カイト・カフェ

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「子どもの犯罪は、必ず暴いてやらなくてはいけない」~告解(ゆるしの秘蹟)のために

 昔、妻の勤めていた学校で、3年生が学級園に植えたサツマイモの苗を誰かがすべて抜き取ってしまうという事件がありました。そのとき全校で調べてくれという3年の担任に対して、妻が「まず自分のクラスについて調べなさい。それでまったく疑いがないということになったら全校に計りましょう」と至極真っ当な話をしたところ、「あんなに一生懸命に苗を植えた子たちがそんなことをするはずがない、先生は犯人探しをしろというのですか」と、今流で言えば“逆ギレ”されたといいます。

 そこで「誰がやったかはっきりさせ、きちんと罪を償わせなければならない」という話をしたところ、「そんなことはできない、子どもを疑うことはできない」(他のクラスの子どもなら疑っていいのか?)という話になり、結局教頭先生にまで出てきてもらって、「全校に事件を知らせ、各担任から『秋の収穫を楽しみに一生懸命苗を植えた人の気持ちを考え、これからは絶対にこういうことがないようにしよう』と心に浸みる話をする」というところに話が落ち着いたそうです。

「私、納得できないんだけど」と妻が言います。私も「納得できない」と答えておきました。

 自分のクラスを脇に置いて全校を調べてくれというのは論外でしょう。その上で「犯人探しをしろと言うのですか」と訊かれたら、私だったら「犯人探しをしろということです」と答えます。
 なぜならクラス全体・学校全体への話で「心に浸みる話」など、少なくとも私にはできないからです。犯人はいけしゃあしゃあと毎日を送ることになります。しかしもしそんな「心に浸みる話」ができて本人が深く反省したとしたら、その方が問題は深刻です。それは深く反省し後悔し、傷ついたその子の心は誰にも癒されないからです。

 カトリック教会には「告解」という概念があります。
 キリストによって定められた特別な儀式(サクラメント秘蹟)のひとつで、現在は「 ゆるしの秘跡」と言うのだそうです。ときどきアメリカの映画に出てきますが二つに仕切った箱のような部屋で、小窓を挟んで神父と告白者が対峙するあれです。懺悔とも言います。

 基本的には告解する者が一方的に罪を告白し、神父は最後に「では悔い改めの祈りをしましょう」と言うに留めるようです。つまり告白することによって赦されるという考え方なのです。私は欧米の思考は基本的に嫌いなのですがこれは例外的に良い仕組みだと思っています。

 子どもも反省し後悔したらどこかで赦され、(事件そのものを)水に流してもらわなくてはなりません。反省し後悔しているのに誰にも赦されていないという状況は、その罪を一生背負っていけというのと同じです。

 犯人を必ず探し出し反省させるというのは、ひとつには懲罰であり再犯抑止の有効な方法ですが、同時に、子どもを赦し、事件を忘れ、屈託なく生きさせるための重要な方法なのです。