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「死んではいけない」~教師は死ぬのが仕事・・・ではない!

 9日の朝日新聞に「夢見た教壇2カ月 彼女は命を絶った 23歳教諭の苦悩」という記事が載っていました。
 東京新宿区の、各学年単級の学校に新卒教員として赴任してきた女性が、仕事に追われ、保護者の苦情に悩んだ末にわずか2ヶ月で自殺したという内容の記事です。

 学校の規模が大きかろうが小さかろうが、1校が必要とする係の数は同じようなものですから、小さな学校に赴任すれば必然的にひとりの背負う係は多くなります。それを同学年の教員の支えもなくやっていくのですから、大変だったのは確かでしょう。教頭や校長がきちんと支えなかったのかという疑問も残ります。

 さて、
 開拓時代のアメリカで、最も多く殺された人々の職業は教員でした。人々にとって教師は、働き手である子どもを親から奪っていく悪魔だったからです。

 1917年の革命以前のロシアでは、たくさんの若者が「ヴ・ナロード(人民の中へ)」を合い言葉に農村へ入っていき、そこで教員をしながら啓蒙活動に努めました。彼らはやがて弾圧され、殺され、過激化し、ロシア革命の先駆となっていきます。

 最近では1970年代のカンボジアで、ポルポト政権下、たくさんの教師たちが他の知識人と共に殺されました。

 日本でも、安政の大獄の際に殺されたり獄死した吉田松陰橋本左内頼三樹三郎といった人たちは、皆、教育者でした。

 私の中学校時代の英語の教科担任、高校の(やはり)英語の教科担任、そして私の弟の小学校の学級担任は、皆、現職のまま死にました。私が教員になった年に、同僚の一人が亡くなりました。
 教師というのはそういうものだという思いが、私にはあります。
 しかし皆さん、死んではいけません。休めるときには、早めに家に帰ってゆっくり休むようにしてください。

(参考資料)
「夢見た教壇2カ月 彼女は命を絶った 23歳教諭の苦悩」

  東京都新宿区立小学校の新任の女性教諭(当時23)が昨年6月、自ら命を絶った。念願がかなって教壇に立ち、わずか2カ月後に、なぜ死に至ったのか。両親や学校関係者に取材すると、校内での支援が十分とはいえないなか、仕事に追われ、保護者の苦情に悩んでいた姿が見えてくる。

 母(55)がメモ帳に書かれた遺書を見つけたのは、死去から2カ月たった昨年8月のことだ。「無責任な私をお許し下さい。全て私の無能さが原因です」。「無責任じゃない。責任を果たそうとしたから倒れたのに」と父(55)。やりきれない思いがこみあげた。

 高校時代から教師を目指した娘が小学2年生の担任としてスタートを切ったのは、その年の春。

 この学校は各学年1学級だけで同学年に他に担任がおらず、授業の進め方の直接の手本がなかった。しかも、前年度10人いた教員のうち5人が異動していた。「家庭の事情など本人の希望などを尊重した」と区教委は言うが、「校長の経営方針に反対して異動を希望した教員も多かった」と学校関係者。「新学期のうえに教職員が入れ替わったせいで、ゆとりがなかった」と関係者は語る。

 娘がまず提出を求められたのは食育指導計画、公開授業指導案、キャリアプラン……。離れて住んでいた父は娘と電話で話していて「追いまくられてると感じた」。午前1時過ぎまで授業準備でパソコンに向かい、そのままソファで眠る日が続く姿を姉が見ていた。

 娘は姉や祖母に「保護者からクレームが来ちゃった」と話してもいた。

 区教委によると、ある保護者が4月中旬以降、連絡帳で次々苦情を寄せた。「子どものけんかで授業がつぶれているが心配」「下校時間が守られていない」「結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのでは」。校長がこれを知ったのは5月下旬だった。「ご両親が連絡帳の文面を見たらショックを受けるかもと区教委から言われた」と父。

 他の保護者たちも校長室を訪ね、「子どもがもめても注意しない。前の担任なら注意した」などと訴えていたという。

 娘は5月26日に友人と会ったとき、「ふがいない」「やってもやっても追いつかない」と漏らした。その翌日、自宅で自殺を図ったが、未遂となった。

 母が急いで精神科を受診させたところ、抑うつ状態と診断された。魂の抜け殻のようで声が出ない。娘は言った。「ひどい」。しばらくして「あたし」。

 自宅の風呂場で自殺を図ったのは、その2日後の夜だった。翌6月1日朝、病院で亡くなった。

 「大学時代、小学校で先生の補助をし、笑顔の絶えなかった娘が、どうして……」。両親は写真に問い続けた。

 団塊の世代の退職を受け、各地で新人が次々採用されるなか、埼玉や静岡などで自殺が起きていたことも改めて知った。

 亡くなって5カ月後の10月下旬、地方公務員災害補償基金東京都支部に対し、公務上災害の認定を申請した。「声を上げないとさらに亡くなる人が出てしまうかもと思うと、いてもたってもいられなかった」と母は話す。

 今春、2人は都公立小学校長会に手紙を出した。その一節にはこう書かれていた。

 「若い先生方への心と身体へのサポート体制を学校全体として作り上げていただきたい。そして若い先生方に、いつまでも夢を追い続けていただきたいとの一念です」