カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「自信崩壊:『いう(言う)』と『ゆう』」~日本人にも難しい日本語②

 Facebookの元教え子の日本語表記が気になる。
 「ゆう」は「いう」、「そうゆう」は「そういう」に、
 それぞれ書き換えるべきではないか――
 そう思って調べたら、とんでもない事実が判明した。
 という話。
(写真:フォトAC)

【四半世紀前の教え子にいうべきか】

 10数年前Twitterを始めとするSNSの興隆に乗り遅れまいと、片っぱしアカウントを取ったのですが、現在、日常的に稼働しているのはLINEくらいのもの。X(旧Twitter)やFacebookYoutubeはほぼ毎日開きますが、投稿することは稀。Youtubeとインスタに至っては登録時に動画や画像を上げただけで、以後、自分から発信することはなくなっています。撮影ということにはまったく興味も自信もないのです。
 
 本名で運営しているのはFacebookのみ。投稿の公開は「友人まで」としてありますから、ごく内輪で近況報告をやっている感じです。齢が齢なので実際の「友だち」や先輩にFacebookをやっている人は少なく、必然的に「友達」元教え子の比率が高くなっています。10数年前は独身で、夜の時間を持て余していた子も多かったのです。
 
 そんな教え子の中のひとり、多忙な中でも精力的に更新を続けている子がいます。
 気持ちは分かります。表現欲に駆られてどんなに忙しい時も更新し続けるというのは、現役のころの私も同じでした。ただしその子の写真は私など足元にも及ばないほどうまく、文章もうまい。忙中閑ありで仕事以外の生活の基礎に芸術があり、音楽を愛し、美術を楽しみ、美しい自然や事物に心惹かれ、そうしたものに触れてはエッセイのように更新してくるのです。子どものころもいい子でしたが、おとなになってもいい子に恵まれたと、内心とても喜んでいました。唯一のことを除いて――。
 
 それはこの子が「いう」(動詞)と書くべきところで「ゆう」を使うという点です。動詞の「いう(言う)」も連体詞の「そういう」も、いずれの場合も「ゆう」「そうゆう」と書く、それが私の言語感覚にいちいち引っかかります。

【「いう」と「ゆう」】

 「いう(言う)」も「そういう」も、決して「ゆう」「そうゆう」と同じではありません。「ゆう」は極めて口語的で、おそらく歴史も新しい――。なぜそう思うのかというと、「いう」には活用形があって、
「いわ(ない)・いえ(ば)、いう、いう(とき)、いえ(ば)、いえ」
と揃うのに、「ゆう」を無理に活用させれば、
「ゆわ(ない)、ゆえ(ば)、ゆう、ゆう(とき)、ゆえ(ば)、ゆえ」
と、まるで髪結いさんと話しているみたいな感じになってしまいます。命令形なんて「言え」という意味で「ゆえ」使ったら、髪が結われてしまったということになりかねません。

 それにそもそも「いう」を「ゆう」と発音すること自体が間違っていて、極力「いう(iu)」に近づけて発音するべきだ、と私は思っていたのです。
 そこで説得力を持たせるため、NHK放送研究所のサイトに行って『「言う」の発音は[イウ]か[ユー]か』というページをみたら、こんなふうに書いてありました。
『終止形と連体形の場合、ひらがな表記は「いう」ですが、発音は[ユー]です』
 え? 発音は〔ユー〕?
 しかも続けて、
「活用した場合の発音は[イワナイ、イイマス、ユー、ユートキ、イエバ、イエ]となります」
 オイ!

