体育と技術と美術を一人の先生で担当するといったふうです。
 しかしもっと多いのは、小規模だからこそ手が手が足りなくなっている小学校の授業を担当するという方法です。

 小規模中学校が一つあるということは、周辺に1~3校の小規模小学校があるということです。そこでは3学級の学校に3人、5学級に5人といったふうにしか教諭がいませんので、いっぱいいっぱいの日々を送っているに違いありません。
 そこで音楽や体育、美術、技術家庭科といった配当時数の少ない中学校の教科担任の先生が、小学校の専科教諭のような形で入るわけです。小学校英語や高学年の算数を行うということも考えられます。
 これでようやく、全体の均衡が取れています。

 しかしそれでもなお、麓の学校に比べると授業時数はかなり少ない先生の残っている場合があります。実にもったいないことです。

(この稿、続く)
 
 

「超小規模校では教師の仕事量にとんでもない不公平が生れる」~不登校の子たちにオンライン学習を③

 離島やへき地、時には都会のど真ん中に生まれる超小規模学校。
 そこではどんな基準で学級数を決め、教師を配置しているのだろう。
 そしてどんな生活をしているのだろう。
 「二十四の瞳」みたいな、のどかで平和な雰囲気なのだろうか。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200622065619j:plain(「夏の能古島フォトACより)

【特別支援学校・マンモス校・超小規模校――行ってみないと分からない】

 私たちは自分自身あるいは子どもたちの経験から、学校というものをよく知っているつもりでいます。しかし特別な学校、例えば特別支援学校だとか、人数が多過ぎて体育館で全校集会もできないマンモス校だとか、逆に全校児童5名の超小規模校とか、そんな学校でどんな学習が行われているか、どんな日常風景なのか、経験のない人にはまず想像のつかないことです。


 私自身は、超とは言えませんが全校生徒1300名のマンモス中学校と、全校児童18名の小規模小学校の両極端の経験があります。特別支援学校の経験はありませんが、妻が専門家なのでおおよそのことは分かっているつもりです。それぞれたいへん特徴的で面白い世界です。

 例えば1学年10クラスを越える大規模校では、修学旅行のバスに乗るための練習もしなくてはならないといったことは、経験がなければ思いつきもしないでしょう。450人が一斉に動けばあちこちで混乱が起きて、出発までに恐ろしく時間がかかってしまうのです。旅先でいちいち20分もかけてバスの乗り降りをしているようでは日程はすぐに行き詰まってしまいます。
 また、この規模になると金閣銀閣のレベルの寺院でも、自校の生徒だけですぐにいっぱいになってしまいますから、旅行隊を二つに分けて同じ場所に同時に入館しないように工夫したりします。そんなことも、実際に大規模校の職員になってみないと分からないことでしょう。
 他にも大規模校ならではの面白い話が山ほどあるのですが、今は小さい方のお話です。

 

【学級数はどのように決まるのか】

 学校には定数法(正式には「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」)というのがあって、1クラスの児童生徒が40人を越えると二クラスに分けなければならないのがよく知られていいます。
 例えば1学年に児童数40人のクラスが1学級しかなくて、そこに転入生がひとり入ると翌年は20人と21人の2クラスに分けなくてはなりません。80人の学年だと40人ずつの2クラスですがそこに転入生が一人は言って81人になると27人ずつの3クラスに、といったふうです。
 学級数を増やさずにチームティーチングで指導する(1クラスに2人の担任)ということも可能ですが普通はしません。また小学校1年生は例外で、1クラスは35人まででそれを越えるとクラスを分けることになります。

 この規定は保護者にも案外知られていて、我が子が41人のクラスでギュウギュウ詰めの生活をさせられるか、20人あるいは21人の少人数の学級で丁寧に面倒を見てもらえるかの瀬戸際ですから、対応が違っているとすぐにクレームが入ります。 4月の末には一人転出することが分かっているような場合は41人でスタートせざるを得ないので、そういうときは丁寧な説明が必要となります。

