「我が内なるLD」

 

 本校にお世話になる際、歓迎会で「どうしても名前や顔が覚えられない」という自己紹介をしました(カール・スモーキー石井などという話をしたときです)。その病もいよいよ硬膏に入ったようです。

 先日、自分の息子のPTA作業に出た際、保護者のひとりに声をかけられたのですが、その人が誰なのかどうしても分からない。話をしているうちにどうやら同じ教員だという所までは分かってきたのですが、名前はおろか、どこかで会ったという気さえして来ない・・・。

 いくらなんでもかつての同僚、ということはないだろうと思いながらも、何かの委員会で年間5〜6回程度しか会っていない人などは平気で忘れてしまいますから、危うくてしょうがない。本当にハラハラした数分でした。

 

 私にだって見栄やプライドはあります。不誠実な人間だとかいい加減な人だとかは思われたくないし、バカだとバレるのもいやです。しかし覚えられないものはどうやっても覚えられない。それは誠実さや真剣さとは別のものです。それでしばしば生活に支障をきたすのですから、(かなり幅の狭いとはいえ)立派な学習障害です。

 

「全ての人は障害者である」という言い方があります。全ての人がどこかに優れた点を持つように、誰しもがどこかに大きく能力を欠いた部分を持つ、という考え方です。

「方向音痴」と言われる方向性のLD(たぶんそうでしょう)は非常に多くの人に見られます。机の周辺がさっぱり片付けられない人、計画が全く予定通り遂行できない人、時間に間に合わせるということがひどく苦手な人・・・「つい一言余計なことを言ってしまう」人だって、もしかしたら発言コントロールの障害なのかもしれません。

 

 だから許せとか、だから認めろとかいった話ではありません。そうした欠陥は誠実さや落ち着きや注意力とは関係ないのかもしれないということです。別な言い方をすれば「相手の気持ちになってご覧」とか「落ち着いてやりなさい」とか「もっと注意して!」とかいった指導は、もしかしたら指導になっていないのかもしれないということです。

 もちろん多くの子は、誠実さや落ち着きや注意力に問題があってそうなっているのでしょう。しかしその場合でも、心の問題としてではなく、技能の問題として扱ってやることの方が,親切でなおかつ解決への近道なのかもしれません。心構えを問題にするのではなく、そうした問題の具体的な解決法をともに考えていくということです。

 

 皆様、私が名前を失念するようなことがあっても、どうぞお気を悪くなさならいでください。心はきれいなのです。技能の伴なわない部分は、現在も努力しております。