「不機嫌な朝」

ジーコ・ジャパンが負けた翌朝)

 なにやかや言っても、自主性だの創造性だの言う前に、教えるべきことを教え出すべき指示は出しておかなければ話にならないだろう。トルシエはうるさすぎたが、とにかく指示は出してた・・・と、不機嫌な朝です。

 民主主義は個人を重視するシステムですから、指示とか命令とか強制を極端に嫌います。そこから生まれてくるのは必然的に、個人の権利の拡張です。学校でも例えば、給食で嫌いなものを食べない権利、食べられないもののあることを個性ないしは個人差として認めろという話が出てきます。しかしそんな馬鹿なことはありません。レバーがダメだとかセロリが食べられないとかいった話ならまだしも、食べられないものが10品目にも及んだり、野菜がダメだとか魚がダメだとかザックリとひと括りにしたり、学校給食は不味いからなどとイチャモンをつけたりするのでは話になりません。そういうお話をされる方は、大雑把に三つの点で理解ができていないのです。

 第一は、学校の教育は知育・徳育・体育の三領域で同じように行われているということ。給食はその中で体育に関わり、毎日行われるという点では教科の「体育」よりはるかに重要で、ここで手を抜く人は教師ではなということです。個性を守れ個人差を認めよという人は、担任が「この子はわり算が嫌いですから、無理してやらなくてけっこうです」とか「理科が苦手ですかァ、じゃあ代わりに体育でもさせておきます」とかいったら納得してくれるでしょうか? そんなことはないはずです。

 第二に、食育は人間の生存に関わる最重要の教育だということです。100年以上も遡るとあるものしか食べられないという貧しい時代がありましたが、飽食の今と異なって、その時代はみんな健康に暮らしていたかというとそうではありません。栄養失調やビタミン不足による様々な疾病。昔はお婆さんといえば腰が曲がっているという相場がありましたが、今から考えれば全員骨粗鬆症だったに過ぎません。

                          

 マグネシウムの入った食品を一切与えないとラットは子育てをしなくなるという実験結果があります。カルシウム不足がイライラを昂じさせることはよく知られています。糖分にはつかれた頭を覚醒させる作用がありますが、それは覚醒剤と同じで、多用すると中毒症状に近いものが現われます。糖分が切れると集中を欠き、いらいらしたり強暴になったりするのです。

 栄養は身体ばかりでなく人格や生活そのものに関わってくる、それを知りながらきちんとした食生活を作らないとしたら、それほもうほとんど虐待です。

 三番目は、学校では一人に認めたことは他の全員にも認めなくてはならない、ということです。食物アレルギーや糖尿病など病気のために食べられないのはかまいません。今は食べられないががんばっている、というのも結構です。しかし嫌いだから食べませんというのを認めてしまうと、他の全員に同じことを許さなければならなくなる。その中にはちょっとがんばれば好き嫌いのなくなりそうな子もいます。逆に、真剣に健康が心配されるほどに好き嫌いの多い子もいます。そういうすべての子たちが、同じように「食べなくてもいいよ」になってしまうのです。

「あなたのお子さんが気楽に給食を残せるようになるために、みんなが犠牲になるのはいいことでしょうか?」

 それにしてもブラジル、祖国の英雄に敬意を表してワザと負けてくれないかなあ・・・