カイト・カフェ

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「最後の夢」~経験知として学校に根付いているものについて、すべて説明できるようにしたい

 心臓に問題を抱えておられる方の中でニトログリセリンを持ち歩いている人がいます。狭心症の発作を抑える特効薬なのです。

 かつて心臓発作の広汎な調査をしたとき、ダイナマイト工場の従業員が有意に発作を起こしにくく、しかも自宅にいる時よりも工場勤務時のときの方が少ない、という事実が発見されました。さらに調査を進めると、作業員がダイナマイト製造の過程で時々それを食っていたことが分かったのです。ダイナマイトというのは食べると甘くておいしいのです。
 おそらくニトログリセリンが発作を抑えることに関して、化学的あるいは生理的メカニズムは分かっていません(分かっているかもしれませんが)。しかしそんなことはどうでもいいのです。とにかく死に至る深刻な病気に極めて有効に働くということが分かれば、それは薬として世の中に広まります。薬学の世界はそうした経験知に溢れています。薬の多くは、なぜ効くか分からないが、効くから使うというところから始まりました。

 学校も同じような経験知のかたまりです。ある活動、指導、方法が有効だと信じられればそれは継続され維持されます。無効ならいつか消えていきます。もちろん鮮やかに分別されるものではなく、有効性がなくなっても残っているものもあれば何らかの事情によって使えるのに消されたものもあります。しかし基本的には残るべきものは残り消えるべきものは消えていくのです。
 ただし困るのは、そうしたものの多くは、経験として生まれ経験として残されるため、いざ「それはどうしてそうなの?」と聞かれたときに答えられない場合が少なくありません。

 例えば、なぜ始業式や終業式は必要なのか、なぜそのつど校歌を歌うのか、式の始まりと終わりに誰もいないステージに向かって一礼するのか、閉開会や講話のために段に上がる教頭や校長は、壇上で何に向かって頭を下げているのか、そうしたことは改めて訊かれるとみな困ります。学校の場合は特に、(狭心症のニトロと違って)それをやめた場合の不具合や問題はすぐに現れないから、さらに厄介です。

 私は基本的に保守的な人間です。学校は保守的であるべきだと思っていますし、新しいことを始めるにしても右顧左眄、あちこちをキョロキョロと見ながら、それが「おおむね効果がありそうだ」と分かってからことを始めればいいと思っています。前衛的なことを繰り返し「ああ、やっぱりダメかぁ」といったことは、子ども相手の私たちには許されないと感じています。
(十分な効果の蓄積もないのに一斉に始まった総合的な学習の時間は案の定批判され、時数が減らされました。その意味で小学校英語についても私は不安を持っています)。実験的なことは、附属小中学校や私立学校のように“子どもたちが好きで行っている学校”でやればいいことです)。

 ただし昔と違って、学校のやることだから文句を言うなとか、伝統だから辞めないとか突っぱねることもできません。以前なら説明せずに済んだことも、すべて説明可能にしておかなければなりません。

 私の野望の一つは、経験知としてデンと学校に根付いているものについて、すべて説明できるようにしたいということです。児童生徒や保護者から「なんでそうなってるの?」「なぜ学校はそうするの?」と聞かれたときに、すべて納得のいく説明ができるようになりたい……。それはおそらく可能な夢です。今の学校に残っているものは残るべくして残っているのですから、詳しく検討すればそこには必ず合理的な説明があるはずだからです。