カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「4年越しの産声」~シーナ、レインボーママ(二児の母)になる2

 計画出産だったはずが緊急出産に
 無痛分娩の予定が自然分娩に
 さらに「経産婦で安産」の期待まで裏切られ
 シーナは12時間半の陣痛に苦しむことになった
 しかし――

というお話。

f:id:kite-cafe:20190618061901j:plain(写真はイメージ。本人ではありません)

 

【2度目なのに時間がかかる】

 さっぱり連絡のなかったシーナから「絶賛、陣痛中!」のメッセージが入ったあと妻からも連絡があり、そこでひとしきりブー垂れると、その後、定期的に連絡が入るようになりました。しかし、
「今、お医者さんが来て子宮口4cm。まだまだ」
とか、
「子宮口6cm、今夜までかかりそう」
とかいった事務口調で、分かることは分かるが気持ちがない。

 子宮口が何cmになったら出産なのかも分からないので、指で6cmくらいの幅を取ってみたらとてもではありませんが子どもの頭の出てくる大きさではありません。

 そして午後1時の「子宮口7cm。明日になりそう。シーナ絶望しています」を最後にまた音信不通。妻のスマホは再び発信専用機に戻ったみたいで私の問いかけにも答えません。
 昔と同じ「現場に行かなければ分からない」状態に陥ったのです。


 

【福男動く】

 私は自分自身を福男だと思っているところがあります。
 福男というのは本人に福が訪れるというより、他人に福をもたらす側面が強いものです。妊婦に対して具体的には何の役にも立たない私ですが、福を運ぶのは大事な仕事。そこで急いで支度をし、1時間以上かかる病院へと急ぎました。

 産婦人科の前で小一時間魔法をかけ(念力を広げた)、ちょうど出てきた妻から様子を聞くと会えそうだというのでシーナの顔を見て、特に何をするというでもなくまた1時間以上をかけて戻ってきます。
 シーナはLINEどころではなく、妻もお腹をさする忙しいのでもう連絡が来るのは諦めて、静かにその時の来るの待つことにしました。

 そうこうするうちにハーヴのお迎えの時間が近づき、準備をし始めるとそこに妻からのメッセージ。
「子宮口9cmしかないけど、赤ん坊の頭が出てきたので分娩室に入ります。しばらく連絡できません」
 その“9cmだけど頭が出てきた”という状況はまったく想像できないのですが、とにかく「絶賛、陣痛中!」が「大絶賛、陣痛中!」になっていることは分かります。

「『しばらく連絡できません』と言ったって、それまでだって連絡してないじゃないか」といった悪態は飲み込んで、耐えることにしました。

 そこから30分後、
「どうなった?」
とメッセージを送るもやはり返事はなく、しばらく待って家を出る前に再び、
「今、どんな状況?」
 さらに保育園の門の前で、
「まだかな?」

 いったん保育園に入ってしまうとこちらもしばらく連絡できませんから門前で降園時刻ぎりぎりまで待ち、“もう限界”となって門扉に手を掛けようとしたころ、ようやく妻からのメッセージ。
「産まれた! オギャーという元気な産声!」
 不覚にも涙が落ちそうになりました。

 元気に産まれることを疑っていたわけではありません。
 「オギャーという元気な産声」が、実に4年越しで待っていたものであることに、その時初めて気づいたからです。

 

【4年越しの産声】

 長男のハーヴの生まれた時の状況は、かなり悲惨のものでした。その時の様子を分娩室のカーテンのこちら側で聞いていた私はこんなふうに記録しています。

 長男のハーヴの生まれた時の状況は、かなり悲惨のものでした。その時の様子を分娩室のカーテンのこちら側で聞いていた私はこんなふうに記録しています。

「ああ、出ました。おめでとうございます」
の声が何人からか上がります。しかしそのあとの声がない。赤ん坊の泣き声がない。医師や看護師の声がない。何かこそこそと話す声が聞こえ、「〜呼びましょう」という話が出て、電話で何かを相談する聞き取れない言葉が続きます。

 2〜3分後、私の背後からヒタヒタとスリッパの音がして、ずんぐりとした白衣の男性が横を通り、カーテンを回り込んで分娩室に入っていきます。そこから何かのやり取りがあって、やがて女性たちの“アー”という歓声とも安堵ともつかない声が上がります。

