かつて道徳の授業はひどいワンパターンの中にはまり込んだことがあります。
それは〔資料の読み取り〕→〔自己の行為の振り返り〕→〔自分自身を見返しながらの反省〕→〔授業の感想〕といったものです。それを口の悪い人たちは、〔文章読解〕→〔内省〕→〔懺悔〕→〔決意表明〕などと言ってからかったものです。なぜならせっかく表明した決意が、しばしば翌日には覆されてしまうからです。
それはそうでしょう。授業の流れとしてそうせざるを得ないところで無理やりさせられた決意など、簡単に守れるものではないのです。しばらくこうした道徳にさらされた児童生徒は、やがて決意表明そのものを拒否し始めます。そう簡単に言質を取られてはかなわないのです。
道徳の授業がすっかり沈滞させてしまった教師たちは、新たな方向を探ります。そして「子どもたちにはもっと深い葛藤を経験させなければならない」と考えるようになります。ジレンマ教材はそのひとつの答えでした。
ジレンマ教材というのは「忠ならんと欲すれば公ならず、公ならんと欲すれば忠ならず」といったふうに、一方を取れば他方を裏切るといったぎりぎりの道徳問題です。
「末期ガンを告知すべきか」とか、「本人をびっくりさせようとみんなで企画した秘密の誕生パーティー、本人が避けられていると悩み始めたらどうするか」といった、非常に悩ましいい問題が並びます。ところがこれも、子どもを悩ませただけで何の方向性も与えないというところから、次第に廃れていきます。
さて、道徳教育の現在はどうなっているのでしょう。
よくわからないところですが、ひとつあるのは、「自分もあんなふうになりたい。今はできないけどね」というものです。偉人や名もない市井の人々の美しい生き方が、再び見直され子どもたちに語られるようになった背景には、そうした事情があるのです。