カイト・カフェ

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「群れる生き物が群れを棄てるとこうなる」~社会三悪の行方③  

 弱い人間はもともとが群れるもの、
 その”群れ”を人々は憎み始めた。
 そして教師なのに、教えたはずのスイミーの言葉を忘れ、
 人々は個人で社会と戦わなければならなくなった。

という話。(写真:フォトAC)

【群れる生き物が群れを棄てる】

 人間は群れる生き物です。群れを離れては生きていけません、“人の間”と書くくらいですから。
 群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌って生きられるのは、専門のライセンスと並外れたスキルを持っている人間だけで、普通の弱っちい人間(例えば私)は、群れを離れず、群れを大切に守っていた方がいいと思っています。だから私はそのようにしてきました。

 労組についていえば、資格を失うまできちんと組合費を払い続けましたし、頼まれれば職場長も評議員もしました。デモや集会への参加も、積極的ではありませんが行けと言われれば行くのが当たり前でした。
 なぜなら組合のおかげで獲得したり維持し続けている権利があるとしたら、その恩恵を無料で受け取るのはあまりにも忍びないからです。ひとの努力の上に安楽を求めてはいけません。
 だからせめて金くらいは出しておきましょう、できる範囲で協力もしましょうという程度の組合員で、それもさほど誉められた態度でもありませんが、非難されることもないでしょう。
 ただし組合が滅びていくことに本気で抵抗しなかった点についは、私にも責任があります。

 例えば30年近く前のことですが、地方組合の定期大会の入り口で、受付名簿に名前を書いてから巧みに抜け出していく二人の女性を見たことがあります。年配の方は私と同じ学校の学年主任のひとりで、若い方は彼女と同じ学年の新規採用者、つまり子飼いのような教師です。
 その大切な新任教諭の、人生最初の労働組合定期総会で彼女の学んだことが「サボり方」だったというのはいかにも不幸です。しかしそれを見ながら声もかけなかった私も、正しい道を歩いていたとは言えません。せめて後日、「しんどくても定期大会には出た方がいいという考え方もあるよ」と教えてやるべきでした。しかしそれもしませんでした。

【誰からも相手にされなくなった組合】

 日教組が右寄りの人から蛇蝎のごとく敵視される時代はとうに終わってしまいました。憎む価値もないのです。
 全国教育研究集会(全国教研)は労組による大規模な研究集会で、開催地には毎年右翼の街宣車が数百台も結集して、ラウドスピーカーいっぱいの音量でアジる(アジテートする)ので、住民がひじょうに迷惑すると年中行事のように報道されていました。
 そのことを思い出して、「そう言えば、教研集会のニュース、最近聞かないなあ」と思って調べたら、共産党系の教職員組合である全日本教職員組合(全教)の教研集会ですら右翼にまともに扱ってもらえないらしく、昨年の高知大会では街宣車数十台が結集すると予想されにもかかわらず、初日、実際に来たのはたったの4台だったそうです(今年はどうだったか、記憶にありません)。こんな状況では部活問題や働き方改革を、組合を通して訴えても何の成果もえられないのは確実です。
 
 昨年来、愛知県をはじめとして、三重県や福岡県で《部活動に特化した教職員組合「部活動問題レジスタンス」》というのが立ち上げられてニュースになっています。改めて教職員組合をつくらなければならないということ自体が問題ですが、とりあえず目立つ分だけこちら方が頼りになるのかもしれません。ただしその内容を見ると、
「顧問を断りたい方への情報提供・交渉代行・アフターフォローを行います」
といった調子ですから、すべて教職員を代表するものでもなさそうです。

 では誰が教師のために戦ってくれるのか。
 日教組の関連団体として、教職員出身の議員や子どもたちのためにより良い教育の推進をめざして活動する議員の集まりに、日本民主教育政治連盟(略称:日政連)があります。現在は衆議院議員3名、参議院議員4名、自治体議会では約200人の議員が所属しているといいます。しかし決して教職員の利益を最優先に考える人たちではありません。
 幼小中高の教職員と呼ばれる人たちは100万人近くもいるのですから、自前の議員をあちこちに送り込んでいてもよさそうなものを、実際にはこの程度でしかないのです。これでは政治に影響は与えられませんし、今の日教組のような小さな組織に配慮しようとする議員も増えません。
 教員の働き方改革は、心ある議員や行政担当者の善意に期待して、より良い結果が棚ボタのように落ちてくるのを、ただ待っているしかないのです。

【令和5年、教職のスイミー

 「スイミー」は小学校2年生の国語の教科書に長く載せられているレオ・レオニの物語です。
 大きなまぐろに兄弟たちをことごとく飲み込まれた小魚のスイミーは、ひとり海の底をさまよいます。
スイミーはおよいだ、くらい海のそこを。こわかった。さびしかった。とてもかなしかった」
 ところがやがて兄弟たちに似た赤い小魚の群れを発見して、一緒に遊ぼうと呼びかけます。けれど誰も動こうとしません。
「だめだよ。大きな魚にたべられてしまうよ」
 スイミーは呼びかけます。
「だけど、いつまでもそこにじっとしているわけにはいかないよ。なんとかかんがえなくちゃ。」
 スイミーはかんがえた。いろいろかんがえた。うんとかんがえた。
 それから、とつぜん、スイミーはさけんだ。
「そうだ。みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして。」
 これが労働組合の成り立ちです。スイミーの話はこのあとまぐろを追い返して終わりますが、私たちの物語はここからが本番です。

 しかしそうやって大きなまぐろを追い出した小魚たちは、やがてスイミーの呼びかけを忘れてしまいます。《みんなといっしょ》なんて、自由もないし、まっぴらだと思い始めたからです。
 小魚たちは一人ひとり自由に泳ぎ始め、広い海を満喫します。そしてふと気づくと、いつの間にか、静かに、まぐろの群れに追いつめられ、身動きがとれなくなっていたのです。
 もはや集団としての自力救済の道はなく、ただひたすら、幸運がどこからか降ってくるのを待つだけです。
 
 悪かったのは私たち、昭和から平成にかけて教員だった人たちです。そのワリを食っているのが現職の方々なのです。ただ、もう手遅れの労組のことは言っても仕方ありません。心配なのは、現在もかろうじて組織の体をなしている町会とPTAのことです。
 (この稿、続く)