「学校の先生は教養がない」~だから子どもの教養は、家庭で高めてください 

 佐々木朗希の二試合連続完全試合の不成立――、
 ところが教師たちは多くがそれを知らなかった。
 無理もない、彼らはニュースも見なければ新聞も読まない。忙しいからだ。
 こんな教師たちに子どもを任せておいていいのだろうか。

という話。

(写真:フォトAC)

【どこからでも切り取れる佐々木朗希】

 ロッテ・マリーンズの佐々木朗希投手はまだ若いのに逸話の多い人で、小学校3年生のときに陸前高田東日本大震災に遭い父親と祖父母をなくしたとか、中学校では腰の疲労骨折を見逃されそうになったのを指導者の機転で花巻東高校の監督を頼り、その紹介で大谷翔平の通っていた病院に通って無事、完治したとか、あるいは高校時代に非公認ながら大谷選手を上回る最速の163km/hを投げたとか、わずか20年の間に失意やら奇跡やら栄光やらの総花的な半生を歩んできました。
 中でも高校3年生の夏の大会地区予選で、投手・4番として大活躍しながら、決勝戦は「故障回避」のために出してもらえず、ために在籍校は全国大会に出場できなかった――この逸話は、岩手の一高校生の名を全国区に押し上げました。私が知ったのもこの時です。

 単に飛び抜けた才能の持ち主だったというだけでなく佐々木投手には運も人徳もあるのか、マリーンズに入団してからも1年目は公式戦での登板はゼロ、2年目もわずか11試合に出場しただけでした。「フォームが固まっていないから」という理由で地道に育てられたのです。
 ドラフト会議でくじを引いたのが井口監督でなかったら、入ったチームがマリーンズでなかったら、そんな余裕のある育成はしてもらえなかったのかもしれません。
 そう考えると二試合連続完全試合という快挙直前でマウンドを下ろされたのもよくわかります。大切にされたのです。完全試合なんて、また何度でもすればいいのです。


【そして誰も知らなかった】

 さて、プロ野球ファンではなく、ましてやロッテ・ファンでもない私が佐々木朗希選手を持ち出したのには二つの理由があります。
 ひとつは、「私がまだ現職の教員だったらこの話を必ず教室に持ち込むだろうな」と思うからです。ただし逸話が多すぎてどこを切り口にするかは微妙です。震災遺児の成功物語というのもいいですし、単に「この人に注目!」でもいい。周囲のひとに大切にされることの重要さという面もいい。なかなか調理しがいのある素材です。

 もうひとつは、まだ現職教員で私と同じように感銘した妻が、佐々木投手の話を学校へ持って行ったときの、ちょっとした出来事のためです。簡単に言うと、誰も知らなかった、連続完全試合目前どころか佐々木朗希の名前さえ知らなかったのです。
 特別支援学校ですから生徒は少なく、その場にいた職員も兼業主婦の女性ばかり3人という構成ですからサンプルが偏りすぎていますが、それにしても前夜のニュース番組のトップで扱われるような内容を誰も知らないとは!


【学校の先生には教養がない】

 知らなかったのは、言うまでもなく誰もニュースを見ていなかったからです。生徒は勉強(?)やスマホに忙しく、教職員は仕事に忙しい。
 教員の場合、退校が遅いので7時のニュースには間に合わず、9時のニュースは家事の片づけや持ち帰りの仕事の準備に忙しく、朝はもちろんテレビなど見る暇はありません。新聞は、若い教員を中心にそもそも取っていません。取ったところで新聞紙(しんぶんし)がそのまま新聞紙(しんぶんがみ)になるだけです。

 私は社会科を専門とする教師でしたからそれでも他の教員よりはニュースに敏感で、新聞も取っていました。その私をしても2001年9月11日の大事件は学校に来て、職員同士の会話を小耳にはさんで知りました。当時は夜9時に床にはいって午前3時に目を覚まし、そこからギリギリまで持ち帰り仕事をして、慌ただしく出勤するという生活を送っていたので、午後10時過ぎに第一報が入ってその日のうち(日本時間)に貿易センタービルが崩壊するのを、見ていなかったのです。

 教員はテレビも見なければ新聞も読まない、教育関係以外の本も読まない、それが現実です。テレビのドラマは仕事のために何度か見逃すうちに興味を失い、ドキュメンタリーも教育関係以外は見ることがありません。バラエティや音楽番組は時代に乗り遅れてついて行かれない。書籍も詩だの小説だのルポルタージュなどを読む時間はなく、かろうじて教育書だけは必要に迫られて読みますが楽しい読書ではありません。
 見なくなったもの、読まなくなったものの大部分は仕事の不可欠なものではありません。私たちは仕事に直接かかわらない知識や技能のことを「教養」と呼びます。その意味では、教師たちはまるっきり教養がない。あるように見える場合も、過去の財産で食っているにすぎません。
 もちろんそれは教員が悪いのではなく、とにかく忙しすぎるのです。

 

【子どもの教養は家庭で高めてください】

 私は先日、「毎朝、子どもたちに良い話をしましょう」と言いました。良い話の背景にあるのは教養です。授業で自信をもって話ができるのも、背後に膨大な教養がある場合だけです。

 最近の教師は質が下がった――本気でそう考える人がいます。
 私はそうは思いません。体罰もせず怒鳴り声も上げず、言葉と表情だけで子どもを動かすのですから昔よりよほど優秀です。ただし教育全体の質が下がったという話なら、一部分、乗ってもかまわないと思います。
 何しろ暇に任せて教養を高めた大昔の教師たち―夏目漱石宮沢賢治、島木赤彦たち―に比べたら、教育以外の何の勉強もしていないからです。佐々木朗希すら知らない。
 そんな教師に子どもを任せておいていいのでしょうか?