カイト・カフェ

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「新型コロナの『(もう見込みのない高齢者を犠牲にすれば)助かるはずの命』を救え」~テレビはあっさりとそう言う 

 新型コロナ感染第5波は天井知らずに増えていく。
 医療はひっ迫し、危機的な状況にあると私たちは信じてきた。
 しかし実態はそうでもないと、ある報道番組は語った。
 見込みのない高齢患者を犠牲にすれば、何とでもなる話だと。

という話。 

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(写真:フォトAC)

 

 

【8・8万倍の影響力にふさわしい責務】

  私がこのブログを書き始めて15年半になります。その1年半ほど前からブログの元となる記事は書いていて、のちにここに追加しましたから記録上は2005年から17年も書いてきたことになります。記事の総数は3800本ほどです。

 アクセスは一番多い時期で1日220ほど。それが、特に退職してからはジリ貧で、現在は100前後、最近は100を切る日もかなり多くなっています。
 もちろん趣味でやっていることですからそれで十分なのですが、別のことを考えると心が揺らぎます。

 インターネットに押され、テレビや新聞・雑誌の地位は下がっているといいます。しかしNHK「ニュース7」やテレビ朝日報道ステーション」といった高視聴率番組を除いても、ニュース番組の視聴率は大体7%前後で、これを人数で考えると880万人あまりということになります。

 私が毎日一生懸命書いても100人弱、テレビは880万人に影響を与えることができる、そう考えるとテレビ報道は私の8・8万倍はきちんとした仕事をしてくれなくては困る、そんな考えに囚われるのです。ところがそれが、しばしばあまりにもひどい。

 

 

【こんな報道があり得るのか】

 私がいま頭に思い浮かべているのは、先々週の土曜日の報道番組です。
 
 内容は新型コロナの在宅医療に関するもので、担当の医師が苦労を重ねて訪問診療を続けているさまが紹介されます。患者の中にはすでに重症化が進んでいるにも関わらず、なかなか病院に受け入れられずに苦しんでいる人もいます。
 医師は酸素吸入器を使いまわし、2台重ねで使用したり、ぎりぎりの医療に奔走したりせざるを得なくなっていると、そこまではいい。
 問題は最後にひとりの放送記者がまとめる部分で起こります。

 在宅医療もそろそろ限界になろうとしている、酸素装置が不足するためにどの患者に酸素を与えるのか、どの患者を入院させるのか、現場の医師が命の選択をせざるを得なくなっている。しかし重症者用ベッドは空かず、空いても若者より高齢者が優先される傾向がある。
 これについて訪問診療の医師は「かえって高齢で非常に予後が限られた方であれば、『最後かもしれないけど受け入れるよ』という現象が見られる」と話すのですが、それを放送記者は次のように解釈し紹介するのです。

 もう手の施しようのない高齢の患者を引き受けることで、病院は難しい治療から手を引くことができ、病床も増やすことができる。こうして若い重症者は十分な治療を受けられないまま、「助かるはずの命」が失われていく――。

 

 

【「助かるはずの命」のもうひとつの意味】

「助かるはずの命」がこういう使われ方をする可能性に、私はまったく気づきませんでした。
 私にとってそれは「日本の病院の受け入れ能力がもっと高ければ助かるはずの命」であって、「高齢で助かる見込みのない命を犠牲にすれば代わりに助かるはずの命」ではなかったのです。
 それを番組はいとも簡単に後者として語ります。

 この一年半あまりの医療従事者の艱難辛苦について、メディアは何度も繰り返し報告してきたはずです。コロナ治療の最前線は今も昔も地獄で、医師や看護師は献身的に治療・看護を続けている――私たちはそのように伝えられ、そう信じてきました。ところが必ずしもそうではないと番組は語ります。

 病院は政府の要請に従ってコロナ患者用ベッドを増やし、重症者向け1床あたり1500万円、それ以外の病床は1床あたり450万円の補助を受けておきながら、実際には手のかからない高齢者を積極的に受け入れてベッドを埋め、そのために助かるはずの若い命が在宅で失われている――この番組がシレっと語っているのはそういう重大な問題です。

 しかしそんなこと、あると思いますか?
 在宅医療の担当者たちは命がけの仕事をしている間に、コロナ患者受け入れ病院の医師たちはけっこううまくやっている、それがこのニュースを手掛けた人々の総意で一番訴えたかったことなのでしょうか?

 

 (この稿、続く)