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「ソシオグラムの話」~昔はこんなふうに子どもたちの人間関係をつかんだ

 組織運営というのは詰まるところ予算と人事です。
 例えば国家について、この国を軍事大国にしようと思ったら国防予算を増大させ、大臣以下に政府の言うことをよくきく優秀な人材を当てていけばよいのです。逆にもう国防は十分だと思えば予算も人事もほどほどにということになります。予算は国家方針そのものですから国会の予算委員会は最重要とされ、各会派も最も優秀なメンバーを送り込みます。委員会でありとあらゆることが質問されるのもそのためです。

 学校も組織ですからその意味では同じなのですが、現在の校長先生には学級担任を決める程度の人事権しかありません。予算もほとんど自由にならないのです。口頭の職員指導だけで運営していこうというのですからなかなか大変です。
 学級も同じで、学級費と言ってもせいぜいがドリル帳をA社にしようかB社にしようかといった程度で運営方針を左右するほどのものではありません。人事と言ってもクラスの係など勝手に決めることはできません。しかし昔の教師はそうではなかったのです。

 私が教員になったころ、クラスの班づくりは当然担任教師が行うものでした。生徒に任せたりくじ引きで決めたりしたら学級経営なんてできるはずがないと教師は考えていたのです。
 どんな企業だって団体だって、部長や課長、部や課の職員をくじ引きやジャンケンで決めることはないだろうというのが彼らの言い分です。くじ引きで決めてしまったらとんでもなく弱小な班ができてしまい班のまとまりどころではないだろう、班競争などさせたら連戦連敗ですっかりやる気をなくしてしまうじゃないか、それでは生徒がかわいそうだ・・・と、彼らは考えます。
 そこでテーブルにクラス全員の名札を並べ、誰を班長にしてどういう組み合わせにするかを考えます。そのとき使うのがソシオグラムです。
 映画のパンフレットやテレビドラマのウェブサイトを見ると、しばしば「登場人物の人間関係図」というのが出てきます。誰と誰が恋人同士で誰と誰が反目しているとかを矢印で示したあれです。ソシオグラムはそれとよく似ています。

 作成に当たってはまず生徒のアンケートを取ります(これをソシオメトリックス・テストと言います)。
「同じ班になりたい人となりたくない人を男女それぞれ三人ずつ書きなさい。三人というのは『最大三人』という意味で、どうしても思いつかない場合は一人でも二人でも、あるいはゼロでも構いません」
 そういって始めるのです。
 ソシオグラムはそれを図にするだけですが、これが案外難しい。
 それぞれ一人から好き嫌い6本の矢が出ていくわけですからB4程度の紙(当時はB版でした)を使てもあっという間にごちゃごちゃになってしまいます。
 とりあえず男女間の好き嫌いは学級運営にあまり影響なさそうですから、これは別にする。それから人気のありそうな子を最初から中央付近に散らばらせ、誰にも選んでもらえそうにない子は用紙の端に仮置きします。そして「同じ班になりたい(選択)」を実線、「同じ班になりたくない(拒否)」を破線の矢印で結んでいくのです。

 始めのうちはフリーハンドで繋げていきますが、生徒の名前を避けて線が何本も大きく迂回しているようでは一目瞭然というわけにはいきません。最終的な仕上げは直線で引かねばなりません。そのために図は何回も書き直し、そのたびに生徒の位置を替えて考え直します。
 そうしてできあがると、図(ソシオグラム)の中にクラスの人間関係は鮮やかに浮かび上がってきます。

 相思相愛のような微笑ましい関係もあれば互いに拒否の危険な関係もあります。しかし何といっても目立つのは誰からも選んでもらえない子、好きとも嫌いとも言ってもらえない子です。
 ソシオグラムでほんとうに炙り出したいのはそういう子たちです。皆から好かれる子、みんなから嫌われている子なんて何もしなくても普段の生活ですぐに見えてきますが、孤立している子はうっかりすると見過ごしてしまうのです。そういう子には特に気にかけてやらなくてはなりません。
 ソシオグラムの中にはみんなから好かれているのに「一緒の班になりたい人」を一人上げただけで「なりたくない人」は一人もいないといった人格者がいます。何人かいます。孤立している子、孤立しがちな子はその人格者と同じ班にしておけば何かと便利です。担任が何も言わなくてもその子を助けてくれます。
 もちろん互いに「なりたくない」同士はやはり一応避けておきます。しかし「一緒の班になりたい」者同士を同じ班にする必要はありません。してもいいのですが班づくりの要素は複雑ですから、そこまで配慮することはなかなかできないのです。人気者がひと班に固まるのも何かと不便ですし、嫌われ者がひと班に二人もいるとかないませんから避けます。
 班同士は学力も運動能力も平準化されるべきです。リーダーシップのある子も一人は入れておかなければなりません。
 そんなふうに夜通し考えながら行うのが昔の班づくりです。それがうまく行けば次の班替えまで学級は安泰ですし、班ごと競って学力を上げたり特別活動に取り組んだりしてくれるので、学校でつけるべき力が生徒同士の切磋琢磨によって果たされるようになるのです。

 そんな便利なソシオグラムや担任主導の班づくりはいつごろからなくなったのか――。
 私の地方で、それはもう30年近く以前のことだと記憶しています。「私の地方では」と断ったのは平成10年(1998年)、北海道の小学校でソシオメトリックテストが行われそれが大きな問題となったと記録にあるからです。「一緒に遊びたくない子」の実名を書かせたことに配慮が足りなかったというのです。
 学校は人権教育の砦ですので「人権侵害」を訴えられると引き下がらざるを得なません。実態は知りませんがもはや学級で「一緒に遊びたい子(同じ班になりたい子)」を書かせることすらできないでしょう。

 ソシオグラムは孤立児や憎しみの関係を炙り出して担任の注意を喚起し、指導の方向性を示す有力な道具でした。担任による班づくりと競争は児童生徒の自主的な成長を促す、これも非常に有効な方法でした。しかしどちらも子どもの人権を守るためのものだったのに「人権尊重」の名の下に奪われてしまったのです。
 その子の将来の人権を守る活動が “目の前のその子の苦痛を取り去る”という人権尊重のために消えて行った例は枚挙にいとまがありません。

 そこに私は不毛な問答を思い浮かべます。
「そんなやり方でなくても、子どもの力は伸ばせるだろう」
「どうやって?」
「そんなことプロなんだから自分で考えろよ」