「おめでとうございます。ほら、小さいけど、声、聞こえるでしょ」
 最初の「おめでとうございます」の瞬間に時計を見ました。それが出生時刻だからです。そして第2の「おめでとうございます」のときも時計を見ました。ほぼきっかり5分です。その間なにがあったのか、カーテンのこちら側の私には分からないことです。

kite-cafe.hatenablog.com

  私が席をはずした30分ほどの間に医師が来て、簡単な説明をしていったらしいのです。中軽度新生児仮死だったと。感染症もありそうなのでしばらく保育器の中で過ごさなければならないと。
 シーナの出産の状況は、私が耳で聞いていたよりもずっと大変なことだったのかもしれません。
(中略)
 赤ん坊が生まれたら枕元に並べてピースをして記念写真を撮る、それしか考えていなかったシーナにとって、それは朦朧とした視界の中で、全身紫色のぐったりした赤ん坊があっという間に連れ去られる恐ろしい事件でした。あまりにもあっけなく、むしろとらえどころのないような事実です。
 “死産”という言葉が真っ先に浮かんだ妻にとって、それは絶望と怒りの瞬間だったようです。
「息してないじゃない! なんでみんな何もしてくれないの!」
 あまり凄惨さに、私もそれ以上は聞いていません。

 赤ん坊が連れ出されてのちの長い長い時間を、静まり返った分娩室の中でシーナとその母親がどんな時を過ごしていたのか、私には知る由もありません。しかし想像するだにやりきれない話です。

 同じ時間を、私は新生児室のガラス窓に顔を寄せて、保育器の中でどんどん肌の色を良くし、元気に手足を動かす赤ん坊の姿を無邪気に眺めていました。

kite-cafe.hatenablog.com

 ハーヴの保育園の門扉の前で私が思わず涙を落としかけたのは、娘のシーナがどんな思いでその声を聞いたのか、手に取るようにわかったからです。

「あの子、きっと泣いたな」
と私は思います。
 ボロボロと涙を流しながら、新しく生まれた命を枕元に置いてもらってピースをして写真に収めたに違いない。4年前にかなわなかったことが、いま実現したのだ――。そう思ったら涙が落ちそうになったのです。

 しかし気を取り直してメッセージを返します。
「それで、シーナの方は大丈夫なの?」
 これに対する返事は、既読がついたにも関わらず同じ質問を何回も繰り返しているにもかかわらず、その後1時間半にわたって返ってきませんでした。
 他にやることがあったみたいです。
 をい!


                      (この稿、続く)

学校がはっきり言わない「箸の持ち方を直した方がいい」ほんとうの理由

f:id:kite-cafe:20190720140622j:plain

 「お箸の持ち方がおかしい。お嫁にいけないよ」
 などと簡単に言わず
 親はきちんと説明しなくちゃいけないかもな
 言わずもがなのことも言わないと 親は分かってくれない
 何でもかんでも説明するのが これからの学校だかもしれない 

というお話。

------------------------------------

 更新しました。

「キース・アウト」
         
2019.06.17
「お箸の持ち方がおかしい。お嫁にいけないよ」
 娘への言葉に母が反論


               [BuzzFeed Japan 6月17日]

 PC版 →http://www5a.biglobe.ne.jp/~superT/kiethout2019/kieth1906b.htm#i2

 スマホ版→https://kieth-out.hatenablog.jp/entry/2019/06/17/145400

------------------------------------

「絶賛、陣痛中!」~シーナ、レインボーママ(にじの母)になる1 

 当てごととフンドシは先から外れる
 無痛の計画出産だったはずのシーナの分娩は
 赤ちゃんの都合で突然変更され
 深夜の救急搬送となった
 その運命やいかに

というお話。

f:id:kite-cafe:20190617071540j:plain(写真はイメージ。本人ではありません)

 

【どんなお産も100%安全ではない】

 無痛分娩で産むらしいと話したら、同じく娘を持つ私の弟が、
「なんでそんなことを許したんだ」
と驚きます。

 別に許した覚えはなく許せる立場にもないのですが、弟の気持ちも分からないではありません。
 子は陣痛に耐えて産むものだと古いことを言うつもりはありませんが、脊髄に麻酔を打つと聞いただけで昔の人間は震えるのです。

 そんな危険なことをしなくても赤ん坊は生まれる、少なくともシーナは経産婦だから自然分娩でも驚くほどあっさりと産んでしまうかもしれない。それを敢えて麻酔に頼る必要もないだろう――もちろんそういう気持ちはあります。

 ただ、長男のハーヴを産んだ時のこと(2015/9/14「いのちのこと」1〜シーナは幸福とともにある以下参照のこと)を考えると、出産に対するシーナの怯えは理解できますし、無痛分娩自体は欧米では常識の世界に入っており、メーガン妃が出産のが翌日には赤ん坊を抱いて外に出て来れたのも、おそらく出産による体力消耗がほとんどなかったからでしょう。

 ハーヴを産んだ時のシーナは総計60数時間もかかった出産のために心身ともにボロボロで、立って歩く気力もありませんでした。おまけに生まれた赤ん坊は全身紫色で息をしておらず、新生児科の医師の蘇生術によってようやく息を吹き返すという際どい状況で、それを考えると自然分娩で産むのと無痛分娩で計画出産(陣痛が始まらなくても日時を決めて産ませてしまう)するのとでは、どちらが危険なのかは分かりません。

