「人権教育旬間」② 〜いじめの研究

 学校における最大の人権問題は「いじめ」だ、そう言っても異論は少ないでしょう。ここに何らかの光明を見出せば、人権教育は大いに進むことになります。
 しかしそれが難しい。なぜならこれまで、「いじめ」がきちんと研究されることはなかったからです。

 たとえば平成18年度に文科省から出された「『児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査』の見直しについて」には、
「いじめられた児童生徒の立場に立って、より実態に即して把握できるよう、いじめの定義を見直す」
とあり、最初から公正あるいは客観的な判断はしない方向で「いじめ」の定義も変えてしまおうと宣言しています。実際その後の「児童生徒の問題行動等〜(中略)〜調査」では
「個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」
となっており、被害者の側にバイアスをかけて判断するよう求めています。しかしそれでは研究になりません。

 さらに社会的な注目を引きやすいため、「いじめ」がむやみに多用される傾向があって分析の邪魔をします。
 たとえば「名古屋5000万円恐喝事件」(1999)も「中野富士見中学校いじめ自殺事件」(1986)も同じ「いじめ」で繰られますが、性質はまったく異なります。それを同じテーブルに載せるから話が分からなくなるのです。

 第3に、私たちが「いじめ」事件の時系列での変化に対して、あまりにも鈍感だったということです。
 たとえば「中野富士見中学校いじめ自殺事件(通称「葬式ごっこ自殺事件」)」は、クラスメイトばかりでなく他の教室の人間や教師まで加わって一人をいじめるという、大掛かりでどこにも救いのない事件でした。しかし被害者の鹿川君はある日突然そういう状況に陥ったわけではありません。
 そこに至るにはさまざまに紆余曲折があり、加害者にも鹿川君にも心の変化がありました。それを加味しないで事態の最終局面だけで判断すると、被害者は無辜の善人で加害者は極悪人ということになります。しかしそんなはずはありません。

 そういえば「温泉ガエル」という話がありました。ビーカーの熱いお湯の中に投げ込まれたカエルは慌てて飛び出すが、水からゆっくり温められたカエルは危険を感じることもなくいつか死んでしまうというあの話です(本当にそうなるとは思えないのですが)。鹿川君も加害者も周囲の人々も、事態がそういう方向に進んでいるとは夢にも思わなかったのです。しかしある日気づくと、彼らは互いにのっぴきならないところにまで来てしまっていました。おそらくそういうことです。

「いじめ」は分析されなければなりません。ただ「加害者が100%悪い」「学校の隠ぺい体質」と言いたてていても何の解決にもなりません。

 湯川准教授のセリフを借りれば「現象には必ず理由がある」のです。それを分析しなければ何の対応策もとれないのです。

                      (この稿、なおも続きます)