【自分でやってみた】

 そこで改めて発音してみると、例えば「また、そういうことを言う!」の「そういう」も「言う!」も私は「イウ」と発音しています。少し訛った感じで「ユウ」に近づいた印象はありますが「ユウ」ではありませんしましてや「ユー」だなんてことはあるはずがないのです。

 次に同じ文章をメモにして妻に読ませると、彼女は、
「また、そうユーことをイウ!」
と、面倒くさい差をつけて発音してみせます。私が「イウ」を指摘すると、
「あら、そう?」
とか言ってもう一度文を読むのですが、意識して読んだせいか今度は両方とも「ユー」になってしまいます。
 よくわかりませんが、微妙なことだけは確かなようです。

【自信崩壊】

 NHKによれば、
『ひらがな表記は「いう」です』

とありますから、とりあえずは私が正しく元教え子が間違っているということにしてもらいましょう。しかし彼女が意図的に「ゆう」を使っている可能性があり、もしかしたら個性として打ち出しているのかもしれません。どう読んでもその部分だけが異質なので、可能性としてはないわけではありません。私も他のひとなら「・・・」とするところを、あまりにも思わせぶりが強い感じがして嫌で、わざと一般的でない「――」を使おうとします。それが私のこだわりですから、似たような意味で彼女が「ゆう」を使っているとしたら、私が引き下がらざるを得ません。したがってこの部分は「判定ナシ」ということになります。

 発音は[ユー]ですは、実際に「イウ」と発音している人間からすると決して承服できるものではありません。しかし天下のNHKが言っている以上、少なくとも日本人の大多数は「ユー」と発音しているのでしょう。だとしたら私の負けということになるのでしょうか?
 
 そう思ったらあちこち自信がなくなってきて、そちこちが不安になってきたりします。
 例えば「いい子」と「よい子」、どう使い分けるのでしょう。「いく(行く)」と「ゆく」。何が違ってどう使い分けたらいいのでしょう。
 もう三途の川が見えそうな今になって、そんなことがとても気になってきたおんです。
(この稿、続く)

「英米人にとっても難しい英語、日本語は楽だが落とし穴がある」~日本人にも難しい日本語①

  日本人に比べ、欧米人には識字障害が極端に多い。
  それは英語が難しすぎるからだ。
  それに比べたらはるかに楽だが、
  日本語にだって難しさはある。
 という話。(写真:フォトAC)

【識字障害の話】

 識字障害(ディスレクシア)というのは知的障害がないのに文字が音に結びつかず、文字が読めなかったり書けなかったりする発達障害のひとつです。英語圏では大人の10%~20%にディスクレシアの傾向があると言われ、俳優のトム・クルーズやローランド・ブルーム、同じ「パイレーツ・オブ・カリビアン」のキーラ・ナイトレイ、映画監督のスティーブン・スピルバーグ。古くはレオナルド・ダ・ヴィンチエジソンアインシュタイン等は、みんな識字障害を告白したり疑われたりしています。政治家のブッシュ(ジュニア)元大統領も、愛読書は「はらぺこあおむし」だと言っていたくらいですから相当に怪しいと言えます(特にIAEAとかいった略語が苦手でした)。
 日本人の識字障害の発現率は、きちんとした統計がないのですが、推定で4・6%程度だと言われ、欧米人よりかなり低くなっています。これについて「欧米では識字障害に関する研究が進んでいるため、より多くが掘り起こされている」という見方もありますが、私は、基本的に英語の表記が難しすぎるからだと思っています。

【英語は英米の人にとっても難しい】

 日本人だって欧米人だって頭の良し悪しは同じです。科学も芸術も、あちらが優秀でこちらはダメだなどということはなく、同じように考え、同じように何かを生み出せませます。
 ところがそうした思考を司る日本語と英語の、文字だけに注目すると、日本語は平仮名の清音だけでも46文字。促音、拗音、濁点、半濁点などの表現もいれると106もの文字表現があって、カタカナを含めると2倍。さらに漢字は小学校で習うものだけでも1026文字、それを含めた常用漢字は2136文字もあるのです。
 日本人がそれだけ大量の文字を用いてようやく行っている思考や概念操作を、欧米人はアルファベット、わずか26文字でやり遂げようというのですから難しいに決まっています。
『「beautiful」は「ビューティフル」であって、「ベアウティフル」ではない』
という日本の子どもの、英語習得の最初で最大の関門は、欧米の子どもだって同じなのです。結局おとなになってもうまくいかない人は、いくらでもいます。