 テレビドラマの「コウノドリ」で主人公の医師が言うように、
 どんなお産も100%安全ではありません。赤ちゃんを産むということは誰にとっても命がけなんです
ということなのでしょう。

 ですから私はシーナの決心を尊重しようと思いました。どちらに決めても安全ということがないなら、自身の決断が一番です。

 ところが人生は思うに任せない。
 気軽にものごとを決める娘ではありませんからおそらくものすごく悩んで決めただろう無痛分娩が、いとも簡単にキャンセルされてしまうのです。
 私はときどき神様の差配が分からなくなる時があります。
 
 

【シーナ、危機に際して素早く気持ちを切り替える】

 シーナから「破水したかもしれない」と電話が入ったのは先月末の水曜日、9時過ぎのことでした。実はその日の午前中、シーナは無痛分娩を行うはずだった病院で日取りを決めて、私たちに知らせてきたばかりでした。
 それが一転して破水となり、かかりつけの病院から救急車で大学病院へ搬送され、落ち着いたのが深夜の0時過ぎ。
 一緒に移動していた婿のエージュと息子のハーヴはそこからタクシーで自宅に戻り、床に就いたのが1時半ごろだったと言います。

 私たちも迷ったのですが、深夜に東京に向かってもできることはほとんどなさそうでかえって迷惑かもしれないと考え、とりあえず朝一番の電車で私だけが行くことになりました。
 シーナのことは病院に任せるしかないのですが、小学校教員の婿のエージュは三日後に運動会を控えてとても休める状況になく、ハーヴの保育園への送り迎えや日常のことは誰かが代わってやらねばなりません。4人のジジババのうち職業を持っていないのは私だけですので、私が動くのが一番いいのです。

 病院につくとシーナは驚くほど落ち着いていました。計画がとん挫したことについてはすぐに気持ちを切り替えることができたようです。
 破水が何だかは知っていますが、それがどういう事態を引き起こすのか、この先どうなっていくのについてはまったく知識がないので聞くと、
1 完全破水をしてしまうと通常は1日か二日で陣痛が起こり、出産に至る。
2 稀に長引くこともあるが、その場合はできるだけ長くお腹に留めておく方向で考える。
3 ただし感染症などがあった場合は早める。
というようなことでした。
 
 とりあえず元気そうですし男の私がいても何の役にも立ちそうでなかったので、その日は家事の細々とした指示を受けて家に戻ることにしました。その夜の最後の連絡でも、出産の気配はないようです。
 

【絶賛、陣痛中!】

 翌、金曜日。
 超仕事人間で休日に出勤することはあっても勤務日に休むことのない妻が、異例の年休をとって車で駆け付けます。歳をとっても2時間~3時間のドライブをまったく苦にしない人です(だから心配)。

 私はハーブの世話や何かで忙しいので、妻だけが車を置いて電車・バスを乗り継いで病院へ。陣痛が始まっているとしたら私が行ってもシーナが喜ばないことは前の経験から知っていましたし、あちらにいるよりこちらに残る方が役に立ちそうです。
 今は昔と違ってLINEという便利なツールがあるので、それでやり取りすればわざわざ現場で待つ必要もありません。

 ところが、頼みの綱のLINEがさっぱり働かない。既読がつかない。
 ケータイを送信専用機だと信じて自分が必要な時にしか開かない妻はまだしも、受信機の機能もあるからと時々チェックするシーナの機器が開かれていないというのはかなり不安です。

 ほとんど30分おきに「おーい」と呼び掛けても(何してるんだ私は?)一向に返事がない。妻が出発して4時間余りもたった11時ごろ、さすがに心配に耐えきれなくなって病院に向かおうと用意をしかけたとき、ようやくシーナからが返事が来ます。

「絶賛、陣痛中!」


 ナ、ナンダ? 絶賛、陣痛中って?
 

「放っておいたら良い子が育った」という話は、すべからくまやかしだ

 親はなくとも子は育つ
 下手にいじれば悪くなる
 その子の望むように 好きなようにさせなさい
 そうすれば 放っておいてもいい子が育つ
 ――そんな言葉にゆめゆめ騙されてはいけない
 そこにはさまざまな仕掛けがあるのだから

というお話。

------------------------------------

 更新しました。

「キース・アウト」

2019.06.16
「1人でできる子」は、テキトーに育てられている
                   [東洋経済オンライン 6月16日]

 PC版 
www5a.biglobe.ne.jp スマホ
kieth-out.hatenablog.jp
------------------------------------

 
 

「あの人たちに恥という概念はないのか」~電車で出会った傍若無人な親子の話2

 電車の中で出会った傍若無人な親子
 あそこまで凄いとむしろ清々しい
 どうしてあんな人たちができあがってしまったのか
 あの人たちに恥という概念はないのか
 少し考えてみることにした

というお話。

f:id:kite-cafe:20190614072208j:plain(メアリー・カサット 「青い肘掛け椅子の上の少女」)

