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「生徒指導:子どもはある日とつぜん変わる」~TVドラマ「下剋上球児」に見る人間像・教師像②

 ドラマ「下剋上球児」の主人公は、半ば教師によって育てられた。
 現実の教師も、子どもの全般を育てようとする。
 しかも育てることにしつこく、容易に諦めない。
 子どもがある日とつぜん変わることを知っているからだ。
という話。(写真:フォトAC)

【親が捨てても、教師は子どもを棄てられない】

 TVドラマ「下剋上球児」、今週(11月12日第5回)の前半のテーマは、教師と子どもの根源的なかかわりです。ひとつは主人公の南雲自身の成長譚。
 
 南雲は幼少期に両親に捨てられ、本人の言葉を借りれば、
「僕が大人になれたのは、今まで出会った先生たちのおかげなんです」「僕は先生たちに育てられたようなものでした」
ということのようです。
 ひとり暮らしの小学校教諭に引き取られて高校進学までの道筋をつけてもらい、高校では野球部の監督に見いだされ、励まされ、
「お前らがやって来たこと、考えたこと悩んだことに、無駄なことなんてひとつもないぞ。いままでもそうだし、これからもそうだ」
という言葉に動かされて、南雲は本気で教師になりたいと思うようになります。

 教師と言えど独身者が、子どもを引き取って育てるということが制度的に可能なのかどうか、少々疑問に思いますが、心理的な里親になることはいくらでもあります。いつぞやこのブログでも引用しましたが、評論家の尾木直樹の聞いた“遠足にお弁当を持ってこられない子どものためにつくって行った教員の話”などは、学校内ではありふれたものです。
 憲法第15条2項には、
「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」
とありますが、教師が弁当を用意しなければ、その子は遠足に参加できないか、楽しいはずの弁当の時間を飲まず食わずで過ごさなくてはならないのです。教師に限らず、だれにとっても耐えがたい状況でしょう? 仮にあなたが教師の立場にあるとして、弁当を食べずに離れたところでひとり遊ぶ児童を横目に見ながら、あなた自身は自分の弁当を食べることができるでしょうか、そう問題なのです。
(この件で、教諭が子どものために弁当を作ったことを、尾木たちが驚きをもって聞く場面を、――私は驚きをもって読みました。そんなの、あたり前じゃないですか)。

【子どもはある日、とつぜん変わる】

 日曜日の「下剋上球児」、前半二つ目の事件は、南雲が教員となって最初に任された生徒指導の場で起きます。学校にもろくに来ず、大人の男性と食事に行ったりカラオケに行ったりして小遣い稼ぎをしている女生徒を任され、南雲は同僚の忠告にも関わらずどんどん深入りしていきます。教員免許を持たないことに後ろめたさを持つ南雲は、すぐにも辞めるつもりでいたので迷いはなかったのです。

 周囲の目を恐れずに女生徒のあとを追い、大人の男性との交際の場に割り込んで幾度となくやめさせます。女生徒が本気で煩がって「めんどい(面倒くさい)!」と南雲の手を振り切っても諦めずつきまとい、しかしいつまで経ってもその子の態度が改まることはなく、やがてそうしたやり方に限界を感じ始めたある朝、出勤すると二階のベランダから当該の女生徒が声をかけてきます。
「あげる、バイト先でもらった」
と投げてよこしたのは菓子の袋です。スーパーで働いていて、総菜をもらったりパートのおばちゃんからはおやつをもらったりして、なかなか「いい感じ」なのだといいます。そして最後に「今までありがと」と礼を言うと、女生徒はその場を去っていきます。

「大げさかもしれませんが、奇跡かと思いました」
と南雲は言います。
「生徒はある日、とつぜん変わる、どんな生徒にも可能性がある、それを目の当たりにして、すぐには学校をやめにくくなっていました」
 私はこのセリフがプロデューサーの新井順子や脚本家の奥寺佐渡子の頭の中から生まれたものだとはなかなか思えないのです。もちろん優秀なスタッフですから丁寧に取材を積み上げて行ってこういうセリフにたどり着いたのかもしれませんが、私はむしろ取材した実在の教師が言った言葉を、そのまま使っているのではないかと思うのです。

 少なくとも私のところに取材があれば、
「生徒指導の場では奇跡が起こる」
「生徒はある日、とつぜん変わる、それを目の当りにしたら教師は辞められなくなる」
といった話は必ずすると思うのです。私は普通の経験をしてきた、普通の教師ですから、普通
の奇跡にも、たびたび出会って心動かされてきたからです。

【実際には、子どものメンツや立場が更生を妨げる】

 ドラマで描かれたような奇跡を信じる人は多くないかもしれません。
 確かに「下剋上球児」の中に描かれた女の子が立ち直るまでの年月は、およそ数カ月といった印象で、それほどの短時間で奇跡を起こすのは難しそうです。ドラマに寄せて考えるなら、南雲先生の担当した女生徒は売春するまでには至っておらず、その点で引き返す道のりが短かったこと、そして常に単独で行動していますからその点でもやり易い相手だったのかもしれません。しかしそれにしても一人の子どもが当たり前の道を逸脱するには数年の準備期間があったはずで、その数年を数カ月で回復することは容易ではありません。
 
 子どもの心を改めさせるだけなら、さほど難しくないのです。たいていの場合、内心では最初からマズイと思っているから反省はあっという間です。しかし内心の反省はなかなか態度に反映しません。ましてや翌日から態度を改めるなんて、とてもできたものではありません。彼らにも彼らなりのメンツや立場があるからです。仲間から言われた、
「急に真面目になって、どうしたの?」
の一言で死にたくなるような子だっているのです。
 そのメンツや立場の枷を外すには工夫がいります。
(この稿、続く)