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「一見悪くなさそうなものの落とし穴」~義務教育の留年制について①

 橋下徹大阪市長が義務教育の留年制について検討するように指示を出したそうです。

 橋下徹という人は喧嘩上手で、十通そうとするときに二十吹っかけて十引くというやり方をよくします。こちらとしては二十を半分にしてもらったわけですから何んとなくホッとしてしまいますが、橋下側から見れば完全勝利のようなものです。もちろん“そうしたやり方をよくする”と分かっているなら最初から十を念頭に勝負すればいいようなものですが、本気で十八くらいまで通せる力を持っているので始末の悪いところがあります。

 さて、義務教育での留年についてですが、
「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」
「留年は子供のため」
という橋下市長の言い分は正論で、おそらく私たちの中にも賛同者はでてくるはずです。何んといっても学問には系統性と階層性があります。1年生の内容をある程度理解していないと次の段階が非常に苦しい。中1の英語がほとんど分かっていないのに2年生になったらよく理解できるようになったというようなことはめったにありません。そこから、「留年は子供のため」という論理が出てくるわけですが、現実的運用として果たしてうまく機能するでしょうか。

 勉強の苦手な子どもは万遍なく成績が悪いわけではありません。算数が苦手な子もいれば国語ができない子もいます。体育がまったくダメな子もいれば運動だけ飛び抜けて優秀な子もいます。したがって“留年”を前提とすると、苦手な一教科のために得意な別教科も再履修することになります(留年制度のあるフィンランドの場合は、8科目中2科目で及第点を取れないと進級できません。したがって不必要な教科も学習しなおしているはずです)。

 例えば小学校2年生で体育の苦手な子は、そこで留年すると得意なかけ算九九まで最初からやることになってしまう・・・。

「いや、そんなことはないだろう。ダメな体育だけやり直せばいい」
 当然そういう理屈は出てくるわけで、そこから次にくるのが“義務教育の単位制”です。これだと体育だけ下の学年でやり直せばいいことになります。

 Aちゃんは体育と理科が下の学年、Bちゃんは算数と社会科が二つ下の学年・・・というふうにやるわけです。そして上の学年からもXさんが国語と社会の時間に降りてきて、Yさんは体育と算数だけ参加しに来るということになります。

 問題は、そうなると現在のような“学級”が維持できなくなるということです。

“学級”はひじょうに閉鎖的な空間で、好むと好まざるとによらずそこの人間関係に縛られます。優秀な子もいればそうでない子もいる、好きな子もいれば嫌な奴もいる。そうした様々な人間の中で多様な活動を行いながら、日本の子どもたちは人間関係を学んできます。

 しかし単位制にした場合、そうした人間関係の学びがほとんどできなくなってくるのです。

フィンランドの場合、学校の仕事は教科教育をすることで、人間関係の学び《=道徳》は求められません。したがって学校の行事も90%以上は自由参加です。“学級”が必要とされることもないのです)

(月曜日に続きます)