 それに対して日本の子どもは、基本的に小学校の1年生を終えると自分の考えたことをすべて文字に起こせます。平仮名だらけだと読みにくいかもしれませんが、書けることは書けるのです。英米人には絶対に真似できない――ほんとうに幸せですね。

【日本語の表記の例外「は」「へ」「を」】

 ところがそんな便利さに余裕を見せていると、意外なところに落とし穴があったりします。
 最初の例は助詞の「は」「へ」「を」です。

 「私は」の最初の「わ」と最後の「は」は同じ「ワ」という音です。「駅へ」の最初の「え」と最後の「へ」も同じ「エ」です。同様に「お菓子を」の「お」と「を」も同じ「オ」です――と説明すると、必ず異論が出ます。
 愛媛県出身者の多くが、そして静岡県でも長野県でも、愛知県や滋賀県茨城県の一部でも、『「を」は「wo」だろ』と言い出す人が出てくるのです。実際にそのように発音しているからです。もう20年以上前のことですが、それが犯罪捜査の決め手になったこともあります。
(同じように「私は」の最初の「わ」と最後の「は」を使い分ける人たちがいて、それは高知県西部に実在する、という話を聞いたことがあるのですが、いまだに確認できていません)
 
 なぜ日本の中に「を」を「wo」と発音する人がいて、しかもけっこうな数で日本のあちこちにバラバラに存在するのかというと、いずれの御時(おんとき)にか、日本人の大多数が「を」を「wo」と発音する時代があって(*1)、その後、変化の激しい都会を中心に「を」を「o」と発音するように変化したのに、田舎は乗り遅れて残ったと考えるのが合理的でしょう。
 発音ばかりでなく品詞にも同じ現象が起こり、身元を特定されたくないので具体的には言いませんが、我が田舎県にも、日本中で私のところと京都でしか通用しない物品の名称があったりします。同じ現象は地球規模でもあって、現在でもブラジルの日本人社会には戦前の古い日本語がかなり残っているといいます。古い言葉は辺境に残るのです。
*1・・・詳しくは「ハ行転呼」を調べるといいかもしれません。

話し言葉と書き言葉】

 英語に比べたらはるかに少ない日本語表記の難しい側面には、他にも「話し言葉」と「書き言葉」の違いなどもあります。
 現在はかなりあいまいですが、それでも「やっと」だとか「やっぱり」とかいった話し言葉を文章にするときは「ようやく」や「やはり」に書き換えた方が無難です。かぎかっこ付きで話し言葉だと示した上で「やっと」「やっぱり」と書くのはかまいませんが、何の前提もなく地の文に使うと違和感を持つ人は出てきます。
 他にも「なんで」→「なぜ」、「どっち」→「どちら」、「でも/だけど」→「しかし/だが」など、ある程度の勉強をして使えるようにしておかないと、話し言葉と書き言葉が混在して、文章がぎくしゃくする場合も少なくありません。

 さらに、それとは違いますが「~なんです」と「~なのです」、「ぼくんち」と「ぼくの家(うち)」のような撥音便に関わる表記の修正ということもあります。
 英語ほどではないにしても、日本語の表記のルールも意外と面倒くさいものです。

【タイム・アップ】

 さて、以上は私が数十年かけてようやく身につけて来た文章の基本ルールの一部です。ここ20年近くは毎年200日以上、最近では原稿用紙で1日10枚程度の文章を書きながら磨いてきたものですが、それほどやって来たにも関わらず、まったく気づかなかったことがあり、今日はそれについて書こうと思ったのです。
 しかし本論に至る前に、あれこれ思い出したり調べたりしているだけで、時間が来てしまいました。いつもの悪い癖です。
 続きは、明日お話ししましょう。
(この稿、続く)

「私たちが奴隷になっていくことへの憤り」~人生のハンドルを自分で握る者②

 文明社会で人は依存的に、つまり幼児のようになって行く。
 大人になるべき時にも、その機会を取り逃す。
 長じては自ら進んで人生のハンドルを放棄してしまう。
 私たちはただ、誰かの恩情にすがる奴隷となりつつあるのだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【文明人は幼い。幼児ならもうしばらくは幼くてもいいが・・・】

