カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「合理化、時短、ICTが人々を追いつめる」~何とも言えない未来への不安① 

 
 人間ドックから戻って来て、なぜか天から不安が下りてきた。
 健康上の問題はなかったのに、
 このさき何十年も生きていくわけでもないのに、
 未来がほんとうに心配なのだ。

という話。f:id:kite-cafe:20210128070803j:plain(写真:フォトAC)
 

【時短が人々を苦しめる】

 おそらく人にも会えず、飲みにも行けず、会話をすると言えば妻と母と、稀にお店の兄ちゃんと、という状況で、気分を曇らせる一番の原因はもう何カ月も娘にも息子にも、孫たちにも会えずにいるということです。
 人間関係がほとんどない状態で、核となる家族関係も不確かになっています。
「もうノイローゼ直前」というほどでもありませんが、かなり陰々鬱々として、目下もっとも頭を悩ませているのは、私の教え子たちはこの次の世界を生きていけるのだろうかという問題です(アレ? 文章は繋がっているかな?)。

 直接のきっかけは月曜日の人間ドックなのです。以来、ちょっとした妄想に捉われています。
 コロナ対策で最後の内科検診を大幅に時間短縮したところ全体の流れがよくなって一人につき2時間近い時間短縮が可能となった――ということはコロナ終息後、その空いた時間にさらなる受検者を入れればもっと儲かると経営者たちは考えないだろうか。

 お世話になっているセンターを邪推するのも気が引けますが、コロナのためにどの病院も赤字経営、その赤字を何年もかかって補填するとしたらひとり5万円にもなろうというドックの収入は素晴らしく魅力的でしょう。私ですら考えることですから、経営者やその周辺の人々が気づかないわけはありません。
 しかしせっかく生まれた時間的余裕を潰されたのでは、医師も看護師も、検査技師やその他の人々もたまったものではありません。流れがよくなっただけで仕事が減ったわけではないのです。そう簡単に受検者を増やされても困ります。
 そもそもコロナ以前のドック経営の方が異常だったのです。最後の方で2時近くに昼食を食べる人がいるということは、内科医もそこに詰める看護師や担当者も、同じ時刻まで食事が取れないということです。
 受検者の最も遅い人々でも12時にレストランに入れるようになった現在が正常なのです。

 

【オンラインが教師を追いつめる】

 新型コロナウイルス事態は、可能なあらゆる場面で合理化を推し進めました。
 小中高校ではあまり進みませんでしたが、大学では講義の大部分がオンラインで行われるようになり、学生も講師も、わざわざ着替えて電車に乗り、長い時間をかけて学校まで行く必要がなくなりました。のべで考えればたいへんな時間とエネルギーの節約で、その意味では合理的な方法と言えます。
 うがった見方をすれば、この経験によって将来、教室はマンションの一部屋のみ、講師も学生も全国に散らばったままの在宅学習で4年の教育課程を済ませる新しい通信制の可能性も見えてきたわけで、それで有名大学の肩書が持てれば、特に経済的に苦しい学生にとっては願ったりかなったりでしょう。

 しかし忘れてはいけません。オンライン講義のためのコンテンツは、講師たちの献身的な努力によって用意されているのです。
 テレビに出てきた人などは、「以前ならチョーク一本を持って行けばよかった講義のために、数時間も準備しなくてはならなくなった」とぼやいていました。 その通りでしょう。私にはよくわかります。

 

【昔の授業】

 私の知っているのは義務教育ですが、そこですらICTの進展は教師をより苦しい立場に追いつめました。
 私が社会科の教員として教職に就いた三十数年前、例えばエジプトについて学ぼうとしたら、研究室にある地球儀と大型地図、それからB2判(515mm×728mm)の教材写真(たぶん「ギザのピラミッドの前のラクダに乗ったアラブ人」とかが写っていた)を持って行くだけで授業ができました。あとは教科書と資料集を、生徒と一緒に見ながら進めればいいのです。

 もちろん書籍を丁寧に調べればもっと都合のよい写真も図版あったでしょう。しかし全員に見せる方法がない。40数名もいる教室では本をかざすわけにもいきませんし、一時は写真スライド(ってわかるかな?)もつくって壁に投影するやり方をしたこともありますが、手間よりも金がかかってかないませんでした。
 見せたい風景やグラフがもっとあると分かっていても、方法がないのなら仕方ありません。手元にある材料だけで勝負するだけです。それが限界で、あとから考えれば限界があってありがたいことも少なくないのです。

 

【現代の資料づくりは無制限】

 ところが現在、資料収集は無制限です。その気になればいくらでもインターネットから集められます。それをプレゼンテーション・ソフトで編集して電子黒板で提示すれば、かつては考えられなかったようなすごい授業ができます。文科省もその辺を見越してIT化を急いでいます。

 しかしどうでしょう?
 ソフトや電子黒板の扱いは慣れればどんどん楽になりますが、資料集めはそういうわけにいきません。もっといい写真、もっといい図版と探っていくと終わりがないのです。
 私は情報教育の専門家ではありませんが素人の教員としてはかなり早い時期からIT化に取り組んできた人間です。したがってその大変さは骨身に浸みています。選択肢が山ほどあるというのは必ずしも幸せなことではないのです。

 学校のIT化は教師を絶対に楽にはしません。今のこの時間でさえ、日本のどこかの学校ではとつぜん子どもの人数分くばられてきたノートパソコンの、セッティングで悪戦苦闘している教師が山ほどいるはずです。それが終わったら教材作りです。

 しかもそうやって進める授業が、必ずしもすべての児童生徒のためになるわけではないのです。

(この稿、続く)