カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「机に顎を乗せて勉強する子たち」~美しい文字を子どもの財産として残すために⑤

 子どもの字が下手になっていく要因はいくつかある。
 ひとつはシャーペンなど、立てなければ書けない筆記用具。
 もうひとつは、身体にまったく合っていない椅子。
 そしてその椅子は、意外な場所にある。
という話。(写真:フォトAC)

【小さな子には望ましい『茶の間学習』】

 せめて小学校4年生くらいまでは、「子ども部屋」はあっても、「勉強部屋」はなくてもいいと思っています。対面型キッチンの、向こう側で親が夕食の準備をしている間、子どもはこちらのテーブルであれこれ話しながら宿題をする、そんなふうでいいと思うのです。
 分からないところが出てきたら、子どもは椅子の上で立膝になってそのページを見せてアドバイスをもらう、込み入った話なら、親は仕方がないので手を拭いて、居間に回り込んで勉強を見てあげる――。
 
 この時期に大切なのは実質的な学力向上ではありません。親子の絆の結び直しと信頼関係の構築です。このあと子どもは親元を離れて広い世界に飛び立ちます。そのとき帰る場所があると確信できるかどうかが重要な問題なのです。
 いつどんな時も、親は自分のそばにいてくれる、話を聞いてくれる、自分と会話することを楽しんでくれると、脳裏に刻み込んでおくことが大切なのです。
 ダイニング・テーブル学習、万歳!
――しかしちょっと待って! そのテーブルの高さ、どうなっている?

【(机に)顎を乗せて学習する】


 「顎を乗せて学習する」――故事成語ではありません。
 右の写真はいつもお世話になっている写真のフリー素材サイト「photoAC」から採らせていただいたものです。撮影者は《よく頑張って勉強している小学生のたくましい姿》としてこの写真を撮ったのでしょう。モデルにポーズを取らせたというよりは、日常の姿をそのまま撮影したものではないかと、そんなふうに想像します。
 
 男の子の意志的な表情が印象的です。ただしこの写真、悪い意味で一部の教育関係者を震撼させるだけの力を持っています。
「なんと! この子はとんでもない恰好をしている」
「これがとんでもない恰好だと、気づきもせずに撮影している人がいる」
「とても危険な状況が見逃されている」
ということです。

 テーブルの位置があまりにも高くて、この子は顎を乗せんばかり、というか実際に乗せて勉強をしています。その方が楽なのでしょう。私も「頭が重すぎる」というか「首の筋肉がなさすぎる」というか、とにかく物質としての頭の重さに耐えかねて、テレビを見る際、顎の下にインスタント・コーヒーの瓶を置いたり腕を二重に重ねて支えにしたりすることがありました。しかし勉強するのに直接テーブルの上に顎を乗せてやった記憶はありません。私はしませんでしたがこの子はします。それだけ十分にテーブルが高いということなのでしょう。

 鉛筆は――当然、垂直立ちです。ここまで高いテーブルでの筆記となると、芯先はむしろ簡単に下から覗けます。腕がかなり前に出ていますから、手首を曲げる・捻るというほどの感じにもなりません。その意味でむしろ《楽な姿勢》なのかもしれません。しかし字は絶対にうまくなりません。
 縦線を手首で書いて、横線を握り込みで書く――いや、ここまで立てると指の握り込みもままなりませんから、肘を横に動かして書いているのかもしれません。
 2005年に99歳で亡くなった国語界の巨星・大村はま先生なら、
「最低ですよ。早くみつけて、先生が飛びついて世話をしてやらなければなりません」大村はま著「教えるということ」)
と叱咤しそうなところです。

【家庭は基本的に椅子の高さに無頓着】

 学校では一応椅子や机の高さを調節します。時間がないので年に1回しかやりませんが、ほんとうは2回以上やりたいところです。ところが家庭の方はさらに状況が悪く、学習机を買った時こそ高さ合わせはするものの、その後は子どもが困ったと言い出さない限り、親の方から気づいて調節するなど、ほとんどないのではないでしょうか。ましてや居間のテーブルについては、ベビーチェアの時期が終わるとそのまま大人の椅子に移行させ、勉強をさせていてもテーブルが異常な高さであることに気づいていないのかもしれません。
 かく言う私も食卓の高さが気になったのは、子育てがはるか昔に終わった最近のことです。二人の子どもは揃って近視で、しかも悪筆です。気づいてやれなかった私たちの責任でしょう。字は落ち着いて書こうとか、「トメ」「ハライ」「ハネ」はしっかりやろうとか言った心構えについては指導したのに、椅子の高さや姿勢などにはほとんど注意を払って来なかったのです。

【知らせよう、依頼しよう】

「家庭教育は親の権限であり責任である、だから学校は口出しすべきではない」
といった言い方が、最近、特に多くなされるようになっています。しかし普通の保護者は教育の専門家でもなければ信念をもって実験的な子育てする研究者でもありません。知らないからできないのであって、理解すればやれる人・やりたい人はいくらでもいるのです。
 知らせましょう、依頼しましょう。子どもの成長は学校・保護者、双方の利益なのですから。

(この稿、終了)