 文明人とは自分たちがやっていたことを、他人や機械やシステムに代行してもらう人たちのことです。したがって文明人はどうしても依存的になりがちです。一般に依存的な人間を、私たちは「幼稚だ」と表現します。

 もちろん幼稚であってもいい人間もいます。さしずめ我が孫2号のイーツなどは、もうしばらく幼稚でいてもかまいません。4歳ですから。
 しかしこの子にもそう遠からず頑張ってもらわなくてはならないでしょう。そうしないと「より価値の高いもののために価値の低いものを諦める」――つまり高垣忠一郎が「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる」(*1)と書いた「誇り高き4歳児」になる前に5歳の誕生日を迎えしてしまうからです。
*1・・・高垣忠一郎「登校拒否・不登校を巡って」(青木書店 1991)から引用
 
 この引用部分の前に、高垣はこんなことを書いています。
 三歳児は他のだれにやってもらうのでもない。まさに「自分でする」ことになによりもこだわる。それが周囲の大人の「いけません」と衝突するとき、「強情」「片意地」「反抗癖」など、いわゆる「反抗現象」が生じる。(中略)
(したがって彼らは)がむしゃらに自我を主張し、反抗するのではなく、自らの要求や意志と外的な要請との矛盾を調整することを学ばなければならない。
 彼らはそれを「早く乗りたいけれども順番だから待つ」「淋しいけれども、お兄ちゃんだからお留守番をする」という「~ダケレドモ~スル」という自制心(自律心)の獲得によって実現してゆく。ほぼ4歳前後のことである。

【12歳にして4歳の発達課題も克服できていない】

 この文章を読んだ後で、先日紹介した《クラス内で君臨していた8人組から仲間外れになった元ナンバー2の女の子(小学6年生、12歳)》のことを考えると、実に陰惨な気分になってきます。その子は12歳にもなって4歳児の発達課題を克服できていないのです。しかも周囲のおとなは誰も、親も教師もその他の人々も、彼女の課題を指摘し、乗り越えさせようとしません。成長を促す人はひとりもいないのです。
 
 いじめ問題では常に「いじめる側が100%悪い」「いじめられた側が変化を求められることはあってはならない」とされ続けたからです。変わるべきは周囲の人々、特に仲間外れにした子たちで、本来は原状回復(元のナンバー2に暖かく迎え入れること)をすべきだがそれができないので、事態はまったく動かないことになってしまったのです。
 私も含め、結局誰からも本質的な支援は受けられなかったのですから、その意味では本当に可哀そうな子でした。
 ただそれでも12歳です。まだ間に合う可能性はありました。問題は大人です。

【大人たちの「あれもこれも」】

 「自治会の仕事の大部分は、政府・地方公共団体がすべきこと」という考え方に、私はいったん与してもいいように思います。その上で、政府や地方公共団体自治会から仕事を取り上げられるだけ十分な税金を、あなたは払うかどうかと言われたとき、素直に頷く気持ちにはなれません。とんでもなく高率の増税が予想されるからです。
 
 例えば地域にある公共施設(ゴミの集積所や児童公園、駅周辺の道路等)の清掃や整備、草むしりや樹木の整枝など、それらを地域住民が満足する水準で行おうとしたらどれほどの人数を雇わなければならないか。そのための費用がどれほどかかるのか、考えただけでも空恐ろしいものがあります。夜間、市内を巡回して防犯灯の付け替えだけをする専門公務員というのも生まれてくるかもしれません。
 消火栓や消火ホースの付け替えなどは、今は自治会が一部資金を出して早めにやってもらっていましたが、全額公費となれば役所がやってくれる順番も遅くなります。早くしたければその分の増税を受け入れればいいだけのことですが・・・。