【あの人たちに恥という概念はないのか】

 東京から戻るローカル特急の車内で騒がしく歩き回る5歳と3歳くらいの姉妹、それをまったく注意しない母親と半ば一緒に遊んでいる父親。まるで絵に描いたような傍若無人一家を目の当たりにして、いかにも年長者らしく、
「最近の若い者は――」
と一席ぶってブログ記事にするのも“あり”だったのかもしれません。しかしあの家族に代表させたらあまりにも若者たちが気の毒です。
 あれはあれで例外でしょう。

 しかしその例外がいかにしてできあがったのか、なぜ何年も放置されてきたのか――世の中には似たような話がたくさんありますから、それを考えておくのも一興かもしれません。

 あの人たちに“恥”という概念はないのか、という問題です。

 

【もうすでに手のつけられない段階だという場合】

 ひとつの可能性は、恥という概念はあってももう手の施しようがないといった場合です。

 例えば中学生のくせに髪を染めて制服を着崩し、歩き食いをしながらくだらない話に興じて高笑いをしている男女をみたら、少なからぬ人々が「親は注意しないのかしら」といった感想を持つに違いありません。
 しかし子どもたちが人目も憚らず繁華街を異形で闊歩できるようなら、そのころはもう親の指導などまったく入らなくなっているのが普通です。
 親の言うことは素直にきけたり親の気持ちを慮って何かを抑えられるようなら、そんなかっこうにはなっていません。

 これは4~5歳児でも同じで、子どもの自由な活動を押さえるとパニックになって、1時間以上も泣いたりわめいたりしてまったく手の打ちようがないといった場合だと、親も半ば見て見ぬふりをせざるを得ないのです。下手に手を出せば余計に迷惑をかける。

 生まれながら三分の一の子は育てやすく、三分の一の子は育てにくい。残りの三分の一はどちらとも言えないと聞いたことがあります。
 数字的には根拠の薄い気もしますが、育てにくい子がいるのは確かで、癇癪持ちの子、危険を危険とも思わずやってしまう子、最初から聞き分けのない頑固な子、というのは確実にいます。

 逆に、最初から困難が少なく育てやすく、親に楽をさせる子というのもいて、私の孫のハーヴなどはその典型です。シーナも婿のエージュも認めていますが、躾が良かったというより乳児のころから躾のしやすい子だったのです。

 ですから少しぐらい“悪い子”がいて、手の付けられないことがあっても大目に見てやりたいところですが、そうした状況でも普通の親は周囲の目を気にして、多少は指導するふりくらいはするものです。

 私が出会った女の子の父親が、指を唇に当てて制止して見せたのはその範疇に入りますが、それにしても手立てが少ない。
 いま話している可能性とは少し違うような気もします。


【そもそも本格的に躾ける気がない場合】

 続いて考えられる可能性は、そもそも躾けることに不熱心な例――最初からかなり甘い指導しかしない場合です。
 ただしすべてが非難されるべきではなく、理解できる例もあります。

 例えば重篤な病気を持った子の中に、ときどき耐えがたいほどに身勝手でわがままな子がいたりします。小さなころから治療以外に“我慢する”学習をしてこなかった子たちです。私はその親を責める気になりません。

 躾の一部は本質的に“大人になった時に円滑な人間関係が送れるように”という願いから行われるもので、“今”を生きることに精一杯の子に躾が十分になされなかったとしても、それは無理なからぬことだと思うからです。
 喘息の咳でのたうち回っている子に、それでもすべきことをしなさいと言える冷血を、親たちに求めることはできません。

 子どもの病気の大部分は運命的に背負わされたもので、大人のように不摂生が祟ってといったものではありません。もともと本人が背負うべきものではなかったものです。その子が背負ってくれなければウチの子が背負っていたかもしれない困難です。

 そう考えると、背負えるものなら一部だけでも、その子の困難を私たちも背負わなくてはなりません。電車の中で騒ぐくらい何ほどのことでしょう。
 発達障害の子も知的障害の子も、その他さまざまな問題を抱える子も、一緒に支えていきましょう。

 しかしそうしたやむをえない事情ではなく、積極的に躾を拒否する立場もあります。先日お話した“10歳の不登校Youtuber「少年革命家ゆたぽん」くん”のお父さんあたりは近いのかもしれませんが、子どもの自由な発想・自由な行動を何よりも大切にする人たちです。

 そんな極端な自由主義子育ての行方については、これといった資料がないので分かりませんが、少なくとも私の知る限り望ましい成長があったという話は聞きません。

 もう40年以上前の話ですが、独特の子育て論で一世を風靡した漫才師の横山やすしさんや歌手のマイク真木さん、そのお子さんたちはすでに中年の域に達していますが、どんなふうにお育ちでしょう。以来芸能人は、むやみに子育てを語ったりしなくなっています。