 では逆の場合、児童生徒数が少ない方にはどういう規定があるのでしょう?
 これについては「隣り合う学年(4年生にとっては3年生と5年生)のどちらかと合算した場合、児童生徒数が16人以下だと学年は異なっても同じクラスにしなくてはならない」が原則です。
 模式的な言い方をすると、3年生が8人、4年生も8人だとすると、2学年をひとつにして1人の担任(学級担任・教科担任)のもとで16人が学習しなくてはならないのです。こうしてできクラスのことを、複式学級と言います。

 ただしここでも小学校1年生だけは例外で、2年生の児童との合計が9人以上だと単独で学級を形成することができます。例えば新入生が4人しかいなくても、2年生が5人以上だと単独のクラスとして始められるわけです。もちろん翌年、進級して人数がそのままだと「16人以下の場合は~」というルールが復活して二つが一つのクラスにならざるをえません。

 へき地や離島の小中学校にはそんな複式学級がいくらでもありますが、驚いたことにドーナツ化現象のために、今や都市のど真ん中に複式学級が生れることもあったりします。

 理屈上は三つの学年が一緒になる複々式、さらには全校1クラスの単式学級というの考えられますが、実際には複式以上の学級を持つ学校は日本にはありません。各学年1名しか在籍しない全校児童6人の小学校でも、1・2年、3・4年、5・6年の3クラスで運営しています。

 

【小学校の先生の数はどうやって決まるのか】

 学級数は各学年の児童生徒数によって決まりますが、学校の先生の数はどうやって決まるのかというと、その学級数に応じて決まくるのです。
 定数法による職員数の計算はとても分かりにくいので、文科省が示した例(「教職員定数の算定について」)を参考にすると、小学校は下のようになります。

f:id:kite-cafe:20200622065929j:plain 分かりにくいのは0.5、0.75といった表記で、これは計算上2校を1人、あるいは4校を3人で賄おうとするものです(だれかが2校分を1人で賄う)。ただし「標準」は最低値を示すものですから市町村立学校の場合、地方自治体が予算を出して0.75人のところに1人を当てることも少なくありません。
 表の一番の上段の3学級の例では担任外教諭が0.75人となっていますが、現実的には1人として、その1人分は教頭とする場合が多いようです。教頭の仕事は特殊でどうしても必要です。事務職員の0.75人も1人とする地方自治体が多いと思われます(そうでない例、つまり2校勤務の話も聞いたことがありますが)。

 小学校の小規模校についてまとめると、3学級の学校では校長・教頭・養護教諭(保健の先生)・事務職員がそれぞれ1人、担任教諭が3人となります。
 3つのクラスに3人の担任教諭、小学校はそれでいいのです。しかし中学校はそういうわけにはいきません。教科担任制ですので先生が3人では足りないのです。

 

【中学校の先生の数はどうやって決まるのか】

 中学校の場合は下の表のとおり、3学級の学校では校長と養護教諭が一人ずつ、教頭が0.5人、教科担任が7.5人、事務職員が0.75人ということになっています。

f:id:kite-cafe:20200622070011j:plain 教頭先生の0.5人というのは先ほどと同じで、右半分とか左半分とか言うことではなく、教科担任の7.5人と合わせて8人という計算です。教頭先生にも授業を受け持ってもらわないと授業が回っていきません。

 しかし考えてみるまでなく中学校の教科担任は9教科10人(技術科と家庭科を別にすることが多いので)。不足の2名はどうするのでしょう?
 この場合は教員免許を2種類以上持っている先生に2教科担当してもらうか、特別に都道府県の許可を受けて誰かが免許外で教えるとか、あるいは市町村の予算で定数外の先生に来てもらうとか、さらにあるいは似たような数校を一人の先生に巡回してもらうとか、さまざまな方法で凌ぎます。
 事務職員の0.75人を1人にするのは小学校と同じです。

 

