「教師の一番の仕事が、実はまったく評価されない」~学校が日本の子どもたちを日本人に育てている

日本人の誇るべき資質は自然に育ってきたわけではない。
意図的に計画し、実施して育ててきた人たちがいるのだ。
その仕事は見えにくく、したがって評価もされない。
そしてその代わり、どうでもいいところばかりが見られている。
という話。(写真:フォトAC)

【教職は真っ当な人間の就く仕事か?】

 一昨日は気が立っていて、最後はとんだ下品な物言いになりました。恥ずかしい限りです。
 自分が教員だったこともあって、教職は最も価値のある尊い仕事で、そこに従事する人々は多少の遺漏はあっても、基本的に真面目で誠実で、児童生徒・保護者、そしてこの国のために粉骨砕身、労をいとわない人たちだと考えています。それはもう40年も前、私が教員になった最初の夜から、一貫して変わらない気持ちです。

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 その、私にとって最も大切な職業が、今や全くの不人気となり、ごく少数の不心得者が犯す体罰やわいせつ事件、不用意な発言は連日おおきなニュースになり、ブラック校則からランドセルの重さまで、教師を責める声はやむ様子がありません。もはや教職は真っ当な人間の就く仕事ではないといった勢いです。

【日本人は私たちが育てた】

 私は、日本の教師たちの最大の業績は、この国に生まれた子どもたちを日本人に育て続けてきたことだと信じています。

 日常的なおもてなしの心だとか他人に親切にすること、公共の場を汚さないこと、人の集まるところで大きな声を出さないこと、あるいは交通ルールを守ること。
 大きな災害現場では自分を後回しにしても困っている人を助けること、静かに助けを待つこと、避難所では役割を決めてそれぞれ自分の務めを果たすこと、順番を守ってきちんと並ぶこと、自分たちの場所を自分たちで掃除すること等々。
 
 東日本大震災の直後、世界から賞賛を浴びたこうした日本人の美徳について、マス・メディアは簡単に「日本人のDNAに刷り込まれた~」などと言いますが、そんなばかなことはありません。DNAに刷り込まれているなら日本人夫婦から生まれた子どもは、イギリス人によってイギリスで育てられても日本人です。そんなことはないでしょう。
 それに幕末の混乱期とか昭和初期の不況の時代など、日本人はけっこう不道徳な時期もあるのです。DNAのおかげならこうした揺らぎは起こりません。
 
 日本人の美徳はDNAのおかげなどではなく、誰かが育てたのです。主として日本の初等中等教育の担い手、つまり学校が教え、繰り返し練習してきたのです。町の柔道教室やボーイスカウトでも同じようなことはなされますが、全国一律、すべての子どもたちに、組織的・計画的に教育を施したとなると、学校を置いてほかにありません。

【日本人を日本人にするための教育の実際】

 そう思って学校を眺めると、朝の会から教室移動、各教科の始まりと終わりのたびに繰り返される挨拶、体育の整列から給食当番の配膳・後片付け、清掃に至るまで、日本人を日本人に育てるための教育と訓練がびっしり詰まっていることが分かります。
 さらに「特別活動(学校行事・学級活動・児童生徒会)」と呼ばれる枠の中では集中的に、そして恐ろしいほど多くの時間を使って、子どもたちは日本人らしい日本人の人間関係を学び、訓練します。
 
 義務教育の運動会や修学旅行・文化祭は、大学の体育祭や卒業旅行・学園祭とは違います。それはスポーツ大会や思い出づくりや学習発表の場であると同時に、「ものごとをなすときは目標と分担を決め、計画を立て、みんなで協力してひとつひとつ問題を解決し、本番に臨んで終了する」――そういう“生き方の訓練”なのです。
 こうした基礎があって初めて、例えば大災害の避難所における自主運営だとか、ボランティアだとかは可能になります。

【経験主義は評価しにくい】

  日本の教育は経験主義に深くこだわっています。ですから理科室にはたくさんの実験器具後揃っていていちいち試してみなくては気が済みません。社会科ではすぐに実地踏査に出るし、算数や国語でもものごとの成り立ちから勉強させられます。
  音楽や図工美術、技術家庭科や体育などがすべて経験主義的であることは言うまでもありません。

  先生たちの陰の努力も、多くが子どもたちにたくさんの経験をさせるために費やされます。行事や社会科見学ための計画づくり、連絡・調整・関係書類作成。あるいは教材研究・教材づくり、評価――先生たちが”雑用“と呼ぶ「授業以外の仕事」の多くが、実はこの経験主義に基づく事務仕事なのです。
 *「7時出勤、給食をかきこみ宿題の丸つけ 先生忙しすぎ?」(2018.06.10 朝日新聞)

 しかしそうした裏仕事も含めて、経験主義教育は世間から全く評価されません。とても時間がかかり、成果もなかなか見えてこないのが普通だからです。
   小中学校で学んだミシンの技術が、数十年後のコロナ禍でのマスクづくりに役立ったとか、前にお話しした、学校登山の経験があるから大人になってからの山登りに抵抗がなかったといった話は枚挙に暇がありません。しかしこれを学校のおかげ、学校教育の成果だとみるひとはほとんどいないでしょう。

【学校の雑用は増すばかり】

 こうした日本の学校教育の機能に無頓着な人々は、すぐに行事の精選だの、勉強を教えるだけなら塾の方がよほど優秀だのと言い始めます。挙句の果てが「教師の質の低下が問題だ」です。
 
 ランドセルはなぜあんなにも重いのだ、置き勉はなぜできないのか、色付きの下着で登校したい、髪をツーブロックにしたい、リーゼントにしたい、チョンマゲにしたい。この時代の雑巾がけにどういう意味があるのか、掃除はルンバにやらせろ、いやいや業者の方がより丁寧だ、いっそ掃除なんかやめてしまったら?――私に言わせればこういう申し立てに対応することこそ、学校にとっての何よりの雑用です。
 何だかだんだんイライラしてきました。せっかく最初に反省したのに、また元の木阿弥です。