【能力がないという場合】

 そして三番目の可能性が、“能力がない”というものです。

 私の出会った親子の足元で、早い段階でぶちまけてしまった物販のカタログはいつまでも散らかったままでした。終点で降りる間際に拾われて、元の網に戻されますが(長く床に置かれていたものを元に戻すこと自体が大問題ですが)、最後の一枚は座席の下に落ちたままでした。
 自分の家族が散らかしたものがそのままになっていることに、まったく抵抗感がないようなのです。

 子どもはまだしも、親の方はその年齢になるまで積んできた経験知というものがあるはずです。しかしそれをもってしても分からないことは分からない。
 公共の場で騒いではいけないことは分かっていても、どの程度だと“騒いでいる”ことになるのか、程度が分からないのかもしれません。分からい以上、ほんとうは誰かが教えてあげるべきなのでしょうね。

【なぜ騒いではいけないのか教えてあげよう】

 列車の中で騒いではいけないのは、本人が危険だということを除けば、人に当たったり物にぶつかったりしてケガをさせたり物を壊したりする可能性があるからです。
 それ以上に重要なのは、車内では、ある人は仕事をし、ある人は読書をし、ある人は勉強をしているということです。その人たちに集中を妨げる権利は、誰にもありません。

 列車の中にはさまざまな状況・立場の人がいます。それは外からは見えないことです。
 ある人は大切な会議に間に合わないと、ジリジリ焦る気持ちに胃を痛くしているのかもしれません。別のある人は大切な人の死の床に急いでいるのかもしれません。
 家族の葬儀の帰りという人もいるでしょう。はるばる東京まで行ってそこで別れ話をしてきたばかり、という人もいるかもしれません。
 2時間という乗車の時間を、ただ、ただ、声を上げて泣かないように耐えている人だっているのかもしれないのです。

 そんな想像力が働けば列車の中で騒ぐなどといったことはあり得ず、家族が騒ぐようならなんとしても抑えたいと思うでことしょう。
 それをしない以上、あの夫婦にはそもそも想像力というものが欠けていたのかもしれません。

【この子たちがつらいな――躾ができていないとイジメられるよ】

 他にどんな可能性が考えられるでしょうか? 今の私にはちょっと思いつきません。

 ただ言えることは、その場で乗客の誰かが怒ったとしても、あるいは車掌に通報して注意してもらったにしても、根本的な解決にはならないということです。
 
 幸い私は前の職業柄、子どもたちの騒ぐ声は平気ですし、「まったく躾のできていない子たち」を見てやろうといった下心もあったので放置しましたが、怒っても注意してもその場を静かにさせる程度のことしかできなかったことは確実です。

 小学校にあがったらこの子たちは苦労するだろうなと私は思いました。
 こんなに自分を押さえられないようでは、45分間の授業を黙って聞くなんてとてもできそうにありません。その45分が一日何回も、一年間に一千回ほどもあるのです。
 もちろん先生たちはそんな子でもある程度はきちんとしてくれますが、頭の中までは管理できません。

 45分間をちゃんと集中できないようでは成績も上がりません。勉強なんてできなくてもいいのですが、度を越してできないようだとやはり苦しい。そしてあまりにも苦しいようだと学校から逃げ出さざるを得なくなります。不登校もあれば非行もあります。

 また、ここまで人の迷惑を考えることができないようでは、あっという間にいじめの対象になってしまいます。少なくとも当座は迷惑を掛けられた方に正義がありますから、やり方も容赦なくなるでしょう。

 参観日などに教室に行けば、親も切ないだろうな、と思います。
 列車の中にいるのは通りすがりばかりで二度と会う可能性はありませんが、教室にいるのはご近所のお子さんばかりで、自分の子が迷惑を被っているとしたら親の目もきつくなります。その目で、家にいるときも見られているのです。

 先生も大変ですが、担任なんて2~3年も我慢すれば“ただの通りすがり”のようにどこかへ消えてしまいますから、やはりほんとうに辛いのは親とその子自身です。延々と苦しい。

 先ほど、その場で注意しても根本的な解決にならないと言いましたが、やはり何かしておくべきだったのかもしれないと今になって思います。

 子どもを注意するのではなく、その親の横に席を移し、とくと小一時間、膝を突き合わせて、まずどうして指導しないのかを訊ね、このまま成長するとどうなるかを伝え、一緒に心配し、一緒に解決の方向を探る、その程度の時間と知恵はあったのになあと――。

 まあ、やりっこないですがね。

                        (この稿、終了)

「まったく躾のできていない子とその親たち」~電車で出会った傍若無人親子の話 1

 地元に残してきた仕事もあって
 あわただしく東京を離れた電車の中で
 しばしばマスコミやネットで評判になる
 「まったく躾のできていない子」たちに会った
 まるで絵に描いたような典型で むしろ嬉しくなった
というお話。f:id:kite-cafe:20190613073641j:plainエドゥアール・マネ 「鉄道」)
 