【そうなると教師の仕事は、小中であまりにも不公平になる】

 さて、同じ3学級の学校なのに小学校では教諭が3人、中学校は教頭先生を含めて8人です。ずいぶん差があります。

 小学校の3人の担任教諭の負担は半端ではありません。中規模以上の学校なら理科や音楽、家庭科や図工に専科の先生(上の表の「担任外」)がつくこともありますが、3学級校は配置がないので全教科・全授業時間を自分ひとりでやらなくてはならないのです。
 しかも先週お話しした通り、係の仕事は一人十業務十主任で忙しさも半端ない。

 一方、中学校の2・3年生の音楽や美術は週1時間しかありませんから、これらの教科では毎週3時間くらい授業をやれば教科担任としての仕事は終わってしまいます。さらに言えば体育や音楽、あるいは美術や技術家庭科でも、全校生徒10人といった中学校では全学年一緒に授業をやった方が効果的です。1学年3~4人ずつの体育ではバレーボールやバスケットボールの試合さえできません。音楽の合唱だって3~4人でやるよりは10人でやった方がやりやすいでしょう。そこで授業をひとつにまとめてしまうと、一部の教科担任は週に1時間も授業をやったらあとは係の仕事しかない。一人十業務十主任でもさすがに時間を持て余すようになります。
 この不公平を、超小規模校ではどのように補っているのでしょう?

(この稿、続く)

 

「廃校になりそうな超小規模校を、オンラインの拠点にできないか」~不登校の子たちにオンライン学習を②

 放っておくと「オンライン学習」は忘れられる。
 通常の学校には必要のない学習方法だからだ。
 しかしそれを必要とする少数の子どもたちも大切にしたい。
 となると、
 問題は誰がオンラインの担い手になるかということだ。

というお話。f:id:kite-cafe:20200619071622j:plain(「田園」フォトACより)

【「オンライン学習」は進まない、しかし残すべきだ】

 オンライン学習は今後どのような進展を見せるのか――。

 いわゆるICT(情報技術)教育は一定の進展を見せると思いますが、インターネットを通して教師と児童生徒が繋がる「オンライン学習」はこれから先、さほど進展しないと思っています。
 なぜなら、「必要ないから」です。

 現在のコロナ事態は非常時でその非常時対応として「オンライン学習」が求められただけで、今の状況を脱したら何のための「オンライン学習」か分かりません。
 子どもたちは基本的に学校に行って友だちと一緒に勉強するのが楽しいのであって、それを留めて在宅で学習させる理由は、新たなパンデミックか戦争でもない限りありせん。
 ICT教育と「オンライン学習」は混同してはいけないのであって、それとこれとは別です。

 しかし今回のコロナ事態で明らかになったことのひとつ「不登校の子の学習権を保障するために『オンライン学習』は有効かもしれない」は捨て置けません。オンラインを契機に学校に来るようになった子がいると聞けばなおさらです。
 ぜひとも大切にしていかなくてはならないことですが、だからと言って現場の先生方に休校中と同じ水準の「オンライン学習」を続けろと言っても無理でしょう。いくら不登校の子どものためとはいえ、過剰労働が前提であることは長続きしません。希望を与えてハシゴを外すくらいなら最初からやらない方がマシです。

 ではどうしたらよいのか――。
 もちろん各校の教員を大幅に増やしてオンライン学習に従事させるか、いっそのことオンライン通信制小中学校でもつくってしまえばいいのですが、学校をつくれ、教員を増やせといった提案は通ったためしがありません。そこで現在、手元にある資源を用いて、なんとか不登校の子のための「オンライン教育」を残せないかと考えたとき、ふと思いついたのが島嶼やへき地、あるいはドーナツ化現象のために都市のど真ん中にポツンと生まれた超小規模校のことです。

 財政的はたいへんな負担で、今にも統廃合されかねないこうした小規模校を残して、そこの職員に「オンライン学習」を推し進めてもらうのです。
 

【学校がなくなると地域がなくなる】

 小中学校の統廃合が話題になるとき、常に聞こえてくるのは「学校がなくなると地域がなくなる」という心の叫びです。日ごろは意識していませんが、私たちは学校を通して地域の一員となり、学校を中心に生活をしてきたからです。

