カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「人を足せ受けるために、反射的に動く人」~なぜ、私にできないのだろう

 昨日、「今は自分が遠からず死ぬだろうということもほとんど苦になりません」と書いてふと考えました。死が怖くないといっても「それでは危険なことも平気でするか」と言われればそういう訳にもいきません。好んで死の近くにいようという気持ちももちろんありません。

 娘がまだ1歳か2歳の頃のことです。その“ほとんど赤ん坊”を抱いて湯治場の露天風呂から内湯に戻ろうとしたときです。雪の積もる道を下駄で歩いて石段を二歩ほど上がったところで裸のまま滑りました。“仰天”というのはそういう状態を言うのかもしれません。宙に浮いた両足が見えたのです。
 私は瞬間的に娘をギュッと抱きしめ、手が使えないのでそのまま背中から落ちて石段の角で死ぬほど脇腹を打ちつけました。ほとんど数分のあいだ息ができなかったほどです。娘はあまり強く抱きしめられたので、ビービー泣いています。
・・・と、私は少し嘘をつきました。実は転んだ時、娘を強く抱きしめたのではなく、両手をズンと前に突き出してバランスを取ろうとしたのです。放り投げなかっただけまだマシでしたが、“父性本能が娘を守った”などということはなかったのです。

 他人の車に乗るとき、一番危険なのは助手席、安全なのはドライバーの後ろという説があります。正面衝突などの危険に会ったとき、運転者は本能的に回避行動を取るため、場合によっては助手席を前に差し出すというのです。いかにもありそうなことです。人間は、というより動物は、自分を守るようにプログラムされているのです。
 けれど一方、「そうではない」と主張するような事実を私たちは知っています。

 先月、横浜で踏切内にうずくまる老人を助けようとした40歳の女性が電車にはねられて亡くなるという事故がありました。信号待ちしていた車から、「ダメだ、間に合わない」と叫ぶ父親の声を振り切って反射的に飛び込んでいったのです。
 さらにその2週間ほど前、台風で増水した淀川に落ちた小学生を助けるために自ら飛び込んで救出した中国人留学生のことが話題となりました。日中両サイドから賞賛の嵐でしたが、本人は「川の流れがあそこまで急とは思っていなかった。(中略)今回は運よく子供を救出できたが、誰かを助ける時は自分の安全も考えなくてはいけないことが分かった」と述懐しています。この人も反射的に体の動いたのであって、命を落とした女性とは紙一重でした。

 これらの人たちを無条件で賞賛するのは誤りでしょう。同じ状況で救助に向かわない人はたくさんいるからです。事実、女性の父親はそうでしたし、中国人留学生にロープを投げた“近所の人たち”も“すぐに飛び込まなかった”一人です。けれどだからといって非難される理由はありません。両者の間には反射的に体の動く人とそうでない人の違いがあるだけで、助けたいという気持ちには変わりなかったからです。

 ところで、こうした “他人を救うために、反射的に体の動く人”たちは私たちと何が違うのでしょう? この人たちには“自己保存の本能”がなかったのでしょうか。それともそうした反応を越えて、彼らを突き動かす何かがあったのでしょうか。

 今日の話に結論はありません。私はもう年ですから誰かのために命を投げ出すことがあってもしかるべきだと思います。でもそれはしないでしょう。自分の身を捨てて娘を守ろうとすることもできない人間には、そんな崇高な行動などできるはずはないからです。また自分の子や教え子たちが“投げ出す人”であってほしいとも思いません。その上で、彼らがなぜそうなのか、とても気になっているのです。