【まったく躾のできていない子たち】

 娘のシーナが退院して8日目、シーナより一週間余計に入院していた赤ん坊が退院して2日目、ようやく休みの取れた婿の母親、つまりシーナにとっては姑に当たる人が上京し、私と代わることになりました。やはり日常の世話となると女性の方が役に立ちます。

 その金曜日の午後は私にも懸案の仕事があって、お昼過ぎの列車に慌てて飛び乗ったのですが、そこで長年見たいと思っていたものにようやく出会うことができました。
 電車の中で騒ぐ「まったく躾のできていない子たち」です。

 元教員で小学校経験もありますから何千人もの子どもと付き合ってきたわけですが、学校でそうした子を見ることはまずありません。

 学校というのはあっという間に子どもをきちんとさせてしまうところです。一部からは「型にはめる」とすこぶる評判が悪いのですが、先生たちは子どもを、小学校の場合は「児童」、中高では「生徒」という型にはめないと何も始まらないと信じているのです。「児童」「生徒」はいずれも「学ぶ主体としての子ども」という意味で、とりあえず席に座っている、人の話を聞く、言われたらやってみるといった程度のことですが、そうした型にはめないと教育はまったくできないと教員は固く思っているのです(反論があればお聞かせください)。

 もちろんそれは教師の力だけでできることではなく、「がんばりなさい」「一生懸命やるのよ」「先生や友だちに迷惑を掛けてはいけません」などと両親や祖父母に言われて教室にやってくる児童生徒の、集団としての力によって果たされるものです。

 ですから「まったく躾のできていない」ように見える子どもは校内にはほとんどいません。いるとしたら学校の集団力の効かない場、例えば家の中とか街の中、児童公園やお店、列車の中などが考えられます。
 特に閉鎖的で一定時間おなじ空間を共有せざるを得ないレストランや列車の中での子どもの悪しき振る舞いは、しばしばマスコミやネットで評判になります。

 しかしそうした話を聞いてもなかなか出会わないので、もちろん荒唐無稽とも思わないのですがなんとなくイメージがわかず、一度見てみたいものだと密かに期待していたのです。そしてこの年齢になって初めて、期待通りの、だれが見たって眉をしかめる、立派な、「まったく躾のできていない子」とその親に出会えたのです。

  

【完璧な家族の行状】

 週日のお昼に出るローカル特急ですので乗客は少なく、座席は全体の3割程度が埋まっているだけでした。私は後ろから三列目の左の窓際にひとりで座っていましたが、これからお話する家族は同じ列の右側2席にとりあえず席を取りました。

 30代前半と思われる軽装の夫婦と、子どもは上が5歳、下が3歳くらいのフリフリワンピースの女の子です。下の子は乗車のときから眠たそうで、窓辺に座った母親の膝の上ですぐに眠ってしまいました。まずうるさかったのは上の子です。

 入って来るや否や「なんか食べたいの、おなか空いた」から始まり、父親がバッグから出したポッキーを手に、食べてはしゃべり、しゃべっては食べるのです。しかも父親の膝の上に乗ったり下りたり、一列前の空いた席に座ったりまた戻ったり。

 他に食べ物はないのかと言い、やっぱ飲み物も買っておけばよかったとぼやき、前の座席の背もたれに差してある物販のカタログを丸ごと引き出しては一枚一枚床に捨てていったり、挙句の果てには通路でくるくると回りながら踊ってみたり、
「パパ、パパ。パパも踊ってみて、ホラ、こんなふうに回るの」
 そういって父親の手を引いて立たせようとしたり、叩いたり。

 “パパ”は「ダメだよそんなこと、踊るなんてできないって・・・」と、基本的にやめさせるべきところを自分がやりたくない旨を訴えて別の空いた席に避難し、そこで娘にのしかかられて「やめろよ、やめろって」とか言って戯れています。

 あとから考えるとその逐一を記録しておけばよかったのですが、まさかそんなことが2時間も続くとは思いませんから、うかつにも書き残しておく(もしくは録音しておく)ことは思いつきもしませんでした。

 もちろん私という存在がありながらずっと近くの席で騒いでいたわけではなく、時々父子でフッといなくなり、しばらくたって戻ってきたのはデッキで遊んでいたか他の車両の探検にでも出かけていたのでしょう。
 その間、母親の方は下の子にかかりっきりで何もしません。

 やがて下の子も目覚めてそれからは二人で大騒ぎです。通路を端から端までにぎやかに歩いてみたり歌を歌ったり・・・そうするあいだ母親は、今度はスマホで何かをするに忙しく家族に声を掛けることもしません。

 父親は二人の子どもが手元からいなくなってホッとしたのか、しばらくはほったらかしだったみたいですが(というのはそのころには父親は私の背後の席に移っていて様子が分からなかったのです)、子どもたちがあまりにも元気よく歩き回るので、立って近くまで行き、指を唇に当てて「静かにしなさい」と指示したりします。
 なぜ口で注意しないのか、なぜ腕を引っ張ってでも近くに連れて来ないのか、まったく理解できません。

