カイト・カフェ

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「校則はくだらなければ、くだらないほどいい」~戦いの最前線は遠いほどいい

 最近はあまり耳にしませんが「学校はなぜあんなにくだらない校則を必死に守らせようとするのか」という基本的な問いがあります。

「あんなくだらない校則」の中身は、髪を染めるなとか、スカート長けだとか、ピアスだとか、それこそ挙げたら切りがないほどたくさんのことがらです。
 それらを「くだらない」と言っているのが子どもの場合、教師との会話はこうなります。

生徒「なんであんなくだらない校則、守らにゃいけんのよ」
教師「茶髪や短いスカートやピアスのことはくだらないことじゃない」
生徒「あんなのくだらないに決まっているじゃんか」
教師「くだらないと思っているなら、しなけりゃいいじゃないか」
生徒「いや、茶髪やピアスがくだらないって言ってるんじゃなくて、校則がくだらないっていってるんだ」
教師「茶髪や短いスカートやピアスがお前たちにとって大切なら、それに関する校則は大切にきまっとる」
と、基本的には平行線です。

 茶髪やピアスがいけないことについてはいくつかの論理と説明があります。しかしそれを受け入れられるのは良い子と普通の子だけで、悪い子(と言うか、とにかくこれから校則に挑戦しようとしている子)たちが根本的に持っているのは“そうしたい”という欲望だけです。欲望と規律の対決ですから、どこかに妥協点があるわけでもありません(30%の部分染めならいい、というわけにはいかないでしょう)。

 また子どもの持つ欲望の本質は、それが「格好いいから」とか「似合うから」とかではありません。彼らの本質的な欲望は、他の生徒からの差別化です。「自分は違う」「普通、あるいは平凡ではない」ということを明らかにしたいのです。そして教師はこの本質を見抜いているからこそ、絶対にさせたくないと感じています。差別化は他のもの、例えば勉強とかスポーツとか生徒会とか、学校教育の枠の中で図るべきだと教師は考えます。その子のもつ差別化のエネルギーが服装や態度といった望ましくないものでムダ遣いされるのが嫌なのです。

 それが服装だの化粧だの、「くだらない校則」のために教師が必死に戦うひとつの理由です。

 戦争において、戦いの最前線は本拠地から遠ければ遠いほど有利です。いくつかの戦闘に敗れても本隊が危うくなることはありません。同じように生徒指導の戦いは、どうでもいいことで戦っているほうが圧倒的に有利です。

 教師と生徒の戦いで教師が一方的に勝つなどということはそうはありません。指導は失敗することもありますが、茶髪・ピアス戦争での敗戦は、せいぜい生徒の髪が染まって耳に穴が開く程度です。しかしその「どうでもいい場」での戦いがなくなって、生徒の差別化が「薬物」や「犯罪」や「性」のステージで行われるとしたら、教師の敗戦は生徒に深刻なダメージを与えます。
 繰り返しますが、教師が100%勝利する生徒指導などないのです。崖っぷちでの戦いなど、とてもできたものではありません。

 学校が「くだらない校則」のために必死に戦う、もうひとつの理由がここにあります。