「傷ついたちっぽけな心」

 一昨日の新聞記事に、

 暴言:被爆者に「死に損ない」 長崎修学旅行で横浜の中3

というのがありました。

 修学旅行で長崎を訪れた横浜の公立中学校の生徒が、爆心地の案内をしていた被爆者に「死に損ないのくそじじい」と暴言を吐いたというのです。被害者が手紙で学校に抗議し、校長が電話で謝罪したと言います。

 校長は「自分たちの発した言葉が森口さんにとってどれほどつらく悲しい言葉だったのかを伝え、反省を促していきたい」と話している。

 しかし事件には前哨戦があったのであり、いきなり暴言が吐かれたわけではありません。

 学校によると、森口さんが説明していた際、私語を続けていた1人の男子生徒に「聞く気がないなら出て行け」などと何度も叱る場面があり、生徒は退席させられた。暴言を吐いた男子生徒らは「そうしたやり取りに腹が立った」と話している。

 私にはこれがとてもよく分かります。しかしその前にこの両者のやり取りを比較してみましょう。

被爆者の森さん】

・誠実に平和について考え、誠実に生きてきたのに「死に損ないのくそじじい」と言われた。

・いや、そもそも誠実に話をしていたのに、生徒は私語をしていて話を聞いてもらえなかった。

【暴言を吐いた生徒】

・公衆(あるいは同級生)の前で「聞く気がないなら出て行け」言われて恥をかかされた。傷つけられた。

・聞きたくもないのに平和の話を聞かされた。

 こうして並べてみると両方とも被害者なのです。しかしもちろん客観的な立場からすれば、前者は限りなく大きく後者はとるに足らない――というかそもそもが自業自得みたいな話です。

 平和の話を聞きたくなかったら修学旅行など来なければよかったのです。義務教育とはいえ腹をくくって“学校に来ない”という選択もできました。それを敢えてそうはせず、中学校の生徒として暮らし修学旅行についてくる以上、平和教育を受けることも被爆者の話を聞くことも、丸ごと引き受けなくてはなりません。何も悪いことをしろというのではないのですから。

 しかしこの子たちはできなかった。興味がない話を黙って聞き続ける忍耐強さも誠実さも持ち合わせてはいなかった。

 その結果「聞く気がないなら出て行け」と何度も叱られたのですが、ここからが問題です。

 ただ喋っていただけなのに「聞く気がないなら出て行け」と何度も叱られた、

 それは彼の主観からすれば胸を切り裂かれるような最大限の侮辱です。叱られているあいだオレは何度も侮辱に耐え続けた、けれどそれでもアイツは叱ることをやめなかった。アイツのやり方には我慢がならない、傷ついた心は報復によってしか癒されない――もうそうなると何でもアリです。「死に損ないのくそじじい」くらい彼らにとって軽いジャブのようなものです。

 子どもというのはそもそもが主観的な生き物です。その主観性が強ければ強いほど幼いといえます。

 この記事の出た6月8日は奇しくも大阪教育大学付属池田小学校事件と秋葉原事件の両方が起った日です。平成の歴史に深く刻まれるこの二つの大量無差別殺人が同じ月日に行われたということ、私は長く忘れていましたが何かの因縁かもしれません。

 ふたつの事件の加害者は、一方が子どものころからの犯罪者で他方が存在さえはっきりしないような影の薄い人間だったということを除けば、ともに自分の人生の悲惨さと大量殺人の悲惨を天秤にかけられるような徹底した主観主義者です。

「聞く気がないなら出て行け」と言われていっぱいになり、暴言を吐いて悪態をまき散らすような弱っちい心を、私たちはなんとか鍛えなおしていかなければならないはずなのですが・・・。