 そのうち通路を元気よく行進してきた上の子が、列車の揺れに体を飛ばされて、私のところに倒れ込んできたのです。そして脇に立てておいた私のスーツケースを倒し、上に乗せておいたスマートフォンを床に飛ばします。

 こうなるとさすがに父親は立ち上がり、後ろから覗き込んで「すみません」と言いますが、私は返事もしないで女の子を思いっきり厳しい視線で睨みつけました。
 普通の小学生だったら半べそをかくくらいの状況です。私の顔は怒らなくてもそのくらい怖い造りになっています。

 ところが女の子は怯えもせず、無表情でしばらく睨まれるままになっていましたが、それからすっと視線を外すとそのままデッキの方へ歩いて行ってしまいました。

 ここで、「パパァ、このお爺さん変な顔をしている」くらいのことを言ってくれたらブログネタとしてはかなり面白かったのですが、残念ながらそうはなりません。
 私はかつて威力を発揮した自分の「怖い顔」が何の役にも立たなかったことに少々傷ついていました。

 さて、この絵にかいたような完璧な傍若無人親子――これを私はどう解釈したらよいのでしょうか?
 あの人たちに恥という概念はないのでしょうか?

 そのとき、改めてじっくりと考えてみようという気になったのです。

                           (この稿 続く)

「ボクは生き方を決めた」~孫のハーヴに見る4歳児の成長 3

 両親の一方または両方が突然いなくなっても
 平気でいられるのは何歳までだろう
 父親が入院したときも 母親がお産でいなくなっても
 間もなく4歳になるハーヴは平然と日常を過ごした
 そこになにがあったのか

というお話。

f:id:kite-cafe:20190612075331j:plain(エーロ・ヤルネフェルト 「画家の息子の肖像」)

 

【父親が入院中のハーヴ】

 父親が入院していあいだ、ハーヴは何も変わらない様子で普通に生活しました。
 しかし普通でない状況を普通に過ごすということは、考えてみるとむしろ異常なことです。
 池袋のプラレール博は本来なら両親とともに行くところです。

kite-cafe.hatenablog.com  私はハーヴにとって、両親と保育園の先生に次ぐナンバー6くらいの大人だと思うのですが、そのジジと一緒でも普段と変わらないというのはやはり、4歳には近いとはいえ、3歳児の認識力というのはその程度のものかもしれないとも思うのです。

 2歳のころのハーヴ、そして2歳のころのシーナやアキュラを思い出すと誘拐されて知らぬ人に育てられても、きちんとした養育さえ受けられれば問題なく成長するのは確実でしょう。

 私自身の最も幼いころの記憶は就学前の5~6歳のころのもので、かなり多くの思い出がありますから、その年齢には相当しっかりとした認識力があるはずです。誘拐されてよその家に来たというようなことがあれば、まず確実に覚えているはずです。

 では間に挟まれた3歳~4歳はどうでしょう。

 親が代わる、生活環境がガラッと変わるといった大きな変化だと、もしかしたら強い印象として残ることもあるのかもしれません。しかしハーヴを見る限り、3歳児(まもなく4歳)にとって、父親が入院する程度のことは大した問題ではないようです。
 男親なんてそんなものなのかもしれないと、少し寂しい気にもなりました。
 
 

【ハーヴ、内面を口にする】

 2回目のプラレール大会(好きな列車をもって行って遊べる公民館行事)へは電車とバスを乗り継いでかなり遠くまで出かけました。ハーヴは電車やバスで騒ぐような子ではないのできちんと前を向いて静かに座っていたのですが、やはり疲れもあったのでしょう、目的地に着く頃にはすこしトロトロと眠りかけていて、「降りるよ」と声を掛けても反応がはっきりしません。そして下を向いたまま、脈絡もなくいきなりこんなふうに言ったのです。
「お父さんが病気なの」

 私はびっくりしました。ハーヴが父親のことを気にしていたのだという驚きもありましたが、もしかしたらハーブが具体物でないこと、目の前にないこと、内面に溜まっていたことについて口にするのを、初めて見たからかもしれません。
 そこで慌てて、
「きっと大丈夫だよ」
 そう言うと、ハーヴは座席から降りながらこちらも見ずに
「そうだね、ジジもバァバもいるからね」
 そう言ってあとは眠気から覚めた爽やかな顔でバスを降りて行きました。

f:id:kite-cafe:20190612075743j:plain

 父親のエージュが思いもかけず退院できたという連絡はプラレール大会の最中にもたらされました。しかし周回コースを何十周も回って疲れ果てていた私はハーヴに伝え損なってしまい、あとで食事の際にレストランで教えてあげることになります。