 ヨーロッパの先進国は20%を越える消費税で(正確に言えばドイツは19%、他は20~25%)日本の1.65倍(ドイツ)から2.27倍(フランス)もの公務員を雇って公共サービスを維持しているのです。自治会が一部肩代わりしてくれる日本は、もともと安上がりに過ぎたのかもしれません。
 しかし今から2倍の消費税、1.5倍以上の公務員なんて、だれも受け入れたりはしないでしょう。おそらく自治会を潰した場合も大型の増税など不可能で、自治会が担っていた分のサービスがなくなるだけです。
 人々は「自治会など面倒くさくて時代遅れだ」といったその口で、「公共サービスが低下した」「税金ばかりが増えていく」と怒り続けるしかなくなります。
 
 学校も然り。
 PTAの補助で特別教室にエアコンを設置して問題となった学校もありましたが、もちろんそれは筋違いで公費で行うべきものだという考えはもっともですが、その主張が通ってPTAが一切金を出さなかったりPTAそのものを解散してしまったら、教委は代わりに特別教室にエアコンを入れてくれたでしょうか? 入れるにしても数年先の順番待ちか、他の必要機材と交換で入れてくれるにすぎません。
「私の払ったPTA会費が本来公費で行うべきエアコン設置に使われている」と怒ったその口で、「いつまでたってもエアコンが入らない」「エアコンは入ったが、サッカーゴールは壊れたまま」と言わなくてはいけないのは目に見えています。

【私たちが奴隷になっていくことへの憤り】

 ここまで書いてきて、私は自分自身の怒りのありどころがどこなのか、ようやくわかってきます。
 教職員労組組合がほとんどなきも同然になってしまったことも、PTAが次々と解散していきそうなことも、自治会からどんどん人がいなくなっていることも、イライラはしますが決定的なことではありません。
 問題は、
「昭和は組織優先で個を蔑ろにした時代。それに対して令和は個人を優先する時代」(最近のネット・ニュースに見た表現)
と言いながら、組織を解体して個人を切り離し、巨大な力に個で対峙する世界がつくられつつあることです。権力に対して個で立ち向かったらひとたまりもありません。奴隷にされるだけです。

 春闘を見てみればいいのです。組合組織のしっかりした大企業では賃金交渉も満額回答、あるいは希望を上回る回答が次々と出されているのに、組合のない企業は交渉もありませんからひたすら経営者の善意にすがるだけです。教員だって組合は実質的にありませんから、政府の恩情にすがって教員の働き方改革に良き政策が下ろされること祈っているだけです。戦う教師がいても、行政の最末端(校長)と局地戦を戦っているだけで、稀に勝つことはあっても数年経って校長が変われば、あっという間に元に戻ってしまいます。
 それもこれも、私たちが人生のハンドルを自分自身で握ることに執着しなかったためのことです。目の前の安逸を優先して汗を流すことを拒否したために、社会的人間としてのバワーを失ってしまったのです。
 私はそれが腹立たしいのです。
(この稿、終了)

「誰のためのPTA・自治会か」~人生のハンドルを自分で握る者①

 知らないうちに私の地元の小中学校からもPTAがなくなった。
 保護者を代表する人がいなくなったことに、誰も怖れを感じない。
 その事実が、また私には恐ろしい。
 同じく自治会も消されようとしているが、それも怖い。
といういつもの話。(写真:フォトAC)

 PTAの問題はすでに何回も扱っていますが、重要で、危機感の大きなことなので、改めて記しておきます。

【人生のハンドルは自分で握っていたい】

 これは単なる性分の問題なのかもしれませんが、私は自分の人生のハンドルは最後まで自分で握っていたい人間です。ですから他人の運転する車に乗ることは好みませんし、飛行機より船が好きです。大して泳げないのですから遭難したら空も海も同じですが、最後は自力でじたばたしたいのです。もちろん病気になって手術が必要な時に自分で執刀という訳にも行きませんが、手術を受けるかどうかの判断は自分でしなくては気がすみません。自分で決めたこと、自分で犯したことの責任は、自分で取ります。

