ふと気づくと、
新型コロナ禍の中で一過性だと思っていたもののうち、
いくつかはこのまま残ってしまうのではないかと思い始めた。
失うもの、残るもの、残さなくてはならないもの、
今こそそれを、考えておこう。
という話。
(「大勢の仲間と飲み会でビールジョッキで乾杯する」フォトACより)
【書くことに困っている=孫に会えない】
最近、このブログに、書くことに困っています。
ネタがない。
普通の学校の登校日に合わせて夏休み・冬休み・春休み、そして土・日・祝祭日を休み、それ以外はほぼ毎日の年200日、これだけ書いていればネタ切れになることがあっても不思議ありませんが、これだけ続けて困るようになるのはあまりなかったことです。
原因は分かっています。加齢もあればもう勤労者でもないという立場のせいでもありますが、それよりも大きいのは新型コロナのためです。極端に社会関係・家族関係・友人関係を絞っているから話題の作りようがない。
例えば東京に住む娘の家族とは、3月末に会ったきり、6月の緊急事態宣言・県境を越えた交流解除の直後に一回顔を見ただけで、もう3か月も会っていません。
お盆前にテレビは、
「孫たちと会うのも今年一回くらいは我慢しましょう」
と言っていて、それは道理なのですが15歳~16歳の孫ならまだしも、1歳になったばかりイーツ(2番目の孫)など、1年会わなかったらもう別人です。孫育ての一番面白い時期を外して何の愛着か、という気もしないでもありません。
【友だちを失う】
かれこれ半世紀近くも一カ月おきに飲み会を開いていた友人との付き合いが、この8カ月余りの間に1回開かれただけです。私にとってはとても大切な関係で、40数年間、学校以外の人間関係はここにしかなかったのです。彼らを通じて一般社会の考え方に接し、彼らを通して社会と繋がってきました。
ただしこの仲間は生産性はゼロ、昔話を延々と繰り返しているだけの関係ですから、不要かどうかはそれぞれであるにしても、不急であることは間違いありません。どうでもいいのに惰性で続いてきた間柄ですから、惰力を失えば持続できないということも大いにありえます。
私は今、友だちを失う瀬戸際に立っているとも言えます。母親世代に比べればずっと若い世代ですが、それでもいついなくなっても不思議のない年齢です。会える間は会っておく方がのちのち後悔せずに済むようにも思っているのですが――。
【死ぬまで親と会えない】
さらに深刻なのは高齢の親の問題です。
幸い私の母はすぐ近くに住んでいて私も半分はそこで生活しているのですが、高齢者の中にはそうでない人もいます。
母の友人で施設に入っているひとりは糖尿病のために失明しておられ、ラジオと、ときどき訪れてくる家族だけが楽しみな生活をしていました。ところが新型コロナのために施設自体が面会禁止となってしまい、それからすでに8カ月。余命いくばくもないという状況でないものの、いつまでも生きる人でもありません。
またこれはテレビで見た例ですが、一人暮らしをさせている親の元に東京に住む娘が様子を見に行ったところ、それから2週間、一切の在宅介護サービスが受けられなくなってしまったのです。2~3日のつもりで来た娘も、職場に頼み込んでまるまる2週間、親の面倒を見ることになったといいます。
かたちだけで言えば、心配して親のところに来たことがいけなかったのです。
誰が悪いという話ではありません。サービスの事業所にすれば介護士が感染してそのまま各家庭を回るなど、あってはならないことなのです。しかしこうした事態が続けば、子は親の面倒を(親が)死ぬまで観られないことになります。
何とかならないものか――。
【変わるものと変わらないもの】
よく言われることですが新型コロナ事態が終わっても、完全に元の世界に戻るわけではありません。一段と加速されたキャッシュレスの流れはそのまま進むでしょうし、リモート・ワークでやっていける企業や部署は、改めて通勤手当を出してまで会社に来てもらおうとは思わないでしょう。
グローバル化で外国に任せきりにしていたもののうちいくつかは、どんなにコストが高くても国内に戻すでしょう。不織布マスク、高性能マスク、防護服、フェイスシールド、全自動PCR検査機等々。
もちろん新型コロナ以前に戻って、何ごともなかったように続く世界もあります。学校はその代表です。
緊急事態宣言明けにリモート・ワークを残した企業はあっても、リモート学習を残した学校はないからです。しかし、それでも何かが確実に変わってしまう。
何が残って何がなくなるのか、なくなるに任せていいものは何か、なくならないように頑張らなくてはいけないものは何なのか、日々の生活に関して、私はもう少し慎重でありたいと思いました。