 結婚して新居を構え、しかしそれだけで地域に人間関係を持ち始める人は稀です。子どもが生まれ保育園に通い始め、やがて小学校に入学する――ほとんどの人はそこで初めて地域に関わる“役員”を経験し、“当番活動”を行うことで貢献し始めます。子どもと一緒に行う学校のボランティア活動を通して、地域に知己を多くつくり、社会関係の足場を築いていくのです。

 やがて子どもが成人して家を離れると、地域の他の子どもたちが精神的な支えになっていきます。公開参観日には孫がいるわけでもないに学校に呼ばれ、敬老の日には子どもたちが訪ねて来る――。登校する子どもたちの声を見送りながら朝の活動を始め、子どもたちに帰りのあいさつをされながら夕暮れの家に帰る――。
 学校がなくなるというのはそうしたことの一切を失うことです。

 学校のなくなった土地に子育て世代や、これから子どもを持とうとする人々は住めなくなります。そしてやがて、地域そのものがなくなってしまうわけです。

【財政的に負担が大きい学校に、仕事を与えることで均衡を生みだす】

 しかし一方、超がつくような小規模校が財政的にたいへんな負担になっていることも事実です。私はよく冗談に「校長先生ひとりの給料だけでもたいへんなものだよ」と言いますが、法律によって学校長のない学校というのは考えられないので、最低でも毎年それだけの金額が費やされるわけです。

 隣の島までヘリコプターで30分といった島嶼の学校は他に選択肢がないので残すしかありませんが、山の中だとか都市の中央で過疎化によって小規模になった学校は、やはりなくしていくしかないというのも分かります。
 どうしたものか--。

 そこに浮かんだのが、廃校にする代わりに「オンライン学習」の拠点校にするアイデアです。もちろん島嶼部の学校だってかまいませんが、ネット環境さえあれば地球上のどこにいたってできるのが「オンライン学習」なのですから。

 ただし統廃合が考えられるような小規模校は教職員も少ないわけで、その人たちに通常の校務とは別の、「オンライン学習」を受け持つだけの余裕があるかどうかは最優先で考えておかなくてはならないことです。

【小規模校の先生も驚くほど忙しい】

 担任するクラスの子どもが5人しかいないなら、仕事量は40人のクラスを持つ先生の8分の1です。成績処理や書類づくりでは圧倒的に楽です。しかし良くしたもので、小規模校の先生には小規模校なりの忙しさもあります。

 例えば学校の先生たちが授業以外に受け持つ係や委員会の仕事――教科の教具や教材の管理をする国語係・数学係といった教科係の仕事、学年会計や行事計画の立案・実施といった学年の仕事、PTAの仕事、部活動や児童生徒会の顧問、そうしたものは学校の規模の大小にかかわらずだいたい50個ほどあります。

 職員数50人の大規模校ならそれを一人一業務で割り振ればいいのですが、5人しかいない学校だと一人十業務にもなってしまいます。私も経験がありますが、肩書が主任ばかりで、年じゅう何らかの主任仕事に追われてけっこうしんどいのです。

 そのことも含めて、超小規模校が日常的には不登校生を対象とした「オンライン学習」の担い手になりうるか、そして今回の新型コロナ事態のような非常事態が起こったとき、地域のすべての「オンライン学習」の中心となりうるのか、来週から少し丁寧に考えてみたいと思います。

(この稿、続く)

 

「人間関係を持たずに済むなら、勉強をしたい」~不登校の子たちにオンライン学習を①

 日本の教育は体験を重視する。
 「格物致知(かくぶつちち)」(*)は日本の伝統であり、
 体験を通さない学習はこの国に不向きである。
 したがって非常時以外の「オンライン学習」にはまったく不賛成なのだが、
 それでも、これが必要な子どもたちがいることに気づいた。

というお話。
格物致知・・・ものを通して知に至る。2013.02.18「格物致知(かくぶつちち)参照のこと

f:id:kite-cafe:20200618065635j:plain(「パソコンでオンライン学習する子ども」フォトACより)