――と、ずいぶん仰々しい書き出しですが、何があったのかというと、昨年、近隣の中学校でPTAを廃止してしまったと衝撃を受けたばかりなのに、今年度はなんと現在の私の住所を学区とする小中学校が、同時にPTAを廃止してしまったらしいのです。
 両校ともPTA作業など保護者の協力が必要な場合には校内にボランティア・グループを立ち上げて対応するようなのですが、「役はしなくて済む」「PTA会費は払わなくて済む」「仕事を休んだり休日を返上したりしての作業や活動がなくなって楽」だと大好評だといいます。
 
 私は両校に子どもがいるわけでもありませんし、孫が通う予定もありませんから未来永劫に渡って無関係のはずですが、それでもPTAがなくなると聞くと震えます。ネット動画で高いビルを飛び渡るパルクールを見ているだけでも震えるように、生理的な戦慄が走るのです。
 学校から保護者代表がいなくなってしまうのですよ? 怖くはないですか?

【保護者の代表がいないということ】

 例えば修学旅行先で子どもたちが大地震に遭ったら、事故に遭ったら、食中毒かなにかで集団で入院したら、誰が学校へ情報を引き出しに行ってくれるのですか? 学校をせっついて一秒でも早く対応策を引き出す仕事は、誰がしてくれるのですか? 保護者の方にあるかもしれない斬新なアイデアを拾い上げ、学校に伝える仕事は誰がしてくれるのでしょう? みんなで大挙して職員室に押しかけるのですか? 声の大きな人に任せてしまうのですか? それとも学校が良き情報をもたらしてくれるよう、心の中で祈りながら指を咥えて待っているのでしょうか?

 ――私が人生のハンドルを握っていたいというのはそういうことです。これまではいざというとき、PTA会長を動かせば良かったのです。議員も使えますが、そんな大ナタを最初から振り回しては、東日本大震災のときに福島第一原発に駆けつけた菅直人元首相のように、現場にとって迷惑なだけです。できれば穏便に、素早く、正確に、融和的にことを運びたいものです。そのためには常設の保護者代表が是非とも必要で、PTA会長はそのためにいるのです。

【自分たちの学校の利益が誰かに奪われるかもしれないということ】

 もうひとつ――PTA会長の中には、学校の利益になることを積極的に引き出してくるような人がたくさんいるということ、それも見逃せません。
 卒業式や入学式の来賓控室が格好の陳情の場だという話はつい先日しましたが、そうした特別な日ばかりではなく、日常的に役所・役場に行ってあれこれ相談してきてくれる会長がいます。市町村PTA連合会の会合や何かで顔見知りになっていますから、議員や市町村教委と話が通しやすいのです。その人たちが予備の予算を優先的に取っていきます。しかしPTA会長のいない学校には一銭も回ってこないかもしれません。校長先生あたりが頑張ってくれても、自分たちの血を流さない(自前の予算をつくらない)学校に、好意的な教委もないでしょう。予算は枯渇したらそれで最後、あとからどんどん増えてくるようなものではありませんから、順番が回ってくる頃にはもう金はないのかもしれません。

【文明人は働かかずに利益を得る夢を見る】

 文明というのは自分たちがやっていたことを他人や機械やシステムに代行してもらうことです。したがって文明人にとって「自分たちがしないこと」と「利益を得ること」はセットになります。そのスローガン、
「できるだけ少ないコストでより大きな利益を」
は、まさに消費者マインドそのものです。学校の保護者や地域の住民は、今や自立的な協力者から単なる消費者になり替わろうとしています。いや、すでになってしまいました。

 しかし安心・安全は必ずしも他人まかせで十分なものではありません。無限の予算があるわけでもないし、金がないからと言って先延ばしにしていいようなものでもなく、自力で補わなくてはならない部分がたくさんある部分です。そのためにつくられたのがPTAであり、労働組合であり、そして町内会(自治会)なのです。

 私は地元の小中学校がPTAをなくしてしまったことのツケは必ず払う日が来ると思っています。なぜならPTAに助けられて学校運営をして来た事実を、ずっと見て来たからです。「PTAがなくなっても、何も困らなかった」という人たちは、PTAを表層でしか見ていない人たちです。