 特に言葉はありませんでしたが、ハーヴはニコニコと、ほんとうに嬉しそうでした。
 
 

 【見て見ぬふりという方略】

 バスでの出来事があるまで、ハーヴが父親の入院について一切触れなかったのはその事実から目を背けていたからでしょう。

 それは意識的な我慢であって、心理学でいうところの適応機制とは異なります。
 適応機制(または防衛機制)は受け入れがたい状況、あるいは危険な状況に際して、それによる不安を軽減しようとする無意識の反応で、中でも「抑圧」と呼ばれるものは状況をあたかも“なかった”かのようにしてしまう適応機制の代表です。

 ただししそれはあくまで無意識の中で起こるものであって、容易に意識に上ってくるものではありません。いかに疲れて油断していたとはいえ、「お父さんが病気なの」と口を突いて出てくるのは、やはり意識的に目を背けていたからに違いありません。
 それで思い出したのが「マシュマロ・テスト」の実験ビデオです。

 マシュマロ・テストというのは、4歳の子どもの前にマシュマロを一個置いて、
「これから私は部屋をしばらく離れるけど、その間にこのマシュマロを食べてもいいし、食べなくてもいい。ただ私のいない間に食べてしまったらそれっきり。我慢して食べなかったら後でもう一個あげよう。そのとき二つともキミのものだよ。どうする?」
と訊くのです。ほとんどの子どもは「我慢する」を選択します。
 
 1968年にスタンフォード大学で行われたこの実験の凄さは、マシュマロを我慢できた群とできなかった群について、その後何年にもわたって追跡調査したことです。
 4歳の段階で我慢強かった子たち(およそ30%)はその後の人生においても忍耐強く、学業成績も優秀であるとされますが、今はその話ではなく、実験の中の子どもたちの様子についてお話します。

 その時のVTRが残っているのですが、部屋に残されてマシュマロの誘惑と戦う子たちの様子が実に面白いのです。マシュマロを睨みつける子、なでたり匂いをかぐことでことで食べたことにしようとする者、自分の髪を引っ張ったり机を蹴ったりして気を紛らわそうと頑張る子、そして目を塞いだり椅子を後ろ向きにして見ないようにしている子――。結論からいうと見て見ぬふりをした子たちが成功率が高かったようです。

 ハーヴは3歳ですがマシュマロ・テストを受けた子たちと同じ4歳は目の前です。恐らく知らないないうちに同じ方略に気づいたのでしょう。父親のエージュが入院している間中、事実に背を向け、耐えていたのです。
 
 

【母親が帰ってくる】

 母親の入院中のハーヴの「見て見ぬふり作戦」はさらに顕著でした。
 未明に入院した木曜日と翌金曜日は保育園に行っている時間以外は私と、土曜日は私がアキュラの引っ越しに、父親のエージュは運動会に行ってしまったために祖母に当たる私の妻と、日曜日は父親と過ごしたのですが、その間、母親についての話は一切せず、大好きなプラレールで遊んでは日常の生活を普段通りきちんと送り続けました。

 救急車に乗るという極めて異例な体験をしたので、
「救急車に乗ったんだよね、すごいね。どうだった?」
と水を向けても小さく頷くだけでほとん反応が返ってきません。お母さんに会いたいとも、お母さんはどうだともまったく言わないのです。

 翌週月曜からは再び私が当番で、朝夕のしたくや保育園への登園降園もしたのですが、ハーヴと父親、私という男だけ3人の生活にもなんの違和感も感じていないように見えました。さらに木曜日になってシーナが戻って来ても(赤ん坊はさらに一週間の入院)、何か特別な変化があったふうもなく、今度は両親が揃った上にジジもいるというやはり非日常の生活であるにもかかわらず同じように過ごしています。

 母親のいないあいだ、“いない”という事実に背を向けていたことは容易に想像できましたが、戻ってきた感激もないというのも不思議でした。

 金曜日。まだ体のしっかりしないシーナに代わって保育園に迎えに行った私は、家に戻って玄関にはいるとハーヴと一緒に大きな声で「ただいまぁ」と言います。奥からシーナが「おかえりー」と声をかけ、そのとき廊下の端に腰かけて靴を脱いでいたハーヴが下を向いたままボソッと何かを言ったのです。
「お母さん、――ありがとう」

 最初の「お母さん」と最後の「ありがとう」は聞こえたのですが中が聞き取れません。そこで「なんて言ったの?」と訊くと、それまでと同じようにボソッと、
「お家(ウチ)にいてくれて、ありがとう」
 一瞬ですが、私はなんだか泣きたい気持ちになりました。ハーヴはハーヴなりにやはり頑張っていたのです。
 
 ほとんど口に出さずとも、家族の様子を見て自分のすべきことを決めた、
『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる、誇り高き4歳児
の誕生です。

                    (この稿、続く)
 

 (参考)

kite-cafe.hatenablog.com