【「オンライン学習」は忘れられていくのか】

 学校が再開されて3週間がたとうとしています。

 分散登校だったり夏の準備だったり、まだまだ通常運行というには程遠い状況ですが、全国一斉休校と言った異常事態から解放され、ほっとした雰囲気が流れています――と、教員である婿のエージュが言っていました。やはり子どもが来てくれる学校というのはいいとも言っています。
 まだこの先一年以上に渡って普通の生活には戻れないと思いますが、なんとか凌いで行ってほしいものです。

 さて、学校の正常化とともにニュースの表面からまったく消えてしまったのが「オンライン学習」です。安心して子どもを学校に預けられるようになった今こそ、じっくり腰を据えて「オンライン学習」の基盤整備などに取り組めばいいものを、どこからもそんな声は聞こえてきません。

 それはそうでしょう。喉元過ぎれば熱さ忘れる――毎日子どもが家の中にいて朝から晩まで勉強もしないでゲームをしている、たまに画面から目を離したかと思ったら「腹が減った、何か食わせろ」「飽きたからどかに連れていけ」「たまには一緒に遊んでほしい」、そういう地獄から自由になってしまうと、今さら第二波にむけて子ども専用のPCやプリンタの準備をするというのも面倒になってきます。もしかしたら第二波は来ないのかもしれないのですから――。
 そんなこんなで「オンライン学習」への希求はすっかりなりを潜めてしまいましたが、その一方で今も熱烈にこれを求めている人たちもいるのです。
 不登校の子とその家族です。

 先週の金曜日のNHKニュース・ウォッチ9で扱っていたのですが、一斉休校の後半で一部の学校がオンライン学習を始めたところ、不登校の児童生徒の何人かが積極的にかかわるようになり、昼夜逆転だった生活を立て直して時間がくるとPCの前に座って授業に取り組む子が出たり、中にはそれを契機に6月に入って登校する子まで出てきたというのです。

 これには呆れました。子どもたちに対してではありません。
 オンライン学習なら不登校の子でも入って来られるかもしれないという可能性について、私がまったく気づいてこなかなかったからです。

 

【人間関係が避けられるなら勉強したい】

 再三引用していますが、不登校の専門家の富田富士也さんの40年前の忘れられない一言、
不登校の子が学校を嫌うのは、そこが人間関係を強制するところだからだ」
は、私にとってこの問題を考える上での起点となっています。そしてその観点からすれば、「オンライン学習」はまったくうってつけなのです。
 なぜなら授業が終わって休み時間になれば、電源を落として一人になれるからです。同級生たちと付き合う必要がない。合わせることもない、いじめられる心配もない。
 現在のところ「オンライン学習」と言っても設備及び教師の技能が不十分で、会議用アプリを使って子ども同士が存分に話し合うといったところまではいっていません。教師と生徒の一対一の授業が同時に複数行われているような状況です。

 くちさがなく容赦もない子どもとは違って、大人である「先生」は常に気を遣ってくれます。しかも「先生」は子どもに対する気の遣い方の専門家ですから、基本的には恐れる必要がない。その「先生」ですら我慢できないとなったら、電源を切って授業を強制終了すればいいのです。主導権はこちらにある。
 いつでも好きな時にやめられるというのは、通級教室に通っていたときも、家庭訪問を受ける場合にも決してなかったことです。それができる。

 もともと学校に行かないことに後ろめたさがあり(親がいろいろ言いますから)、中身がわからなくなるという恐怖感もあって “勉強をしなくては”という思いはあったのです。そこに降ってわいたような「オンライン学習」――これがぴったりはまる子も少なくありませんでした。

 ニュース・ウォッチ9では、教師の側にも手ごたえがあったという話をしていて、それはそうでしょう、夜討ち朝駆け、あらゆる手段をつかってなんとか登校や学習に向かわせようとしてきた不登校の子が、いともあっさりと食いついて勉強を始めるわけですから張り切らざるを得ません。
 そこで学校が再開されても、教科担任の先生たちが空き時間を使って不登校の子たちの「オンライン学習」を続けている――と、
 ここで私の意識は固まります。
「それは困る」