自治会のうた~自治会加入キャンペーン~】

 学校におけるPTAと同じ役割を地域で担っているのが自治会(町内会)です。
 街の美化や防災・安全は一義的には地方自治体の仕事です。しかしだからと言って私たちは際限なく高い税金を払い、高負担=高公共サービスの社会を実現しようとは思っているわけでもありません。税金はほどほどに、しかし不足分の公共サービスは自分たちで何とかしましましょう――それが自治会です。自分たちの組織ですから街灯の蛍光灯1本を取り換えるのも、とにかく早い。市町村に任せておいたらいつになるか分からない仕事を、自治会は自分たちでやろうとしているのです。自力更生が身上なのです。

 私は最近「自治会のうた」という曲があるのを知りました。福岡県飯塚市飯塚市自治会連合会が一緒につくった一部ラップ風の曲です。飯塚市のサイト(*1)にはこんなふうに紹介されています。
飯塚市では、若い世代(Z世代・ミレニアル世代)にも自治会活動に興味を持ってもらいたいとの思いで、オリジナルソング「自治会のうた」のミュージックビデオを飯塚市自治会連合会と一緒に制作しました。
若者から支持を集める7coさんが楽曲を制作、ラップ系のチルソングに仕上げていただきました。
「若い世代に自治会の存在に気づいてほしい」
まずは、この動画を見てみることから始めてみませんか』
 とりあえず、見てみましょう。
(この稿、続く)

「出口なし、八方塞がりのいじめ事件。結局、道はひとつしかなかった」~困った子、困っている子の話③

 文科省の定義に対照すれば明らかないじめ事件。
 しかし解決の道がない。
 どうなればいいのか、本人にも分からない。
 結局、その子が別の道を探すしかなかったのだ。
という話。
(写真:フォトAC)

【定義に照らし合わせるとやはり“いじめ”】

 異動で移った時にはすでにこじれ切っていた「いじめ=不登校」事件ですから、もはや私には手の打ちようがなかったと言えば言い訳も立つのかもしれません。けれどもっと早い段階からかかわっていれば解決の糸口は見えたのかというと、それも微妙です。

 当時の文科省のいじめの定義は次のようなものでした。
『本調査(*1)において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。』
*1・・・「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」

 この定義に合わせると、彼女をハブった(死語だな)のは、ちょっとツッパった感じのかつての仲間ですから「一定の人間関係のある者」には違いありません。無視や仲間外しが「攻撃」ならそのグループから心理的、物理的な攻撃を受けた」ことにもなります。もちろん学校に来られないほどの「精神的苦痛を感じている」のは間違いありませんから、これは明らかないじめ事件ということになります。
 学校も県教委担当者も地元議員も、「いじめられた児童生徒の立場に立って」いじめかどうか判断しようとしていますから、本人が「睨まれた」と言えば睨まれただろうと考えざるを得ませんし、「無視された」と言えば無視されたのだろうなと受け入れざるを得ません。

【しかし“加害者”にも言い分はある】

 ところが加害者たち(もとは8人組、被害者をハブって今は7人組)に言わせると、
「いろいろうるさいから見ないようにしていると『無視した』と言われる。無視したと言われないように目を逸らさないと『睨んだ』と言われる。何をやってもいじめと言われる。じゃあ、いったいどうすりゃいのよ」
ということになります。特に私が赴任してきた4月にはすでに学校の全職員が7人組の動向を見張っているようなありさまで、とうてい攻撃的な行動に出られるような状況ではなかったのです。しかし被害者が「(隠れている特別支援学級の教室の)壁をドンと叩いた」「外でわざとらしく咳払いをした」などと訴えられると、一応、聞かざるを得ません。なにしろ判断は「いじめられた児童生徒の立場に立って行う」ですから。

 もちろんリーダー格の子の、
「私はただあの子が嫌いになっただけ。そうしたら他の子もみんなあの子が嫌いになった」
には無理があり、例えば自分が「あの子、ウザくて面倒くさいね。もう話すのやめるワ」と言えば次に何が起こるかは十分に分かっていたはずですから、これが意図的な仲間外しであることには違いありません。しかしそれではどういう解決の方法があるのかと言えば、それも難しいのです。

