(トマス・コール「人生の旅路、青年期」 GATAGより)
【許婚(いいなずけ)と政略結婚】
妻が夕食後、録画してあるNHK朝の連続ドラマ「わろてんか」を見るのを日課としているので、ついつい私も横目で見てしまいます。しかしあまり熱心な視聴者ではなく、最近では筋も分からなくなってしまっているのですが、先週末、ある台詞がきっかけとなってちょっと引き込まれました。それは次のようなものです。
「許婚がいます。親が決めた相手で、言ってみれば政略結婚のようなものです」
古い言葉ですね。
「婚約者」とか「フィアンセ」なら今も使われそうですが、「許婚」となると、さすがに今は言わないでしょう。さらに「親が決めた相手」だの「政略結婚」だのとなると、これはもう歴史用語の域に入りつつあるように思います。
そもそも結婚相手に限らず、子どものことを親が決められるという文化がほとんどなくなっていますし、子どもも多くの問題で親の言うことをきかなくなっています。
また、“家族”という概念は残っているにしても、昔流の“家”という概念はほとんどなくなっていて、婚姻で結びつける家同士の利害といったものも考えられなくなってきています。法律上も親戚だから自分の銀行の資金を融通するといったわけにはいきません。
しかし元にもどって、その大昔の“親の決めた結婚”とか“政略結婚”とかって、そんなに悪いものでしょうか?
【親の決めた結婚だっていいんじゃない?】
例えば、大財閥の御曹司との結婚話がドンドン進んでしまい、しかたなく会ってみたら松坂桃李みたいな好青年だったらどうします? お金持ちの素敵な男性ですよ?
〇〇デパートの社長のお嬢さんとの縁談が勝手に進んでしまい、しかたなく見合いの席に行ったら桐谷美玲みたいな女の子がキラキラ輝く目でこちらを見ていた、その上いきなり「失礼で不躾ですが、言わずにいられません。私、あなたに一目ぼれしたみたいです」とか言われたらどうします? それでも「いや、ボクは親の決めた結婚はしませんので」と決然と席を立って帰って来れます?
そう考えると、基本的に出会い方なんてどうでもよくて、相手がいい人ならそれでいいんですよね。夫婦愛なんて結婚しなければ育めませんし、やってダメなら離婚というのは大恋愛で場合も同じです。
そう考えると昔の人の方が、相手選びや判断・決断についての悩みもなく、楽だったのじゃないかと思うのは見方が甘すぎるでしょうか?
今の自由な若者の方がよほど大変で、しかも結婚によって幸せになるとは限らない――。
【親のレール】
似たような言い方に、
「『いい高校からいい大学へ、それからいい企業に』っていう親の引いたレールに乗るような人生は嫌だ!」
というのがあって、これを最初に聞いた時には私もびっくりしました。
だいたいレールは“敷く”ものであって“引く”ものじゃありませんし、「いい高校からいい大学へ、それからいい企業」なんて、親の言う通りにしようと思ったって簡単にできるものではありません。できるかできないか分からないという点から考えれば、この場合の「親のレール」は地図に描いた予定線みたいなもので、その意味では「地図上のことなら“引く”でもいいか」と私も引き下がらざるを得なくなります。
本来の「親の敷いたレール」は同族大企業の御曹司みたいな人の前にあるもので、普通に走っていれば地位や財産が保証されている強い道筋のことを言います。努力しなくても金とステータスが転がり込んでくるのです。そう言われるとむしろ「レールを敷いてくれない親」の方を恨みたくなりません?
“大企業”とまではいきませんがつい十年ほど以前まで、地方の酒造メーカーの御曹司などは「親の敷いたレール」に乗るか下りるかが大問題でした。何と言っても斜陽産業でしたから。
例えば俳優の佐々木蔵之介さんの実家は京都の酒造会社ですが、長男は建築士になって家を出て、次男の蔵之介さんも神戸大学の農学部で醸造の研究をしていたはずなのに突然「俳優になる」といってこれも家を飛び出し、置き去りにされた中国文学科卒の三男坊があとを取ることになりました。ところが今や日本酒は海外の日本食ブームのために日の出の勢い。
佐々木酒造も毎年「全国新酒鑑評会」や「インターナショナルワインチャレンジ日本酒部門 」「ワイングラスでおいしい日本酒アワード」とかで受賞を重ねていますから、これからが本格的に面白くなっていく時期かもしれません。
つまりここでも言いたいのは、“親が決めたから悪い”のではなく、その“親の提示したものの中身がいいか悪いか”が問題だということです。
さらに言えば親が子の将来に対して口出ししないことにも、いいことかどうか議論の余地があると思うのです。
【お前の人生だから好きなように生きなさい】
ものわかりの良い、いい親の言葉とも取れますが、裏を返せば「自分で選んだことだから、責任は全部自分で取るのですよ」という冷たい響きも感じられます(まさか「うまくいかなかったら、あとは全部お母さんが面倒見てあげるから」とはならないでしょう)。もちろんそれでいい場合もあります。けれど私は、親は子どもの将来に、もっと関わっていいように思うのです。
どうせ「ああしろ」「こうしろ」と言ったってききはしないのです。だったら「こうしてほしい」「これが私の望みだ」くらいは、言ったって何の問題もないのではありませんか?
私たちだってバカではありませんから、子の将来に願うことにはそれなりの理由があるのです。その「理由」の部分がうまく説明できなためにすぐに切り返されてしまいますが(ちゃんと説明できるようにしておきましょう)、それでも間違った願いを持つことはあまりないのです。
親の願いにまっすぐに沿ってくる子がいたらそれはそれで構いません。まず最初に親の言い出したことですから、うまくいかなかったら半分くらいは責任を取ってあげましょう。半分親のせいにできるなら子も楽です。
逆に子が、徹底的に反抗して生きるなら、それはそれではっきり道筋の見えた生き方です。「親の言う通りには絶対ならんぞ」と決心した子は、きっと強い生き方をしてくれるはずです。
いずれにしろ、子を放り出して路頭に迷わせるようなことはしたくないと、ずっと思ってきました。
(この稿、続く)