カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「基本的なことができないのは、どこかに問題がある」~食と人格の話② 

 バランスよく食事がとれない子には何らかの問題がある。
 その問題の解決のため、
 何でも気持ちよく食べられる教育は必要だ。
 そしてとりあえず今は、それも学校の仕事だ。
という話。(写真:フォトAC)

【基本的なことができないのは、どこかに問題がある】

 寝て、食って排泄して、遊ぶ――乳幼児のしていることといったらその程度のことです。したがってこれらの内のいずれかが大きく歪んでいるとしたら、そこには障害か何か別の問題があると、一応、考えなくてはいけません。4歳になってもおむつが外せないようなら、やはり考えてみるべきです。もちろん考えた上で様子を見るのはかまわないのですが、無頓着なのはいけないということです。
 
 睡眠も、未満児が夜泣きを続けるのは仕方ありませんが、ある程度の年齢になったら遅くとも9時前には布団に入って、朝は7時くらいまでぐっすりと寝ていたいものです。そこに当てはまらない子どもはダメだというのではなく、深夜11時の居酒屋で、3~4歳児が走り回っているのは良くないと、その程度のことです。
 
 そして食事も、ひとつやふたつの苦手は個性として認めるはするものの、野菜は一切食べられませんとか、給食の90%は食べられないものばかり、ということだと、やはりどこかに問題があるか、将来、問題になるかもしれないといった視点でその子を考えなくてはならないと思うのです。

【食は人間性

 私がとんでもなく食べ物の好き嫌いの多いことを思い出した従兄が、
「お前、人間の好き嫌いも多くない?」
と訊ねたのはまさに教育者らしい慧眼で、実際にそういう子をたくさん見て来たからでしょう。理屈ではなく、経験則としての「食べ物の好き嫌いは、人間の好き嫌い」なのです。

 自分自身が食べ物の好き嫌いが多くて苦労した経験から、教師としての私も子どもの食の好き嫌いは最初から注目するところでした。そして私の感性は、
「好き嫌いが多く、食べられない食品の多すぎる子は、人間だけでなく、さまざまなことが受け入れられない――ひとことで言えばわがままだ」
と捉えたのです。そもそも私がワガママでした。思い通りにならないとすぐ拗ねる面倒くさい子どもです。
 そうした子どもは、嫌いな食べ物を口に入れれば思わず吐きそうになるのと同じで、いやな言葉は耳に入ってきませんし、事態を正面に見据えることはできません。それでも無理やり耳に入れたり、問題と向き合わせようとすれば、彼らはこんなふうに言います。
「反吐が出そうだ」
「吐き気がする」
「むかつく」
 損ですよね? 直してあげたいですよね?

【形から入る文化】

 日本という国は「形から入る」という文化を持つ国です。
「二の四の言わずまずやってみろ」とか、
「上行下効(じょうこうかこう):上の者が行うと、下の者がそれを見習うこと」とか、
「見よう見まね」
とかいった言葉が平気で行きかう世界で、ひとことで言えば不合理です。しかし「合理」自体が西欧の文化ですから、「形から入る」文化は反西欧の色彩を帯びることも少なくありません。
 茶道はその典型ですし、空手の型などは「まったく相手と戦わない戦い」という、おそらく世界に類を見ない競技です。プロ野球でも昔はやたらとフォームにこだわる指導法は嘲笑われ、アメリカ式の自由奔放なバッティングやピッチングがいいとされていましたが、最近はむしろ逆で大リーグの方がジャパナイズされてきた印象があります。好き勝手にやるのではなく、よく当たる打撃フォームや投球フォームを学んだ方がいいと考える選手・コーチが増えてきているのでしょう。
 
 学校でも、特に日本の場合は、きちんと整列するとか、服装を整えるとか、言葉遣いをしっかりするとか、形にこだわる教育は随所に見られます。多くの教員は学問や先人に対する畏敬の念がなければきちんとした学びはできないと思っていますし、体育の先生などは服装や整列がきちんとしていないとケガをすると本気で考えていたりします(私もそう思っています。体育科ではありませんが)。
 給食当番はいい加減な服装ではやってほしくありませんし、三角巾や帽子で髪が落ちないように押さえ、唾が飛ばないようにマスクをして、きちんと手洗いをしてもらいたいものです。実質的な保健衛生の問題と同時に、「きちんとしよう!」という心構えをつくることが、安全・安心な食事を生み出すと本気で信じているからです。
 
 そしてできるだけ好き嫌いなく食べることが、その子のまろやかな人格をつくると、これまた本気で信じています。なぜなら、ひとに食べ物の好き嫌いがあるのは普通で、それにも関わらず、口にして飲み込める力は嫌な言葉や嫌な事象、嫌な人間を受け入れる力を養うのに、とても都合がいいからです。

【給食完食ノススメ】

 「給食完食ノススメ」と聞いただけで拒否反応を起こす人は少なくありませんが、これは学級単位の完食話であって、クラス全員に同じ量を配って、その上で全員、残さず食べましょう、という話ではありません。
 栄養士が栄養価や熱量を計算し、経験則を中心に分量を考えて提供している学校給食は、それぞれの学年のそれぞれのクラスにあわせて配布しているものです。同じ小学校でも1年生と6年生が同じ分量ということはありませんし、30人の学級と35人の学級では分量が違います。あたりまえでしょ?
 しかしその同じクラスには小食の者もいれば大食漢もいます。当たり前です。そうしたことを前提に、子どもひとり当たりに必要な栄養や熱量を計算して、その人数倍を配っているのが学校給食です。したがって大食いは大食い、小食の者は小食なりに、必要量を食べれば学級としての完食は当然できる訳です。完食しなければ、学級内の誰かが栄養不足になっていることになります(*1)。

 私は学校給食に関して、「完食は目指すべきではない」とか「子どもに無理させてはいけない」「給食の強制が不登校増加に繋がっている」という論議が、易々と出てくることが理解できません。同じように「かけ算九九の暗記は目指すべきではない」「子どもに無理させてはいけない」「算数の強制が不登校増加に繋がっている」とは言わないでしょ?
 かけ算九九を覚えることと、健康でバランスの取れた食事がとれること、ふたつにひとつしか選択できないとしたら、取るべきは後者じゃないですか!

 給食の強制も算数の強制も、あるいは体育をやることも、音楽で歌わせることも、どれをとっても苦しい思いをしている子がいて、時にはそれが不登校の引き金を引くこともあるはずだと思います。しかしだからといって、やめなくてはならないものではなく、むしろやめてはならない、そのための工夫をたくさんしなくてはならない、そういう問題だと思うのです。
 食育は教師の行うべき項目ですし、SDGsは喫緊のテーマだと、学校は強制されているのです。より良くやらなくてはなりません。

*1:実際には米飯やパンについては必要量を配布していない場合が多い。普通に配るとおかずが残されてしまうことがあるので、米飯もパンも8掛けになるのが普通