【出口なし、八方塞がり】

 これが保育園児や小学校1~2年生くらいだと楽です。保育士や教師は子どもたちを集めてこう言えばいいのです。
「仲間外しはいけないことでしょ? さあ、仲直りをして、また一緒に遊びなさい」
 そしてその場で「ごめんね=いいよ」をやると、だいたいその場は収まります。
 大人だったら金で解決できます。心の傷には慰謝料という対応策があります。
 しかし小学校6年生はそういう訳にはいきません。7人組に謝らせて、元のナンバー2の位置に戻し、昔のように肩で風を切ってブイブイやる、そのお手伝いを学校や県教委や市会議員がやるというのもピンときませんし、6年生はそんな指導を受け入れません。
「一度つき合い始めたら、イヤになってもずっと仲よくし続けなくちゃいけないの!?」
というリーダーの言い分には、ある程度の説得力があります。

 7人組のうちのひとりはこんなふうにも言います。
「私だって昔ハブられたことがあった。でも親にも先生にも言わなかった。言わずに我慢して、そのうち仲直りして、今は昔と同じようにやれるようになってきた。それをあの子ったらすぐに大人に言いつけて、いじめだ、いじめだって・・・いじめでも何でもないのにいじめだって言われるなら、ホントにいじめてやりたくなる」
 それも分からないではありません。

 そもそも当時の文科省の定義自体が厄介で、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、「表面的・形式的に行うことなく」と言っているにも関わらず、「いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」と最初から形式が決まっていますし、“いじめかどうかの判断はいじめられた児童生徒の立場に立って行う”という言い方自体が論理矛盾です。言葉を変えて、「殴られたかどうかの判断は、殴られた子どもの立場に立って行う」と言えばその奇妙さは自ずと際立ってこようというものです。「殴られた子ども」と言っている以上、殴られたかどうかの判断なんて必要ないのです。

【結局、道はひとつしかなかった】

 元の8人組のナンバー2に返り咲くという原状回復もありえず、金で解決することもできず、かといってクラスで別グループに繋がるとか、一人で生きるとか、あるいはかつてハブられた7人組のひとりのようにじっと時機到来を待つといったこともできず、さらに大人たちがお膳立てしてくれた「転校」とい方法での再スタートも蹴散らしてしまい――結局その子は1年間、さみだれ登校を続けたあとで学区外の別の中学校に進学しました。
 ほどなくそこでもいじめられて登校できなくなっているという噂を耳にしましたが、実際はどうか知りません。アフター・メンテナンスに不熱心なのは、教師のひとつの特徴です(送り出した子は数千人もいますから)。
 
 今こうして思い出しながら記録し直すと、あのクラスは女子だけでも18名、男女合わせると37名もの子どもがいたのです。なにもあの8人組にこだわらず、クラスの中に別の居場所を探せばよかったのです。そのための40人学級でしょ? おそらくそれが唯一の解決策で、そのための人間関係スキルも磨いておくべきでした。
 しかしクラスの中の大きなグループのナンバー2に君臨していた彼女には、今さら地位が低い他の子どもたちと一緒になることなど、とてもではないができない相談でした。どう考えてもその道はない。返り咲きもない、転校して上手くやれる自信もない、大人たちもロクな提案をしてくれない、そこで年じゅう焦れている――。
 
 無視される、睨まれた、笑われた、遠くでひそひそ話で私の悪口を言っている、授業中に隣の席でわざとものを落として音を立てる――そうした申し立てがあるたびに、学校も県教委も議員も熱心に聞いて対応しようとしてきました。しかしそれはお昼寝をしなかった私の孫2号のイーツと同じで、ひとつひとつの訴えに対応する必要はなく、本質的な部分に対策を打つべきだったのです。
 イーツの場合は昼寝をさせる工夫です。元ナンバー2のあの子には改めて人間関係の学びをさせること、それが本来やるべきことでした。
(この稿、終了)

《参考》
 いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度からいじめは以下のとおり定義されています。
「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。