カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「罪深さを知る」

 日本の裁判では3人以上の人を殺しながら死刑を免れた例はありません。そんなことは犯罪者も知っていますから、該当する場合は2人目以降をしゃべらないのが適切な対応です。日本の制度では黙秘権が認められていますから、一切だんまりを決め込めばいいのです。いや、そもそも最初の殺人についてしゃべらなければ、少なくとも死刑になる可能性は極めて少なくなります。なのになぜなぜ、犯罪者はいともやすやすとしゃべってしまうのでしょう?

 一般には論理的に追い詰められて「参りやした・・・」となると考えられていますが、それはちがうでしょう。論理が怖ければ、最初からだんまり作戦で通せばいいだけのことです。また被疑者としてはじめて警察と立ち向かう犯罪者ならともかく、そういうことに慣れたやくざ屋さんや再犯者・再々犯者が簡単にしゃべってしまうのはやはり不思議です。

 そうなると、そこにはどうしても反省や後悔があったからだと考えざるをえません。そして次にテーマとなるのは、警察がどのようにして被疑者を反省に持ち込むかということです。

 私は、それには、あの膨大な調書というものが関係していると感じています。よくテレビドラマでやる「よし、もう一回最初からおさらいしてみよう」というアレです。この作業自体は裁判の過程で遺漏が出ないよう繰り返される確認ですが、それを行うことにより、今までこちら側にあった事件自体が客観的に見えるようになるのではないかと思うのです。

 自分がやったことには様々な言い訳があります。しかしそれを他人の行いのようにまざまざと見ると、己のやったことの罪深さは、明らかに目に浮かんできます。私は、いじめや暴力に関する指導の際は、意図的にこの方法を使いました。もちろん事実そのものを知るということも必要なことですが、それを知る過程で同時に反省も促していくのです。

 そのためには実際にその場に行き、そのときの行為を再現させることまでしました。それがうまく行くときは、説教も必要ありません。反省文さえ必要でなくなるときもあります。