カイト・カフェ

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「忖度」〜子どもの発言力と国会の行方

 かつてこの言葉がこれほど評判になったことはなかったでしょうが、今やニュース番組を見ていると一日に何十回も聞かされます。
 以前はほとんど使われることがなく読みも分からないという話もあります。しかし私の記憶によれば大学の入試の漢字練習帳には必ずあった言葉で、書けなくてもいいが読めて意味が分からなければならない言葉として、常連でした。
 だから当然私も知っていましたし、知ったうえで良い意味の言葉だと思っていたのです。

「忖度」をどう英訳するのかということも話題になました。
「conjecture《推測》」「surmise《推測する》」「reading between the lines《行間を読む》」(私はここで「行間を読む」が英語であることに驚きましたが)「reading what someone is implying《誰かが暗示していることを汲み取る》」などが検討され、結局は「SONTAKU」がそのままで使われようとしています。「MOTTAINAI」同様、日本独自の概念ですから、そのまま通用させた方がいいのです。
 そしてそのまま欧米でも広がるようなら、それはそれでいいことなのかもしれません。

【忖度――その類まれなる技】

 忖度は極めて高度なコミュニケーション活動です。
 それは相手の心を読み切って、できるだけそれに沿うように配慮するという活動ですから、とりあえず「心を読む」ことができなければなりません。さらに読んだ上でどこまで沿えるかを判断しなければならない。
 つまり、
「基本的に私たちは同じように物事を考える」という社会的判断を前提に、相手の個性を組み合わせ、
 さらにその人の意思をどの程度反映できるかこちら側の状況を勘案し、結論を出す、というとんでもなく高度な心の働きをするのです。
 それが日本人にはできる。

 なぜできるのかというと(日本人が民族として優秀だからではなく)幼少期から大人になるまで、朝から晩まで、ずっと繰り返し練習してきたからです。あれだけ練習してできないはずはありません。
 だって小さなころ最初に教えられることは、「人に迷惑をかけてはいけません」「人の嫌がることをしたり言ったりしてはいけません」「他人の気持ちになって考えなさい」といったことばかり。どこぞの国の子どものように「人に勝ちなさい」「自分の意志をはっきりさせなさい」「ほしいものは必ず手に入れなさい」と教えられて育つ子は稀です。
 ですから「自分の気持ちも」などについて問われると、非常に困ってしまいます。「何が好きか」とか「何をしたいのか」とか問われると、大抵は口ごもってしまうのです。

【日本の子どもの発言力】

 小学校高学年以上の授業について語るとき、多くの研究会では子どもの発言力が問題になります。「ウチのクラスの子は発言力がない」とか「「発言力をつけるにはそうしたらよいのか」とかいった問題です。
 しかしそういう先生たちが当の研究会で丁々発止のやり取りをしているかというとそうではありません。よく見ると繰り返し発言しているのは数名で、会場の先生方がバンバン手を上げている姿など見たことがないのです。
 私の知る限り、職員会議が議論沸騰になるようだと、それはかなり危険な状況です。昔は「日の丸・君が代問題」とかでかなり激しいやり取りがありましたが、普通は、というかほとんどの場合は、淡々と流れ行きます。
 自分の教える教室の授業のように。

 しかしだからと言って何も考えていないわけではありません。頭の中ではものすごい勢いで思考が渦巻いていて、激しく応酬していることも少なくないのです。
 自分が発言する前に、頭の中で想定問答をしてしまうので発言にならないのです。
「自分がこういえば相手はこう反論してくるだろう、しかしだからと言って追う言えば、相手はこう考えるだろうから気の毒だ、だからと言ってああ言えば・・・・」
 そして時間切れ。日本人の会議というのはそんなもので、そもそも意見が割れるような議題差は最初から調整されて場に出てきます。

 だから(と発言豊かな授業を演出できなかった私は)思うのですが、議論の場での言葉のやり取りの豊かさを、この国の子どもに求めてもダメ、それができるのは忖度不能の小学校1・2年生くらいまでです。

【問題はなぜ終わらないのだろう】

 今回のふたつ学園の問題について、野党は忖度の有無を問題にしていますが、焦点はそこではないと私は思っています。この国で忖度なしには何も動かないからです。忖度なんてあったに決まっています。

 問題は忖度の結果が不公正かどうかというその一点、籠池問題では国家の土地が不当に安く払い下げられたかどうかということ、加計学園については忖度の結果不必要な獣医学部がつくられるようになった、あるいは本来指名されるべき京都産業大学が外されたといったことがあったかどうかという点です。これは私のオリジナルな疑問ではなく、最初から問われていた問題です。

 そこを外しておいて、
「忖度したんじゃないですか?」
「してません」
「文書があるじゃないですか」
「そのような文書は信用できません」
などとやっているのは、もしかしたらその不毛な論議を続けることに与野党一致した利益があるからなのかもしれません。