 

【先生たちの空き時間は休み時間ではなく、最も忙しい時間】

 空き時間は先生たちがコーヒーを飲んだりおしゃべりをしたりしてゆっくり過ごす休み時間ではありません。教科担任をしている数クラス分の宿題を確認して自分の学級担任する児童生徒の日記を流し読みして返事を書き、次の授業の準備をする――仕事量だけで考えれば教室で授業をしていた方が楽なくらいです。

 それを潰して不登校の子のためのオンライン学習をしなければならないとなると、宿題確認や日記への対応は授業の合間ごとの短い休み時間、給食の配膳下膳の時間、場合によっては給食を食べながら行うしかならなくなります。

 かつて不登校の子が学校に来て、ひとり、空き部屋で勉強していた時代も、教科担任は自分の空き時間を利用してその子の学習を見ていたのですから昔に戻っただけ、という考え方もできます。しかし当時と比べれば基礎的な仕事が膨大に増えていますから、同じようにというわけにはいきません。
 空き時間の「オンライン学習」は大変な負担になります。とてもではありませんが長続きするものではない。しかしそうは言っても不登校の子どもの学習も保障してやりたい――と、ここで私はとんでもなく素晴らしい方法を思いつくのです。

(この稿、続く)

 

「記憶力と地頭(じあたま)、落ちてくる啓示」~天才の脳と人生②

 天才の脳には形状や大きさに特徴でもあるのだろうか?
 そもそも天才というのは何なのだろう?
 私たちは天才とどうかかわっていくのか?
 天才たちは幸せなのだろうか?
 といったもろもろが浮かぶ――。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200617064241j:plain(「AI スピード」フォトACより)

【脳の重さと天才】

 フランスのノーベル文学賞受賞者アナトール・フランス(1844-1924)について、私が知っていることはひとつしかありません。
 死後、計ったら脳の重さが1017gしかなかったというのです。このことから頭の良さと脳の大きさ(容積・重さ)は関係がないと言われています。平均的な男性の脳が1350~1500gですから確かに軽いと言えば軽い。しかし80歳で亡くなった人の脳が軽かったからといって、若いころからそうであったかどうかは不明です。

 同様にアインシュタインの脳も1230gでかなり軽い方ですが、右脳と左脳の形に大きな隔たりがあり、しかも普通の人は三つの隆起からできている前頭葉が、彼の場合は四つあったと言いますからかなり特殊な脳だったのでしょう。
 ちなみにアインシュタインの業績のほとんどは20代半ばでなされていますから、76歳で亡くなったときの脳が軽めだったとしても、どこまで意味のあることなのかは分かりません。

 逆に“やはり頭の良い人は脳も重い”と思わせる情報もあって、ナポレオン三世が1500g、カントが1650g、ビスマルク1807g、ツルゲーネフ2012gなどが有名なところです。日本では夏目漱石が1425g、内村鑑三が1470g、桂太郎1600g。今の水準だと大したことはないみたいですが、それぞれの時代の平均よりはかなり重かったようです。

 ただし重ければいいというものではないのはゾウの4700g、マッコウクジラの9000gを考えてみれば分かります。あれだけ大きな体を動かすとなると、脳の基幹部分だけでもかなりの量になってしまうのでしょう。
 とりあえず、脳の重さや容積、形状から頭の良し悪しを割り出すのはかなり難しそうです。
 
 

【記憶力と地頭(じあたま)、落ちてくる啓示】

 では頭の良い悪いは何によって決まるのかというと、そもそも「頭がいい」ということ自体が定義しきれないので厄介です。

 記憶力は「頭の良さ」の一部ではありますが、それだけでは足りないことは誰しも知るところ。しかしコンピュータに匹敵するような記憶力を持つ人がいたとしたら、それはやはり頭がいいということに違いありません。

 初期コンピュータの開発者のひとりフォン・ノイマンは生涯に読んだ本をすべて全文暗記していたと言いますし、日本では俳優の児玉清博多華丸が「パネルクイズ アタック25」の物まねで逆に有名にした)が、渡された台本をその場で頭にコピーすることができたと言われています。
 私の教え子でものちに医学部に進んだ女生徒のひとりは、数学がいまひとつで、結局、浪人してからは膨大な過去問を暗記することで受験を凌いだみたいです。

 医学部の話が出たところでついでに申し上げますが、医学部や東京大学に受かることは誰にでもできることではありません。
(もちろん医学部・東大は象徴的に言っていることで、他にも努力だけでは受からない大学・学部はかなりあります)

 息子のアキュラが3歳になったばかりのころ、当時通っていた大学院で私の師匠に当たる人が、息子を自分に預けろと言い出したことがあります。オレに任せれば必ず東大に入れてやるというのです。私は眉に唾をつけて聞いていたのですが、滔々と独自の学習法について話を始め、最後に突然、言葉を止めて、
「あ、だけど知能指数が130以上なければダメだぜ」
――そうでしょう、そうでしょうと、私は半分笑いながら頷きます。
 地頭(じあたま)が良くなければどんなに努力しても入れる大学ではないのです。知能指数130以上というのは印象で言えば小学校4年生(10歳)の時に平均的な中学1年生(13歳)と対等の学習ができる能力です。

 努力だけでは100mを9秒台で走るわけにはいかないように、努力だけでは医学部や東京大学に入ることはできないのです。天才や天才的な人たちの頭の中では、特別なことが起こっているからです。

 アインシュタインの頭の中には数式がドカッと一気に降って来たようです。それを後から解析するのが彼の仕事でした。
 エジソンの頭にも発明のアイデアがドサッと落ちてきたようです。あまりにも多くのアイデアが落ちてくるのでさすがのエジソンも不審に思い、自分は神の啓示を受ける受信機のような存在ではないかと疑い始めます。彼はそれをインスピレーション(inspiration)とかスピリット(spirit)と呼んでいます。
 有名なエジソンの言葉、
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」
は、要するに「努力をするなんて当たり前、『神の啓示』がなければ話にならない」という意味です。

 

 【天才でもなく、天才の近くにもいなかった人生】

 天才と呼ばれる人々は、この世に一握りしかいません。
 医学部や東大に入れる人たちは「天才的」であるかもしれませんが必ずしも「天才」であるわけではありません。地方の進学校の、さらに上澄み数%の“とんでもなく頭のいいヤツ”も東大に入ってしまえばほとんどは「普通の東大生」です。

 私たちはめったに「天才」と会うことはありませんし、よほどの悪運でもない限り「天才」と同じステージで競うことはありません。映画「アマデウス」の一方の主人公、アントニオ・サリエリは天才モーツァルトと同じ場所で競うことになった不幸な人物として描かれていましたが、普通はそういうことはないのです。

 また、天才であることは必ずしも幸福を保証しません。
 モーツァルトは少なくとも金銭的には人格破綻者でしたし、二十歳で「ガロアの定理」を完成させて翌日つまらぬ決闘で殺されたエヴァリスト・ガロアの業績は、正しく評価されるのに50年もかかってしまいました。
 ヴァン・ゴッホが生前に売ることのできた作品は1枚だけ(数枚という説もある)で、生涯、貧乏と精神の問題に悩まされました。
 ムンク草間彌生も、脳内で渦巻いているその特殊な精神世界を絵画に落とせる人です。彼らの作品には激しく憧れますが、ただし同じ人生を歩みたいとは思いません。

 若いころは自分も天才の端くれではないかと疑っていた私も、さすがに60年以上も発現しない天才はないと思いきるほかありません。凡才に生まれ、凡才のまま終わる人生です。

 けれど私にはよき仕事をしたという自負があり、わずかとはいえ老後の資金は残り、息子と娘と孫がいます。そして平穏な日々――。
 いつ死んでも“ああ、いい一生だった”と振り返ることのできる人生、それがあるならそれでいいと、今はそんなふうに感じています。